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吉之助の雑談48(令和7年7月〜12月)


〇令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」・その5

吉之助は「野田版・研辰」を作品として評価しつつも、主演の十八代目勘三郎の個性があまりに勝ち過ぎるために再演が難しいだろうと考えていました。そこで今回(令和7年8月歌舞伎座)での主役を勤める勘九郎のことですが、よく頑張りました。予想以上によく頑張ったと言って宜しいです。息子であるから声質も似ているので父上のことを思い出す瞬間がしばしばあるし、かと言って父上の「なぞり」に陥らず、ちゃんと勘九郎の辰次になっていました。まあちょっと無理してる感じがしないことはない。勘九郎の辰次では父上とニンが異なるから・シリアス味が強くなる、だから父上の時のように無条件に笑えない雰囲気になって来ますが、そこを含めて勘九郎の辰次になっていました。

例えば大師堂裏手の場で自分を斬るための刀を辰次が研ぐ、これを見ていた群衆が「助けてやれよ」と言い始めたため・平井兄弟はやむなくその場を立ち去ります(実は見せ掛けである)。勘三郎の辰次は刀を研ぐシーンは上手いもので、「散りたくねえ、死にたくねえ」という台詞は身につまされました。しかし、勘三郎の辰次ですと、もちろん嘘を語ったつもりはなかろうが、何と云いますかねえ、辰次はその時の気持ちの真実を正直に語ってはいるのだが、平井兄弟が立ち去ってしまうと・また辰次の気持ちに微妙な変化が起きる、「ハアうまくやったぜ・これで助かった」みたいな、ここで一息ついたら勘三郎の辰次はまた性懲りもなく面白ろおかしく生きていくのであろうなあと思わせるところがありました。

一方、シリアス味の強い勘九郎の辰次であると、この辰次は「これからは俺も性根を改めて真面目に生きていこうなあ」と云うことをちっとは真剣に考えただろうと云う気がしますね。だから平井兄弟がこの場に戻って来て辰次が斬られるラストシーンで、「仇討ちという行為」の非情さがより強く観客の心に突き刺さります。その意味では幕切れは「原作・研辰」のテイストに近くなったと云えるでしょう。ちなみに平井兄弟を演じた染五郎・勘太郎も勘九郎の方向性に沿った感じでシリアス味が強めで、これも良かったですね。

このように同じ作品も演者を変えて演じれば、見えて来る光景も自ずと変わってくるものです。そうやって作品を繰り返し上演しているうちに、いつの間にやら作品の最大公約数的なイメージが積み上がっていく、歌舞伎新作が「古典」になるとは多分そのようなプロセスでしょう。だから「野田版・研辰」にとって古典化の道程はまだ始まったばかりです。しかし、幸先良いスタートを切ったのではないでしょうかね。

(R7・8・15)


〇令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」・その4

歌舞伎新作が「古典」になるとは一体どのようなことでしょうか。「それが好評で或る程度の頻度で繰り返し上演される」ことは大事な要件に違いありませんが、これだけでそれが歌舞伎の「古典」になったと云えるのでしょうか。

ただ目新しく・面白いだけでは、いくら出来が良くても歌舞伎の「古典」にならないのです。歌舞伎は伝統芸能ですから、演じる側や見る側が共通して持つ・漠然たる「かぶき」のイメージがあるはずです。繰り返し上演されるなかで舞台が何か一定の「かぶき」のイメージに収束していくのが見えるようであれば、その作品は段々「古典」へとこなれていくのだろうと思います。このことは最初から意図してそう出来るものではなく、結果論として云えることです。しかし、幸い歌舞伎は長い歳月のなかで様々なスタイルを取り込んで来ました。だから歌舞伎は意外と懐が深い・なかなかしたたかな演劇なのです。どんな方向からアプローチしても、歌舞伎は柔軟にこれに対応することが出来ます。他のジャンルの演劇ならば多分同じように行かないと思います。

ですから歌舞伎新作は意図して「古典」になるものではなく、長い歳月のなかで後ろを振り返った時に、結果としてそのように見えるものです。ただし「古典」になる新作は確率として決して高いものではありません。別稿(昨今の新作歌舞伎の動きを考える)でも触れた通り、あの二代目左団次の新歌舞伎であっても打率(新作成功率)は数%くらいのものでした。

前述した通り、この50年間は特異的に新作が少なかった時代でした。吉之助が歌舞伎新作の初演に立ち会ったものは限られますが、二代目猿翁初演のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は(四代目猿之助を経て)孫の団子に引き継がれて、「古典」と呼ぶにはまだ早いけれど、その方向が見えて来たということは云えそうです。今回(令和7年8月歌舞伎座)の「野田版・研辰」にも同じような印象を持ちますが、こちらはもう少し歳月が掛かりそうな感じがしますね。

但し書きを付けますが、舞台の出来が「まだまだ」と言うのではありません。この段階を経なければ、「古典」への道は開けて来ないのです。「野田版・研辰」は「ヤマトタケル」よりも初演が20年遅いわけですし、研辰を演じた故・十八代目勘三郎の強烈なイメージがまだ根強く残っていることがある。作品のスタイル自体がまったく異なるせいもあります。(古典化の観点からすると長沢勝俊作曲の「ヤマトタケル」背景音楽が果たした役割はとても大きいことを指摘しておきます。)吉之助が見た印象では、今回の「野田版・研辰」は、(もちろんみんな頑張っているのだが)主演の勘九郎だけでなく・他の役者たちもみな、恐らく演出の野田秀樹も、客席で見ている吉之助もまたそうなのですが、誰しもそれぞれ初演のイメージをどこかで追ってしまう。だから芝居がなかなかスムーズな流れに乗って来ないもどかしさが若干つきまといます。歌舞伎は伝統芸能ですから過去への憧れを持つのは大事なことですが、演じる側も見る側も、まだ「吹っ切れていない」と云うことでしょうかね。(これは書かないでもいいことですが、現時点に於いては、「ヤマトタケル」の方がいくらか「吹っ切れている」ということです。)過去への意識を胸に秘めつつ、作品を「かぶき」のイメージへ大きく取り込んで前に進む作業が必要なのです。そうなるためにはもう少し歳月が・或いは更なる代替わりが必要なのかも知れません。(この稿つづく)

(R7・8・11)


〇令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」・その3

「野田版・研辰」で重要と思われるポイントを二つほど挙げておきます。まず一つは、「野田版・研辰」の仇討ちは意図的に「捻じ曲げられている」と云うことです。恐らくこのことは辰次のドタバタばかりに目が行ってしまってスルーされてしまうだろうと思いますが、野田演劇の他作品にも共通するであろう問題提起(大衆)を孕んでいます。

市郎右衛門は辰次が仕掛けたからくり人形に驚いて脳卒中で死んでしまいました。これには因果関係がありそうでもあるが、これだと「ご家老が辰次に殺された」と立証することはかなり難しい。何よりも武士が脳卒中で死んだとなると家名に傷が付く。そこで家来たちは市郎右衛門の死体に刀傷を付けるのです。これで「ご家老は辰次に背後から斬られて死んだ」と云うことにこじ付けると云う操作がなされています。先にトンずらしてしまった辰次はこの捏造の事実を知らないし、後から現場に駆け付けた平井兄弟は「父は辰次に切り殺された」と思い込んだままで、仇討ちの使命を押し付けられて送り出されるのです。

つまり家来たちはトンデモないことをしているのです。家来たちは野田演劇の重要な要素である「大衆」の一部であり、自らの正義感・倫理観で「よかれ・よかれ」で手前勝手なことをして、しかも罪の意識がまったくありません。これに辰次も平井兄弟も振り回された恰好です。何だか端から胡散臭いところがある仇討行なのです。このような「研辰」の仇討ち事件の核心を、野田秀樹は見事に探り当てています。

そう考えると実説の方も何やら胡散臭い。実説の仇討ちは江州膳所藩士平井市郎次が研師辰蔵の女房と密通し・これを恨みに思った辰蔵が市郎次を殺したことに端を発します。弟平井九市と外記の兄弟は直ちに役所に仇討ちを申し出ましたが、認められませんでした。これには生前の市郎次の行状が災いしています。膳所藩にとってこの仇討ちは「迷惑」だったのです。このため平井兄弟は仇討免許状がないまま・約4年の歳月を掛けて各地を巡って・遂に辰蔵を討ち果たすのですが、この仇討ちが世間で大変な評判になりました。京阪の地でも評判となり瓦版まで出る大人気でした。こうなると免許状を出さず・冷たい対応をしてきた膳所藩の立場が微妙なことになってきます。悩んだあげく、結局、膳所藩は元々10石であったのを90石に加増という破格の待遇で弟九市を迎え入れることになります。まあいつの時代になっても似たような現象が起きるものです。ここにも「大衆」の影が見えますね。

もう一つ「野田版・研辰」で注目されるのは、最後の大師堂裏手の場で辰次が本職の研屋に戻って・自分がこれで斬られることになる刀を研いで・「散りたくねえ、死にたくねえ」と呟くシーンを野田秀樹が付け加えたことです。これは印象的なシーンでありますねえ。ちょっとセンチメンタル過ぎる印象はありますが、ここで観客が「研辰カワイソウ」とホロリと同情することで、これまで辰次のコミカルな逃避行を笑い転げて見ていた観客(観客も「大衆」の一部)は免責になると云うわけです。

ところで実説の研師辰蔵のことですが、文政10年(1827)閏6月17日・平井兄弟が羽床の家に踏み込んだ時、ちょうど辰蔵は仕事場で上半身裸になって研ぎ仕事をしていたそうです。辰蔵はすぐさま応戦しようと壁に架けた刀を掴みましたが、目釘をはずしていたので刀身が抜けてしまって、このため兄弟に討たれたそうです。享年38歳。(「綾南町誌」による) ですから辰蔵は自分が斬られる刀を研いだのではありませんが、討たれた時の辰蔵は確かに研ぎ仕事をしていたわけです。野田はこのことを調べて、それで大師堂裏手の場を書いたのかも知れませんね。(この稿つづく)

(R7・8・11)


〇令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」・その2

野田秀樹の「野田版・研辰」書き換えの工夫は、「忠臣蔵」の仇討ち(元禄15年12月14日)が終わった直後・世の中がその興奮未だ冷めやらぬ時代へ設定を移したところにあります。これで立派な仇討ち(と世間からは云われているもの)と「研辰」の仇討ちとの対比を明確にしたのです。これを仇討ち批判と読むことも出来ますし、自ら勝手気儘に踊っているか・踊らされているか分からない世間への批判と読むかはご自由ですが、野田はこの時代設定で「原作・研辰」を自分の得意領域へ確かに引き込んでいます。

実は「研辰」の実説とされるものは、芝居になったものと内容がかなり異なります。これは実説の仇討ち(仇敵が研屋の町人・討手が武士という珍しいパターン)が世間で評判となって・すぐに芝居化されて・さらに上演が重ねられるなかで筋に尾ひれが付いていく、「原作・研辰」もその系譜の上にあって・いろいろ面白おかしく作劇がされて行くので、実説とは随分と内容が変わってしまいました。と云うか実説と関係ないところで・芝居の筋がどんどん独り歩きしていったようなのです。その事自体はどうでも宜しいのですが、何故「研辰」の討ち入りが長い歳月人々の関心を引き続けて来たか、このことだけは考えておかねばなりません。実説は文政10年(1827)閏6月17日に讃州阿野郡南羽床下村(みなみはゆかしもむら)で起きた仇討ち事件でした。羽床は金毘羅歌舞伎で有名な香川県琴平町からほど近いところにあります。(つまり善通寺大師堂裏で大勢に取り囲まれたなかで仇討ちが行われたと云うのは芝居のなかの話です。)

ここで文政10年(1827)という年号が出てきます。これは元禄15年(1702)から約120年後ということです。ご承知の通り、「忠臣蔵」は江戸中期の典型的な仇討ち事件でした。これに対し「研辰」の仇討ち(実説から大正14年の「原作・研辰」までも含んだイメージ)は江戸後期でしかあり得ない仇討ち事件の様相を示しています。「研辰」の仇討ちは、芝居や講談・読本で仇討ちのパターンが散々試されて、忠義が喧伝され尽くしたところで趣向がちょっと「飽きた・疲れた」時代の産物なのです。野田は「野田版・研辰」のなかで、これら二つの異質な仇討ちを「綯い交ぜ」にして見せました。「研辰」の面々を元禄期に放り込んだところで生じる違和感こそ作者の狙いです。

このことはまったく同じ時期・文政8年(1825)7月江戸中村座で初演された四代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」のことを考えて見れば事情が明らかになります。「四谷怪談」は「忠臣蔵」の世界と綯い交ぜされて、初演時には二日を掛けて「忠臣蔵」とテレコ上演されました。現行では「四谷怪談」の筋のみの上演のため「忠臣蔵」の影はどうしても薄くなりますが、伊右衛門の行動も本来は「忠臣蔵」の視点から読まねばならぬものです。そこから伊右衛門が封建社会の忠義の論理に縛られたところからの解放を目指す「飽くなき自由人」であるか、はたまた自己の欲望のみを追求した結果・悪の泥沼にはまり込んだ「腐った武士」なのかが問われることになるでしょう。

だから「研辰」の仇討ちとはまさに文化文政期的な・この時代にしかあり得ない仇討ちだと云う認識が大事なことになるのです。だからこそ「綯い交ぜ」の素材として「忠臣蔵」が絶妙にフィットすることになるわけです。「野田版・研辰」はそんな「綯い交ぜ」の構造を前面に出してはいません(はっきりと表に出るのは冒頭の吉良邸討ち入りの影絵くらいです)が、実は全体を通して・登場人物の台詞の端々に「忠臣蔵」の世界がさりげなく効いています。見れば見るほど野田の手腕に感心させられます。(この稿つづく)

*歌舞伎の「研辰」物の成立過程については、出口逸平著:「研辰の系譜〜道化と悪党のあいだ」(作品社)に詳説されています。

(R7・8・9)


〇令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」・その1

イヤ暑いですねえ。本稿は令和7年8月歌舞伎座で上演された「野田版・研辰の討たれ」の観劇随想ですが、材料はそれなりにあるのですが吉之助が暑さで参ってしまっているため、執筆ペースがタラリタラリと進みますので、そこのところ宜しく。ご存じの通り「野田版・研辰の討たれ」(以下「野田版・研辰」で通す)は、木村錦花原作・平田兼三郎脚色の新歌舞伎「研辰の討たれ」(大正14年・初代猿翁により初演されて・世間に一躍「研辰ブーム」を巻き起こした、以下はこれを「原作・研辰」で通す)をベースにして、現代演劇の旗手・野田秀樹が自由な発想で書き換えた作品でした。「野田版・研辰」初演は平成13年・2001・8月歌舞伎座のことで、主演の守山辰次を五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎)が勤めました。その後平成17年(2005)の勘三郎襲名披露興行では東京・大阪でも再演されて、勘三郎による実験歌舞伎の最大の成功作となりました。(勘三郎の実験歌舞伎には他に演出の串田和美とのタッグによるコクーン歌舞伎の路線があり。)

別稿(昨今の新作歌舞伎の動きを考える)でも触れましたが、戦後歌舞伎においても昭和30年・40年代は毎月の歌舞伎座の演目に新作(当時は「書き物」と呼びました)がよくあったものでした。ところが昭和50年代に入ると新作がめっきり減り始めて、平成になると演目が古典ばかりになっていきます。「野田版・研辰」が初演された2001年前後は、長い歌舞伎の歴史のなかでも例外的に新作が少なかった時代であったと云えます。この時期の特筆すべき新作歌舞伎を挙げるならば、まず一つは昭和61年・1981・2月に二代目猿翁初演のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」であり、もう一つが野田−勘三郎による・この「野田版・研辰」と云うことになります。

普段の古典歌舞伎では、歌舞伎役者は「型」に縛られるものです。「型」と云うのは、その通りにやっていさえすれば・とりあえず「それらしく」見えると云う魔法の公式ですが、まあ考え方によっては窮屈な・自由度の少ないものに違いありません。ところが新作であると、それはない。いわば制約がまったくないところで自分が「型」を創始出来るわけです。「野田版・研辰」初演では、歌舞伎役者がこんなに生き生きと「演じることが楽しくって仕方がない」という表情をしているのも随分珍しいと感じたことを思い出します。これは当時新作と云うものがほとんどなかったからでもありました。

今回(令和7年8月歌舞伎座)の「野田版・研辰」は、あれ(初演)から24年後、メンバーを世代交代しての上演になります。これで「野田版・研辰」がいきなり古典になると云うものでもありません。しかし、意識するなと云われても、やっぱり演じる側も・見る側も、昔の舞台を意識してしまうことになるのです。それはまだ確固たる「型」になってはいませんが、何だかそれに近いような雰囲気を醸し出しています。またこれが歌舞伎であるならば、歌舞伎役者たる者それを意識しないのでは困るとも云えますね。

正直に申し上げると、吉之助は「野田版・研辰」は主演の十八代目勘三郎の個性があまりに勝ち過ぎるために再演が難しいだろうと考えていました。今回主演の守山辰次を息子の六代目勘九郎が勤めますが、父とはまた違った個性で研辰という曲者(歌舞伎のなかでも際立って特異なキャラですねえ)を勘九郎がどのように演じるか、その時に昔の父の舞台のイメージをどのように生かすか・或いは敢えて捨てて掛かるか、そんなことなど考えながら舞台を見たのですがね。(この稿つづく)

(R7・8・7)


〇令和7年7月大阪松竹座:「髪結新三」・その2

別稿(これは八代目菊五郎の再演の新三の観劇随想)に於いて髪結新三の性格に、愛想が良い江戸前気質の髪結新三と、僻み(コンプレックス)の塊りみたいな「上総無宿」の入墨新三と云う、乖離した「二面性」が潜んでいることを考えました。再演の八代目菊五郎の新三には・この二つの性格を「声色を以て仕分ける」ような印象が若干あったので、観劇随想ではそのことを指摘しました。一方、今回(令和7年7月大阪松竹座)での三演目の新三には、そう云う所は見えませんでした。台詞のトーンを若干低めのところで一定させたことが成功しました。おかげで背理したかのように見える二つの要素に折り合いが付いて、役の寸法が身の丈になじんで・なかなか良かったのではないでしょうか。

そこから翻って八代目菊五郎が序幕での新三の登場を花道からの出(原作通り)に戻したことに話を戻しますが、ここで新三は七三で立ち止まり、先の帳場で手間取った事情をひとくさりボヤく、別にあからさまに客の悪口を云うのではないが、お愛想ばかりではない新三をチラッと見せる。そうすると、白木屋門口に来て内の二人(忠七・お熊)を見て、「何をいふか聞いてやろう」と言って立ち聞きする新三の悪意もそこにチラッと見えて来る。そのような何気ない工夫(原作への戻し)も、八代目菊五郎の新三に性格の一貫性を与えるためには随分役に立っているのだなと改めて思いますね。

例えば新三内へ向かう途中で善八が「新三は怖い」と云って源七に「臆病な人だねえ」と笑われる、芝居ではただそれだけのことで・後に活きる会話でもありませんが、多分新三は善八に対しては普段から「何だ、この野郎」というような横柄な態度を見せていたのだと思います。お客には見せ掛けのお愛想を振り撒くが、そうでない相手には態度をガラリと変える、そのような新三の二面性が伺えます。

白子屋で愛想良い善人を見せておいて、次の永代橋で一転ガラリと変わって悪党の本性を見せる。その変わり目・落差を鮮やかに見せる。さらに続く富吉町へどのように具合よく繋げるか。今回の八代目菊五郎は「新三の性根をざっくり大掴みに捉える」、そこのところが上手い具合に行きました。弥太五郎源七をやり込める啖呵の威勢の良さと、逆に家主長兵衛にやり込められる間の抜けたところが、無理がないところで同居する面白さが「芸」として安心して楽しめる。これも八代目菊五郎になって・また一段と芸格が大きくなったことの証左だと思います。

弥十郎の長兵衛も生世話の家主のニンとして必ずしもぴったりと云うわけではないのですが、この人物の癖の強いところをしっかり押さえているので、「芸」として面白く見せてくれました。新三と長兵衛のやり取りが軽く浮いた調子に陥らなかったのは、ここは八代目菊五郎も良かったですが・弥十郎のおかげも大きかったと思います。

(R7・8・1)


〇令和7年7月大阪松竹座:「髪結新三」・その1

本稿は令和7年7月大阪松竹座での八代目菊五郎襲名披露狂言「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三」の観劇随想です。八代目菊五郎の新三は、五代目菊之助時代の平成30年3月国立劇場が初演で・令和5年5月歌舞伎座が再演、今回が八代目菊五郎としての三演目と云うことになります。だいぶ役の寸法が身の丈になじんで来たようで、なかなかいい感じに仕上がりました。大阪では珍しい江戸狂言でもあり、お客さんの反応も上々のようでした。

さて例によって作品周辺を逍遥することにします。永代橋で新三が忠七と足蹴にして「ざまア見やがれ」とせせら笑い、「ズドンドン」の波頭で佃の合方になり、番傘をポンと片手開きにして肩に担いで意気揚々と橋を渡って入る。これが定型のやり方ですが、ここで六代目菊五郎の思い出話です。

六代目が初役で新三を勤めた時に(明治44年・1911・6月二長町市村座でのこと)、囃子頭の林扇之助を呼んで、「永代橋の下はまだ海じゃないのだから、波頭ではなく・波音を打ってくれ」と注文したそうです。すると扇之助が言うことには、

『実は私もそう考えましたから、五代目の旦那にその通りを申し上げた所、旦那の仰るには「一応は尤もな事だが、それじゃァ新三が引っ込めねえのだ。例えば実盛物語でも、あの場所は近江の湖水の傍であり、しかも中心人物でない九郎助の出にさえ、〽あるじ九郎助網引き上げの義太夫で、ズドンドンと波頭を入れるじゃアねえか。永代橋でまあ波音を打って見ねえ、新三の引っ込みがキッパリしないよ」と仰られて、なるほどと合点が行きました。』

これを聞いてさすがの六代目もギャフンとなったそうです。これは六代目の芸談集「芸」に出てくる逸話です。

隅田川の永代橋からは佃島がはるかに見えますが、まだ「海」ではありません。だから六代目が「波頭ではなく・波音を打ってくれ」と言うのは、生世話(=写実)の観点からすると、理屈としては正しいのです。しかし、芝居の感覚からすると、それだと「新三の引っ込みが引き立たない」。この逸話は、どちらが良いとか・正しいとかはちょっと置いて、五代目と六代目の菊五郎のセンスの違いをよく表しています。つまり息子の六代目の方が、近代的な自然主義のセンスに重きを置いています。これは明らかに「時代の違い」から来るものです。

八代目菊五郎の令和5年5月歌舞伎座での再演を思い出すと、今回も同様ですが、原作の指定通り・序幕・白子屋店先での新三の登場を花道から出るやり方でした。これに対し壮年期の六代目が工夫したやり方は新三が舞台下手から登場するものでした。現状ではこちらが型として定着していますが、芝居の主役としてはそりゃあ花道から登場した方が気持ちがいいに決まっています。それを敢えて下手から登場する地味な出に変えてしまったところが六代目の凄いところなのだが、まあそのことは置いても、ここにも五代目と六代目の菊五郎のセンスの違いが見て取れます。五代目の方は役の「らしさ」と云うところに重きを置いている。どちらかと云えば、五代目の新三の方が「様式的」であると云えるでしょうか。

そこで今回(令和7年7月大阪松竹座)での八代目菊五郎の「髪結新三」を見直せば、回数を重ねたことで新三という役が身の丈になじんで、「らしさ」というところで役の本質をしっかり押さえられた印象がします。これは五代目のセンスに近いのではないか。だから誤解を恐れずに書けば、八代目菊五郎は必ずしも新三にぴったりのニンと云うわけではないが、役の本質をしっかり押さえているので、「芸」として安心して楽しめる、そのような新三になっていたと思いますね。(この稿つづく)

(R7・7・26)


〇令和7年7月大阪松竹座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その3

前回上演(令和3年3月歌舞伎座)までの仁左衛門の直実は、女房相模に対して居丈高の印象が強かったと思います。仁左衛門の直実は首実検の後・敦盛の首(実は息子小次郎の首)を相模に直に手渡しするなど・情が深い段取りを付けていますが、前半に相模に対し強い態度で出てしまうため・そうした良い場面が活きてこない印象がありました。4年振りの今回(令和7年7月大阪松竹座)に見えた仁左衛門の直実の変化は、特に前半・物語りの場面で・相模に対する気遣いが垣間見えたことです。ちょっとの違いですが、これによって直実の印象が大きく変わることになりました。

今回の仁左衛門が「組打」との関連をどれくらい意識したかは分かりません。しかし、相模に対する気遣いを意識することが結果的に、「組打」で息子小次郎と協力して仕掛けた歴史に対する大芝居(虚構・トリック)を意識することになるのです。直実夫婦には敦盛の母・藤の方に深い恩義がありました。これが小次郎身替りの根本動機ですが、これはほとんど相模の義理を立てるために身替りしたのと同然であるからです。これは夫から首を渡された相模が藤の方にこのように言うことからも明らかです。

「サイナア申し。これよう御覧遊ばして、お恨み晴らしてよい首ぢゃと、褒めておやりなされて下さりませ。申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。」

その首を見た瞬間・相模はすべてを理解したのです。身替りは夫直実・息子小次郎が一致して相模の義理を立てるために行った行為であったことが分かったのです。

今回の仁左衛門の直実には、女房相模に対する気遣いが見えました。物語りの時点では直実は「敦盛卿を討ち取った」で断固押し通さねばなりません。しかし、そんな場面でも女房の嘆きは如何ばかりか思いやられる。例えば「年はいざよふわが子の年ばい」、或いは「心に掛かるは母人の御事」の箇所で、横に居る相模の方に向けてチラリと視線をやる。ホンのちょっとの違いだけれども、これだけで直実の物語りはグッと情が深いものに出来るのです。すると後半首実検で直実が首を相模に手渡しする件までが効いて来ます。

と云うわけで今回の仁左衛門の直実は良くなりましたが、相模(孝太郎)・義経(錦之助)も良くなったことにも触れておかねばなりません。前回の孝太郎は演技が若干単色なところがありましたが、今回はそこが大きく改善されました。夫の行為を受け入れた(理性では理解した)が、母親の情としては受け入れ難いという・相模の心理の揺れを、よく表現出来ていたと思います。立派な相模でした。錦之助も前回まではデリカシーの乏しい義経という印象でしたが、今回は持ち前の個性を生かして柔らかみが滲み出る良い義経になりました。演技に余裕が出てきたようですね。相模と義経がグッと良くなったことで、「熊谷陣屋」のなかで揺れ動く直実のイメージがしっかり固定されて、これが今回の「熊谷陣屋」の成果に繋がったと云うことでありましょうか。

(R7・7・17)


〇令和7年7月大阪松竹座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その2

歌舞伎データベースでは戦後の上演記録が現時点までの80年間で「熊谷陣屋」で120件がヒットします。これに対し「組打(須磨の浦)」は22件です。上演頻度にずいぶん差があるものですね。驚くことには、このうち「嫩軍記」が「組打」〜「陣屋」と半通しの形で上演された例はたったの1件、それは昭和47年4月国立劇場での公演(八代目幸四郎の直実・七代目梅幸の敦盛)のみなのです。(別稿1別稿2を参照下さい。)

実は明治半ばまでの「嫩軍記」は、通しの形で上演されるのが普通のことでした。それが大正頃からもっぱら「陣屋」のみ単独で上演されるようになって行くのには、もちろん九代目団十郎型の「陣屋」が主流になっていくことが原因しています。しかし、結果として「陣屋」と「組打」との関連が見失われることになりました。息子を殺した直実個人の悲しみばかりがクローズアップされて現在に至っています。息子小次郎のことが忘れられてしまったのです。

「組打」との関連が見失われていると云う現状を、現代の歌舞伎役者はどのように考えているのでしょうかねえ。例えば「陣屋」のハイライトである直実の「物語り」は、これをどのように語れば宜しいのでしょうか。

「物語り」というものは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるというのが、本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると、事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言いますが、これは嘘をついていると云うことではないのです。しかし、「物語り」はあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけですから、語り手は真実味を以って語り、聞き手もこれを真剣に聞くところにその意味があるのです。(このことについては別稿「物語る者と語られる者」が参考になります。)

「陣屋」での直実の「物語り」は、「イヤナウ藤の御方。戦場の儀は是非なしと御諦め下さるべし。が、その日の軍の概略(あらまし)と敦盛卿を討ったる次第、物語らん」と云って始まります。直実が討ったのは実は息子の小次郎ですから、芝居のなかでは・結局この「物語り」は嘘物語であったと云うことになるはずです。しかし、直実は「平家物語」が伝えるところの「事実」を語っているのですから、その観点からすれば・これは断じて嘘物語ではありません。つまり直実の「物語り」は何某かの「真実」を語っていると云うことになるのです。そう思って直実の「物語り」を読んでみて欲しいと思います。

「年はいざよふわが子の年ばい」

直実の脳裏に・あの須磨の浜辺での息子の横顔がよぎったに違いありません。直実は嘘を語りながら感情が熱くなって、ここで思わず本当のことを語ってしまいそうになっているのです。

「早落ち給へと勧むれど、アイヤ一旦敵に組敷かれなに面目に存へん。早首取れよ熊谷」

直実は息子を討つことを一瞬逡巡(しゅんじゅん)したのでしょう。父親としてそれは当然です。これに対し息子は「父上、何をしていらっしゃるのか、私はもう覚悟が出来ているんだ、早く首を討って下され」と叱咤した、そのような場面(シーン)が浮かびますねえ。しかし、遠目には・それは直実が敦盛を討ちかねた場面に見えた(聞こえた)と云うことです。

「心に掛かるは母人の御事」

恐らく小次郎は最後の言葉として、「身替りになることは元より覚悟の上だが、母上のことがちょっと心配だなあ」と漏らしたのでしょうね。このことを女房相模に向けて伝えたいのですが、直実はこの真実を敦盛の言として語るのです。

「是非に及ばず御首を」

戦場の動きは慌ただしくなっており、もはや躊躇(ちゅうちょ)は許されない。父は刀を振り上げて、息子の首を落とす。ここでも直実は息子を斬った場面を思い出して、胸詰まる思いであったでしょう。

このように直実の「物語り」は、表向きは「平家物語」が伝えるところの敦盛最後を語りながら、これと重ね合わせて、父と息子とで力を合わせた最後の共同作戦(真実)を物語ろうとしているのです。ですから「組打」との関連を想起するために、直実の「物語り」の真実をしっかり読み直すことが必要だと思いますね。(この稿つづく)

(R7・7・11)


〇令和7年7月大阪松竹座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その1

猛暑のなか令和7年7月大阪松竹座での、仁左衛門81歳の熊谷直実による「熊谷陣屋」を見てきました。仁左衛門の直実は、令和3年3月歌舞伎座以来の舞台になります。この時の舞台については、吉之助はやや辛めに観劇随想を書きました。仁左衛門は細部に工夫を凝らし・そこに見るべきものがないわけではないが、息子を身替りに殺した父親の苦しみに自己本位に浸った印象が強くて、その点に若干の疑問が残るものでした。さて4年振りの仁左衛門の直実はそこの所にどのように新たな工夫を加えて来るか?と興味を以て拝見しましたが、結論から先に申し上げれば、共演の相模(孝太郎)・義経(錦之助)共に芸の進境を見せて・直実ー相模ー義経の人物関係がしっかり固まったことも相まって、仁左衛門が意図した直実の悲劇がそれなりの形で見えて来ました。おかげでなかなかの舞台に仕上がったと思います。はるばる大阪まで遠征した甲斐があったと云うものです。

舞台については後に触れるとして、例によってまず作品周辺を逍遥してみたいと思います。「嫩軍記」では敦盛は後白河院の後胤、したがって何としても救わねばならぬ身の上であると設定されています。直実夫婦は敦盛の母・藤の方に深い恩義がありました。だから直実は我が息子(小次郎)を身替りにして敦盛を救ったと云うのが「熊谷陣屋」の仕掛け(トリック)なのですが、ここでしばしば忘れられている事項があると思いますね。それはこの身替りの仕掛けは、「息子小次郎の協力なしで成立しない」と云うことです。

「俺は身替りに死ぬのはイヤだア」と逃げ回る息子を無理矢理父親が斬ったのではないのです。一の谷の戦場の・周囲の目のあるなかで、あたかも直実が敦盛を斬ったかのような状況を作って周囲を欺いた、まさに観客までも目撃者に仕立ててしまう大芝居を打って見せた、これが二段目・須磨の浦で起こったことです。これは息子小次郎の協力なしで成し得なかったことでした。だとすれば、敦盛とすり替わり・見事に身替りになって死んで見せた息子に対し、歴史の嘘を貫き通すために父親がやらねばならないことは一体何なんだ?と云うことです。そこのところがしばしば忘れられていると思います。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる、これが「平家物語」が教えるところの歴史の理(ことわり)です。この理が示すところに従って歌舞伎の「熊谷陣屋」はその筋を収束させていくのです。だからここでもう一度問いますが、歴史の嘘を貫き通すために・つまり息子の死を無駄にしないために・父親がやらねばならないことは一体何か?そこのところが大事だと思います。ところで三島由紀夫が次のような文章を書いていますね。

「私が同志的結合ということについて日頃考えていることは、自分の同志が目前で死ぬような事態が起こったとしても、その死骸にすがって泣くことではなく、法廷にいてさえ、彼は自分の知らない他人であると証言できることにあると思う。それは「非情の連帯」というような精神の緊張を持続することによってのみ可能である。(中略)氏が自己の戦術・行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも革命を意識する者にとっては、けだし当然のことである。自らの行動によってもたらされたところの最高の瞬間に、つまり劇的最高潮に、効果的に死が行使できる保証があるならば、それは犬死ではない。」(三島由紀夫:「我が同志感」・昭和45年11月)

ここで三島は「同志感」という言葉を使っていますが、三島の言を「熊谷陣屋」に当てはめてみると、見事に身替りになって死んだ息子に対する直実の愛はあたかも同志愛の如き様相を呈するのであって、直実の父親としての愛とは、息子小次郎の首にすがって泣くことではなく、首実検の場にあってさえ顔色も変えず、これは自分の息子の首ではない・これこそ敦盛卿の御首であると言い通すことにある、これが息子の死を無駄にしないために・直実が取るべき態度なのです。

それでも直実の内面は悲しみに溢れています。だから隠そうとしても内心の動揺は隠せないわけで、そこが「熊谷陣屋」で直実役者が苦心するところですが、その性根はあくまで「肚」(内面)として描くべきことです。大事なことは、直実の悲しみにばかり焦点を当てるのではなく、どこかで見事に死んだ小次郎のことを思いやる、そうすると直実の背筋が自然に真っすぐになって来る、そう云うことだと思いますねえ。(この稿つづく)

(R7・7・10)


〇今回はホンの雑談

イヤ暑いですねえ。関東の梅雨入りは先月(6月)10日頃であったようですが、その後梅雨らしい気配もないまま、ただただ暑いばかりの6月でしたねえ。梅雨はどこかに行っちゃったのでしょうかね?そもそも吉之助は暑いのが大の苦手で、暑くなると頭の回転が鈍くなって執筆ペースが落ちます。異常気象のせいで、今年は書けなくなるのが例年より半月ほど早い気がします。と云うわけで、今回はホンの雑談となります。

さて今年(令和7年・2025)の歌舞伎の最大の行事は、もちろん八代目菊五郎&六代目菊之助襲名披露興行です。現時点では、5月・6月と東京・歌舞伎座での二か月に渡る興行が終わったところです。続いて今月(7月)は、5日から大阪・松竹座で襲名興行が始まります。新・菊五郎は慣れっこのことでしょうが、新・菊之助にとっては・このようなスポットライトがあたった状態での長丁場は未経験のことなので大変なことと思いますが、何とか無事に乗り切ってもらいたいと願うばかりです。しかし、一昨日・7月1日での松竹座での「船乗り込み」でのYoutubeライヴを見た印象では、菊之助は表情も元気そうであったし・(6月には具合が悪そうだった)喉の状態も回復したみたいなので、どうやら心配することはなさそうです。8月になったらゆっくり休んでください。吉之助も今月(7月)は大阪に遠征して舞台を拝見する予定にしていますから、追って観劇随想を書くつもりです。

別稿にも書きましたけど、今回の襲名披露はもちろん新・八代目菊五郎がメインですけれど、或る意味それ以上に新・六代目菊之助お披露目興行の色合いが強いものになったと思いますね。菊之助が鮮烈な印象を与えてくれました。「大型新人誕生の予感」とでも云うか、とは云えまだ11歳のことだから・これからの先輩の指導や本人の修行次第ですけど、とても良い資質を持っていると思いますね。若い歌舞伎ファンは、今現在の菊之助の舞台をしっかり目に焼き付けておいて欲しいと思います。そのことをきっと将来自慢出来ると思います。長く歌舞伎を見続ける愉しみはそう云うところにあるのですから。

ところで今年(令和7年・2025)は、もし十八代目勘三郎が存命であれば、この5月30日に70歳の誕生日を迎えたはずの年でした。これについては記念記事「十八代目勘三郎へのオマージュ」(これは野田秀樹作の「足跡姫」の観劇随想)を書いたので、そちらをご覧ください。本年8月歌舞伎座では、勘三郎が平成13年(2001)に初演した「野田版・研辰の討たれ」を、息子の勘九郎が初役で勤めるそうです。「野田版・研辰」は勘三郎のキャラがあまりに強過ぎるために他の役者での再演が難しかろうと諦めていた作品ですが、初演から24年後に勘九郎が再演することで、本作も「古典」として定着することになるでしょうかね。吉之助も舞台を期待しています。

吉之助にはもうひとつ、今年が節目になる大事な事項がありまして、それは「三島由紀夫・生誕100年」と云うことです。三島についても何か記念記事を書くつもりで材料を探していましたが、適当な題材がやっと見つかりましたので、そのうち執筆に取り掛かるつもりです。とは云えこの猛暑のことですから、書くのはゆっくりペースになりますから、気長にお待ちください。

(R7・7・3)



 

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