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五代目玉三郎の「班女」

昭和51年7月国立小劇場:「近代能楽集〜班女」

五代目坂東玉三郎(班女:花子)、楠侑子(老嬢:実子)、中山仁(青年:吉雄)

(演出:福田恒存)


(花子)待つのね。待って、待って、・・・そうして日が暮れる。
(実子)あなたは待つのよ。・・・私は何も待たない。
(花子)私は待つ。
(実子)私は何も待たない。
(花子)私は待つ。・・・こうして今日も日が暮れるのね。
(実子)素晴らしい人生。

1)五代目玉三郎の「班女」

本稿で紹介するのは、昭和51年(1976)7月国立小劇場で上演された、玉三郎主演による三島由紀夫作「近代能楽集〜班女」の音声録音です。残念ながら舞台映像は残っていないようです。幸い吉之助はこの時の公演初日の舞台を見たので、当時の記憶を呼び起こしながら観劇随想としたいと思います。なおこの時の玉三郎は26歳でした。

昭和51年2月・日生劇場での「マクベス」(主演マクベスは平幹二朗)での、初めて玉三郎のマクベス夫人を見た時の衝撃については、「歌舞伎素人講釈」でも何度か書きました。マクベス夫人は、新劇女優であれば激情を胸に秘めた悪女を凄みと色気を以て演じたくなるところ(そうするとどうしても印象が重くなってしまうわけである)ですが、玉三郎はマクベス夫人をヒラヒラと軽やかに舞うが如きの感触に仕立てて、吉之助は「こう云うマクベス夫人があり得るのか」ととても驚いたのです。「これが歌舞伎の伝統の力・様式の力なのか」と思いました。主役の平幹二朗を食っちゃったようにさえ見えましたねえ。

ただし、そこから直ぐに歌舞伎の玉三郎に関心が行くという風にはなりませんでした。そこに行くにはまだいくらか道程が必要でした。「班女」は、吉之助が見た玉三郎の二つ目の舞台でした。当時の吉之助は既に歌舞伎もボチボチ見るようになっていましたが、まだ教養主義的段階に留まっており・さほど関心があるわけではなかったのです(当時の吉之助はクラシック音楽批評の方がやりたかった)。ただ玉三郎という役者が何となく気に掛かってはいたので、急に思い立って国立小劇場に出かけて・当日売りで芝居を見たのです。なお同日プログラムに平幹二朗主演・蜷川幸雄演出により「卒塔婆小町」の上演もあり、こちらの舞台についても別稿で取り上げます。

結果から申し上げると、吉之助が玉三郎のマクベス夫人に「これが歌舞伎の伝統の力・様式の力なのか」と衝撃を受けたのは当時の吉之助の早合点であったかなと云うことを、今にして見れば思うわけです。これは役者・玉三郎の特性(芸質)に係わる問題であると限定して考えるべきであったかも知れません。実は玉三郎の「班女」・花子はそれはそれでユニークで面白いものでしたが、伝統の裏付けみたいなものをさほど感じなかったのです。吉之助がそれをここで感じていれば、吉之助はもう少し早く(と言っても1・2年くらいのことだったと思いますが)歌舞伎の方へ行ったかなと思いますが、玉三郎の花子からはそこまでの衝撃は受けなかったと云うことを申し上げておきます。

玉三郎の花子の台詞には狂った女の・虚ろなものが感じられて・その意味でリアルでしたが、様式的な裏付けはあまり感じられませんでした。様式的なもの・或いは伝統的なものは、何らかの力を感じさせるものだろうと思うのです。玉三郎のマクベス夫人にはそれがあったと思ったのだけれど、花子にはそう云うものをあまり感じませんでした。言葉がサラサラ流れる感じがしました。言葉は軽やかであっても良いですが、もっとくっきり粒が立って欲しかったと思うのです。まあこれは演出の福田恒存のせいであったかも知れませんが、玉三郎の花子はいささかリアリズムの方に傾き過ぎたようでしたね。師匠・武智鉄二はこの時の公演について、次のように記しています。

『玉三郎の役柄への理解力、表現の柔軟性は、古典よりも創作劇で長所を発揮するらしく、「班女」の花子では、扮装からみごなしまで、まさに温泉芸者という雰囲気を一目で観て取らせた。一目で温泉芸者だから、あの観念劇的なせりふが、かえって混乱せず、朗読のような感じで受け取れたのではないかと思う。これまでの新劇系の花子にはなかった演技と看た。(中略)しかし、玉三郎の理解力によりかかかって、安心ばかりすることもできない。だから言ってしまうが、「班女」の花子が完璧に温泉芸者に見えてはやはり困るのである。それは新劇の自然主義的リアリズムからは温泉芸者のタイプに収めることは必要で素晴らしいことかもしれないが、観念劇は別のジャンルの演劇なのである。手っとり早く説明すれば、能の「柏崎」や「百万」の遊女が、田舎芸者や娼妓であっては困るのと同断で、「朝顔には朝の日が夕顔には夜がかならず」というようなせりふと、やはりどこかで背反してしまうのである。』(武智鉄二:「自叙的玉三郎論」・昭和53年1月)

さすが我が師匠、きっちり見てますねえ。確かに伝統芸能者である歌舞伎役者が花子を演じるならば、やはり様式的な力をきっちり見せて欲しかったと思います。(この稿つづく)

(R4・1・31)


2)「愛を待つ」女

エーリッヒ・フロムは著書「生きるということ」のなかで、過去2・3世紀のうちに西洋諸言語に於いて名詞の使用が多くなり、動詞の使用が少なくなったと指摘しています。例えば本来、物を表示するのが名詞であり、私はテーブルを持っている、私は車を持っていると云います。一方で本来、能動性・過程を示すのが動詞で、私は愛する、私は欲する、私は憎むと云います。これが本来の用法であるわけですが、近代においては動詞の使用が次第に少なくなっているとするのです。

フロムは次のような例を挙げています。精神分析医をたずねた患者が「先生、私は不眠症を持っているのです。私は幸せな生活を持っているのですが、多くの悩みを持っているのです」と言います。昔ならば、「私は不眠症を持っている」と言わずに、「私はよく眠れません」と言うだろう。「私は幸せな生活を持っている」ではなく「私は幸せに生活しています」と、「私は悩みを持っている」ではなく「私は悩んでいます」と言うだろう。このような用法がいろいろな場面に見えるのです。このような用法は自分の感情を私の所有する何ものかに変えてしまっている、つまり隠された無意識の疎外を露呈しているとフロムは言います。例えば愛についてはどうか・・・

『「私はあなたに対して大きな愛を持つ」と言うのは無意味である。愛は持つことが出来るものではなく、一つの過程であり、人がその主体となる内的能動性である。私は愛することが出来る。しかし、愛することにおいて、私が持つものは・・・何もない。実際、持つことが少なければ少ないほど、多く愛することができるのである。』(エーリッヒ・フロム:「生きるということ」〜持つことと・あることの違いの理解)

人は愛を持つことができるのでしょうか。もしできるとすれば、愛は物でなければならず、人が持ち、占有し、所有することのできる実体でなければなりません。「愛に陥る」と云う表現はよく使われますが、愛が生産的な能動性である以上、この言い方は矛盾している、「陥る」とは受動性を意味するからである、人は愛のなかに「いる」ことはできるが、愛に「陥る」ことはできないとフロムは言います。

さらにフロムの主張を検証します。恋愛の最中には、それぞれが相手をわがものにしようと努める。どちらもまだ相手を持ってはいない。だからそれぞれ相手に与え、相手を刺激することに精力を注ぐ。これが「私は愛しています」という状態です。しかし、結婚(あるいは婚約)という行為によって事態はしばしば根本的に変わるとフロムは言います。

『もはや誰の歓心をも得る必要はない。愛は自分が持っている何ものかとなり、一つの財産となったからである。二人は愛すべき人間になろうとする努力も、愛を生み出そうとする努力もしなくなる。それゆえ彼らは退屈な人間となり、彼らの美は消滅する。自分たちはもはや同じ人間ではないのだろうか。初めから間違っていたのだろうか。大抵の場合それぞれが相手のなかに変化の原因を求め、詐欺にかかったように思う。愛を「持つ」ことができるという誤解のために愛することを止めてしまったのだ。』(エーリッヒ・フロム:「生きるということ」〜日常経験における持つことと・あること)

これでやっと三島の「近代能楽集〜班女」の花子を論じることが出来ます。花子は「待つ」のですが、一体何を待つのでしょうか。花子は約束を守らない不実な恋人吉雄を待つのではないのです。花子は「愛を待つ」のです。とは云え、本来、愛はものではないのですから、待とうとしても待つことはできないはずです。また本来愛することは能動的な行為であるのに、「待つ」は受動性を意味しますから、ここにも矛盾があります。しかし、花子と吉雄は互いに扇を取り交わしましたから、愛は花子が持っている何ものかとなり、愛は私の財産である(と花子は信じている)のです。花子が大事に持っている「秋の扇」は、その証(あかし)です。だから花子は「愛を待つ」ことができると信じています。花子は吉雄を「愛する」ことを止め、今は見失った・自分のものであるはずの「愛」が来るのをただひたすら「待って」います。これが三島の「班女」なのです。そこに三島の現代的センスが光っています。(この稿つづく)

注:論旨から外れるので・これ以上は触れませんが、文章や会話において名詞の使用が多くなり・動詞の使用が少なくなる自己乖離の用法は、フロムの時代よりも現代に於いて、さらに甚だしいものとなっています。例えば昔ならば「私はこのように感じています」と言うところを、最近は「このように感じている私がいます」と言うのです。

*エーリッヒ・フロム:「生きるということ」(1976年)(紀伊国屋書店)

(R4・2・6)


3)「持つ」様式としての花子

これらのことをフロムは,、著書「生きるということ」のなかで、「ある」様式と「持つ」様式の、二つの様式として論じています。一見すると単純な概念に見えるため却って分かりにくいですが、自己と世界に対する二つの異なる種類の方向付けを示しています。

「ある」様式とは、自己から能動的に言葉や観念・思考を引き出す運動の概念です。それは生きていること、世界と真正に結び付いた感覚です。例えば「私は愛する」は行為を示し、私は相手を引き付けるために自分が魅力的であろうとし・美しくあろうとしますから、これは「ある」様式です。ここでは主体が生き生きしています。

一方、「持つ」様式では、世界に対する私の関係は所有し占有する関係であって、私が(私自身をも含む)すべての人・物を私の財産とすることを欲するということです。「私は何かを持つ」という文は、主体としての「私」と客体との関係を示しますが、私と私の持つものに生きた関係はなく、時には私も「もの」になってしまい、「それが私を持つ」ことにもなる。主体と客体の逆転が生じてしまいます。「近代能楽集〜班女」の花子は、吉雄と互いに扇を取り交わした「秋の扇」を根拠に、「愛を持つ」ことを望み、ただひたすらこれを「待って」います。つまり私の正気の感覚は、私がそれ(秋の扇)を持つことに係わっています。ここに主体と客体との生きた関係はありません。だからやっと吉雄を再会できた時に、花子は吉雄の顔を認識出来ません。

(花子)『よく似ているわ。夢にまで見たお顔にそっくりだわ。でも違うの。世界中の男の顔は死んでいて、吉雄さんのお顔だけは生きていたの。あなたはちがうわ。あなたのお顔は死んでいるんだもの。(中略)実子さん、また私をだます気なのね。こんな知らない人を呼んできて、吉雄さんなんて言わせたのね。』

世阿弥の真作とされる謡曲「班女」では、花子は待ち続けた吉田少将と最後に再会して夫婦の契りを復しハッピーエンドになりますが、三島の「近代能楽集〜班女」では、花子は吉雄を拒否してしまいます。ハッピーエンドになることはありません。このような三島の花子の解釈は、本行(謡曲)にはない・斬新な近代的な視点なのでありましょうか。決してそうではないと思いますねえ。世阿弥の論点は、結末部分にはないのです。そこはどちらの結末でも良いと云うか、当時の作劇様式ではハッピーエンドにしないと作品が閉じた形にならないから・そうなったまでのことです。世阿弥が描きたかったのは、この場面だろうと思います。

ワキヅレ:「いかに狂女。何とて今日は狂わぬぞ面白う狂い候へ」
シテ:「うたてやなあれ御覧ぜよ今までは。ゆるがぬ梢と見えつれども。風の誘えば一葉も散るなり。たまたま心直ぐなるを。狂えと仰せある人々こそ。風狂じたる秋の葉の。心もともに乱れ恋のあら悲し狂えとな仰せありさむらいそ。」
(現代語訳)
ワキヅレ:「狂女よ。今日はどうして狂いを見せないのか。面白う狂って見せよ。」
シテ:「何と情けないことを。あれを御覧なさい。今までは揺るがぬ梢と見えたのに、風に吹かれて葉が一枚一枚と散っていく。たまたま正気でいる時に、私に「狂え」と仰る人こそ、風のなかの秋の葉のように乱れ狂ってるのではないか。そのように仰られると、私の心もまた恋に乱れてしまうではないか。ああ悲しい。「狂え」などと仰らないでください。」

こうしてシテは自分の身の上を、なぜ自分が狂うたのかを語り始めます。中世期に人々は、「気が狂う・狂気」ということを「物が憑いた」と言いました。狂気とは、生霊・死霊あるいは物の怪のようなこの世ならざるものが取り憑いて、その人の精神がその人のものでなくなってしまっておかしくなってしまったと当時の人々は考えたのです。「くるふ」とはクルクルと旋回すること。気が狂った状態になると、くるくる回る運動をする。だから「くるう」と「まう」とはほとんど同じことで、神様が降りてきて恍惚状態になった人がクルクル回るのが舞の起源ということになります。そうすると、いつしかこれがひとつの型みたいなものになって、神様が降りて来なくても「クルクル回れば神様が降りて来る」という理屈になる。そんなところから芸能というものが始まるわけです。だから能で「おんくるひ候へ」などとシテに呼びかけて物狂いを見せることが多いのは芸能がストーリー性を備えて行く発展過程を示すものですが、世阿弥の場合には、この定形を借りながらシテに「おんくるひ候へ」と語り掛け、シテに身の上を物語らせて、その心理のなかに分け入ろうとしているように聞こえます。それは精神分析のカウンセリングにも通じるようです。

世阿弥が描く花子もまた「愛を持つ」ことを望み、ひたすらこれを「待って」います。これは三島の花子と同じです。ただし世阿弥の花子の方が自分がおかしくなっていることを認識できているようだから、症状の程度は軽い。それにしても世阿弥の花子が言うことは正しいです。この私に「狂え」と平気で言える人こそ「人の情け・あはれ」を解することの出来ぬ人間で、そちらの方こそ狂っているのではないか。私はあまりに「愛し過ぎた」からこそ・こうなったのだから。こう云うことを書ける世阿弥と云う人は真のリアリストだと思いますねえ。(この稿つづく)

(R4・2・10)


4)「持つ」様式としての実子

謡曲「班女」のハッピーエンドの結末は、「当時の作劇様式ではハッピーエンドにしないと作品が閉じた形にならないから・そうなったまでのこと」と前節で申し上げました。もし世阿弥が現代に生きて本作を書いたならば、まったく逆の結末があり得ると思うのです。それは現代が疎外の時代・抑圧の時代であるからです。しかし、花子が吉田少将を拒否して終わるだけであるとドラマが寸切れの感じになり、多分作品が閉じた形に見えないでしょう。そうならないようにするためには、多少工夫が必要になります。三島由紀夫はこの難題を、本行に登場しない実子という女性を新たに設定することで、見事に解決してしまいました。三島は「誰からも愛されない」老嬢実子という役を創出することによって、「班女」の幕切れを現代に相応しいものにしたのです。

(実子)『私の仕合せは、あなたなんぞにわからないものなんですよ。私は誰にも愛されない女ですわ。子供のときからそうだったんです。だから私はなにも待ちませんでした。きょうまでずっと一人で来ました。そればかりじゃありません。万一私を愛する人が出てきたら、その人を私は憎むだろうと思うまでになりました。私を愛するなんて、男として許せないことですわ。・・ですから私は、夢みていた生活をはじめたんです。私以外の何かを心から愛している人を私の擒(とりこ)にすること。どう?私の望みのない愛を、私に代わって、世にも美しい姿で生きてくれる人。その人の愛が報いられないあいだは、その人の心は私の心なの。(中略)今さらあの人がためされはしませんわ。あの人は完全無欠な、誰も動かしようのない宝石なんです。狂気の宝石。(中略)正気のときのあの人の凡庸な夢は、今ではすっかり精錬されて、あなたなんかの及びもつかない貴いふしぎな夢、硬い宝石になっているんですわ。』

「私は愛を待つ」という文は、主体としての「私」と客体「愛」との関係を示しますが、両者の間は死んだ関係です。「待つ」は本来受動的な動詞ですが、もしこれに能動的な意味合いを持たせるとすると、一体どんなことが起きるでしょうか。主体と客体の逆転が生じて、私も「もの」と同じになってしまいます。なぜならば私の自我が、それ(愛)と同一化することを強く求めるからです。すると「愛が私を待つ」とも云えるようになります。こうして私は「愛」として硬化し、「もの」となります。

花子は「もの」と化しています。実子は花子のことを、「完全無欠な、誰も動かしようのない宝石。狂気の宝石」と形容しています。それにしても、このように花子の精神状態を正確に言い当てることができる実子という人物の、芝居のなかの位置付けは、一体どういうことになるでしょうか。1年半前、実子は写生旅行に行った或る町の料亭で芸者の花子に出会ったのです。花子は毎日扇を見ては男を思い、男の来るのをただ待ち暮らしていました。実子は「この人を決してその不実な人に奪われてはならない」と思い、花子を落籍(ひか)せて東京へ連れ帰ったのでした。そうすると実子は花子の「保護者」或いは「観察者」みたいなことになるのでしょうか。・・どうやらそうではないようです。

実子は花子の「ただひたすらに愛を待つ」行為に全身全霊で加担しています。このために「この人を決してその不実な人に奪われてはならない」と心に決めているのです。「その人の愛が報いられないあいだは、その人の心は私の心なの」と実子は言います。つまり実子は、「もの」としての愛(=花子)を持っているということです。

エーリッヒ・フロムのテーゼとまったく正反対の・あり得ない現象がここで起きています。フロムは、「愛は「もの」ではなく、持つことはできない」と断言しました。しかし、実子は愛を持っています。それは花子が「もの」と化しているからです。もう一度、フロムの主張を確認しておきます。

『「私はあなたに対して大きな愛を持つ」と言うのは無意味である。愛は持つことが出来るものではなく、一つの過程であり、人がその主体となる内的能動性である。私は愛することが出来る。しかし、愛することにおいて、私が持つものは・・・何もない。実際、持つことが少なければ少ないほど、多く愛することができるのである。』(エーリッヒ・フロム:「生きるということ」〜持つことと・あることの違いの理解)

つまり実子はフロムが主張するテーゼに猛然と異議を申し立てているのです。実子だけが、「私はあなたに対して大きな愛を持つ」と云うことは有効であるとするのです。私は愛することが出来る。同時に私は愛を持つことが出来るとするのです。持つことが多ければ多いほど、もっと多く愛することができるとするのです。これが「近代能楽集〜班女」の実子です。

以上の考察から分かることは、三島が実子という役(キャラクター)を花子とかけ離れたところで発想したのではないと云うことですねえ。恐らく実子は、花子から乖離した自我なのです。実子という役は、謡曲「班女」の・花子という役から、三島が割り出した部分(パーツ)なのです。「この私に「狂え」と平気で言える人こそ「人の情け・あはれ」を解することの出来ぬ人間で、そちらの方こそ狂っているのではないか」と言い返した・あの花子の部分です。だから花子と実子は二人で一人の完全な人間となるはずのもので、どちらか一人だけでは生きた人間になりません。花子から分離した自我(実子)が、「もの」と化した花子を持つわけです。

ここで謡曲「班女」の花子にも触れておきたいのですが、世阿弥の時代においては、現代とは違って抑圧の程度はそう甚だしいことではありません。世阿弥が生きた時代にも、耐え難く・生き難いことは沢山あったのは、勿論のことです。時代が変遷して耐え難さ・生き難さの様相が変化したに過ぎません。ただし世阿弥の時代には、生きた感覚は五感に直結した・確かなものとしてあったと思います。現代では、そう云う感覚がますます希薄になってしまいました。それはここ2・3世紀ほどの間に極端に目立ってきたことで、だから現代では、昔ならば「私はこのように感じています」と言うところを、最近は「このように感じている私がいます」と言うようなことが次第に多くなって来ます。それはそれは現代が疎外の時代・抑圧の時代であるからです。

世阿弥の花子のなかにもやはり疎外された要素があって、それが花子を硬化させ・花子を「もの」(愛)にします。そこは現代と同じです。しかし、その縛りはそれほど強いものになりませんから、吉田少将と再会が叶えば、花子の硬化はすぐ溶けてしまいます。花子が硬化したままであったとすれば(つまり花子が少将を拒否してしまうとすれば)当時の観客はその結末に耐えられなかったでしょう。しかし、もし世阿弥が現代に生きて、「班女」を現代演劇の様式で書くとするならば、「愛そのもの」と化した花子(それはまさに「詩そのもの」であると云える)をその場に留めるために、ドラマはまったく別の幕切れを用意せねばならないことになります。それが三島の「近代能楽集〜班女」なのです。

(花子)待つのね。待って、待って、・・・そうして日が暮れる。
(実子)あなたは待つのよ。・・・私は何も待たない。
(花子)私は待つ。
(実子)私は何も待たない。
(花子)私は待つ。・・・こうして今日も日が暮れるのね。
(実子)素晴らしい人生。

花子は待ち続けなければなりませんが、実子は何も待たない・・と云うよりも「待つ必要がない」のです。なぜならば実子は「それを」持っているからです。(この稿つづく)

(R4・2・13)


5)三島演劇の様式感覚

そのように考えると、三島由紀夫の「近代能楽集〜班女」は、表題の「班女」はもちろん花子が背負うものですが、実質的な主人公は実子なのかも知れませんねえ。花子と実子は二人で一人の完全な人間となるはずのものですから、どちらが主人公かと云うのはホントはおかしいのですが、主導権を持っているのは実子の方だということは云えそうです。幕切れの実子が云う「素晴らしい人生」が誰を指すかという問いも、「愛そのもの」と化した花子には永遠が相応しく・永遠には時間がありませんから、「素晴らしい人生」とは実子の人生のことだと考えて良いと思います。

ところで今回(昭和51年7月国立小劇場)の「近代能楽集〜班女」の舞台ですが、残念ながら、武智が指摘する通り、観念劇の高みには達していなかったようです。「班女」の幕切れは「近代能楽集」のなかでも最も美しいものなので・吉之助も期待しましたが、「永遠」は見えませんでした。当時の吉之助がガッカリしたのもこの点でしたが、46年振りに音声録音を聴き直してもやはり同じことを感じますねえ。これは出演者全員に云えることですが、台詞に様式感覚がもう少し欲しい。特に「愛そのもの」と化した花子(玉三郎)にはそれが必要なのです。玉三郎のマクベス夫人の台詞には軽やかであったけれど、確かな様式感覚が感じられました。しかし、残念ながら今回の花子には、それが乏しい。だから花子がリアルな温泉芸者になってしまいました。これはシェークスピアと三島由紀夫の様式の違いから来るものでしょうか。そうではないように思いますね。

台詞の様式感覚は、どうしたら表出できるでしょうか。ひとつはリズム感から出ると思いますが、もうひとつ大事なことは、言葉の粒立ちであろうと思います。特に三島演劇の場合は、言葉のツブツブ感がとても大切です。しかし、台詞は言葉で出来ていますから、台詞が論理の方へと観客の注意を自然と仕向けてしまうのは自然のことです。そこに音楽とはまるで異なる・芝居の台詞の難しい問題があります。意味や論理に縛られない台詞など存在しないからです。だからそちらの方面(論理)に観客の意識を過剰に向かわせないようにするためには、ちょっとした工夫が必要になります。つまり台詞を音楽的に響かせることです。それが台詞を様式的な感覚にするのです。様式的な台詞とは如何なるものかという問題は、そのような場面で議論に上がってくるものでしょう。歌舞伎役者は台詞を様式的に響かせることに本能的な感覚を持っています。かと云って様式感覚にあまり浸り過ぎるのも困りますけれど、まあそれは兎も角、今回の舞台では演出の福田恒存が新劇の自然主義的リアリズムに固執する余り、歌舞伎役者としての玉三郎の資質を巧く引き出せなかったように思われます。この点は残念なことでしたね。

(R4・2・20)




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