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令和歌舞伎座の「菅原」通し〜寺子屋

令和7年9月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑」〜寺子屋(Aプロ・Bプロ)

四代目尾上松緑(松王丸)、十代目松本幸四郎(武部源蔵)、初代片岡孝太郎(戸浪)、初代中村萬寿(千代)、六代目中村東蔵(園生の前)、三代目坂東亀蔵(春藤玄蕃) (以上Aプロ)

十代目松本幸四郎(松王丸)、八代目市川染五郎(武部源蔵)、六代目中村時蔵(戸浪)、五代目中村雀右衛門(千代)、十一代目市川高麗蔵(園生の前)、三代目松本錦吾(春藤玄蕃) (以上Bプロ)

*この原稿は未完です。最新の章はこちら


1)松王の悲劇と源蔵の悲劇

本稿は令和7年9月歌舞伎座での、「菅原伝授手習鑑」通しの観劇随想です。浄瑠璃作者は「菅原」で三組の親子の別れを描こうと話し合ったのがその始まりであるそうです。すなわち二段目切・道明寺での菅丞相と苅屋姫との別れ、三段目切・佐太村(賀の祝)での白太夫と桜丸との別れ、もう一つがこれから論じる四段目切・寺子屋での松王と小太郎の別れです。そこで寺子屋での松王の悲劇を考えたいのですが、菅秀才の身替りに小太郎を寺子屋に送り込む計画について松王は源蔵に次のように説明しています。

『よもや貴殿(源蔵)が(菅秀才を)討ちはせまい、なれども、身代りに立つべき一子(いっし)なくば如何せん。ここぞ御恩を報ずる時と、女房千代と言ひ合はせ、二人が中の伜をば先へ廻してこの身代り。(中略)菅丞相にはわが性根を見込み給ひ、『何とて松のつれなからふぞ』との御歌を、『松はつれない、つれない』と世上の口に、かかる悔しさ。推量あれ源蔵殿、悴がなくば何時までも、人でなしと言はれんに、持つべきものは子なるぞや

松王が云うことは、主筋・菅秀才の身替わりとして松王が息子小太郎を寺子屋に送り込み・源蔵をよんどころない状況に追い込んでこれを斬らせたと云うことです。互いに示し合わせたわけではないが、結果的には松王が描いたシナリオ通りに、松王と源蔵は敵味方の立場に分かれて一致協力して身替り大作戦を遂行した、これが寺子屋のドラマだと云うことになります。源蔵抜きで松王のシナリオが決して完成しないことが分かります。

このことは実子を犠牲にしているのだから松王にとって確かに悲劇であるわけですが、実は同じ次元において源蔵にとっても悲劇だと云うことを示しています。何故ならば松王と源蔵はまったく同じ境遇に置かれた同志であるからです。松王はこのことを認めるはずです。歌舞伎のモドリが善人に戻ってその本心を告白する相手は、彼(または彼女)が最も信頼する人物である。善人にモドった事情とその苦しみを最もよく理解してくれて、そのことを聞いて共にさめざめと泣いてくれる人物である。例えばいがみの権太にとっての父弥左衛門(千本桜・鮓屋)、玉手御前にとっての父合邦道心(摂州合邦辻)がそうです。松王にとっての源蔵もそのような人物であることは疑いありません。だから源蔵も松王と同じ悲劇を背負うていることになります。

源蔵の悲劇については、別稿・筆法伝授において考察しました。源蔵は菅丞相が最も信頼した弟子でありましたが、不義の過ちを犯してしまい、主人から勘当を受けて屋敷を追い出され、やむなく野に下った人物でした。これが源蔵の原罪であり、源蔵が筆法伝授される栄誉を受けてさえも勘当が許されることはありません。江戸の世においては菅丞相は神様(学問の神・書道の神)として庶民の信仰を受けていましたから、源蔵は神から疎まれた存在・神を喪失した存在ということになります。このことに源蔵の心は深く傷付いています。けれども源蔵は分かっているのです。主人丞相が源蔵を決して見捨てていないことを分かっているのです。だから源蔵は名誉回復の機会をひたすら願っています。ただしそのためには何かを犠牲に捧げなければなりません。これが源蔵が置かれている悲劇的状況です。

それでは松王にとっての菅丞相(=神様)とはどのような存在でしょうか。このことを次章に於いて検証することにします。(この稿つづく)

(R7・10・25)


2)「何とて松のつれなかるらん」

「菅原伝授手習鑑」で活躍する三つ子の兄弟が何故菅丞相に深いご縁があるか、これについては加茂堤で梅王が松王に次のように語っています。(注:この詞章は歌舞伎では省かれることが多く、今回通しでもカットされていますが、大事な詞章です。)

『聖人の胸の広さは、こちらが身にも覚えのあること。斎世の宮様の車を引く桜丸と、われとおれと三人は、世に稀な三つ子。顔と心は変はつても着る物は三人一緒、ひよんな者産んだと親父が気の毒に思ふたをお聞きなされ、『三つ子は天下泰平の相、舎人にすれば天子の守りとなる、成人さして牛飼に差上げよ』と、菅丞相様のおとりなしで御扶持まで下され、親四郎九郎殿は今佐太村の御領分に、御寵愛の梅松桜を預かり、安楽に暮してゐらるる。その御寵愛の三木の名を我々にお付けなされ、おれを兄のお心でか梅王丸、とお呼びなされて召使はる。その方は松王丸、桜丸は宮の舎人、烏帽子親といふ御恩のお方、家を隔てゝ奉公するとも、必ず疎かに思はぬがよいぞよ』

20年くらい前のことでありましょうか、淀川沿いの佐太村で珍しい三つ子が生まれました。丞相は殊の外これを喜んで、親四郎九郎(後の白太夫)に御扶持を下され、三つ子に御寵愛の梅松桜の木の名前を付けて名付け親となり、成人しては就職の斡旋までして、今は梅王は菅丞相に・松王は藤原時平に・桜丸は斎世親王に、それぞれ牛飼舎人(いわば専属運転手)として仕える身です。

ところが邪智深い藤原時平は政治的陰謀をめぐらして菅丞相を失脚させてしまいました。このため三つ子の兄弟は敵味方に分かれることになってしまいました。松王は丞相に御恩があるのはもちろんですが、現在の主人は時平ですから・これに忠義を尽くすことが責務である。心ならずも松王は名付け親丞相に敵対する立場になってしまいました。結果として丞相から放逐されたも同然です。これが松王の「原罪」なのです。そこで松王にとっては丞相が詠んだ歌が重い意味を持って来ます。それは、

「梅は飛び桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」

の御歌です。この歌は実は丞相が詠んだものではないのですが、江戸期の庶民には丞相の歌であると信じられていた歌でした。まあそれは兎も角として、「菅原」の大筋はまさしく丞相御歌通りに進行していきます。すなわち「梅は飛び(梅王丸は丞相の流刑地・筑紫へ飛び)」、「桜は枯るる(桜丸は丞相失脚のきっかけを作ってしまったことを悔いて自害する)」、こんな無情な世の中に「何とて松のつれなかるらん」なのです。(詳細は別稿をご参照ください。)

「菅原」丸本を見れば、この御歌は四段目・立端場・天拝山の場、つまり四段目切の寺子屋に先立つ場で、菅丞相が詠んだものと云うことになっています。佐太村に植わっていたはずの梅の樹が筑紫の安楽寺(江戸期には大宰府天満宮の別当寺であった)の庭に一夜にして飛んだ奇蹟に感動した丞相が思わず詠んだのです。しかし、丸本ではこの後に丞相は時平が天皇の座を狙っていると知って怒り狂って・天拝山で雷神と化して京へ飛んでいくので、これが丞相が詠んだ最後の歌となります。寺子屋では松王が次のように源蔵に語ります。

『菅丞相にはわが性根を見込み給ひ、『何とて松のつれなからふぞ』との御歌を、『松はつれない、つれない』と世上の口に、かゝる悔しさ。推量あれ源蔵殿、悴がなくば何時までも、人でなしと言はれんに、持つべきものは子なるぞや』

つまり松王は丞相の御歌「何とて松のつれなかるらん」で、丞相この危急の時に「松王が私に冷たいことをするはずがない。必ず松王は私のために動いてくれるはずだ」と自分に向けてメッセージを投げたと解釈ました。ところが世間はこれをまったく逆に解釈したのです。「どうして松王はこんなに私に冷たいのか。時平に忠義立てして・名付け親の私には不義するのか」と丞相は嘆いていると世間は解釈しました。世間は自分のことを、丞相を見捨てた薄情な奴だと避難している、その声を耳にする度に悔しくて悔しくて・・と松王は訴えるのです。それほどまでに松王の喪失感は強い。

このように松王が置かれた状況を、丞相に勘当されて野に下り・芹生の里の寺子屋で不遇をかこつ源蔵の状況と比べてみれば、まったく反転させたように事情は同じであることが分かると思います。ここに見える状況とは、「父=神の喪失」です。松王も源蔵も、再び丞相(父=神)の祝福を得ようと必死であがいています。その意味に於いて二人は同志なのです。

松王には一子小太郎がいますが、これを菅秀才の首だと偽証し・信用させるために源蔵の協力が絶対に必要です。ただし互いに事前にこれを言い交すことが出来ない状況に於いて、源蔵にこれを遂行してもらわねばなりません。これが寺子屋のドラマなのです。(この稿つづく)

(R7・10・28)


 


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