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二代目白鸚の井伊大老

令和3年11月歌舞伎座:「井伊大老」

二代目松本白鸚(井伊直弼)、五代目中村歌六(仙英禅師)、二代目中村魁春(お静の方)


1)埋木舎での日々

今回(令和3年11月歌舞伎座)上演の「井伊大老」ですが、コロナ仕様と云うことであろうけれど、通常の上演とは異なり・前半の「井伊家上屋敷奥座敷」が省かれて、後半の「千駄ヶ谷井伊家下屋敷」のみの上演です。役者の顔触れは揃っており、演技に不足があろうはずはない。けれども芝居の重みが不足して、作品の正しい姿が浮かび上がって来ない。それは前半・上屋敷のカットで政治家としての井伊直弼の苦悩が描写されなかったからに他なりません。もし作者北条秀司が生きていれば、この形での上演は許可しなかったでしょう。上演時間の制約で・この形でしか出来ないですと言うならば、いっそのこと「井伊大老」は出さない方が宜しい。こうして作品が・芝居が殺されて行きます。蒸し返すようですが、コロナだから仕方がないと言いつつ、桧垣茶屋のない「大蔵卿」、釣り灯籠からの「七段目」なんて出し方を当たり前のように続けていたら、芝居好きの足はどんどん歌舞伎座から遠くなるなるばかりです。もっと作品を大事にしてもらいたい。ガラガラの歌舞伎座の客席を見れば、これがホントに全部コロナのせいなのか、客が求める演し物を提供出来ているのか、松竹はそう云うことを胸に手を当てて考えてみて欲しいと思います。本当に見たい演し物であれば、コロナが多少恐くてもお客は詰めかけるはず。先日の「四谷怪談」の満員の客席(コロナ仕様だから50%で満員)がそのことを教えています。

前半の井伊家上屋敷がカットされて・政治家としての井伊直弼の苦悩が描かれなかったために、芝居としての・正しいバランスを失してしまいました。そのせいで芝居の幕切れが、「彦根の埋木舎でお静と一緒に暮らした日々が懐かしい・楽しかったあの頃に戻りたい」と直弼が言っているかの如くに見えかねないのです。それは正しい「井伊大老」の幕切れではありません。芝居の本当の主題は、仙英禅師が残した傘に書かれた「一期一会」の文字に示されています。「その機会は一生に一度しか巡ってくることはない、だからその日・その時を精一杯生きよ」と云うことです。

埋木舎の日々は、直弼にとって幸せな楽しい日々ではなかったのです。それは、いつ終わるか分からぬ・辛く苦しい日々でした。このことは「埋木舎(うもれぎのや)」という言葉の響きを聴けば察せられます。「俺はこのまま・世に出ることなく・人知れず朽ち果てていくしかないのか・・・俺ほどの男が・・・」という直弼のジリジリした気分が表われています。井伊直弼は、井伊家藩主の十四男でした。江戸期は長子相続の時代でしたから、次男以下は長男に何かあった時のスペアみたいなものでした。だから次男以下は跡継ぎのいない他家へ養子縁組み・あるいは婿入りするしか手はなかったわけです。そんななか直弼は、自らを花の咲かぬ枯れ木に見立てて自邸を「埋木舎」と名付け、いつ役に立つかも知らず、ひたすら自己研鑽に励みました。

彦根城下の埋木舎。令和元年(2019)12月・吉之助の撮影です。

二年ほど前、吉之助は彦根市の埋木舎を訪ねたことがあります。埋木舎は彦根城のお堀の傍にあります。部屋住み三百石扶持と聞いたので・どんな質素な家かと想像していたら、三百石扶持には分不相応なお屋敷で、やっぱり大藩ともなると十四男でも扱いが違うものだなあと思ったものでした。芝居のなかでは彦根での日々の生活は苦しかったと語られていますけれど、実際は、屋敷の維持費用や付け人の給金は藩から別途支給されていたそうなので、贅沢は出来なくても、暮らし向きはそこそこであったはずです。まあそれは兎も角、この埋木舎で直弼は、師である長野主膳(師と仰いでいますが直弼と同じ年の生まれです)と天下国家を日々論じ合いました。後の安政大獄のことを思えば意外なことですが、当時の直弼も主膳も外国船打ち払いを主張する強硬な攘夷派でした。若き直弼は幕府の弱腰を批判し、国の行く末を大いに憂いたのです。埋木舎での日々は、直弼にとって辛く苦しい時期でした。お静が傍にいてくれたことで、やっと救われた日々だったのです。

ところがどういう運命のいたずらか、嘉永3年(1850)直弼は彦根藩主となり、さらに安政5年(1853)幕府の大老に就任することになりました。「俺の手腕を存分に試す時が来た」はずでした。しかし、現実ははるかに厳しかったのです。直弼は自らの信条に反した決断をせざるを得ない事態に何度も陥りました。しかし、それは現実に負けた・状況に流されたということではなく、現実を知れば知るほど、このままでは日本は欧州列強の属国にされてしまう・事は卓上の理想論では済まぬということを直弼は思い知らされることになります。ここから直弼は方向転換していきます。(この稿続く)

(R3・11・21)


2)「雪の雛」の意味

史実の直弼のことはこれくらいにするとして、劇中の直弼とお静との会話を聞けば、彦根の埋木舎時代の二人の関係がどういうものであったか察することが出来ます。大老の苦悩を吐露する直弼に対して、お静が「もしそうであっても(後の世の人が直弼の苦しみを理解してくれなかったとしても)・・それで良いのではございますまいか」と静かに笑って言えるところで、直弼がお静を愛する理由が分かります。お静は、埋木舎の時代もそうであったのです。もし直弼が何か尋ねたとしても、「私には殿方の世界の、政事の難しいことは分かりませんから・・・」と言って静かに笑って、余計なことは何も言わない女性であったのです。「それで良いのではございますまいか」とお静に言われて、直弼は先ほど仙英禅師が残した傘にしたためた「一期一会」の意味にハッと思い至るのです。その機会は一生に一度しか巡ってくることはない、だからその日・その時を精一杯生きよ。そこからあの埋木舎の長く苦しかったけれども・必死にもがいた日々が蘇って来る、あの時お静に幾度も救われたことも直弼はありありと思い出すのです。禅師とのことも一期一会ならば、お静とのこともまた一期一会である。

直弼が旧暦3月3日に桜田門外で暗殺されたことは史実ですが、この芝居が・その前夜・桃の節句に設定されて・奥の間に豪華な雛人形が飾られる意味も、これで明らかなのです。3月2日はお静との間に生まれた鶴姫の四度目の命日でした。直弼は亡き娘に線香を手向けるために下屋敷を訪れたのです。鶴姫は幼くして亡くなったけれども、自分とお静にこうして忘れがたい思い出を遺してくれた、それが奥の間に飾られた雛人形が示すものです。つまり鶴姫とのことも、また一期一会であったということです。雛人形は単に桃の節句の季節感を強調するために登場するのではありません。すべてのことは有機的に繋がっており、舞台に無駄なものは何ひとつありません。この芝居を「雪の雛」と呼ぶことがあるのは、そう云うことです。

白鸚の直弼は、もともと史劇っぽい感触ですけれど、前回(平成29年1月歌舞伎座)よりも無駄な力が抜けて写実の味わいが一層濃くなりました。ただそのことの良さも悪さもあって、この直弼は明朝桜田門外で殺されることを予感しており・それとなくお静に無言の別れを告げに来た・・みたいに見えなくもない印象ですねえ。登場した時に、七段目の由良助っぽく・本心を隠して軽口を叩く感じに見えるのは、そのせいです。それが芝居に余韻を与えていることも確かなのですが、ここは、芝居が終わった後から考えて見れば「あの時の直弼は何か虫の知らせがしたのであろうか」とチラと思うくらいに、さりげなく留めたいところではあります。

白鸚の直弼が史劇っぽいと書きましたけれど、芝居の感触を新歌舞伎の方へ引き寄せているのは、魁春のお静の功績です。六代目歌右衛門のお静も忘れられないですが、魁春のお静も、直弼の傍らで目立たないようにしているようでいて、実は夫に対する心遣いが細やかなこと、良いお静であります。最後に付け加えますが、腰元たちが桃の節句を愉しんで小唄を歌う声が、ちょっと大きくて耳触りです。お次ぎの間で騒いでいるみたいに近く聞こえます。正しい距離感を感じさせてもらいたいですね。

(R3・11・23)



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