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十七代目勘三郎の松王・七代目梅幸の千代

昭和56年12月国立劇場:「菅原伝授手習鑑」・第2部

                         *車引-佐太村賀の祝-寺子屋-大内

十七代目中村勘三郎(寺子屋の松王丸)、十七代目市村羽左衛門(武部源蔵・白太夫)、四代目中村雀右衛門(戸浪)、七代目尾上梅幸(寺子屋の千代)、八代目大谷友右衛門(園生の前)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(春藤玄蕃)、七代目尾上菊五郎(桜丸)、十代目市川海老蔵(十二代目市川団十郎)(松王丸)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(梅王丸)、七代目市川門之助(女房千代)、二代目市村萬次郎(女房春)、五代目中村児太郎(九代目中村福助)(女房八重)他

(国立劇場開場15周年記念)


1)歌芝居の系譜

本稿で紹介するのは、昭和56年(1981)12月国立劇場での、開場15周年記念・通し狂言「菅原伝授手習鑑」・第2部の上演映像です。国立劇場での「菅原」通し上演は、昭和41年(1966)11月〜12月の開場記念公演以来の二回目と云うことになります。眼目は十七代目勘三郎の松王丸・七代目梅幸の千代ということになるでしょうが、通し上演ですが二人ともに「寺子屋」のみの出演です。「車引」と「賀の祝」の方の松王丸は海老蔵に・千代は門之助に任せています。この頃になると昭和の大幹部もそろそろ体力的に無理が効かなくなってきたと云うことです。ただし前月(11月)の第1部での十三代目仁左衛門の菅丞相と同じく、当月の「寺子屋」での勘三郎の松王・梅幸の千代もどちらも良い出来です。

例によってまず作品周辺を逍遥したいのですが、折口信夫は「日本の物語は、結局歌がないと物語の権威がなかった」と言っており、こんなことを書いています。

『歌物語に於いては物語の方が母体で、その中に自然に歌がはさまれて出来たのだろうと誰しも考えるが、順序から言うと歌の方が先に出来ている。歌の中から物語の適切な要素を取り出してきて、だんだん物語が出来た。故に歌物語に於いては、歌というのは非常に重いといふことを申し上げておきたいと思ふ。』(折口信夫:「物語について」・昭和21年9月・全集第30巻に所収)

『歌物語は昔の短篇小説であって、我々が心のなかに持っている小説的な幻想といふか・想像しているものに、或いは衝撃を与えると記憶が頭を上げて来、それに歌が働きかける魂がふらふらと出て来て、その歌に触れると自分の心に持っている小説的なまぼろしのようなものを呼び起こし、その歌を自分の持っている型にはめて解釈する。(中略)さういう風にして出来た歌物語は、非常に短い、簡単な落とし話のようなものである。つまり歌が最後の解決になっている。その歌の為に物語が出来ているのだから、結局歌が一つのコントの芯になつている。つまり短篇小説の芯となって歌があるのだが、その小説のなかに歌が取り込まれている。そうすると中編・長篇小説になると、大抵はさまっている歌は後からはいってくるものである。』(折口信夫:「物語について」・昭和21年9月・全集第30巻に所収)

物語と同じように芝居にも、最初に歌があって・そこからドラマが発想されたかのようなもの、つまり「歌芝居」とでも云えるものがあります。例えば能の「熊野(ゆや)」、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などです。どちらも芝居のなかに後から歌を入れたかのように感じるけれども、実は歌の占める位置が非常に重いわけです。しかし、「菅原」に関して云えば、劇中の歌の扱いについて巷間軽く考えられているようです。そこで、別稿「菅原」・第1部の観劇随想に引き続き、このことをさらに考えて行きたいのです。

サテそこで「菅原」のなかでは、丞相の御歌とされるもの(江戸期には丞相の御歌として有名であったもの)が二首引用されており、そこからドラマが発想されています。まず最初の一首は、二段目切「道明寺・丞相名残」で丞相が詠む歌で、

「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の、聞こえぬ里の暁もがな」

というものです。こちらの歌については別稿にて考察をしました。

もうひとつは、四段目序「筑紫配所の段」の場面において丞相が詠む歌です。四段目切「寺子屋」後半では松王がこの歌を記した短冊を松の枝に結び付けて源蔵宅へ投げ入れます。その御歌とは、

「梅は飛び桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」

です。この歌は慶安元年刊の「天神本地」には菅公作とあるので、江戸期の庶民には丞相の歌であると信じられていたものですが、実は丞相が詠んだものではないようです。元歌は「源平盛衰記」に見られる源順(みなもとのしたごう)が道真没後60年ごろに詠んだ「梅は飛び桜は枯れぬ菅原や深くぞ頼む神の誓ひを」であるそうです。しかし、ここでは・丞相の作かどうかはどうでも良いことです。江戸期にはこの歌が丞相の御歌だと世間に信じられていたことの方が大事なのです。(この稿つづく)

(R6・10・29)


2)「梅は飛び桜は枯るる・・」

「梅は飛び桜は枯るる・・」の歌が出来た背景には、古くから伝わる丞相の逸話があります。ただし「大鏡」・「源平盛衰記」・その他の文献が伝える内容は一致しておらず・若干の相違が見られますが、それらを丸めて歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の大元になった逸話は、大体以下のようなものになります。

昌泰4年(901)1月25日に藤原時平の陰謀により右大臣・菅原道真(菅丞相)が左遷され、筑紫の太宰府に流されることになりました。京の屋敷を発つ時、道真は庭の梅の木を見やって・歌を詠みました。それが有名な、

「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」
(現代語訳:春風が吹いたら、梅の香りを京の都から大宰府まで届けておくれ。私がいないからと云って、春を忘れてはいけないよ。)

という御歌です。その後、歌に詠まれた梅が道真のことを慕って、都から大宰府へ一夜で飛んだそうです。これを「飛び梅」伝説と云い、今も太宰府天満宮の本殿に向かって右手にある白梅の木が「飛び梅の御神木」として大事にされています。

この話にはまだ続きがありまして、菅原邸の庭には梅の木だけではなくて、桜の木もあったと云うのです。梅の木は主人から声を掛けてもらえたけれど、桜の木は声を掛けてもらえなかった。このことを深く悲しんで、桜の木はほどなく枯れてしまったそうです。

この逸話が元となって「梅は飛び桜は枯るる世の中に・・」の歌の上の句が出来たわけです。つまり、「梅は飛ぶ」=梅王丸は丞相の後を追って筑紫へ向かう、「桜は枯るる」=桜丸は切腹して果てるという歌舞伎の「菅原」の三段目「佐太村(桜丸切腹)」の筋はここから発想されていると云うことです。

そうなると「何とて松のつれなかるらん」の下の句が気になります丞相と松とは何か関係があるのだろうか?探してみると、こんな逸話が見つかりました。声を掛けてもらえなかった桜の木が枯死したことを筑紫の配所で聞いた丞相は、これを「あはれなことだ」と感じ入って、

「梅は飛び桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」

の歌を詠みました。すると今度は松の木がこの歌に感応して、一夜にして筑紫の配所に松が生えたと云うのです。これが「追い松」伝説(=転じて「老松」となる)です。この逸話は能の「老松」のなかに取り入れられています。(なお大宰府の追い松は枯死してしまって、現在はないそうです。)「世間は松がつれないと非難するけれど、私は決して主人を裏切ったりしない」として、すべてを投げ打って道真のことを追うのが松なのです。このことが「菅原」の四段目「寺子屋」の松王丸の行動(我が息子を菅秀才の身替りに差し出す)に照応することは明らかです。

つまり芝居よりも歌の方がずっと昔に在って、歌から適切な要素を取り出しながら、作者のなかでだんだん芝居の筋が出来上がっていく、そのようなプロセスを経て成立したのが歌芝居としての「菅原伝授手習鑑」だと云うことですね。(この稿つづく)

(R6・10・30)


3)桜丸の「あはれ」について

折口信夫は、「手習鑑」の桜丸について次のように書いています。

『手習鑑における桜丸の位置は相当重大である。作者が、作中の誰を主人公と考へていたかは別として、申し合せて桜丸に深い興味を持つて掛つてゐる事は、事実である。
歌舞妓では、後ほど段々、解釈が変つて来てゐる。桜丸がどんどん年若な方へ逆行して来ていゐる。又、女方からも出るといふようなことにもなつて来たようであつて、抜衣紋の桜丸が踊るような身ぶりをすることになつたりする。此などは、私にはまだよくわからないが、牛飼舎人だから元服せないでいるので、其を世間普通の男にひきあてて考へて、「前髪立」だから、若衆であり、若衆方だから女方からも出るといふ径路をとほつたものであろう。ともあれ、桜丸があんなに綺麗になつたのは、歌舞妓芝居のあげた、よい成績だろうと思う。
』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年10月)

「手習鑑」を見渡すと、三つ子の兄弟のなかでも桜丸が登場する場面が確かに突出して多いのです。加茂堤(丞相失脚の原因を作ってしまう) - 道行(斎世の宮と苅谷姫を連れての逃避行) - 車引(時平の神通力に屈する) - 佐太村(丞相失脚の責任を感じて切腹する)、北嵯峨では女房八重が園生の前を護って討ち死にしますが・これも桜丸の件に含みます。「寺子屋」では桜丸の名前しか出ませんが、松王が「桜丸が不憫でござる」と言って泣くのはご存じの通り。最後の大内の場では桜丸は八重と共に怨霊と化して時平を悩ませます。確かに主人公と言わないまでも、「手習鑑」のなかでの桜丸の位置は相当に重いと言わざるを得ません。

桜丸は牛飼舎人でもあるし、道行では飴売りに扮した桜丸が斎世の宮と苅谷姫を荷物箱に隠して担いで逃げると云うのだから、丸本で見る桜丸は屈強な男性の印象です。しかし、歌舞伎では「手習鑑」上演が繰り返されるにつれて桜丸はますます優美な方向へ変化して、女形も演じるような優男となって行きます。これすべて作品が内包する「桜丸の散りゆく運命、滅びゆく定め」への同情と、桜丸の死を「あはれなこと」であると歌舞伎が感じた結果であると云えます。

ところで現代では「花」と云うと我々はまず桜を思い浮かべますが、はるか昔の奈良時代の貴族は梅を好んで、当時の花見と云えば梅が主流であったそうです。桜の花見が盛んになっていくのは平安前期のことで、光仁3年(812)に嵯峨天皇が京都の神泉苑で催した「花宴の節」が桜の花見の始まりと云われています。しかし、恐らくその後しばらくは平安貴族の間で桜派と梅派がせめぎ合う時代が続いたのではないでしょうかね。もし史実の丞相ホントに、梅の木には声を掛けたけれど・桜の木には声を掛けなかったとすれば、丞相は梅派だったと云えそうです。

ちなみに大宰府はもともと梅が有名な地で、万葉集にも当時大宰府の長官であった大伴旅人が催した「梅花宴」で詠まれた梅花の歌33首が収められているほどです。その大宰府の地に花好きの丞相が流されたのですから、丞相を祀る太宰府天満宮との花の繋がりは最強と云うわけです。

しかし、「手習鑑」が成立した江戸時代は、もう「花」と云えばもっぱら桜の時代でした。それは当時の「桜ブーム」を背景にしていますから、浄瑠璃作者は「梅は飛び桜は枯るる」で済ませるわけにはいかなかったのです。はかなく死んでいく桜丸の「あはれ」に対する思い入れ・同情が強いから、桜丸が切腹して・それで終わりにしておけないのです。「寺子屋」での松王の台詞を思い起こしてください。

「ハハハ。出かしをりました。利口な奴、立派な奴、健気な八つや九つで、親に代つて恩送り。お役に立つは孝行者、手柄者と思ふから、思ひ出だすは桜丸、御恩送らず先立ちし、さぞや草葉の蔭よりも、うらやましかろ、けなりかろ。悴が事を思ふにつけ、思ひ出さるる、出さるる」

この松王の台詞を、「あからさまに息子・小太郎のことで泣けないので・ここで桜丸のことを持ち出して・かこつけて泣く」と云う解釈は昔からありました。しかし、浄瑠璃作者が「手習鑑」のなかで桜丸に相当に重い位置を与えていること、さらに死んだ桜丸の「あはれ」に対する同情が殊更に強いことを考えれば、松王がここで唐突に桜丸のことを持ち出したとは、吉之助にはとても思えないのです。もちろん父親として松王息子の死が悲しいに決まっていますが、それと同じくらいに弟・桜丸の死が悲しい・その無念さが悲しいと云うことなのです。そこは松王の気持ちを素直に受け取らねばなりません。

そこで今回(昭和56年12月国立劇場)での「寺子屋」ですけれど、勘三郎の松王・梅幸の千代の悲しみのなかに、桜丸の死を悼む気持ちがしっかり表われていたことに心底感心させられました。松王の気持ちを女房千代が、

「その伯父御に小太郎が、逢ひますわいの」

の台詞でしっかり受け止めている。どう云うところでそう感じるか・・と云うのはちょっと難しいが、印象論になりますけど、息子・小太郎の死は親としても納得のところで送り出していることであるから、息子の死が悲しいのは当たり前なのだが、両親としてそこは覚悟をしているということなのです。これだけなら大泣きするまでに至らないはずですが、ところがそれが桜丸の「あはれ」と重なることで、夫婦のなかに小太郎の「あはれ」がより強く迫るものとなる。だから松王夫婦の「あはれ」の感情は、或る意味論理的なもので透き通っていると感じますね。勘三郎の松王・梅幸の千代の台詞は、吉之助にはそのように聞こえました。(この稿つづく)

(R6・10・31)


4)「寺子屋」から見た桜丸

このように「菅原」を桜丸の視点から読み直してみると、浄瑠璃作者の桜丸への思い入れ、桜花の「散るべき定め」を愛する気持ちがとても強いことに改めて感じ入ってしまいます。寺子屋では名前しか登場しないけれども、ここで松王が「桜丸が不憫でござる、桜丸が不憫でならぬ、桜丸、桜丸・・」と言ってすすり泣くことは、唐突でも・こじつけでも何でもない。桜丸切腹の「あはれ」の余韻が、この場にまで尾を引いていると云うことです。そこに庶民の「桜」ブームを背景に成立した「菅原」ならではの江戸期の美学が現れています。桜とは、儚く散っていく・潔く散っていく「定め」そのものです。このイメージが「梅は飛び桜は枯るる・・」の歌に重なって行きます。

今回(昭和56年12月国立劇場)の「菅原」通し上演・第2部の成果のまず第一は、「寺子屋」後半の勘三郎の松王・梅幸の千代の会話のなかに、桜丸切腹の「あはれ」の余韻が感じられたことでした。これは確かに車引-佐太村-寺子屋と通したことの効用に違いありませんが、それもこれも勘三郎と梅幸が、桜丸と小太郎のなかに共通して在る「もののあはれ」を正しく感知していたからこそです。

そこから逆算する形で、今回の第2部を振り返ってみたいのですが、車引の場で梅王・桜丸は、藤原時平への恨みを晴らすため、吉田神社にやってきた時平の牛車の前に立ちはだかります。しかし、時平の神通力になす術がありません。この時桜丸は完全に燃え尽きてしまったのです。佐太村での桜丸は、舞台に登場する前から既に死を覚悟しています。

菊五郎の佐太村の桜丸は美しいのだけれど、憂いの表情が強過ぎて、ちょっと重ったるい印象がしますねえ。死を覚悟しているから悲しみが深くなる・そう云う理屈であることは分かりますが、もう少し吹っ切れた表情をした方が良いのではないでしょうか。丸本を読むと、桜丸が登場する場面は、

兄弟夫婦に引別れ、取り残されし八重が身の、仕舞ひもつかぬ物思ひ、門へ立ちそに待つ夫、思ひがけなき納戸口、刀片手ににつこと笑ひ、
「女房共、さぞ待ちつらん」

と描写されています。「につこと笑う」と云うのは、とても印象的です。これは桜丸が既に死を受け入れており、この世への未練を完全に断ち切っていることを示しています。この後桜丸は死ぬ理由を女房八重に長々と語り、

「菅丞相の姫君とわりなき中の御文使ひ。仕終せたが仇となつて、讒者の舌に御身の浮名。つひには謀叛と言ひ立てられ、菅原の御家没落。是非もなき次第なれば、宮姫君の御安堵を見届け、義心を顕はすわが生害。今朝早々こゝまで来て右の段々、生きて居られぬ最期の願ひ、聞き届けて腹切刀、親の手づから下されたわい、女共。われに代はつて御礼を申し、死後の孝行頼むぞ」と、義を立て守る夫の詞・・

と言います。内容としては菅家没落の原因を作ってしまった責任を取ると云うことです。しかし、悔恨や悲しみの感情はそこには見えず、口調は淡々としています。すべては過ぎ去ってしまったこと・・という感じに聞こえます。桜丸のなかに悲しみ・憂いの感情はもうないのです。だから桜丸は「につこと笑う」のです。これは桜丸が「生きるのを諦めてしまった」と云うことではないと思います。生とか死とか、そう云う区別が桜丸にはもうないのです。この場面の桜丸は、その名前の通り「散るべき定め」そのものと化しています。或いは「あはれ」そのものだとも云えましょうか。それが佐太村の桜丸なのです。(この稿つづく)

(R6・11・4)


5)勘三郎の松王・七代目梅幸の千代

今回(昭和56年12月国立劇場)の「菅原」・第2部について以下メモ風に記することにします。

前半の車引と佐太村での三つ子の兄弟、松王(海老蔵)・梅王(勘九郎)・桜丸(菊五郎)はまずまずの出来です。「まずまず」と書きましたけど、現在(令和6年時点)の同じ歳頃の役者がこれと同じレベルで出来るかと云うと甚だ心許ないですねえ。それを考えれば、ここでの海老蔵・勘九郎・菊五郎ともにホントは「よくやっている」と書くべきなのでしょう。昭和から平成の歌舞伎へ、若手への技芸の受け渡しが比較的スムーズに行ったのは、教えられたことを実地でやる場をこのように意図して若手に与えたからだと思います。やはり大事なのは場数を踏むことですね。

三つ子のなかでは、勘九郎の梅王が神妙にやっていてなかなか良い出来です。この時代の勘九郎は何をやっても「神妙」な印象が付きまといますが、もちろん神妙が悪いわけではない。この過程があったから、後の勘九郎の活躍があるわけです。低調子の発声が力強いのが義太夫狂言に似合ってまことに宜しいですが、もう少し身のこなしにキレが欲しい感じがするのは残念ですね。海老蔵の松王が独特の大きさがあるのが良いところですが、セリフは相変わらずです。菊五郎の桜丸は前章で触れた通り憂いの表情が強過ぎるところが気にはなりますが、哀しみの風情はあって悪くない出来です。

佐太村では羽左衛門の白太夫が注目です。この人の芸風だと白太夫が実直な印象になって来るようで・それはそれなのだが、ちょっとアッサリ風味で・そこが物足りないと感じる方はいるかも知れません。もう少し白太夫の頑固な性格を押し出してみたらどうかと思いますが、白太夫はそこのバランスが難しい役ですね。児太郎の八重は抜擢で頑張ってはいますが、セリフがキンキンして落ち着かない。まあこれも場数を踏むことで次第にこなれたものになって行くわけです。佐太村は、滅多にない国立での通し上演の機会であるから完全な形でやって欲しかったですが、茶筅酒が簡略化された形であったのはちょっと残念なことでした。

そういうわけで前半の車引と佐太村は多少軽めで、今回・第2部はどうしても寺子屋のウェイトが重くならざるを得ませんが、こちらは寺入りからの丁寧な上演であるし、脇役まで揃った充実した出来映えになりました。吉之助も随分多くの寺子屋を見ましたが、この時の舞台はそのなかの筆頭の出来に挙げて然るべきものです。

まず羽左衛門の源蔵・雀右衛門の戸浪の夫婦がとても良い。渋いと云えば確かに渋い印象がしますが、クライマックスの首実検に向けての段取りを着実に踏んでいます。ここで緊張感を高めたことが、後半に効いてきます。「せまじきものは宮仕え」の台詞を沈痛に重く聞かせたのは羽左衛門の功績です。源蔵の苦しさが伝わって来ます。やはり寺子屋は、源蔵が良くないとホントの意味で面白いものになりません。

勘三郎の前半の松王は、羽左衛門の源蔵の渋い行き方とよく噛み合っています。「世話味がある」というと・もしかしたら悪く言っているように聞こえるかも知れないが、形の大きさよりも情感に重きを置いた行き方です。これが勘三郎の松王の良さです。「無礼者め」の見得も「源蔵よく討った」の見得も、ホントに心情がこもって・細やかで上手いものです。後半の勘三郎の松王・梅幸の千代の良さについては前章でも触れましたが、「もののあはれ」を正しく感知して、吉之助にとってこれは忘れ難い舞台のひとつです。

(R6・11・5)


 

 


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