七代目梅幸の「娘道成寺」〜伝統を信じる力
昭和46年3月国立劇場:「京鹿子娘道成寺」
七代目尾上梅幸(白拍子花子)、十七代目市村羽左衛門(大舘左馬五郎照剛)
1)梅幸の規格正しさ
本稿で取り上げるのは昭和46年(1971)3月国立劇場で七代目梅幸(当時55歳)が踊る「娘道成寺」の映像です。言うまでもなく梅幸は六代目歌右衛門と並ぶ戦後昭和の名女形でしたから、何かと比較されることが多かったと思います。梅幸が表現する女性に自然な美しさがあるとすれば、歌右衛門は観念的な美しさがありました。これを人工的な美しさと言ってしまうとちょっと違う気がしますが、歌右衛門の美しさはどこか技巧的な印象がしたのは事実で、ふたりの芸風は対照的でありましたね。こうしたふたりの芸風の違いは、元を辿れば彼らが若い時期(昭和10年代から20年代)にそれぞれ相手役として芸を学んできた晩年の六代目菊五郎と初代吉右衛門の芸風の違いに帰することが出来るだろうと思います。本稿は七代目梅幸の「娘道成寺」について論じるものなので、本稿ではこのことに深入りはしませんが、今回(昭和46年国立劇場)の梅幸の「娘道成寺」を見ても六代目菊五郎の「かつきりと規格正しい踊り」というものは、梅幸にしっかり受け継がれていると云うことが確認できます。梅幸の白拍子花子を見てまず感じることは、シンプルで無駄な動きがない踊りだと云うことです。その折り目正しさは「鏡獅子」の映像でも見ることが出来る六代目菊五郎の踊りのイメージそのままなのです。吉之助は幸い晩年の梅幸の「娘道成寺」を生(なま)で何度か見ることが出来ましたが、この規格正しい印象は晩年でも崩れることはありませんでした。
云うまでもないことですが、菊五郎の場合は加役としての女形の踊りです。梅幸の踊りは、恐らく菊五郎よりもふっくらとして柔らかく、そして頬にほんのりと赤味を帯びた色気を感じさせました。つまりそれは確かに真女形の踊りなのです。それと吉之助が思うには、梅幸の白拍子花子は可愛らしいですねえ。童女のような無垢な可愛さを感じます。このことは梅幸の女形の特徴ではないかと思っています。(この点は例えば玉手御前などで生きて来ます。梅幸の玉手についてはいずれ書く機会があると思います。)
そのような梅幸の規格正しい「娘道成寺」の小気味良さを愉しんでいると、この可愛い白拍子が実は清姫の怨霊だなんてことが、信じられなくなってきます。もちろん「娘道成寺」では鐘に対する執着を忘れてはいけないと云うのが口伝ですから、梅幸もそこに如才はありません。しかし、いつぞや歌舞伎の「娘道成寺」は、頭と尻尾に能の「道成寺」の筋を引用した、いわば謡曲「道成寺」の主題による変奏曲みたいなものだと書きました。「娘道成寺」は江戸の市井の明るいレビューの愉しさが一転して鐘が落ちると謡曲「道成寺」の世界へ引き戻されるのですが、吉之助が思うには、梅幸の「娘道成寺」では鐘の落下がドラマの転機として如何にもドラマティックな重さを持つものではなく、鐘の落下が変奏曲が終曲(フィナーレ)に入るための、ホントに何気ないきっかけに過ぎないように思えるのです。つまり「さあいよいよ白拍子が怨霊に変わるぞ」と云うのではなく、「あれっ愉しい踊りがもう終わっちゃうんだ」と云う感じです。
今回(昭和46年国立劇場)上演では十七代目羽左衛門の大舘左馬五郎の押し戻しが付きますけれど、その意味からすると、恐らく梅幸の「娘道成寺」の場合は、押し戻しではなく鐘入りで締めた方が、梅幸の踊りの面白さがより生きるように思われるのです。押し戻しが付くと、ドラマとしては確かに落ちが着く感じですが、踊り(レビュー)としてはくどくなる感じがしてしまうのです。歌右衛門の場合だと、押し戻し付きの方もいいような気がしますが。(ただし羽左衛門の押し戻し自体は立派なものであることは付け加えておきます。)(この稿つづく)
(H30・9・15)
『たとえば、スーッと手を出す振りがあるとする。梅幸は、それを一つの振りとしてスーッと手を出す。ところが歌右衛門だと手を右へ振ったり、左へ振ったりしながら、クネクネと出す。そのアクセントの付け方で、振りが三つにも、四つにも見えるようである。しかしもし右や左へ寄り道をしても、全体の動きが前へ出るという主題で一貫しているか、あるいは最後の手が出たというところに一番強いアクセントがあれば、振りが違うという風には見えないだろう。振りが違うように見えるのは、第1に振りが細密化され、第2にその細密化されたものがモザイクの模様に断片化しているからである。(中略)歌右衛門は、梅幸のように、伝統的な規範を信じることが出来ないのだ。』(渡辺保:「女形の運命」〜「道成寺」変容)
歌右衛門が信じるものは規範や伝統ではなくて、信じるものは自分の内側に自己の肉体の生理的リズムであり、自分の美しさだけである。渡辺先生は歌右衛門と梅幸の「道成寺」の違いを見事に指摘していますが、本稿ではとりあえず梅幸のことです。歌右衛門の芸の分析を裏返せば梅幸の芸になるわけですが、渡辺先生が言いたいことは、梅幸が伝統的な規範を無条件に信じていたということではないのです。梅幸も現代人ですから、時代への懐疑がないはずがない。歌右衛門は「私が女形でなくなったら私じゃなくなってしまうんだから」という 強い危機感のなかで女形芸を守りました。一方、梅幸は規範や伝統の力をひたすら信じることで、戦後昭和の日本人の生活のなかで次第に崩壊しつつあった(そして今も確実に崩壊しつづけている)伝統的な感性を必死で守ろうとしたということなのです。これがかつきりと規格正しい芸であった六代目菊五郎から受け継いだ態度であることは言うまでもありません。
その結果、梅幸はスーッと手を出す振りを、何気なくスーッと出すというように見える。ホントはそうではないのだが、何の疑いもなく手をスーッと差し出しているかのように見える。だから梅幸の踊りは、 素直に健康的に見えるのです。そのため「娘道成寺」を踊っても、謡曲「道成寺」の主題による変奏曲という「娘道成寺」の構造が、ことさらに強い主張 としてではなく、さりげない形で立ち現れます。円地文子は「『道成寺』の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである」と書きました。これはホントにその通りです。歌舞伎の「道成寺」と云うのは市井の可愛い娘の踊りが連なったもので、その頭と尾っぽに謡曲「道成寺」 の筋を付けて理屈を付けたものだと言って良いくらいなのです。梅幸の「娘道成寺」を見ると、そのことが感覚で納得されます。
このように決して力むことなく・ホントにさりげなく自然に役の本質を明らかに出来たのが、梅幸の芸であったと思います。これは白拍子花子だけでなく、梅幸はどんな役においてもそうでした。規範や伝統への信頼に裏打ちされた折り目正しい芸、吉之助はこれを「新古典主義的」と形容したいと思います。これもまた時代に対する先鋭的な伝統の在り方なのです。
(H30・6・20)