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三島歌舞伎・「椿説弓張月」初演

昭和44年11月国立劇場:「椿説弓張月」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(鎮西八郎源為朝)、二代目中村鴈治郎(崇徳上皇の霊・阿公)、八代目市川中車(八町礫紀平治太夫)、三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(高間太郎腹鑑)、四代目市川段四郎(武藤太)、五代目沢村訥升(九代目沢村宗十郎)(為朝妻簓江・寧王女)、沢村精四郎(二代目沢村藤十郎)(高間妻磯萩・鶴)、五代目坂東玉三郎(白縫姫)、中村智太郎(四代目中村鴈治郎)(為朝の子為頼)、中村浩太郎(三代目中村扇雀)(為朝の子島君)

(三島由紀夫作・演出)


1)「弓張月」が持つ空疎さ

本稿で取り上げるのは、昭和44年(1969)11月国立劇場での三島由紀夫作・演出による「椿説弓張月」初演の舞台映像です。ご存知の通り、三島は歌舞伎作品を8本書きました。まず最初が柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)、「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)、そこから約10年の空白があって、最後に書いたのが「椿説弓張月」(昭和44年11月)になります。

『「地獄変」は実のところ少々面白半分で書いて、「鰯売」はもう十分手に入って書いたつもりで、「大内実記」じゃ、もう大凝りに凝っちゃってね、それで大体限界が分っちゃったんです。つまりそれからは詰まらなくなっちゃった。((中略)古典劇の楽しさを何とかして出そうとしたのが「大内実記」なんですが、これが退屈になっちゃった。そんな点が、やっぱりあの種の試みの限界だと思いましたね。』
(三島由紀夫:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)

上記発言は昭和32年の座談会でのものですが、「むすめごのみ帯取池」の後、「椿説弓張月」を書くまでの約10年の空白には、いろんな意味がありそうです。「大体限界が分っちゃった」と言う通り、多分この時期の三島は今後歌舞伎を書くつもりはなかったと思います。しかし、どういう理由だか10年後に三島は歌舞伎をまた書いてみようと云う気になった。そして、再び限界を思い知らされる破目になるわけですが、吉之助は三島にとっての、この10年の空白の意味を時折思うのです。今回、「椿説弓張月」初演の映像を見直そうと思い立ったのは、そんなところが動機です。

昭和44年(1969)11月国立劇場での「椿説弓張月」初演は、三島が入れ込んで演出まで手がけたにも関わらず・期待通りの成果を挙げられず、三島を大いに落胆させたようです。この挫折が翌年(昭和45年11月)の三島の自決事件の遠因になったと考える研究者もいるようです。まあそれはなかろうと吉之助は思ってますけれど、三島が相当失望したのは事実です。昭和45年7月の尾崎宏次との対談でも、「まあ僕は歌舞伎は滅びたっていいと思うんだ、能さえ残れば・・」、「芸術というのは、くたびれちゃうものなんだなあ・・」と三島は嘆息するに至ります。初演当時出た批評はいろいろありますが、そのなかで西山松之助の批評をきっかけに話を進めます。

『嘘やアナクロニズムのスペクタクルが表面にちらつき過ぎて、未完の英雄為朝のイメージが、人間的感銘を呼ぶまでに盛り上がってこない。(中略)この芝居は何だ三島の独りよがりじゃないかと立腹した人も少なくなかろう。歌舞伎手法によってと云う、嘘やアナクロニズムのスペクタクルが、江戸時代の民衆が、そういう手法でなければ彼らの人間解放の舞台想像が不可能であったと云う、民衆の思想的対応を捨象した漫画になり終わっているところなど、やはり厳しく非難されねばならない。(中略)最も肝心の俳優が不在で、演出だけが先行した逆立ち歌舞伎の観が現前するのは、何としても悲しいことである。』(西山松之助:「椿説弓張月」初演劇評・「テアトロ」・昭和45年1月号)

「演出だけが先行した逆立ち歌舞伎」とは、なかなか辛辣な評言ですねえ。実は吉之助が初めて「椿説弓張月」を見た時の印象もこれに近いものでした。芝居の構えは大きいようだけれども、ドラマとしては空疎に感じられる。その隙間を埋めるのが役者の仕事のはずなのだけれど、役者が能動的に動いておらず木偶(でく)のように見える、これが脚本のせいなのか・役者のせいだかよく分からない。どちらにも問題があるそうだ。例えば中の巻・山塞(さんさい)の場での、白縫姫が夫・為朝を思いながら琴で「薄雪の曲」を弾くなか裏切り者の武藤太をなぶり殺しにする場面、その凄惨さとサディスティックな美しさが初演時に大いに話題となりましたが、視覚的インパクトでは際立っていても、ドラマ性が見出しにくい。薩南海上での、大船と怪魚のスペクタクルも、大真面目にやればやるほど空疎さを感じるというのが正直な感想でした。

ただし吉之助は長年の三島文学ファンでもあるし、三島が根っからの歌舞伎好きであることも承知しているので、そこのところをできるだけ好意的に捉えたいのです。この空疎さは三島にとって或る意味において意図的なものであろう。ただし三島の期待した通りに行かなかった部分があったのだろうと考えたいのです。「弓張月」の空疎さが三島の意図的なものであるならば、それは三島の何某かの歌舞伎観の反映であると思いたい。そこで、この空疎さがどこから来るのかと云うところを本稿で考えたいと思います。(この稿つづく)

(R2・6・8)


2)三島の本読み

ところで「椿説弓張月」上の巻・伊豆国大嶋の場には、三島本人が義太夫・下座を加えて本読みした録音が遺されています。(昭和44年8月26・27日、東京・杉並公会堂での録音) 芝居の「本読み」とは、昔は狂言作者が勢ぞろいした役者の前で台本を読んで聞かせたものです。この芝居はこんな筋で、あなたの役はこういう役だと云うイメージを、作者が役者に直接伝えるための儀式でした。したがって作者は台本を本息(ほんいき・役者が本番でやるような調子)で読むものではなく、簡潔に読み飛ばして、作者が持つ芝居のイメージのエッセンスを役者に届けるのです。

三島は本読みが上手い作家でした。遺されている自作「わが友ヒットラー」の本読み(昭和43年10月半ば頃、神田駿河台の劇団浪漫劇場事務所内)を聴くと、早めの口調でサッサと読み飛ばしながら、言葉が淀むところもなく・言い直しもなく、なかなか見事なものです。ところが歌舞伎の本読みになると、台本を簡潔に読み飛ばす感じではなくなり、三島の口調に歌舞伎の抑揚が加わって、台詞が粘り末尾が伸び始めます。そんなところに三島本人の歌舞伎好きが顔を出して、興味深いものがあります。六代目歌右衛門がからかい気味にこんな証言をしています。

『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。(中略)それこそ本当に観ているようなの。本当ですよ。歌舞伎の本読みなさるのとは、ちょっと違うわ。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)

「弓張月」初演稽古・顔寄せの時、居並ぶ役者たちに「後ろ向きになってください」と云って、三島の本読みの録音を聴かせたそうです。上の巻だけなので・この場に出番のない鴈治郎などは気楽なもので「上手いもんや、いっそ先生がやりなはれ」とケラケラしていたようですが、為朝役の幸四郎は苦虫を噛み潰した表情だったそうです。こんなところから稽古がギクシャクし始めて、演出の三島のやる気が次第に失せて行くことになります。

まあ狂言作者の本読みとして如何なものかと云うところは確かにあると思いますが、三島らスタッフの遊び心を、役者連中が素直に受け取れなかったと云うことではないでしょうかね。あくまで本読みであるので・本息でやっているわけではありませんが、三島の台詞廻しは「歌舞伎らしい」抑揚を付けて、確かになかなかのものです。しかし、上手いと云っても所詮素人がやるものです。本職たる歌舞伎役者がこれを聴くならば、ケラケラ笑って愉しんで聞いてくれれば、それで良かったのです。役者は本番でこれ以上の本格の台詞廻しを聞かせてくれるならば、それで良かったのです。ところが歌舞伎役者の方は、「これがお前たち役者が普段やっていることだよ」と目の前に鏡を突き付けられた気分になって、鼻白んでしまったのです。

三島の「弓張月・上の巻」本読み録音は、いろんなことを考えさせます。最初に思うことは、三島の本読みの印象が、大時代で重きに過ぎることです。上の巻・幕開きは居並ぶ役者が人形身で控えており、義太夫の語りで息が入って動き始めると云う、「忠臣蔵・大序」冒頭を真似た趣向です。多分「弓張月」上中下三段を序破急の構造に見立て、上の巻を時代物大序の風格に仕立てたい意図でしょう。それで全体のテンポを遅めに重く仕立てたのです。

「弓張月」初演筋書の作者の言葉のなかで、三島は『上の巻はギューギュー詰めにできたいわば「悲劇の罐詰」である』と書いています。上の巻では、現地妻である簓江(ささらえ)が登場し島人らが加わって崇徳院鎮撫のための踊りが披露される場面などあって、世話や踊りや子役まで含んで、雑多な要素を総取り込みしています。「ギューギュー詰め」とはそう云う意味でしょうが、ギューギュー詰めならば、当然ドラマの密度は高くなって然るべきです。しかし、吉之助が脚本を読んだ感じでは、上の巻はひとつの方向(ここでは悲劇)へ向けて高まって行かず、芝居としてはむしろ散漫な印象です。ここに感覚的なギャップがある気がします。

吉之助は、この場はむしろ世話に軽めに、二段目端場の見取りに仕立てた方が相応しかった気がします。つまり架空の五段の時代浄瑠璃「椿説弓張月」があったとして、そのなかの二段目端場を「見取り」で取り出したイメージです。わざと空白と欠落を作っておいて、この場に乖離感覚を与えるのです。書かれなかった大序には、主人公為朝の京都時代の華々しい活躍と保元の乱の敗北を経て大島へ流されるまでの経緯が描かれるはずですが、それら一切は省かれる。書かれなかった大序を前提にすれば、上の巻は二段目らしい軽さに落ち着くでしょう。ここを端場とするのは、為朝が裏切り者の武藤太を射殺そうとして「エエ残念な、矢種が尽きた」となって果たせず・そのまま花道を船で去って行く幕切れが、切場の完結を成してないからです。したがって書かれなかった切場があるはずで、これで上の巻が二段目端場を見取りで出したイメージになります。この位置付けならば三島版「弓張月」上の巻は随分収まりが良くなるのではないでしょうか。

つまり上の巻に書かれているものと、三島が本読みで試みたことの間に、結構大きなギャップがあるように吉之助は感じるのです。これが「芝居の構えは大きいけれどもドラマとしては空疎だ」と感じる大きな原因です。このことを三島本人がどれだけ意識したものなのかどうか。(この稿つづく)

決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD)(「わが友ヒットラー」・「椿説弓張月」自作朗読を収録)

(R2・6・10)


3)三島の本読みと「歌舞伎らしさ」

坪内逍遥は大の芝居好きで、早稲田大学での講義で近松やシェークスピアの脚本朗読をする時に派手な身振りや声色を披露して学生たちを驚かせたそうです。三島の本読みにも、そんなところがありそうです。しかし、本人は至って大真面目で、こんなことを書いています。

『私は下手な声色を利かせて聞き手をうんざりさせようとしたわけではない。私の脚本(ほん)読みによって、千万言を費やすよりも直截に、私の新作「椿説弓張月」の演出意図を耳から察してもらい、私の狙った作意、情緒、心理、性悪、そして出来得べくんば詩まで聴きとって欲しいと願ったからである。』(三島由紀夫:「レコード化に当つて」・昭和44年10月)

三島がそこまで言うのなら、これは心して録音を聴かねばなりませんね。当時三島の演出助手を勤めた織田絋二氏の証言に拠れば、三島は岩波の古典文学大系・曲亭馬琴「椿説弓張月」と国語辞典だけ携え、ホテルにこもって、上中下三巻をそれぞれ二泊三日で仕上げたそうです。上の巻の為朝の大嶋脱出の件は馬琴原作の「弓張月」後編に相当しますが、原作にはそっくりそのままで舞台に上げられそうな場面は見当たらないようです。「これのどこに芝居になりそうな場面があるんだ」と思ってしまいそうな錯綜した原作のなかから断片的な材料を抜き出して・設定を変えて再構成し、まったく新しい・三島ならではの、ひとつの戯曲の流れを浮かび上がらせて行く、その手腕の見事さには驚嘆させられます。それは砂の中から小さな宝石を選り出して、素敵な装飾品を仕立るが如きの精緻な作業なのです。

しかし、宝石ひとつひとつの色や形を際立たせようとすると、芝居がモザイク模様のように分裂して見えてしまって、大きなドラマの流れ(主題)をそこに浮かび上がらせるのが難しくなることがあります。このようなモザイク的な構成は、義太夫狂言などによくあります。複数のエピソードが交錯する「熊谷陣屋」は、その典型的な例ですが、近代戯曲のセンスからすると、これは前時代的な形態です。そのような複数のお団子(エピソード)を貫く一本の串のようなものが戯曲にはどうしても必要だと感じてしまうのは、近代戯曲のセンスです。だから「熊谷陣屋」を熊谷直実個人の悲劇として読み直した九代目団十郎の型は、近代戯曲のセンスです。別の見方をすれば、九代目団十郎の型は「熊谷陣屋」を現代人に分かりやすくはしてくれていますが、それによって切り捨てられたものもあるのです。例えば弥陀六が担う「平家物語」の世界観です。このように演劇センスのなかの前時代的な要素と近代的な要素の相克は、時代を下れば下るほど大きな問題になって行きます。三島とても近代人ですから、そのような縛りから逃れることは出来ません。だから擬古典的な・前時代的な戯曲を書くことは、近代人たる三島にとって非常に困難な挑戦になります。

「僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」 (雑誌「演劇界」での座談会での三島の発言:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

上記の三島の発言は作者としての発言ですが、本読み録音での三島の場合は、表現者(演出者)としての立場が加わりますから、前時代的な要素と近代的な要素の相克は一層複雑な様相を呈することになります。吉之助が思うには、自作本読みでの三島は、悲劇の英雄たる為朝の重いイメージ(これが上の巻を貫く一本の串になる)を印象付けようとして、近代的演劇センスの方に傾斜して全体の感触が重ったるくなった観があります。作者として「ここは隠してほしい」というところが見えちゃった気がするのです。

三島の本読みは、歌舞伎らしい抑揚を加えてなかなかのものですが、時代物らしいスケールを意識するあまりテンポが緩くて、内面よりも見掛けの「らしさ」に頼った印象がします。感触が重ったるいのは、そのせいです。これは素人の本読みに対し厳しい評言であることは承知ですが、こんなところに、三島が上の巻で書いたものと、三島が本読みで試みたことの間にギャップがあると吉之助は感じるのです。雑多な材料を詰め込んだ芝居なのだから、紙芝居のように次から次へと場面をテンポ良く・軽い感触で繰り出した方が、モザイク模様的な芝居の面白さが出せるはずです。

 (為朝)「いやとよ、ご無念晴らさずそのままに、流人の島に朽ち果てんは、武士に似げなき不忠の恥、新院薨去(こうきょ)と聞こえてより、願いはひとつ白峯の、おん陵(みささぎ)に詣でしのち、その場を去らず、腹掻っ切り」、〽潔く相果てんこと。「十年(ととせ)を経たる遠流(をんる)の身には、武勇も昔、武功も徒(あだ)、ハテ茫々なる世の中じゃなあ」(三島由紀夫:「椿説弓張月」・上の巻)

「腹掻っ切り」の末尾を引き伸ばすものだから、続くト書き浄瑠璃へ流れが上手く繋がらず、間が空いて緊張が失われています。(ここは受ける竹本の方にも問題があるようです。)「世の中じゃなあ」でも、三島は末尾を詠嘆調に引き伸ばしています。こういう些細なところで間が伸びる場面がしばしばあって、ドラマが空虚化しています。本サイトお読みの方は吉之助が台詞の末尾を引き伸ばすのに日頃批判的なことは御存知だと思いますが、「三島もここを引き伸ばすか・・」とガッカリしますねえ。本番で幸四郎がこう云うところを改善してくれれば良かったのですが、改善されていません。むしろ幸四郎の押し出しが立派な分、視覚的ギャップが加わって、空疎感が拡大した感じさえします。

(簓江)「御武家育ちは固苦しい。恋女房はそれらしう、惚気(のろけ)三昧が気楽じゃわいなあ。モシ、こちの人、アノ、イエ、御対称の為朝どの、お社のお祭に、島をあげての献じ物、山の幸はあらねども、海の幸の大漁節、歌うて御霊を慰めの、上手(じょうず)を連れて参りました。ソレ、皆の衆。」(三島由紀夫:「椿説弓張月」・上の巻)

三島は女形の声色を駆使して熱演しています。簓江は大嶋の元代官の娘ですが現地妻ですし、ここは世話の軽い口調で早めのテンポにしないと、芝居に変化が出ないと思います。三島の簓江の台詞は、女形を熱演するあまり粘って時代の方へ傾き過ぎです。本番で簓江を勤めた訥升は上手い役者ですが、これも時代の感触に捉われたようで重ったるい。三島の本読みが、役者に対して悪い先入観を与えているように思われます。

恐らく三島のなかの文学的イメージが飛翔して・それらがあまりに膨らみ過ぎて・あわや分裂しそうになる、これをひとつの芝居として統制しようとすると、悲劇の英雄たる為朝の重いイメージがますます欲しくなると云うことなのです。そのために三島の本読みが、見掛けの「らしさ」の方へ傾斜して行きます。「歌舞伎らしさ」ということは、三島にとっても呪縛なのですねえ。(この稿つづく)

(R2・6・15)


4)乖離した中の巻

しかし、「文学的イメージが飛翔し過ぎて・あわや分裂しそうになる」と云うことならば、上の巻よりも中の巻の方がさらに乖離した感覚があると思います。中の巻は、讃岐国白峯では大セリを使った崇徳上皇の亡霊出現、木原山中では為朝と大猪の大立ち廻り、山塞では如何にも三島趣味の武藤太のサディスティックな殺し場があり、薩南海上の場では台風に翻弄される二隻の大船と怪魚のスペクタクル、高間太郎夫婦は壮絶な自死、海へ身を投げた白縫姫は黒蝶に変ずると云う具合です。国立劇場の舞台機構と大道具を駆使した見せ場の連続です。ただし見掛けは派手なようだけれども、各場がバラバラで連関性があまりない。役者は後ろに遠のいて、ドラマとしては薄味なものになっています。そう云えば石川淳が三島との対談でずいぶん辛辣なことを言っています。

「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような。」(対談「破裂のために集中する」昭和45年)

これに対し三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは」と力ない返事をしています。しかし、石川は本人を前にしているので作者に同情的に言っていますが、これをみんな役者のせいにするのはちょっと酷で、どう考えてみても作者の責任の方が大きいようです。三島のなかでどんどん勝手にイメージが拡がって行く。各場面の文学的イメージが膨らみ過ぎて、三島のなかで抑え切れていない感じがします。中の巻の各場面がバラバラで連関性がなく乖離した印象になるのは、そのせいです。それにしても、三島が「弓張月」を執筆していて一番愉しかった時間は、中の巻を書いている最中ではなかったでしょうかね。

白縫姫(玉三郎)が琴で夫との思い出深い「薄雪の曲」を奏でるなか(為朝を訴人した)武藤太を竹釘責めにして殺す場面は、馬琴原作の前編巻5にある(つまり原作では為朝の大嶋脱出以前のエピソードなのですが)琴弾神社で白縫姫が神に祈って筑紫琴を弾く場面と・その次の観音寺村での武藤太殺しを巧みに組み合わせて、琴責めの倒錯的シーンを三島が創り出したものです。この着想は、作劇での手練手管を知り尽くした三島ならではのセンスだと驚嘆させられます。筋骨隆々のボディビルダーを吹き替えに使って、「聖セバスチャンの殉教」の耽美的なイメージを重ね合わせています。(これでもし武藤太が善人方の人物であったならば三島の被虐嗜好がさらに満足されたことでしょうが、武藤太が裏切り者である点は変えるわけに行きません。)このように連関性のない材料を組み合わせて・コラージュの如くまったく新しい美のシーンを創り出す三島の手法が、中の巻ではひときわ冴えています。

嵐を鎮めるため海へ身を投げた白縫姫がたちまち黒蝶に変ずる文学的イメージも素晴らしい。ちなみに馬琴原作の続編巻1にある白縫姫投身場面には姫が黒蝶に変ずるシーンはなく、これも三島の創作です。多分これは荘子にある「荘周夢に胡蝶と為る」のエピソードを組み合わせたものでしょう。ただしこれを舞台上で視覚化されたものを見ると「何が起こったのかよく分からない」と云う感じではありましたが。三島の作劇でイメージしたものを完全に実現することは至難の技だということをつくづく思いますねえ。下の巻で為朝は寧王女(ねいわんにょ)に白縫姫が乗り移っていることを知るのですが、黒蝶のイメージがその伏線に仕掛けられれば良かったと思いますが。

ところで昭和44年11月国立劇場での「弓張月」初演が歴史的に大事な点は、もうひとつ、これが玉三郎の実質的な出世作であったことです。三島が玉三郎を見出したきっかけは、昭和42年3月の国立劇場での「桜姫東文章」の白菊丸であったようです。白菊丸ですから女形ではなくて、これは若衆の玉三郎でした。この2年後「弓張月」初演で、玉三郎(当時19歳)が白縫姫に抜擢されたのです。馬琴原作での白縫姫は16歳くらいで、天女が舞い降りたか・龍宮の乙姫がこの世に来たものかと思う美しさと形容されています。

「その奇蹟の待望の甲斐あって、玉三郎君という、繊細で優婉な、象牙細工のような若女形が生まれた。(中略)玉三郎君という美少年の反時代的な魅惑は、その年齢の特権によって、時代の好尚そのものをひっくり返してしまう魔力をそなえているかもしれない。(中略)山塞の場の白縫姫の冷艶、かよわい美のみがもつ透明な残酷さなどは、正に私が狙ったもので、時折、舞台をみていて私は戦慄を感じた。」(三島由紀夫:「玉三郎君のこと」昭和45年8月)

当時の玉三郎の白縫姫は女形としてはまだ硬い莟の花ですが、三島はそこに原作の処女妻のような白縫姫の怜悧なイメージを見出したのでしょう。蒸留水のような無色無臭の女形の感覚なのです。ただし幕末歌舞伎の草双紙的風味をここでイメージするならば、もう少し饐(す)えた女形の匂いが欲しい気がしなくもなく、ここは後年・平成14年(2020)12月歌舞伎座での玉三郎再演の白縫姫の方により「歌舞伎らしい」感触があったかも知れません。(この稿つづく)

(R2・6・17)


5)前時代と近代の相克

下の巻の「北谷夫婦宿」は琉球を舞台としたねっとりした歌舞伎のモドリの芝居(「安達ヶ原・一つ家」と「弁慶上使」を混ぜ合わせたような芝居)で、鴈治郎の阿公(くまぎみ)が興味深いですが、ここは馬琴原作でも為朝が奥に引っ込んで存在感がないきらいがありますが、この芝居でもそうです。原作をよく知らない観客は多分「一体何の芝居を見せられてるんだ」と感じるだろうと思います。為朝の息子・舜天丸(すてまる)がその後の琉球国の初代国王となるという伝説(結末)を承知していないと芝居が為朝の方へ寄って行きません。だから大詰・運天海浜宵宮の場まで来ると、これで筋がやっと「弓張月」に落ち着いたなという安堵がしますね。幸四郎の為朝は、押し出しが立派なのはもちろんですが、ドラマの中身が伴わないのでちょっと手持ち無沙汰に見えます。

ところで昭和44年11月国立劇場の三島の「弓張月」初演を見た郡司正勝が次のように書いています。これはとても示唆するところのある劇評です。

かぶきの「見せる」という精神構造を、ハンドルングとみて、作の第一条件として押し出した点に、新しいエネルギーが感じられる。つまり戯曲としてのドラマツルギーが先になるのではなく、見世物の思想が先行し、見せるという行為が、思想となっている点が、新鮮でユニークである。(中略)かくて「弓張月」をつらぬく線が一本あるとすれば、英雄という狂気の殉死の美学が息づく。(中略)趣向という点では馬琴は京伝などより落ちるといっていい。したがって馬琴の作は、芝居では二流品になる。(中略)したがって「弓張月」かならずしも、芝居に適したものとは思えぬが、三島があえてそれをとったのは、その狂気であったと云える。』(郡司正勝:劇評「みしまごのみ・風流山車かぶき」、「演劇界」昭和44年12月号)

郡司先生はバランスを取った巧みな言い回しをしていますが、「戯曲としてのドラマツルギーよりも見世物の思想が先行した点が新鮮でユニーク」と云うことは、端的な言い方をすれば、「見た目の面白さばかり追って芝居の中身が乏しい」ということです。これは吉之助が初めて「弓張月」を見た時の感想とまったく同じです。しかし、考えてみれば、あれほど作劇に通じた三島が、そのことに気付かないはずがない。だから「弓張月」が持つこの空疎さは、三島にとって或る意味意図的なものであると吉之助は確信するに至りました。

個々のエピソードの文学的イメージが飛翔し過ぎて・連関性を喪失して芝居がモザイク模様のように分裂して見えて来る。前時代的な戯曲の形態としては、もちろんこれは大いに「有り」です。しかし、「モザイク模様のなかから何が見えてくるか・さあご自由にお楽しみください」という余裕が、近代戯曲では、作者にも役者にも観客にも、もはやないのです。主題とか主張・イデオロギー的なものが必ずどこかに顔を出さないと収まりません。「この作品は・この役は何を訴えているのか・どういう意味があるのか」ということを考えないと、鑑賞という行為がもはや成り立ちません。だから擬古典的なスタンスをいくら前面に打ち出しても、近代戯曲である以上は、複数のお団子(エピソード)を貫く一本の串のようなものがどうしても必要になるのです。その全体を貫く串になるのが、郡司先生が指摘する通り、未完の英雄・為朝の狂気の殉死の美学です。

 「弓張月」がそれまでの三島の歌舞伎7作と異なる点は、まずそれまでの作品で主役を演じてきた六代目歌右衛門のために書かれたものではないことです。もうひとつは、これまでの一幕物ではなく・多幕物の通し狂言として書かれたことです。つまり、役者のためではなく、自分が見たい歌舞伎を書いたということです。ですから三島の「弓張月」には、これまでの作品より自己投影の要素がはるかに強く出ています。

『全編、つねに海が背後にあり(私は歌舞伎の海の場面が大好きだ)、英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逃し、つねに死へ、「故忠への回帰」に心を奪われる。彼が望んだ平家征伐への花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを云えば、為朝の挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完の英雄」のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり(以下略)・・・』(三島由紀夫:「弓張月の劇化と演出」・昭和44年11月)

このため三島の「弓張月」は、ドラマ性が奥に引っ込んで、趣向・スペクタクルなど見世物的要素が前面に出たイメージになってしまいました。吉之助は、そこに三島のなかの役者への信頼が欠けている気配を何となく感じます。役者が木偶の如く見えるのは、そのせいです。しかし、三島のなかでそれ(信頼)が完全になくなってしまっていたわけではなく、三島はまだそこに一縷の期待を残していたに違いありません。そうでなければ、三島は再び歌舞伎のために筆を取る気にならなかったはずです。歌舞伎には、近代戯曲の尺度からすると「こりゃ何だ」と思う無内容な芝居を実に魅力的な演し物に変えてしまったものがたくさんあります。そういう奇蹟を起こしたのが、昔の・前時代的な役者の芸と云うものでした。三島は、形骸化したドラマに生きた血肉を与える奇蹟を、歌舞伎役者に期待したのです。歌舞伎役者に現代に生きる江戸人であって欲しかったのです。現代ではもはや無理なことかも知れないが・とにかくやってみようと、これが三島は「歌舞伎はもう書かない」としていた約10年のタブーを破って、再び歌舞伎を書いてみる気になった理由だろうと思います。しかし、実際にやってみると、三島よりも歌舞伎役者の方がずっと近代人であったと云うことが明らかになりました。それで三島はガッカリしてしまったわけです。「三島が望んだ前時代歌舞伎の花々しい奇蹟はついに彼を訪れなかった」のです。

ですから「弓張月」は、「どこかの旧家の土蔵のなかから・江戸末期の作者不詳の古い芝居の台本が発見されましたが、なにぶん分量が多くて現代では完全上演が叶わないので、これを三島由紀夫があちこちカットして・手を入れて世に出すことになりました」と云うくらいの、遊び心と云うか気楽さを以て、前時代的な戯曲を紙芝居的に、乖離は乖離として放置して或る意味において軽やかに展開できれば、「弓張月」の面白さは案外スンナリ出たのではないでしょうかね。そのためには演出を担った三島も、幸四郎以下役者たちもちょっと真面目過ぎちゃったと云うことかも知れません。

追記:別稿・作品研究「三島由紀夫の椿説弓張月」もご参考にしてください。

決定版 三島由紀夫全集〈25〉戯曲(5)(「椿説弓張月」所収)

(R2・6・19)


 

 

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