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良心的な「嫩軍記」通し
         〜八代目幸四郎の熊谷・七代目梅幸の敦盛

昭和47年4月国立劇場・「一谷嫩軍記」〜陣門・組討・御影浜

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(熊谷直実)、七代目尾上梅幸(無官太夫敦盛)、七代目市川門之助(玉織姫)、五代目片岡市蔵(平山武者所)、二代目中村又五郎(藤の方)、十七代目市村羽左衛門(弥陀六)


1)良心的な「嫩軍記」通し

歌舞伎での「一谷嫩軍記」の上演記録を見ると、江戸の昔は「陣門・組討」と「熊谷陣屋」を半通しの形で続けて上演することが多かったのです。ところが「陣屋」のみの上演が、大正期辺りから次第に増えて来ました。現代では「陣屋」単独での上演がほとんどで・これは現在も人気演目ですが、「陣門・組討」の方はあまり上演されなくなってしまいました。

「陣屋」の単独上演が多くなるのは、上演形態の変化(見取り上演が好まれる)のせいもありますが、それだけではなく九代目団十郎型の「陣屋」の上演が定番になっていくことに大きな理由があります。九代目団十郎型は、「陣屋」を近代演劇のセンスで読み直した演出でした。これを突き詰めていくほど実は「組討」での熊谷の解釈が難しくなって来るのです。近代演劇思想が一貫性した人物像を要求するからです。

作者(並木宗輔)は、須磨の浦で熊谷が討つのが敦盛ではなく・実は小次郎である ことを意図的に伏せています。熊谷は敦盛・実は我が子を前に「早や落ちたまえ」とお辞儀をしたり、「弥陀の利剣と心に唱名」などと念仏を唱えてみたり します。どうして熊谷親子はこういうワザとらしい・回りくどいことをするのか。討つのが我が子だと思うと、それは如何にも嘘臭い。しかし、普通は「組討」はどこまでも熊谷が討つのが敦盛であると思って見るものだとされています。そうすると今度は「陣屋」のトリックが許せなくなってきます。別稿「須磨浦の目撃者」でも触れましたが、「組討」を真に見ようとすれば「陣屋」がやり難くなり、「陣屋」を真に見ようとするならば逆に「組討」がやり難くなるのです。このことが、現代において「組討〜陣屋」の半通しが滅多に上演されない背景であるかも知れません。

そこで今回紹介する映像は、昭和47年4月国立劇場の「嫩軍記」のもので、これはまさに「陣門・組討」から「熊谷陣屋」までを半通しするもので、しかも「陣屋」の前場(三段目・中)でカットされることが多い御影浜の場を復活するというのも大事なことです。これで嫩軍記」の敦盛・熊谷の件は筋がほぼ通ることになります。とても良心的な場割りと云って良いと思います。

御影浜の場は文楽では「宝引の段」と云って、チャリ場で有名な場面です。御影浜の場面があると、「陣屋」の筋の理解がとてもしやすくなります。まず藤の方が熊谷が敦盛を討ったとどうして知ったのか、さらに敦盛の大事な形見である青葉の笛がどのような経過で手に入ったのか、さらに石屋の弥陀六がなぜ梶原に引かれて陣屋に登場するのかと云うことですが、これらの経緯が御影浜を見ると分かります。しかし、これらの疑問は普段の「陣屋」でも何となく気にはなるが、そんなものといつも見過ごしていることなので、まあさほど大したことではないのかも知れません。

大事なのは、「幽霊」の疑問です。つまり「陣屋」後半で石ノミを投げて梶原を殺した弥陀六が「お前の邪魔になる、こっぱを捨てて上げましたわい。さて幽霊の御講釈。承ってまづ安堵」と 言いながら登場しますが、そこで云われている「幽霊」のことです。普段の「陣屋」上演では、何が「幽霊」なのかさっぱり分かりません。(そのため「制札の御講釈」と言い換えられる場合もあります。)

或る美しい若者が敦盛の石塔建立を頼みに来て、弥陀六は石塔を造りました。石屋の娘小雪がその若者に惚れますが、若者は小雪に青葉の笛を渡したまま忽然と消えてしまいま した。このため弥陀六はお金を取りそびれ、若者の正体も分からず終いで、「さてはあれは敦盛の幽霊であったか」とぼやいています。これが御影浜の場で起った事件です。次の場の「陣屋」で、弥陀六はあれは幽霊ではなくて・まさに敦盛その人であったことを初めて知るのです。(別稿「幽霊の御講釈」をご参照ください。)(この稿つづく)

(R1・5・ 31)


2) 史劇としての真実

現代の我々は、どうしても近代演劇のセンスで芝居を見てしまいます。今回(昭和47年4月国立劇場)の嫩軍記」通しでも、「組討〜陣屋」での熊谷に一貫性した人物像を求めてしまい勝ちです。しかし、ここは思い切って浄瑠璃作者のトリックに身を任せた方が良さそうです。「平家物語」の一場面の再現を楽しむつもりで見た方が良い。「組討」で熊谷が討つのは敦盛であると、少なくとも遠目からはそのように見えたと云うことです。作者によって観客の我々も目撃者に仕立て上げられてしまったのです。

八代目幸四郎(初代白鸚)については「時代物の座頭格の重厚な役どころを得意にした英雄役者」という言い方がよくされますが、その言い方は幸四郎の芸風をぴったり言い当てていないと吉之助は思っています。幸四郎は、弁慶でも由良助でも、「史実の弁慶も内蔵助も実際こんな人であったかも知れないなあ」と心底納得させる役者でした。史劇としての真実味が抜群であったと云うことです。幸四郎は歌舞伎を越えて史劇における人間の真実を追おうとしていたのです。この人(弁慶・由良助)が「付いて来い」と云うならば、そりゃあ何が何でも付いて行かねばならないと思わせる役者でありました。だから吉之助は幸四郎を「実事役者」と呼びたいと思います。

ここをご参照ください。九代目幸四郎に絡めて初代白鸚の生き方についてふれています。

今回(昭和47年4月国立劇場)の「組討」でも、実事役者としての幸四郎の真実味が際立っています。日本一の豪の者を想わせる熊谷役者は、もちろん他にもいます。(敦盛か小次郎かは別として)花の若武者を討たねばならぬ悲壮感に観客を泣かせる熊谷役者も他にも大勢います。そのような熊谷ももちろん良いです。幸四郎の熊谷もこの点で引けを取るはずがありませんが、しかし、史劇の真実味は幸四郎だけのものです。感情がリアルに迫ってくるのに、同時に台詞廻しの緩急の息が深いので、それが様式的にも感じられるのです。ここで熊谷に任されているのは、「平家物語・巻第九・敦盛最後」の再現です。熊谷自身は淡々と 自分の任務をこなしているのかも知れませんが、そこから立ち昇るのは、壮大な歴史絵巻です。

熊谷に任された任務とは、「ここ(舞台)で起ることはすべて「平家物語」で語られていること・そのまま」であると観客を納得させることです。騙すのではなくて、納得させるということです。歴史本を読むと、史実の熊谷が出家したのは領地争いのいざこざが原因で・敦盛を斬ったことが遠因ではなかったらしいのですが、そんなことはどうでも良いのです。本人が長年に渡って親しんで来た「熊谷・敦盛の物語が描いているところの真実こそが大事なのです。もちろん熊谷一人で任務は遂行できません。これには敦盛(彼が小次郎であることは今は忘れましょう)の協力が必要です。

今回の舞台が素晴らしいのは、幸四郎の熊谷に加えて、最高の敦盛役者・七代目梅幸を得たことです。別稿「七段目梅幸の娘道成寺」でも触れましたが、梅幸はどんな役にも気負うことなく・自然体で対しました。梅幸は六代目歌右衛門と並ぶ戦後昭和の名女形でしたが、同時に敦盛・義経・桜丸などの立役もこなしました。普通女形がこうした役を演じると、もちろん優美さはあってそれも良いものですけれど、どこかヌルッとした女形臭さが付きまとい勝ちです。梅幸の敦盛にはそう云うところが全然ありませんでした。ふっくらした柔らかみと、凛とした強さが同居するのです。そこに「平家物語」の敦盛がすっと立ち現れます。考えてみれば、これは不思議なことです。それは戦後昭和の日本人の生活のなかで次第に崩壊しつつあった(そして今も確実に崩壊しつづけている)伝統的な感性を、梅幸はホントに素直に信じているということなのでしょう。そのような最高の熊谷役者と敦盛役者を得て「組討」の場は、真実味を以て 胸にグッと迫って来る場となりました。幸四郎の熊谷はボロボロ泣いたりしないけれども、覚悟と悲痛さがよく伝わってきます。これが次の「陣屋」で効いて来ます。やはりこの場は「平家物語」を再現していると素直に思って見るべきものです。

(R1・ 6・ 6)

昭和47年4月国立劇場の「熊谷陣屋」については、別稿「八代目幸四郎の熊谷・七代目梅幸の相模」をご覧ください。



 

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