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三代目猿之助・オペラへの挑戦〜歌劇「影のない女」演出

平成4年11月8日愛知県芸術劇場:歌劇「影のない女」

ペーター・ザイフェルト(皇帝)、ルアナ・デヴォル(皇后)、マルヤーナ・リポヴィシェク(乳母)、アラン・タイタス(染物屋バラク)、ジャニス・マーティン(バラクの妻)、ヤン=ヘンドリク・ローテリング(霊界の使者)他
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮
バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団

演出:三代目市川猿之助
(二代目市川猿翁)、装置:朝倉摂、衣装:毛利臣男
(バイエルン国立歌劇場来日公演、歌劇「影のない女」・新演出プレミエ公演)


1)戦後歌舞伎史上の事件

本稿で紹介するのは、平成4年(1992)11月ミュンヘン・バイエルン国立歌劇場来日公演でのリヒャルト・シュトラウスの歌劇「影のない女」の舞台映像です。何だ・歌舞伎じゃないのか・・・と思うかも知れませんが、実はこれが歌舞伎と関係大ありで、これは二代目猿翁(当時は三代目猿之助)が西洋芸術であるオペラ演出に挑戦したドキュメントでもありました。(以後はやはり「猿之助」と書かないと筆に力が入らないので、文章は「猿之助」で通すことにします。)

1980年代から90年代は、猿之助歌舞伎が最もエネルギッシュであった時代でした。吉之助も、猿之助は次は何をやるかということで、翌月の舞台をいつも楽しみにしていたものでした。その猿之助の数ある成果のなかで、最もエポック・メイキングであった事件が、昭和61年・1986・2〜3月新橋演舞場におけるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演(梅原猛脚本)であったことは、言うまでもありません。猿之助のオペラ演出への挑戦は、恐らくこれに匹敵する戦後歌舞伎史における事件であったと云うべきです。ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場はR・シュトラウスの歌劇上演に関して、生前の作曲者との関係がとりわけ深く(R・シュトラウスはミュンヘン生まれであり、指揮者としてこの劇場の音楽監督を務めたこともあります)、クラウスやカイルベルトなど歴代の音楽監督を経て、このため他の追随を許さないR・シュトラウス上演の「伝統」を確立しています。猿之助も似たようなことを言っていたと思いますが、歌舞伎役者がミュンヘンでR・シュトラウスを演出するということは、外国人が歌舞伎座で「忠臣蔵」や「千本桜」を新演出するのにも近いような冒険でした。ところが当時の演劇界では、そのことがどのくらい評価されたものでしょうかねえ。その当時、音楽関係者では兎も角も話題になってましたが、歌舞伎の雑誌・劇評ではこのニュースはほとんど話題に上らなかったと記憶しています。しかし、猿之助のこの業績の大きさは、正当に評価されなくてはなりません。本稿で猿之助の「影のない女」新演出・プレミエ映像を取り上げる理由もそこにあります。

歌劇「影のない女」(1919初演・ウイーン)は、R・シュトラウスのオペラのなかでは、「サロメ」や「薔薇の騎士」・「ナクソス島のアリアドネ」などの人気作と比べると、上演頻度は多くない作品です。したがってCDなど録音も少なく、作品としての認知度は高いとは言えません。ただし詩人で脚本作家でもあるフーゴー・フォン・ホフマンスタールとシュトラウスとの数ある提携作のなかでも特別に重い意味がある作品とみなされているようで、例えばウイーン国立歌劇場再開場公演(1955・ベーム指揮)、あるいは同じくウイーンでのカラヤンの音楽監督退任公演(1964)など、重要な節目において上演がされる傾向があります。

今回の猿之助による「影のない女」新演出も、ミュンヘンにおけるサヴァリッシュの音楽監督退任公演の目玉として企画されたものでした。サヴァリッシュはNHK交響楽団との間に長年の緊密な関係があって、日本の伝統文化に対しても理解が深く、また本作の舞台に「南東のどこか遠くにある一群の島の王国」(注:ただしはっきりと日本をイメージしているわけではない)と云う設定がされていることもあって、当時新機軸の歌舞伎で世間の話題となっていた猿之助に新演出の白羽の矢が立ったようです。猿之助には既にパリ・シャトレ劇場で、リムスキー=コルサコフの歌劇「金鶏(コックドール)」の演出経験(1983・昭和59年・3月初演パリ)がありました。ただし当初予定されたミュンヘンでの「影のない女」新演出プレミエは、運が悪いことに、予想外の劇場機構改修工事が入ってしまって断念されて、新演出プレミエは日本での客演公演で行なわれることとなりました。このためサヴァリッシュが自身の棒でミュンヘンの観客に新演出を披露することは叶いませんでしたが、日本の音楽ファンは思いがけなく新演出プレミエ(1992・平成4年・11月)を名古屋で目にすることが出来たわけです。(なお猿之助演出の「影のない女」は、その後ミュンヘンで11年間、通算29公演が行なわれたとのことです。)

しかし、世間の興味は、「歌舞伎界の異端児・猿之助が今度はオペラで何をやるのか?・何を見せるのか?」と云うことになり勝ちです。これは当時の吉之助の興味も似たようなものでした。舞台はカブキ風に奇抜なデザインで、見得や隈取・早替りあり・宙乗りあり、スピーディな演出を見せてくれるのかと誰でも期待すると思います。しかし、映像を見て分かることは、猿之助が実にまっとうな常識人であったと云う事実です。初めての土俵で周囲のことも考えず孫悟空の如く暴れ回るようなことを、猿之助は決してしません。しかし、よく考えて見れば、これは当然そうでなければならんなあと思うわけで、演出家は自分が演技するのではなく、外国人の歌手たちに「やっていただく」わけですから、演出意図に沿うように彼らを根気よく納得させていかねばなりません。猿之助は徹底して現場主義の舞台人なのです。

ですから「猿之助は派手なパフォーマンスをやる人だと聞いてたけど、意外とおとなしいねえ」と云う、若干拍子抜けした感想を持った音楽ファンは当時も少なくなかったと思います。確かにそういう面もないわけではありませんが、しかし、今回猿之助の「影のない女」演出の映像を、他の演出家の映像もいくつか参照しながら見直したところでは、猿之助の演出はこのオペラが初めての観客にも分かりやすく、脚本・ト書きにできるだけ忠実に、作曲家・脚本家の意図を素直に視覚化しようと一生懸命努めていることが、はっきりと分かります。寓意的な物語で難解だとされる「影のない女」においては、妙な捻りがなくて素直な演出がかえって好ましく、この点では猿之助の演出が一番ではないかなと再認識をさせられました。(この稿つづく)

(R3・2・28)


2)クラシカルな安定感

猿之助演出「影のない女」がバイエルン国立歌劇場の本拠地ミュンヘンで披露されたのは、この翌年(1993)7月のミュンヘン・オペラ・フェスティヴァルでのことで、実は日本公演での評判よりも・ミュンヘンでの評判の方が肝心であるわけです。猿之助演出はミュンヘンの観客にも好評を以て迎えられたと伝えられています。ただし当時の吉之助が音楽雑誌で海外公演レポートを読んだ記憶では、猿之助演出の批評は好意的ではあったけれど、欧米の観客に衝撃を与えられたかと云うと・そこまではどうだったかな?という感じがしました。

「好評」ならばそれでいいじゃないかとお思いでしょうが、当時の欧米のオペラ演出の潮流をご存知でなければ、吉之助が言いたいことを俄かに理解いただけないと思います。1970年代後半から欧米のオペラ演出は、現代演劇分野から演出家を招聘して、時代設定や場所を大胆に置き換えて、旧態依然のオペラ台本の設定を解体して、そこから新しい意味を引き出すという流れへ大きく変化していたからです。発端は、1976年バイロイト音楽祭において初演されたフランスの演出家パトリス・シェローが演出したワーグナーの楽劇「ニーベルンクの指輪」四部作(ブーレーズ指揮)でした。ゲルマン神話を題材にしたオペラを、19世紀のブルジョア階級が堕落・崩壊していく過程に読み換えて、ラインの乙女はダムのなかで泳ぎ・まるで娼婦のような格好であるという風で、初演の時は拍手と怒号が飛び交い、警官隊が出動するほどの大騒ぎになりました。しかし、以後のオペラ界では、同様の手法でオペラを恣意的に演出するのが流れとなって行きました。鳴っている音楽は同じだけれども、舞台で見える光景が、歌手が歌っている歌詞の内容とは全然異なる、観客はその視覚的ギャップと・それが生み出す表徴(シーニュ)を愉しむという風になってしまいました。現在の欧米のオペラ演出は概ねそこにあり、欧米に旅行して昔ながらの保守的な演出にお目に掛かることはあまりありません。そもそも欧米では、常に独自性を主張しないと世間に評価されないところがあるので、まるで気を衒(てら)うことしか考えてないみたいな・奇天烈で出来の悪い演出にぶつかって、気分が悪くなることも少なくありません。まあそう云うのを見て観劇後の飲み屋でボロクソにこき下ろすのも、オペラファンの愉しみのひとつだと云うことです。こういう状況は、つまりオペラというものが、それだけ欧米人の生活のなかに溶け込んでいるということなのかも知れませんねえ。

しかし、オペラ初心者にとっては最初は温厚な(?)常識的な演出に出会える方が有難いことは確かです。吉之助がバイロイトで初めて楽劇「ニーベルンクの指輪」四部作の舞台を見たのは、1983年(ショルティ指揮)のことで、これはシェロー演出(1976〜1980まで上演)の後を受けて、新たにイギリスの演出家ピーター・ホールが起用されて演出した舞台でした。ホール演出は、まったく逆にアンチ・シェローのコンセプトで、舞台をワーグナーの台本通りに神話の世界に戻して見せようという写実的なものでした。吉之助には分かり易くて良かったですが、批評家の受けはまったく良くありませんでしたねえ。もうすでにシェロー演出初演から数年が経っていて、世間にシェローの解釈主義の流れが定着し始めていたのです。批評家は温厚で保守的なホール演出をまったく評価しませんでした。逆に何も考えてない、反動的だと批判するくらいのものでした。現在では、シェロー演出はあの時の大騒ぎはどこへやら、「ニーベルンクの指輪」の古典的な名演出と位置付けされて、多分ホール演出などは話題の端にも上りません。初演当時「革命」と云われたものが、今や「古典」と云われているのです。欧米では「古典」の意味が違うわけですね。

以上のことで分かると思いますが、1993年当時の欧米オペラ界においては、「日本のカブキ役者エンノスケ・イチカワがミュンヘンでR・シュトラウスのオペラを演出する」となれば、どれほどのカブキ・テイストか、シャラクかイチカワか、これで「影のない女」がジャポニズムに解体されてどんな風に見えて来る?というところに、欧米の観客の期待が行くのは、これは当然のことなのです。そのような下世話な期待には、猿之助演出「影のない女」は多分十分には応えられていないでしょう。だから「エンノスケは派手なパフォーマンスをやる人だと聞いてたけど、意外とおとなしいねえ」という感想になってしまうわけです。

但し書きを付けますが、これは猿之助が「仕事」をしなかったと云うことを全然意味しません。猿之助演出の「影のない女」は、作曲家・脚本家に敬意を払って・その意図を素直に視覚化ようとしており、舞台はクラシカルな安定感を湛えています。日本の伝統文化に造詣が深く、猿之助に演出依頼をしたサヴァリッシュは、このことを正しく理解したはずです。(この稿つづく)

(R3・3・2)


3)猿之助の「影のない女」演出

猿之助演出の「影のない女」の良い点は、寓意的で難解だとされる物語を、視覚的に分かりやすく面白く見せようと云う立場に徹して、しかし、これを無理にカブキ風味に仕立てようとは決してしない、「この作品は俺(猿之助)ならばこう読む(こうこじつける)」という恣意的な姿勢は一切見せない、そして出来るだけ脚本のト書きに沿って・素直にこれを視覚化しようとしていることです。だからこのオペラが初めての観客にも分かりやすい舞台に仕上がっています。

第1幕幕切れで、染物屋バラクは妻と折り合いが悪くなり・妻に床を別々にされて一瞬ムッとしますが怒ることはせず、「Sei's Denn!」(それなら、そうすればいい)と呟いて彼は寝てしまいます。ここからは幕が下りるまで、管弦楽がしばらく静かに鳴り続けます。台本にはここに指定が何もありませんが、猿之助はこの箇所に、夫が寝入った後、それまで夫を拒否して背を向けて寝ていた妻がフト身を起こして・夫の様子をちょっと見やり・また眠りに就くという仕草を付けました。この場面は、猿之助がよくシュトラウスの音楽を読んだなあと感心させられました。関係が冷えてしまった夫婦ではあるけれど、まだちょっとだけ互いを気遣う気持ちが残っている、結局、この絆が最後に夫婦の危機を救うわけです。

名古屋での初演に関連し、同年にNHKが製作した猿之助のドキュメンタリー「市川猿之助 わがオペラへのロマン」(第1回:1992年11月23日、第2回:12月3日放送)では、猿之助が上記場面の幕切れにバラクが言う「Sei's Denn!」のニュアンスをドイツ人に尋ねて、ドイツ語だと「もう考える余地がない」というニュアンスなのだが、ここは歌舞伎ならば「ええ、ままよ」ということだなあと考えて・後の場面に繋がるニュアンスを含んだ形で・この場面を演出したと云うことを語っていました。この猿之助の演出が別に日本的な解釈なんてことはないと思いますけれど、猿之助のここの演出は、見ていてこの夫婦の機微がふっと浮かんで来るようで、確かにニュアンス豊かでした。幕の余韻を引っ張るかのようにかなり長目に管弦楽を鳴らし続ける作曲家の意図も、まさにそういうことであったと思います。ちなみに家庭交響曲なんて作品もあるくらいで、シュトラウスは家族の絆をとても大切にした人でした。

皇帝と皇后・その乳母と霊界からの使者、この四人の化粧・衣装は、歌舞伎風というよりも、スーパー歌舞伎風のようです。これはまあ順当なところで、衣装デザインが毛利臣男であるから当然かも知れないが、何となく「ヤマトタケル」の熊襲征伐の場面を思い浮かべます。それ以外では、全体を通じて歌舞伎をはっきり意識させるところは、意外と少なかったように思われました。皇后と乳母が下界へ降りて行くシーンでゴンドラ風の宙乗りが使われましたが、舞台が暗いために、観客には何が起きているかがよく分からない。黒衣が登場して消し幕で・不要になった人物を舞台から退場させる場面もありましたが、暗い場面でそれをされても、あまり驚きはないようです。全体的に云えることですが、第3幕最終場面以外は舞台が暗すぎて、せっかくの劇的効果が損なわれている印象がします。(この点については後に改めて触れます。)

第2幕幕切れに、地面が割れてバラク夫婦が地底に呑み込まれるシーンがあります。ここは他の演出では何が起きているのか全然分からないことが多いところですが、猿之助は大きな浪布を使って全員を消し去り、この場面をなかなか上手く見せました。ここは三島由紀夫の「椿説弓張月」・中の巻・薩南海上の岩礁で高間太郎(初演の時は猿之助が演じた役です)と妻磯萩が自害して大波に巻き込まれて果てる場面を応用したものです。

第3幕の地底の場面では、夫婦の家庭を壊すことの罪悪感で、バラクの妻から「影」を奪うことを一旦は拒絶した皇后が、霊界の王である父カイコバートから黄金の滝を示されて、「この水を飲めばお前の望んでいる影が得られるぞ」と誘惑を受ける試練の場面が登場します。(現在のオペラ演出ならば、ここはCG照明を駆使して、どんな光景でも簡単にそれらしく作ってしまうところです。)猿之助演出では黄金の滝は、二人の黒衣(と云うか金衣か?)が登場して・幅40センチくらいの金色の長い布を階段に垂らし・パタパタ動かして、魔法の水がサラサラ流れる様を見せました。日本初演での批評を見ると、黄金の滝の水の強い誘惑に打ち勝って皇后が最後に愛の勝利を得ると云うスペクタクルなシーンとして、この場面の造形を大いに期待していた向きが多かったようで、猿之助演出の黄金の滝は「ちゃっちくて・ガッカリ」という不評の声が多かったようです。しかし、吉之助の見たところでは、全体的に温厚な印象の猿之助演出のなかで、黒衣の布の黄金の滝はそれなりに納まっていて違和感は全然ありませんでしたがねえ。むしろ「ちゃっちい」ところに、如何にも歌舞伎の手造り感・レトロ感があって好ましかったと思います。皇后にとって黄金の泉はいくら魅惑的に輝いて見えたとしても、価値がなく虚しいものです。そのような黄金の滝の正体を猿之助は形象化して見せたと考えることも出来ます。

第3幕:黄金の滝、ルアナ・デヴォル(皇后)

第3幕最終場面で、皇帝と皇后・バラク夫婦と二組の夫婦の愛の勝利の場面で黄金の橋が登場するスペクタクル・シーンも、鉄パイプを組んだような橋が「ちゃっちくて・ガッカリ」という声が多く出た場面でした。カブキの猿之助演出だということで、派手派手の豪勢な舞台を期待したオペラ・ファンが多かったようです。吉之助は「ここはこんなものだろう」と思うので、別に気にはなりません。吉之助は猿之助演出を擁護しますけれど、ただし、オペラ・ファンが黄金の滝や橋の造りをもっと豪華に・もっとスペクタクルに処理してもらいたいと期待するのも、やはりそれなりの理由があってのことです。一般的にカブキ的ということはギンギラギンにド派手なもの、そういうものだと思われていると云うことです。

「影のない女」は1919年ウイーンでの初演ですから、19世紀末のジャポニズム・ブームが過ぎた後の作品ですが、この頃は欧米でのブームが終わったと云うよりも・定着したと云う方が正しいでしょう。欧米人がジャポニズムに見た一番大事な要素は、「明晰さ(明るさ)」であったと思います。例えばヴィンセント・ファン・ゴッホは、太陽の光がまぶしい南仏プロヴァンスに在って「僕は今日本に来ているような気がする」と弟テオ宛ての手紙に記しています。靄(もや)でぼやっと霞んで見える実際の日本の風景を見たら、ゴッホはどう思ったのだろうなあと思います。この明晰なニッポン、すべてが太陽の光の下に照らし出されたように・くっきりと輪郭が強い・そのニッポンのイメージは、もちろん浮世絵から来ます。彼らは、カブキもそのような演劇だと感じています。原色でバッチリ明確に割り切られた世界だと思っているのです。猿之助はそう思っている観客(ミュンヘンの観客)を相手に演出せねばならないわけです。この点は非常に重要なことです。

「そういうこともあるだろうが、実際に見る歌舞伎はそんな単純なものではない、侘び・さびだってある」と云うことは、日本人であり・歌舞伎をよく知っている我々は思います。実際の歌舞伎はさまざまな雑多な要素を何でも取り込んできた芸能なのです。しかし、猿之助演出の「影のない女」を見ると、隈取や動作の決めや、宙乗り・浪布・消し幕・黒衣など歌舞伎の技巧が随所に取り入れられているにも関わらず、全体的には「カブキ的」という印象があまり強くありません。先ほど書いた通り、猿之助の「影のない女」演出を温厚で常識的な演出として吉之助は高く評価しますが、その演出がカブキ的であったかと云うことになると、やはり猿之助は世間一般の「期待」に十分応えられていないようです。決定的に不足しているものは、舞台の明るさ・明晰さと云うことだと思います。猿之助演出の「影のない女」は、第3幕最終場面を除けば、全体的に舞台が暗すぎました。このためカブキ的な「明晰さ(明るさ)」の印象が足りません。(注:このことは、影を作らない歌舞伎の照明法を考えれば理解できると思います。別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」をご参照ください。)「ギンギラギンにド派手」ということは或る種そういうところに通じる面があるわけで、歌舞伎が演劇のグローバル・スタンダートのなかで勝負しようとするならば、まず「明晰さ」を前面に押し出した方が良いようです。この点で猿之助演出の「影のない女」は、西欧人が期待するカブキ的演出としては衝撃度が弱いと云うことになるかも知れません。(この稿つづく)

(R3・3・5)


4)猿之助演出の弱み

吉之助がビジネスで西欧人と付き合った限られた経験から感じることは、日本人からすると美徳であると思われる寡黙・謙虚とか態度の曖昧さというものが、あちらでは全然役に立たないということですねえ。「・・・で、君はこの問題に対してどういう意見を持つの?」というところを明確にしないと、会議のなかで「いないのと同じ」にされてしまいます。そういう意味では、奥床しい日本人にとってはとてもストレスある世界です。これは西洋人が長い歴史の国家興亡と戦乱のなかで異なる言語・文化・宗教・価値観を持つ様々な人々に揉まれて苦労してきたからでしょう。したがって西欧の演出家は、多少張ったりであろうが何だろうが、「俺ならばこの作品をこう読み・こう見せる」という独自なものを見せつけないと、世間から評価されないというところにあるわけです。これはなかなか辛いものがありますが、大事なことは、猿之助が「影のない女」を演出するとなれば、興味は「歌舞伎界の異端児・猿之助がこの作品から何を読むのか?・どうやって見せるのか?」と云うことにならざるを得ないということです。

本作の舞台は「南東のどこか遠くにある・想像上の島の王国」という設定になっています。その場所が日本であるとは記されているわけではないですが、そのようにも読めるイメージです。西欧人ならば、ここでチラとでも日本を思い浮かべない人はいないでしょう。また「影のない女」は、その象徴的手法をモーツアルトの歌劇「魔笛」から得ていることもあって、メルヘン的な寓話だと解されています。そこから歌舞伎の猿之助を演出に起用しようというサヴァリッシュの発想が出て来るわけです。サヴァリッシュは、「もしこれが(18世紀ウイーンを舞台にする)「薔薇の騎士」ならば、私は日本人に演出を頼もうとは思いません」とはっきり言っています。「影のない女」だから猿之助に頼むのですと云うことです。したがって、「影のない女」をカブキ的な感性で(或る意味ではジャポニズム的感性で)メルヘンチックに解体する、これがミュンヘンの観客が猿之助演出に期待するところになるでしょう。大事なことは、猿之助はその期待に応えられたかということです。

『当然、歌舞伎的なさまざまの要素は随所に登場するが、しかしスーパー歌舞伎の旗手という頭がこちらにあったからか、演出は存外おとなしいものに思われた。これはまったくの想像に過ぎないのだが、やってみたかったさまざまの着想をいくつかを、彼(猿之助)は試行錯誤の末に引っ込めたのではないだろうか。そして結果として、その抑えた演出が、むしろ今回の成功につながったと筆者は見る。』(大木正純:猿之助演出「影のない女」初演評・「音楽現代」1993年1月号)

これは音楽評論家・大木正純氏による猿之助演出「影のない女」初演(1992年11月名古屋)評ですが、日本人の評論家からはこういう風に見てもらえるから、猿之助は助かっているのです。事実、脚本家・作曲家の意図を損なわないで、それを素直に視覚化しようとしており、それが猿之助版「影のない女」演出の良さであるのに違いありません。しかし、裏を返せば、それが猿之助演出の弱点になって来るかも知れません。確かに隈取や動作の決めや、宙乗り・浪布・消し幕・黒衣など歌舞伎の技巧が随所に取り入れられているが、それらが「局所・局所をどう見せるか」と云う目先の面白さだけに終わっていて、カブキ的マインドで「影のない女」が持つ象徴的意味を解体することまで出来ているわけではないということです。「隈取?面白いネエ」という以上のものになって来ない。だから「エンノスケは派手なパフォーマンスをやる人だと聞いてたけど、意外とおとなしいねえ」という感想になってしまいます。

吉之助は猿之助歌舞伎をずっと見て来ましたから、その強み・弱みはよく分かっているつもりです。この場面をどう処理しようかと云う時に、猿之助は芸の引き出しをたくさん持っています。「この場面は、古典の・あの技法を拝借して見せよう」という交通整理はとても上手いのですが、演出行為がその範疇に留まっているところがあるようです。だから芝居を5日で仕上げるところは現場主義で長けているわけですが、芝居がそれ以上のものになって来ないのです。「俺はこの作品をオレ流にこう読み直す、そのためにカブキの技法をこのように駆使する」と云う理論の筋が一本通ったところが、あまり感じられないようです。そこが猿之助演出の弱みだと思います。

実は、この猿之助の流儀が1990年代のオペラ演出の、解釈主義の芸術思潮のうえに、上手く乗って来ないわけです。だから西欧人が期待するカブキ的演出としてはインパクト(衝撃度)が弱いと云うことになると思います。

「影のない女」演出を多く承知してはいませんが、舞台写真などから推察すると、大まかな流れとしては、本作初演(1919年)から80年代までは、本作を皇后が幾多の誘惑と試練を経て・人間的な成長を遂げる物語として、歌劇「魔笛」と対照して、メルヘンチックに読もうという演出コンセプトが多かったようです。まあこれが作品本来の読み筋に近いと思いますが、80年代後半から現在に掛けては、本作が第1次世界大戦中(1914〜1918年)に構想・作曲されたことを考慮に入れて、文明破壊と喪失の時代を経て新たな「再生」を予感させる物語という読み筋へと変化していると思います。ちなみに第1次世界大戦はそれまでの戦争の概念を覆し・一般市民をも巻き込んだ総力戦であって、その後の西欧の世界観や社会構造・芸術思潮の流れまでも揺るがした大事件でした。この場合、皇帝・皇后が属する天上の世界と・バラク夫婦が属する人間界を、階級闘争理論的に思い切って対立させる解釈は大いに有り得ることで、近年の「影のない女」演出は大体その辺かと思われます。猿之助の「影のない女」演出は1992年のことですから・二つの流れの端境期にあるもので、その後の解釈主義の行方を見据えることが出来る位置にあったと思いますが、残念ながら、十分にその役割を果たせたとは言えないかなと思います。(この稿つづく)

(R3・3・12)


5)「影のない女」をかぶき的心情で読む

以下は猿之助版「影のない女」から話がちょっと寄り道をしますが、もし「影のない女」をかぶき的心情で読むならば、ここがポイントだろうという事項を記しておきます。別稿歌舞伎とオペラ」において、歌舞伎と十九世紀グランド・オペラは心情的に似ており・それゆえ表現手法も類似すると云うことを論じています。その相似点は「引き裂かれた心情」ということです。「影のない女」のなかに・そのようなものが見えるのであれば、そこからカブキ的な視点を引き出すことが可能になるだろうと思います。

脚本作家ホフマンスタール(左)と作曲者R.シュトラウス(右)、1912年頃

本作において「影がない女」とは、「子供を産まない女」の寓意的表現とされています。東洋の島国の皇帝は、霊界の王カイコバートの娘と結婚していますが、彼女(皇后)には影がありません。カイコバートからは「影が持てぬのであれば、或る期限を以て皇帝は石と化す」と告げられて、子供が欲しい皇后は、貧しい染物屋バラクの妻から影をもらい受けようと画策します。しかし、バラクの妻から影を奪えば・バラクが妻を殺す運命となることを知り、皇后は他人を不幸にしてまでも影の入手は望まないと、最終的に影の受け取りを拒否してしまいます。その精神の崇高さゆえに奇蹟が起こり、皇帝は石から蘇って、皇后もめでたく影を得ることが出来ました。バラク夫婦も幸せになります。以上が「影がない女」の要点ですが、ホフマンスタールはシュトラウスへの手紙のなかでこんなことを書いています。

『第二幕の終わりで(皇后が影の受け取りを拒むことにより)影は宙に浮いてしまいます。ひとり(バラクの妻)は影の権利を失い、もうひとり(皇后)はその影を正式には受け取らなかったのです。この宙に浮いた取引をどう調停するか、それがより高き力による「ソロモンの判決」によってなされる、そしてそれを告げる役を「生まれざるものたち」(注:本来夫婦の子として生まれるべきなのに何かの理由によってこの世に生まれて来れない命)が務めるというところが、第3幕の中心なのです。(中略)その世界の骨子は、次のゲーテの二行が見事に表現しています。「己を超克する人間は、生きとし生けるものすべてを縛る絆から、自己を解き放つ。」』(ホフマンスタールからR.シュトラウスへの手紙:1915年4月初旬)

ここでホフマンスタールが挙げている「ソロモンの判決」とは、旧約聖書列王記にある有名な挿話です。ふたりの女が、どちらの女もその子供は自分が産んだ子だと主張して争っています。賢者ソロモン王は、その間に立ち、「その子を二つに割き、半分づつ我が子とせよ」という判決を出しました。しかし、ひとりが涙ながらに子供を諦め・譲ろうとしたのを見て、「その女こそ実母である、子供はその女に与えよ」と言います。この挿話は、中国宋の時代の裁判物語である「棠陰比事(とういんひじ)」を通じて日本に渡り、「大岡政談」の一話としてよく知られているものです。ここが「引き裂かれた感情」に係わる事項です。これに対しシュトラウスが次のようにホフマンスタールに注文を付けていることは、注目されます。

『皇后が自らの人間性に目覚めたことにのみ心を奪われ、染物屋夫婦の悩み苦しみだけを考えて、皇帝のことをすっかり忘れてしまっているというのが、どうもピンとこないように思われて仕方ないのです。(中略)皇后は欺瞞によって影を得ようとはしなかった。影を得ることによってバラク夫婦の幸福を乱すことはしなかった。そのために彼女は愛する皇帝を犠牲にしてしまった。だから、皇后が皇帝の命を救うことを断念したこと、またその償いとして自らの償いとして自らの命を捨てようとしたことを、はるかに詳細に動機付けておかねばならないのです。さもないと、皇后にとって、なぜ彼女自身の幸福、皇帝の命よりも、バラクの幸福の方が重要なのかが、誰にも分からないのです。」R.シュトラウスからホフマンスタールへの手紙:1915年4月15日)

『石になった皇帝を前にして皇后が内心の葛藤に苦しむ場面(第3幕・黄金の滝の場面)は、もっとはっきり目に見えるような大爆発でなければなりません。こんな風には行かないでしょうか。皇后が苦しい内心の戦いの後、ほどんど息も絶えだえになって、ついに恐ろしい叫び声を立てるのです。彼女が初めて発する「人間の」叫びであり、ちょうど赤ん坊を生む母親のような叫び声です。そうして彼女は死んだように倒れるのですが、この叫び声が皇帝を解放します。(中略)この私のアイデアが、あなたに刺激を与え、何か豊かな実りをもたらしてくれるのではないかと思っています。』(R.シュトラウスからホフマンスタールへの手紙:1915年5月28日)

オペラは音楽ですから・作曲家は脚本に対する一次解釈者であり、作曲者によってドラマは肉付けされ・初めて生きたものとなるのです。シュトラウスは正直に、とても大事な問題を吐露しています。ここで生じて来るのは、皇后が人間的な反省に目覚め・自分の幸せのために他人を犠牲にすることは出来ないと影を拒否したというのは理屈としては分かる、しかし、それは夫(皇帝)の命よりも・バラク夫婦の幸福の方が大事であると皇后が判断したと云うことであるのか?と云う疑問です。

このことを例えば「熊谷陣屋」で考えて見ると、熊谷直実は主筋(藤の方)に元々義理があり・また主人義経から「この禁制の心を諭し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならで外になし」と指摘されたことにより、無官の太夫敦盛の代わりに一子小四郎を身替わりに斬らねばならぬ立場に置かれています。そうすると、「陣屋」で熊谷が我が子を犠牲にするのは、父親としての愛情・家族への愛情よりも、主筋への義理・忠義の方を重く見た結果ということなのでしょうか。そのような考えに留まるのであれば、熊谷は頑迷な封建思想の犠牲者であったということにしかならないと思います。そのような事態に陥らないためには、「この禁制の心を諭し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならで外になし」という義経の言葉を、「お前の息子を身替わりに立てよ」とする無慈悲な主人の命令としてではなく、もっと高次元の、歴史の律からの啓示であると読まねばなりません。この時に、「ソロモンの判決」と云う考え方が役に立つのです。すなわちゲーテの言葉通り、「己を超克する人間は、生きとし生けるものすべてを縛る絆から、自己を解き放つ」ということです。これで熊谷は偉大な悲劇の主人公となることが出来ます。

ですから「陣屋」のかぶき的心情のクライマックスは、首実検における熊谷の制札の見得です。制札の向きが上か下かということはまったく関係ありません。大事なことは、「俺の行動の根拠は、この制札にある」と言わんばかりに熊谷が制札に縋りつくことです。これが制札の見得が持つ意味です。(別稿「制札の見得を考える」を参照ください。)ここに熊谷の引き裂かれた感情が形象化されています。そこに人間の叫びが聞こえます。ここから熊谷は、家族への愛か・主君への忠義かという選択から、もっと高次元の判断へと超越することになる、これが「ソロモンの判決」です。つまり判決とは云いますが、裁くのは自分自身なのですね。

 一方、シュトラウスは、ドラマティストとしての感性から、「影のない女」のクライマックスが、石になった皇帝を前にして皇后が内心の葛藤に苦しむ場面にあると正しく認識しています。「皇后が息を絶えだえになって恐ろしい叫び声を立てる、それは彼女が初めて発する「人間の」叫びであり、ちょうど赤ん坊を生む母親のような叫び声」であると指摘しています。ここが皇后の引き裂かれた感情が形象化された場面であり、これこそまさしく「ソロモンの判決」・かぶき的心情のシーンなのです。(この稿つづく)

参考文献:リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール、往復書簡全集(音楽之友社)

(R3・3・12)


6)猿之助がオペラへの挑戦から学んだもの

平成4年(1992)11月ミュンヘン・バイエルン国立歌劇場来日公演において猿之助演出「影のない女」が初演されることとなり、その直前の9月に猿之助は渡欧して、ミュンヘン郊外で5週間に渡って演出の直接指導を行いました。この時、演出助手として右近(現・三代目右団次)・弥十郎も同行しています。同年にNHKが製作した猿之助のドキュメンタリー「市川猿之助 わがオペラへのロマン」(第1回:1992年11月23日、第2回:12月3日放送)はなかなか興味深い内容でありました。

1992年11月8日、愛知県芸術劇場での「影のない女」初日カーテン・コールで観客の拍手に応える猿之助、指揮者ヴォルフガング・サバリッシュ(中央)、乳母役のマルヤーナ・リポヴィシェク(左)

番組のなかで猿之助が語ったことは、例えば欧米の歌劇場と日本の歌舞伎とでは、良い悪いは別にしても、製作システムがまったく違うということです。バイエルン国立歌劇場は大道具や衣装・小道具に関して自前の工房を持っています。その演出が十数年続くことが普通であるので、すべて長期に渡って保管することを前提で作られています。日本の歌舞伎では上演が終わったら大道具は廃棄されてしまうので、上演の都度作り直しせざるを得ません。これについては欧米の歌劇場では国家・或いは自治体の補助金の割合が高いとか、日本の演劇の財政状況と一概に比較出来ないところがありますが、番組で猿之助が語った事項で、これは日本でも早急に学ぶ必要があると思われるものは、アーベントシュピルライトゥンク(Abendspielleitung)というシステムです。

アーベントシュピルライトゥンクとは、直訳すれば「夜の公演管理」ということですが、日本語にぴったりはまる言葉がありません。説明すれば、演出家・或いは振付師との取り決めに基づき、時には十数年を越える長期間に渡って、その演出(振付)の意図を守り・上演の品質を維持するために、芸術家達(指揮者・歌手・ダンサー)との間を取り持ち・管理する上演責任を劇場側が負うと云うことです。例えば猿之助演出の「影のない女」は、結果としてミュンヘンで約11年間の上演を見たわけですが、その間に指揮者も替わるし・歌手の顔触れもしばしば替わります。裏方の顔触れも替わります。自然に任せてしまえば、あちらこちらが勝手に改変されたり・誤解されたりして、演出意図が次第に崩れてしまいます。その都度猿之助が渡欧して指導するわけに行かないわけですから、猿之助の意図をすべて承知して・上演の品質を長く維持するための責任を劇場が負う事を契約で定めるのが、アーベントシュピルライトゥンクという制度です。このため専属の人員が配置されて、その人が責任をもって・猿之助の指示を細部に至るまで記録し、上演のたびに指揮者・歌手・裏方と話し合い・確認して、その上演が続く限り猿之助の意図を「語り伝えます」。

ここで驚いてしまうことは、アーベントシュピルライトゥンクの制度で保証されるものこそ、まさに「型」であることです。しかも我々日本人がふだん歌舞伎で使っている「型」の概念よりも、はるかに厳格な「型」の概念なのです。これに比べれば歌舞伎の「型」はずっといい加減・と云って悪ければ・ずっと柔軟です。例えば歌舞伎座で見る「熊谷陣屋」の舞台は現行どれも九代目団十郎の型に拠るものとされていますが、舞台を見れば役者によって演ることは異なるし、言い回しも異なります。どれがホンモノの・正しい団十郎型なのか分かりません。しかし、歌舞伎の魅力は何たって役者だと云うことになってますから、そう云うことを言うのは多分野暮なのです。時代に拠って世代に拠って型が変わっていくことは当たり前で、恐らく「これがホンモノ、これが正しい型」なんて厳密なものは、歌舞伎にはないのかも知れません。こうしてこれが遥か江戸の昔から続いている舞台ですと云う「幻想」を振り撒いたところで、歌舞伎の「型」が成立しているわけです。しかし、歌舞伎を伝統芸術だと称するならば、欧米のアーベントシュピルライトゥンクから学ぶことが多々あるのではと思いますねえ。「型」とは何かということを、もう一回考え直す良い機会になるのではないでしょうか。

 もうひとつ番組のなかで猿之助が語ったことで大事なことがあります。

『オペラ演出をやって、演出(見る方)と音楽(聞く方)が一体となってメリハリを作り出していることが分かりました。歌舞伎は見る方ばかりに関心が行ってしまって、テンポなど聞く方が野放しになってしまっているようです。オペラでは指揮者と演出家が二人おり、歌舞伎では座頭が指揮者と演出家を兼ねるわけだけれども、どちらもまったくルーズになってしまっている。歌舞伎でも、座頭でなくて他の人でも良いから、然るべき責任者が指揮者的なテンポなどの面の演出と・見た目の演出的な面とをきっちり合わせて快適なテンポでやることが出来るならば、歌舞伎はもっともっと素晴らしいものに出来ると云う確信を、オペラをやってみて持ちました。』(番組での猿之助発言をアレンジしたものです。)

これは猿之助の演出家としての本音でしょうねえ。現状の西欧オペラ界が解釈主義の潮流にあることは先に書きましたが、それが奇抜な現代化演出であったとしても、その舞台がまさしくワーグナーであり・ヴェルディであり・R.シュトラウスのオペラであることに変わりないという確信がなぜ持てるかと云えば、それは音楽が変りなく鳴っているということに他ならないのです。音楽(聞く方)がしっかりしているから、演出(見る方)が思いっきり自由に振る舞えるのです。特に義太夫という音楽的要素が大きな位置を占める義太夫狂言においては、猿之助が指摘したことは、非常に大きな示唆があることだと思います。

この猿之助のオペラへの挑戦から約30年が経ったわけです。日本に帰った猿之助が歌舞伎のなかでオペラから学んだシステムを導入して歌舞伎を改革することが出来たかと云えば、それは様々な政治的・経済的理由などから実現されることはなかったわけですが、歌舞伎の危機的状況が囁かれる昨今、猿之助の指摘はますます大事なことになっているのではないでしょうかねえ。

(R3・3・19)



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