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三島由紀夫生誕百年記念企画

モーリス・ベジャールの「M」(エム)

令和7年9月20日・東京文化会館:「M」(エム)

岩崎巧見(少年)、柄本弾(T-イチ)、宮本新大(U-二)、生方隆之介(V-サン)、池本祥真(W-シ(死))、樋口祐輝(聖セバスチャン)、上野水香(女)、菊池洋子(ピアニスト)他

東京バレエ団公演  振付:モーリス・ベジャール、音楽:黛敏郎

(比較参考)平成5年7月31日・東京文化会館(世界初演映像)
増田豪(少年)、高岸直樹(T-イチ)、後藤晴雄(U-二)、木村和夫(V-サン)、小林十市(W-シ(死))、首藤康之(聖セバスチャン)、吉岡美佳(女)、高岸浩子(ピアニスト)他


1)ベジャールの「M」(エム)

本稿は令和7年9月20日に上野の東京文化会館で行われた東京バレエ団公演・「M」(エム)の観劇随想です。本年(令和7年・2025)は、大正14年(1925)1月14日に生まれた作家・三島由紀夫の生誕100年の節目の年に当たります。本サイトをご覧いただければお分かりの通り、吉之助にとって三島は大いに影響を受けた作家のひとりです。そこで何か三島関連の記事を書きたいと思って・材料を探していましたが、モーリス・ベジャールが三島を題材に東京バレエ団のために振り付けした作品・「M」で観劇随想を書くことにします。

ベジャールの「M」(エム)は、平成5年(1993)7月31日・東京文化会館で東京バレエ団によって世界初演されました。当時の吉之助は仕事の関係でこれを生(なま)で見ていませんが、NHKで録画がされたので・この時の映像は見ました。「M」は好評で何度も再演されましたし・海外公演もされましたが、吉之助にとっては今回(令和7年9月)が初演から32年後での生体験ということになります。

ベジャールの「M」の成立過程について簡単に触れておきます。昭和61年(1986)ベジャールは東京バレエ団のために・歌舞伎の忠臣蔵からインスピレーションを受けた「ザ・カブキ」を発表しました。この時に音楽を担当した黛敏郎がベジャールに、「三島由紀夫を題材にしたバレエ作品を創ってみないか」と提案をしたのがきっかけでした。ベジャールは三島文学に傾倒し、1983年には三島の「近代能楽集」の演出(バレエではなく演劇)にも取り組みました。「M」初演の前年(1992)にベジャールはエーゲ海クルーズの船の上で約3週間掛けてプランを練り、1993年6月26日に来日して、東京での1ヶ月の稽古で舞台作品に仕上げたそうです。稽古は冒頭から筋を追って進められたのではなく、順不同に、それはまるでジグソーパズルを組み合わせるような感じで進められたそうです。だからダンサーは自分が作品のどの部分を踊っているのか全然分からない。それでもベジャールは稽古の途中で考え込んだりする様子はまったくなかったそうです。作品は直截的に三島の生涯・あるいは特定の小説を描いたものではなく、それらから得た断片的なイメージを自由な発想で組み合わせたものです。そう云う感じのものがベジャール作品には多いようですね。そこから観客は自分にとっての「M」を探して下さいと云うことなのです。

ベジャールは当時のNHKのインタビューでも、「M」には色々な意味が含まれる、三島の「M」かも知れないし、黛の「M」かも知れないし、モーリス(Maurice)の「M」かも知れない。「M」は「魔法の言葉」なのです。音楽(Musique)、海(Mer)、死(Mort)、変容(Metamorphose)、謎(Mystere)、神話(Mythologie)など、フランス語には私の好きなMで始まる言葉がたくさんありますと語っていました。(この稿つづく)

(R7・10・11)


2)「M」(エム)初演の思い出など

作家三島由紀夫が、盾の会メンバー三人と共に市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本庁)に乗り込んで割腹自殺という衝撃的な死を遂げた(いわゆる「三島事件」)のは、昭和45年(1970)11月25日のことでした。今からもう55年前のことになります。当時吉之助は中学生でした。当日のことはよく記憶しているつもりでしたが、調べてみると三島一行が市ヶ谷に到着したのがほぼ午前11時、三島が自決したのは午後0時半ばのことだそうです。そうすると吉之助が学校から家に帰ってテレビを見て事件を知った午後3時過ぎには、もうとっくに事件は終わっていたのですが、多分、報道が相当混乱錯綜していたのでしょう。当日のテレビ報道では何が起こって現在はどういう状況か・正確なところがさっぱり分からず、吉之助にはテレビでリアルタイムで事件の推移を見たような感覚が依然として残っています。

事件の後「仮面の告白」・「潮騒」・「金閣寺」など三島の代表作を次々と読みました。本サイトを見ればお分かりの如く、吉之助にとって三島は非常に重要な作家ではあるのですが、あの自決事件が吉之助にとってどういう意味を持ったかは、55年の歳月が経過してもまだ上手く説明が出来ません。と云うか、このことについて深く考えたくない気持ちが吉之助のなかで依然として強いようです。現時点でもただ重い印象を受けたとしか申せません。

*平成5年7月31日・東京文化会館
東京バレエ団・「M」(世界初演プログラム)

ベジャールの「M」(エム)についても、初演の年・平成5年(1993)の春頃であったか、ベジャールが三島をバレエにすると云うニュースを聞いた時には、「こういう重苦しい題材を軽々に扱って欲しくないな」という気持ちが吉之助にはあって、実はあまり良い気分ではなかったのです。ベジャールが三島の死をどのように描くのか、「M」を観るまではとても不安であったことを正直に告白しておきます。ところが、前述の通り吉之助は世界初演を生(なま)で見ておらず・見たのはNHKの舞台録画ですが、「M」映像を見終わって・何だかホッとした気分にさせられました。やはりベジャールは上手いですねえ。ベジャールは三島の死に特定の色を付けることはしなかったのです。「君が「M」を謎(Mystere)だと感じるならば、そのようにこのバレエを見れば良い、謎は不可解であるからこそ謎なのだよ」とベジャールに云われたような感じで、吉之助としては救われた気分でした。今回(令和7年9月20日・東京文化会館)の「M」、初演から32年後の再演の舞台を見ても同様なことを感じますね。

「M」の舞台音楽は黛敏郎の担当で、黛の自作の他にドビュッシー・サティやワーグナーの編曲などを再構成したものですが、ベジャールの強い希望によって、最後にもう一曲、余白(エピローグ)の形で、シャンソン「待ちましょう」(作曲ディノ・オルヴィエーリ、歌詞ルイ・ポルトラ、歌ティノ・ロッシ)が追加されました。元々は帰らぬ恋人を待ち続ける歌ですが、第二次世界大戦後には戦地から夫や恋人が無事に帰還することを願う歌として、当時欧米では盛んに歌われたものだそうです。黛としては当初、ワーグナーのイゾルデの愛の死(三島の死)で全体を締める意図であったのかも知れません。ベジャールはこれに余白を付け加えたのです。この余白が大いに効いています。

花びらの色あせ、ともしびも消える日は過ぎて / なやみに心はしずむ / 風の音わびしく / 思い出のすべては再び帰らぬ / 待ちましょう いつまでもあの人を待ちましょう / 小鳥も恋しい古巣に戻るように待ちましょう  (シャンソン「待ちましょう」、歌詞ルイ・ポルトラ)

「待ちましょう」の旋律に乗せて三島作品のなかの登場人物たちが踊ります。制服を着た盾の会メンバーたちも踊る、すべては三島のイマジネーションのなかで生まれた産物・・・とベジャールが言っているかのようでしたねえ。現実にあったことかも知れないし、ホントはなかったことなのかも知れない。だから吉之助にとっての「M」は、謎(Mystere)のM。謎は謎のまま保留にして置きたいと思います。(この稿つづく)

(R7・10・14)


3)「待つ」という行為

「待ちましょう」という文句は、もしかしたら三島文学を考える時の大事なキーワードであるかも知れません。何故ならばそれは三島の大事な最後の言葉であるからです。もちろん昭和45年11月25日・市ヶ谷での三島事件での檄文のことです。

「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。」

三島が何を待とうとしていたかは本稿の問題とするところではありません。兎に角三島は何かを熱烈に「待った」のです。そして「あと最後の三十分待とう」と言った。この「待つ」ということが大事なのです。恐らくベジャールが感じたことも同じようなことで、檄文から「M」の最後のナンバー・シャンソン「待ちましょう」が発想されたことは確かでしょうが、ここでベジャールは純粋に「待つ」という行為だけを問うています。

三島と親交があったフラメンコダンサー・板坂剛氏は、「三島という作家を理解するには、その背景にあった「戦後」という時代の民衆の心を照らし合わせる必要がある。「待つ」という姿勢は三島個人の特異な性格から出たものではなく、実は「戦後」日本の民衆に共有されていた感性(というより感傷)に通じている」として、歌謡曲「岸壁の母」を例として挙げています。

〽母は来ました 今日も来た / この岸壁に 今日も来た / とどかぬ願いと 知りながら / もしやもしやに もしやもしやに / ひかされて   (作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜)

という歌詞です。吉之助には昭和52年(1972)二葉百合子の歌唱が記憶にありますが、オリジナルは昭和29年(1954)にヒットした菊池章子による歌唱だそうです。戦地から帰らぬ息子を港の岸壁に立って引揚船を待ち続ける母親の哀しい心情を歌ったものです。これこそ戦後日本の出発の時点で民衆が背負わされた「負債」の重さを象徴するものであったとして、板坂氏は次のように書いています。

『三島にしてみれば「岸壁の母」的センチメンタリズムは鼻先でせせら笑いたくなるところだったに違いない。が本質的には三島も「待ち」を強いられた「戦後」日本人の一人なのである。ただ、大半の日本人がやがて価値観の基準を精神的なものから物質オンリーに定める方向へ変質し、生活の安定が最優先に課題となる。最終的には彼らが待望したのは経済的充足でしかなかった。それが三島の待っていた聖性とは正反対の俗性であったことは言うまでもない。そして三島は「ゴドーを待ちながら」の芝居(サミュエル・ベケット作)でゴドーがやって来なかったことに怒ったように、芝居がかった自分の人生にも何もやって来ないことを憤り、その不条理に抗議して死んだのである。』(板坂剛:「真説 三島由紀夫」・夏目書房)(この稿つづく)

(R7・10・19)


4)「待つ」という行為・続き

三島の作品のなかに「待つ」という行為が絡むものは色々あると思いますが、単刀直入に「待つ」が前面に出るのは、何と云っても「近代能楽集」のなかの「班女」(昭和30年・1955・1月)の最終場面でしょうね。(注:「M」のなかに「班女」は登場しません。ただしベジャールは「近代能楽集」を演出した経験がありますから、少なからず関連があるだろうと推測はしています。)

(花子)待つのね。待って、待って、・・・そうして日が暮れる。
(実子)あなたは待つのよ。・・・私は何も待たない。
(花子)私は待つ。
(実子)私は何も待たない。
(花子)私は待つ。・・・こうして今日も日が暮れるのね。
(実子)素晴らしい人生。

花子は約束を守らない不実な恋人吉雄を待つのではありません。花子は「愛を待つ」のです。とは云え、本来、愛はものではないですから、待とうとしても待つことはできないはずです。また本来愛することは能動的な行為であるのに、「待つ」は受動性を意味しますから、ここにも矛盾があります。しかし、花子と吉雄は互いに扇を取り交わしましたから、愛は花子が持っている何ものかとなり、愛は私の財産である(と花子は信じている)のです。花子が大事に持っている「秋の扇」は、その証(あかし)です。だから花子は「愛を待つ」ことができると信じています。花子は吉雄を「愛する」ことを止め、自分のものであるはずの「愛」が来るのをただひたすら「待って」います。これが三島の「班女」なのです。(詳しくは別稿をご参照ください。)

ベジャールの「M」の最後のナンバー・「待ちましょう」を見て吉之助が感じたことは、小説のなかの登場人物も、盾の会メンバーもすべては三島のイマジネーションのなかで生まれた産物・・・現実にあったことかも知れないし、ホントはなかったことなのかも知れない・・と云うことでした。このような吉之助の「M」に対する感想がどうして出て来るのかは、下記に引用するフラメンコダンサー・板坂剛氏の「班女」論を介すれば、スンナリ説明が出来るかも知れません。

『女性にとって不本意な状態でしかない「待ち」を、女性自身が「味わい理解する」男性の立場で表現してしまう。それは多分、「永遠の未完成こそ完成である」とかいうあの屁理屈に近い男性の論理に行き着く思考から生まれたものだろう。しかし論理的にではあれ一度はそんな「悟り」に近い次元にまで達していた三島が、後年になって何故また「もう待てぬ」と叫ぶほどの焦りに身を焼いたのか?思い当たる結論はやはりひとつしかないだろう。実際には三島は何も待ってはいなかったし焦ってもいなかったということである。一切が自決の口実であったと考えるならば不思議はない。元々待つことの苦手な性格だったのだから。』(板坂剛:「真説 三島由紀夫」・夏目書房)

結局三島は何かを待っていたわけではなかったのです。意図的に「待つ」というポーズを取っていたとでも云いましょうか。だからベジャールの「M」はシャンソン・「待ちましょう」で締められると吉之助は考えているのです。このような着想をベジャールは一体どんなところから得たのでしょうかねえ?三島の作品から得たのか・或いはどなたかの証言から得たのか・天才は天才を知ると云うことか・それは分かりませんが、ピタリと核心を突いて来るところは驚くばかりです。(この稿つづく)

(R7・10・25)


5)すべての出来事はイマジネーションの産物

ベジャールが三島の核心をピタリと突いてくると云うのは、例えば「M」の重要な狂言回しとして三島の祖母・なつを登場させたこともそうです。「M」冒頭・海岸のシーンで祖母に連れられた三島少年が登場します。(三島は海が好きで、いろんな小説で海が登場します。)波は様々な形に変化します。祖母はそれを指し示して、少年はその光景を興味深そうに観察します。やがて祖母から離れた少年は一人で波間を駆け回ったり飛び跳ねたりして自由に遊びます。しかし、やがて祖母が近づいて頭に手をやると、少年の動きがピタリと止まって、姿勢が直立不動になります。同様のシーンが「M」幕切れに於いても繰り返されます。

三島はいわゆるお祖母ちゃんっ子でした。三島の文学的教養や歌舞伎好きなどは、すべて祖母からの仕込みでした。これだけだと普通の関係のように聞こえますけれど、実は三島は尋常なお祖母ちゃんっ子ではなかったのです。三島の祖母はヒステリックな気質で、生まれたばかりの孫を両親から引き離して、ほとんど幽閉同然のなかで孫を溺愛しました。祖母は孫に外で男の子らしい遊びをすることを禁じ、遊び相手にはおとなしい年上の女の子を選び、家では女言葉を使わせました。

そんなお祖母ちゃんの前で少年はひたすら大人しい「いい子」であったのです。そして頭のなかで想像力を羽ばたかせて自由に遊ぶのです。けれども表面上は動いているように見えません。ひたすら「いい子」のポーズを取ろうとするのです。どうやら少年時代の三島はそんな感じであったようですね。ところで三島の父・平岡梓氏がこんな手記を残していますね。梓氏は倅が母の膝元で女の子のように育っていくことに耐えられず、何度も母と喧嘩をして倅を無理やり外に連れ出したそうです。或る時、新宿駅の線路脇で倅を抱き上げて、蒸気機関車が黒煙をもくもく吹きながら走ってくるのを至近で見せました。

『案に相違して(倅に)全然反応がない。これは一体どうしたことかと、また次の列車を待ちましたが、結果はまた同じで、いっこうに効き目がないのです。それで僕はつらつら案ずるに、未だ恐れを知る年齢になっていないで犬っコロと同じものなのか、あるいはこんな勇壮な男性的な現象には母の女子教育で不感症になってしまったのかと拍子抜けがしてしまいました。もう一回、次の日、静かな列車を選んでやってみましたが、やはり駄目でした。キャッキャッ喜ぶようになるかというと依然能面で、すっかり諦めました。』(平岡梓:「倅・三島由紀夫」・文藝春秋)

と梓氏は回想しています。ところがお父さんは知らないのだよなあ。息子はその場面をしっかり覚えていて、後に小説のなかでこれを使っているのです。それは三島が16歳の時に書いた小説「花ざかりの森」(三島の文壇デビュー作)の一場面です。

『父は町へつれて行ってくれるごとに子供ののぞみどおりにしばらく線路の柵に立ってくれた。線路のむこうでは赤い夕日の残りのようなあまたのネオンが、黒い背景のなかでわがままな星のように回っていた。象がとおるたびに歓呼する南国の人のように、不愛想に電車がゆきちがうたびに、子どもは父の腕のなかで跳ねてわらいながらめちゃめちゃに手を叩いた。…』(三島由紀夫:「花ざかりの森」)

だから少年三島はお父さんの期待通りちゃんと男の子らしい反応を示していたのです。心のなかではと云うことですが。すべての出来事は少年三島の頭のなかのイマジネーションの産物であったと云うわけなのです。このような着想をベジャールは一体どんなところから得たのでしょうかねえ?ベジャールの天才には感嘆するばかりです。(この稿つづく)

(R7・11・2)


6)心の奥に引っ掛かるもの

前章で「ベジャールが三島の死をどのように描くか、「M」を観るまで、吉之助がとても不安であった」と書きましたが、初演の時の東京バレエ団の関係者の方もそうであったようですね。

「M」のリハーサル中・初日が近づくにつれ、アシスタントの木村英二氏の表情が険しくなっていく。ベジャールがどうしたんだ?と訊くと、「三島のお墓参りに行かなくてはいけません」と木村氏が答えたそうです。「三島に会いに行って、許しを乞わねばなりません。あなたは三島を語り、彼の祖母まで登場させているではありませんか」 これに対しベジャールが「時間がない」とか煮え切らない態度を続けていたので、ついに初日前日、タクシーに押し込められるような恰好で三島の墓がある多摩霊園に無理やり連れていかれたそうです。墓参りが終わると木村氏は一転して晴れやかな表情で「これで公演は成功するでしょう」と言ったそうです。

『ここでこの逸話を語るのは、いくつもの理由がある。まず西洋人の読者にとって、これが変わったおもしろい話に思えるだろうということ。つまりこの話は、西洋人である私たちが日本をよく理解していないことの証拠である。(中略)私がボードレールやマラルメやモリエールについてのバレエを創った時、誰も彼らの墓の前で黙祷させたりはしなかった。私は自分が正しいと言っているのではない。ただ行ったことがないと言っているだけだ。日本では、私は三島の墓の前で黙祷をした。日本はフランスではない。言っておきたいのは、三島の墓の前で黙祷しに行って、私は大変幸せであったということだ。時間はなかったが、大事なことをするための時間は持つ必要があるということだろうか。』(モーリス・ベジャール:自伝U・「誰の人生か?」・前田充訳・劇書房)(この稿つづく)

(R7・11・3)


7)三島を巡る女性たち

音楽を担当した黛敏郎の最初の構想では、ワーグナーのイゾルデの愛の死(三島の死)で「M」全体を締める予定であったらしいのを、ベジャールはこれに「待ちましょう」のエピローグを付け加えたことは、前章で述べた通りです。「M」のクライマックスである三島少年の切腹シーンは、桜の花びらが舞い散るなかで行われる・実に美しい場面です。切腹と云っても直接腹に刀を突き立てるのではなく、少年がいわゆる「扇子腹」で象徴的に死ぬのです。この場面の背景でイゾルデの愛の死がピアノで奏されます。

どうして三島の死の場面でイゾルデの愛の死なのか。これについては、恐らく多くの三島ファンは、三島が昭和41年(1966)に自ら主演・監督して製作した映画「憂国」の・主人公武島中尉の切腹シーンの背景音楽にイゾルデの愛の死が使われたことを思い出し、「M」の切腹シーンにイゾルデの愛の死の音楽がほとんど自動的に連想されてしまう、だからそこにあまり疑問を感じないと思います。

しかし、実は昭和45年(1970)の市ヶ谷の自衛隊総監室での三島の割腹自殺という衝撃的な死と、陶酔的かつ甘美なイゾルデの愛の死の音楽は、イメージ的に微妙な齟齬があって、このままではスンナリ結び付かないのです。切腹は極めて男性的な行為ですが、ワーグナーの音楽はロマンティックに過ぎて・どこか女々しいところがある。この両者をを結び付けるために、或る特殊な論理(ロジック)が必要です。そのためには女性を介在させねばならないのです。

これについては、映画「憂国」の観劇随想で論じましたので・詳細はそちらをお読みいただきたいですが、要点を記せば、ワーグナーの「トリスタン」と三島の映画「憂国」に、或る共通点があるのです。どちらも主人公である男性が「わが愛する女性が必ず自分の後を追って死んでくれる」と信じて(というか・身勝手にそう思い込んで)、女性よりも先に死んでしまう、そして男性との絆・「・・と(und)」を証明する仕事を背負わされたまま女性がひとり残される、男性の方は涅槃でそれを「待っている」という構図なのです。

何と、ここでも「待ちましょう」が出てきますね。これは偶然のことでしょうか。ベジャールがイゾルデの愛の死からシャンソンの「待ちましょう」を引き出したことに、ベジャールの天才を感じずにいられませんね。(ちなみにジャン・ピエール・ポネル演出の「トリスタン」の初出は1981年バイロイト音楽祭ですが、ベジャールの「M」初演が1993年ですから、ここに当時最新のワーグナー研究の成果が取り入れられていることは疑いないことと思います。これについては別稿を参照のこと。)

ちなみに「M」のエピローグ「待ちましょう」で、三島少年は何を「待つ」のでしょうか。せっかくベジャールが「君が「M」を謎(Mystere)だと感じるならば、そのようにこのバレエを見れば良い、謎は不可解であるからこそ謎なのだよ」と言ってくれているのに・わざわざそれを詮索する必要もないことですが、もしかしたらベジャールはそこに、三島由紀夫(と云うよりも本名・平岡公威)の生涯を巡る女性たちを思い描いているかも知れません。祖母なつはそのまま本人のイメージで登場しますが、その他の女性、母倭文重・妻瑤子も、「M」のいろんな登場人物のイメージに分散して登場しているのかも知れません。例えばイゾルデの愛の死を弾く「ピアニスト」(今回の舞台では菊池洋子)ですけど、彼女はダンサーではなく・助演者の位置付けになりますが、「M」のなかではとても重要な役割を任されています。吉之助はこの「ピアニスト」に母倭文重のイメージが重ねられていると考えています。

(R7・11・6)


 


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