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十五代目仁左衛門の熊谷・東京での再演

令和3年3月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」

十五代目片岡仁左衛門(熊谷次郎直実)、五代目中村歌六(弥陀六)、初代片岡孝太郎(相模)、八代目市川門之助(藤の方)、二代目中村錦之助(源義経)


1)仁左衛門の熊谷・東京での再演

仁左衛門の熊谷については、昨年(令和2年)12月京都南座での、ほぼ同じ顔触れの舞台を観劇随想で取り上げました。今回も感想として変わるところはありませんが、いくつかの事項をメモ書きしておきたいと思います。結果として、前回の観劇随想を補強することになるでしょうから、そちらも併せてお読みください。言えることは、仁左衛門の熊谷は、細部に色々工夫を凝らして・そこに見るべきものがないわけではないが、前回同様、息子を身替わりに殺した父親の悲しみに自己本位に浸っている印象で、この点に疑問があると云うことです。このため「陣屋」幕切れで「平家物語」の主題である諸行無常の理(ことわり)が浮かび上がって来ません。

これほどの名作、これほどの名型(今回の基本は九代目団十郎型)であれば、これをその通りに素直に演りさえすれば、それだけで諸行無常の理が自然と立ち上って、それなりの舞台に仕上がるものです。それがそうならないということは、どこかに何か問題があるのです。それは何かと云えば、細かいところで九代目団十郎型をあちこちイジリ過ぎるために、作品を貫く骨太い時代物の構図が見失われていると云うことに他なりません。前回観劇随想でも触れた通り、そこが九代目団十郎型の弱点と云うか、熊谷の人物像を細やかに(或る意味ではセンチメンタルに)描こうとするあまり・かえって役者が陥りやすい落とし穴なのですが、残念ながら仁左衛門の熊谷はそういう面が特に強いように思われます。

この点はしばしば誤解されていると思いますが、幕外での憂い三重での引っ込みは・確かに九代目団十郎型の肝になる箇所に違いないですが、この引っ込みが引き立つのも、幕が閉まる直前にある、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞で、諸行無常の理をしっかり決められればこそなのです。ここが「陣屋」の真のフィナーレなのであり、幕外での熊谷の引っ込みは、云わば付け足し・エピローグであるべきです。本来は初代吉右衛門の映画くらいアッサリ済ませれば・それで良いところだと思います。しかし昨今はここが見せ場だと言わんばかりに・ますます「たっぷりと」引っ込む傾向にあります。これも困ったことではあります。

仁左衛門の熊谷の問題のひとつは、女房相模に対して威丈高に出て・夫婦で悲しみを共有しようという気持ちがあまり見えないことです。熊谷が首を抱いて相模に手渡しする工夫はなかなか良いですが、これもどちらかと云えば表現が自分の気持ちの方に向かっているようです。しかし、それよりもっと問題があると感じるのは、主人義経との関係の取り方です。伝統芸能のなかでの義経物の位置付けが正しく取れていないから、前述の「有為転変の世の中じゃなあ」の六重唱が決まらないのです。(この稿つづく)

(R3・3・22)


2)封建悲劇の幕切れとは

「封建社会では主人の命令は絶対で、是であろうが・非であろうが、命令をその通りに実行することが家来の務めである」というのは、まあ理屈としては分からないことはありません。しかし、もしそうならば熊谷は最後まで毅然とした態度でいて欲しいと思います。もしそうならば熊谷は「俺はホントはそれをしたくなかった、辛かった・苦しかった」なんて泣き言を態度に出して欲しくありませんが、仁左衛門の熊谷はそういう感じがしますね。

それにしても仁左衛門の熊谷は、主人義経のことを気にし過ぎです。首実検の場で首桶を開けかけたところで・それを見た相模が騒ぐのを制止した時に一瞬義経の方を見遣り、「家内が粗相致しまして失礼しました・・」みたいに頭をチョコっと下げる、こういう演技はまったく余計だと思います。幕切れ・僧形になって去りかけたところで義経に「堅固で暮らせよ」と声を掛けられると、その場に泣き崩れて平伏するかと思うほどの過剰反応を見せたのにも、呆れました。出家を決めて暇を貰ったらば、もう主人でもない・家来でもない、普通に礼を返せばそれで済むことではないでしょうか。兎に角、仁左衛門の熊谷は、義経物の時代の構図から離れたところで、ドラマが熊谷個人の視点に終始します。だから自分で息子を殺しておいて「苦しい・悲しい」というところで自己本位に浸った印象が強くなるのです。

ところで十三年前・仁左衛門の「寺子屋」の松王を見た時にもやはり同じような印象がしましたから、仁左衛門は役者として・と云うより人間として「寺子屋」や「陣屋」のような封建悲劇は、自分にはこのようにしか出来ないという考えなのでしょうねえ。それはそれで仁左衛門の見識であると認めますが、もしそうであるならば「陣屋」後半・首実検以降の段取りを、再度練り直した方がよろしいかと思いますね。歌舞伎の時代物の封建悲劇とは、主人公が観客の同情を誘って泣かせるものではないと思います。優れた「陣屋」の幕切れは、時代を越えて「これが人生なのだ」と見る者の心のなかにキュンとワサビが利いた「共感」を起こさせるものです。

錦之助の義経は、前回より台詞が多少柔らかくなったところがあるかも知れませんが、昨年12月京都南座での観劇随想で「まったく武人の義経でデリカシーがない」と書いた通り、上から目線で「お前の息子を身替わりに殺せよ」と言葉には出さず制札で指示をほのめかす強圧的な義経で、よろしくありません。しかし、今回(令和3年3月歌舞伎座)の舞台を見て、錦之助の義経が仁左衛門の熊谷と照応したもの(つまり仁左衛門の指示)であることが、よく分かりました。この主人義経と家来熊谷との関係から、「平家物語」の主題である諸行無常の理(ことわり)が浮かび上がるはずがありません。無常の幕切れに向けて、歌六の弥陀六がとても良い段取りを付けてくれてるのにねえ。義経と熊谷で壊しちゃいましたね。

最後に孝太郎の相模について付け加えます。声がよく通って・悪い出来ではないけれど、演技の色調が一色で、もっと変化が欲しいと思います。場面によって色調を変えること、例えば夫熊谷に藤の方が斬り掛かった時に云う「あなたは藤のお局様」の台詞は、奥に聞こえてはならぬ・夫にだけ聞こえれば良いのですから、ぐっと低く抑えた調子で言うこと。熊谷の物語を聞いて泣き崩れる藤の方を諫めて言う「イヤ申しお局様・・」以下の台詞は、相模が藤の方の気持ちを最も理解しており・しかも相手が元主人であるのですから、これも低く抑えた調子で言わなければなりません。夫の手前・心にもない言い難いことを言っているのです。それと首実検の後・相模が我が子の首を藤の方に見せて言うクドキの「申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様・・」以下の台詞は、非常に歪んだ台詞です。相模は夫熊谷がなぜこの行為に及んだか・その理由が分かっており・頭では納得しているのです。しかし、母親としての感情がまだこれを納得していないのです。ですからここの台詞は単純に母親の悲しい感情を出せばそれで良いものではなく、この台詞を言うことで相模はホントの意味において夫熊谷と必死で寄り添おうとしているのです。今回の仁左衛門の熊谷だとサッサと自分だけ黒谷へ行っちゃいそうだから・その必要はなさそうですが、まあ本来はそう云うことだと思います。

(R3・3・24)



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