「野田版・研辰」・20年振りの再演〜六代目勘九郎の守山辰次
令和7年8月歌舞伎座:「野田版・研辰の討たれ」
六代目中村勘九郎(守山辰次)、八代目市川染五郎(平井九市郎)、三代目中村勘太郎(平井才次郎)、十代目松本幸四郎(家老平井市郎右衛門)、三代目中村扇雀(僧良観)、二代目中村七之助(粟津の奥方萩之江・姉娘およし)、初代坂東新悟(妹娘おみね)他
1)「野田版・研辰」・20年振りの再演
イヤ暑いですねえ。本稿は令和7年8月歌舞伎座で上演された「野田版・研辰の討たれ」の観劇随想ですが、材料はそれなりにあるのですが吉之助が暑さで参ってしまっているため、執筆ペースがタラリタラリと進みますので、そこのところ宜しく。ご存じの通り「野田版・研辰の討たれ」(以下「野田版・研辰」で通す)は、木村錦花原作・平田兼三郎脚色の新歌舞伎「研辰の討たれ」(大正14年・初代猿翁により初演されて・世間に一躍「研辰ブーム」を巻き起こした、以下はこれを「原作・研辰」で通す)をベースにして、現代演劇の旗手・野田秀樹が自由な発想で書き換えた作品でした。「野田版・研辰」初演は平成13年・2001・8月歌舞伎座のことで、主演の守山辰次を五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎)が勤めました。その後平成17年(2005)の勘三郎襲名披露興行では東京・大阪でも再演されて、勘三郎による実験歌舞伎の最大の成功作となりました。(勘三郎の実験歌舞伎には他に演出の串田和美とのタッグによるコクーン歌舞伎の路線があり。)
別稿(昨今の新作歌舞伎の動きを考える)でも触れましたが、戦後歌舞伎においても昭和30年・40年代は毎月の歌舞伎座の演目に新作(当時は「書き物」と呼びました)がよくあったものでした。ところが昭和50年代に入ると新作がめっきり減り始めて、平成になると演目が古典ばかりになっていきます。「野田版・研辰」が初演された2001年前後は、長い歌舞伎の歴史のなかでも例外的に新作が少なかった時代であったと云えます。この時期の特筆すべき新作歌舞伎を挙げるならば、まず一つは昭和61年・1981・2月に二代目猿翁初演のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」であり、もう一つが野田−勘三郎による・この「野田版・研辰」と云うことになります。
普段の古典歌舞伎では、歌舞伎役者は「型」に縛られるものです。「型」と云うのは、その通りにやっていさえすれば・とりあえず「それらしく」見えると云う魔法の公式ですが、まあ考え方によっては窮屈な・自由度の少ないものに違いありません。ところが新作であると、それはない。いわば制約がまったくないところで自分が「型」を創始出来るわけです。「野田版・研辰」初演では、歌舞伎役者がこんなに生き生きと「演じることが楽しくって仕方がない」という表情をしているのも随分珍しいと感じたことを思い出します。これは当時新作と云うものがほとんどなかったからでもありました。
今回(令和7年8月歌舞伎座)の「野田版・研辰」は、あれ(初演)から24年後、メンバーを世代交代しての上演になります。これで「野田版・研辰」がいきなり古典になると云うものでもありません。しかし、意識するなと云われても、やっぱり演じる側も・見る側も、昔の舞台を意識してしまうことになるのです。それはまだ確固たる「型」になってはいませんが、何だかそれに近いような雰囲気を醸し出しています。またこれが歌舞伎であるならば、歌舞伎役者たる者それを意識しないのでは困るとも云えますね。
正直に申し上げると、吉之助は「野田版・研辰」は主演の十八代目勘三郎の個性があまりに勝ち過ぎるために再演が難しいだろうと考えていました。今回主演の守山辰次を息子の六代目勘九郎が勤めますが、父とはまた違った個性で研辰という曲者(歌舞伎のなかでも際立って特異なキャラですねえ)を勘九郎がどのように演じるか、その時に昔の父の舞台のイメージをどのように生かすか・或いは敢えて捨てて掛かるか、そんなことなど考えながら舞台を見たのですがね。(この稿つづく)
(R7・8・7)
2)「綯い交ぜ」の技法
野田秀樹の「野田版・研辰」書き換えの工夫は、「忠臣蔵」の仇討ち(元禄15年12月14日)が終わった直後・世の中がその興奮未だ冷めやらぬ時代へ設定を移したところにあります。これで立派な仇討ち(と世間からは云われているもの)と「研辰」の仇討ちとの対比を明確にしたのです。これを仇討ち批判と読むことも出来ますし、自ら勝手気儘に踊っているか・踊らされているか分からない世間への批判と読むかはご自由ですが、野田はこの時代設定で「原作・研辰」を自分の得意領域へ確かに引き込んでいます。
実は「研辰」の実説とされるものは、芝居になったものと内容がかなり異なります。これは実説の仇討ち(仇敵が研屋の町人・討手が武士という珍しいパターン)が世間で評判となって・すぐに芝居化されて・さらに上演が重ねられるなかで筋に尾ひれが付いていく、「原作・研辰」もその系譜の上にあって・いろいろ面白おかしく作劇がされて行くので、実説とは随分と内容が変わってしまいました。と云うか実説と関係ないところで・芝居の筋がどんどん独り歩きしていったようなのです。その事自体はどうでも宜しいのですが、何故「研辰」の討ち入りが長い歳月人々の関心を引き続けて来たか、このことだけは考えておかねばなりません。実説は文政10年(1827)閏6月17日に讃州阿野郡南羽床下村(みなみはゆかしもむら)で起きた仇討ち事件でした。羽床は金毘羅歌舞伎で有名な香川県琴平町からほど近いところにあります。(つまり善通寺大師堂裏で大勢に取り囲まれたなかで仇討ちが行われたと云うのは芝居のなかの話です。)
ここで文政10年(1827)という年号が出てきます。これは元禄15年(1702)から約120年後ということです。ご承知の通り、「忠臣蔵」は江戸中期の典型的な仇討ち事件でした。これに対し「研辰」の仇討ち(実説から大正14年の「原作・研辰」までも含んだイメージ)は江戸後期でしかあり得ない仇討ち事件の様相を示しています。「研辰」の仇討ちは、芝居や講談・読本で仇討ちのパターンが散々試されて、忠義が喧伝され尽くしたところで趣向がちょっと「飽きた・疲れた」時代の産物なのです。野田は「野田版・研辰」のなかで、これら二つの異質な仇討ちを「綯い交ぜ」にして見せました。「研辰」の面々を元禄期に放り込んだところで生じる違和感こそ作者の狙いです。
このことはまったく同じ時期・文政8年(1825)7月江戸中村座で初演された四代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」のことを考えて見れば事情が明らかになります。「四谷怪談」は「忠臣蔵」の世界と綯い交ぜされて、初演時には二日を掛けて「忠臣蔵」とテレコ上演されました。現行では「四谷怪談」の筋のみの上演のため「忠臣蔵」の影はどうしても薄くなりますが、伊右衛門の行動も本来は「忠臣蔵」の視点から読まねばならぬものです。そこから伊右衛門が封建社会の忠義の論理に縛られたところからの解放を目指す「飽くなき自由人」であるか、はたまた自己の欲望のみを追求した結果・悪の泥沼にはまり込んだ「腐った武士」なのかが問われることになるでしょう。
だから「研辰」の仇討ちとはまさに文化文政期的な・この時代にしかあり得ない仇討ちだと云う認識が大事なことになるのです。だからこそ「綯い交ぜ」の素材として「忠臣蔵」が絶妙にフィットすることになるわけです。「野田版・研辰」はそんな「綯い交ぜ」の構造を前面に出してはいません(はっきりと表に出るのは冒頭の吉良邸討ち入りの影絵くらいです)が、実は全体を通して・登場人物の台詞の端々に「忠臣蔵」の世界がさりげなく効いています。見れば見るほど野田の手腕に感心させられます。(この稿つづく)
*歌舞伎の「研辰」物の成立過程については、出口逸平著:「研辰の系譜〜道化と悪党のあいだ」(作品社)に詳説されています。
(R7・8・9)
3)捻じ曲げられた仇討ち
「野田版・研辰」で重要と思われるポイントを二つほど挙げておきます。まず一つは、「野田版・研辰」の仇討ちは意図的に「捻じ曲げられている」と云うことです。恐らくこのことは辰次のドタバタばかりに目が行ってしまってスルーされてしまうだろうと思いますが、野田演劇の他作品にも共通するであろう問題提起(大衆)を孕んでいます。
市郎右衛門は辰次が仕掛けたからくり人形に驚いて脳卒中で死んでしまいました。これには因果関係がありそうでもあるが、これだと「ご家老が辰次に殺された」と立証することはかなり難しい。何よりも武士が脳卒中で死んだとなると家名に傷が付く。そこで家来たちは市郎右衛門の死体に刀傷を付けるのです。これで「ご家老は辰次に背後から斬られて死んだ」と云うことにこじ付けると云う操作がなされています。先にトンずらしてしまった辰次はこの捏造の事実を知らないし、後から現場に駆け付けた平井兄弟は「父は辰次に切り殺された」と思い込んだままで、仇討ちの使命を押し付けられて送り出されるのです。
つまり家来たちはトンデモないことをしているのです。家来たちは野田演劇の重要な要素である「大衆」の一部であり、自らの正義感・倫理観で「よかれ・よかれ」で手前勝手なことをして、しかも罪の意識がまったくありません。これに辰次も平井兄弟も振り回された恰好です。何だか端から胡散臭いところがある仇討行なのです。このような「研辰」の仇討ち事件の核心を、野田秀樹は見事に探り当てています。
そう考えると実説の方も何やら胡散臭い。実説の仇討ちは江州膳所藩士平井市郎次が研師辰蔵の女房と密通し・これを恨みに思った辰蔵が市郎次を殺したことに端を発します。弟平井九市と外記の兄弟は直ちに役所に仇討ちを申し出ましたが、認められませんでした。これには生前の市郎次の行状が災いしています。膳所藩にとってこの仇討ちは「迷惑」だったのです。このため平井兄弟は仇討免許状がないまま・約4年の歳月を掛けて各地を巡って・遂に辰蔵を討ち果たすのですが、この仇討ちが世間で大変な評判になりました。京阪の地でも評判となり瓦版まで出る大人気でした。こうなると免許状を出さず・冷たい対応をしてきた膳所藩の立場が微妙なことになってきます。悩んだあげく、結局、膳所藩は元々10石であったのを90石に加増という破格の待遇で弟九市を迎え入れることになります。まあいつの時代になっても似たような現象が起きるものです。ここにも「大衆」の影が見えますね。
もう一つ「野田版・研辰」で注目されるのは、最後の大師堂裏手の場で辰次が本職の研屋に戻って・自分がこれで斬られることになる刀を研いで・「散りたくねえ、死にたくねえ」と呟くシーンを野田秀樹が付け加えたことです。これは印象的なシーンでありますねえ。ちょっとセンチメンタル過ぎる印象はありますが、ここで観客が「研辰カワイソウ」とホロリと同情することで、これまで辰次のコミカルな逃避行を笑い転げて見ていた観客(観客も「大衆」の一部)は免責になると云うわけです。
ところで実説の研師辰蔵のことですが、文政10年(1827)閏6月17日・平井兄弟が羽床の家に踏み込んだ時、ちょうど辰蔵は仕事場で上半身裸になって研ぎ仕事をしていたそうです。辰蔵はすぐさま応戦しようと壁に架けた刀を掴みましたが、目釘をはずしていたので刀身が抜けてしまって、このため兄弟に討たれたそうです。享年38歳。(「綾南町誌」による) ですから辰蔵は自分が斬られる刀を研いだのではありませんが、討たれた時の辰蔵は確かに研ぎ仕事をしていたわけです。野田はこのことを調べて、それで大師堂裏手の場を書いたのかも知れませんね。(この稿つづく)
(R7・8・11)
4)「古典」になると云うこと
歌舞伎新作が「古典」になるとは一体どのようなことでしょうか。「それが好評で或る程度の頻度で繰り返し上演される」ことは大事な要件に違いありませんが、これだけでそれが歌舞伎の「古典」になったと云えるのでしょうか。
ただ目新しく・面白いだけでは、いくら出来が良くても歌舞伎の「古典」にならないのです。歌舞伎は伝統芸能ですから、演じる側や見る側が共通して持つ・漠然たる「かぶき」のイメージがあるはずです。繰り返し上演されるなかで舞台が何か一定の「かぶき」のイメージに収束していくのが見えるようであれば、その作品は段々「古典」へとこなれていくのだろうと思います。このことは最初から意図してそう出来るものではなく、結果論として云えることです。しかし、幸い歌舞伎は長い歳月のなかで様々なスタイルを取り込んで来ました。だから歌舞伎は意外と懐が深い・なかなかしたたかな演劇なのです。どんな方向からアプローチしても、歌舞伎は柔軟にこれに対応することが出来ます。他のジャンルの演劇ならば多分同じように行かないと思います。
ですから歌舞伎新作は意図して「古典」になるものではなく、長い歳月のなかで後ろを振り返った時に、結果としてそのように見えるものです。ただし「古典」になる新作は確率として決して高いものではありません。別稿(昨今の新作歌舞伎の動きを考える)でも触れた通り、あの二代目左団次の新歌舞伎であっても打率(新作成功率)は数%くらいのものでした。
前述した通り、この50年間は特異的に新作が少なかった時代でした。吉之助が歌舞伎新作の初演に立ち会ったものは限られますが、二代目猿翁初演のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は(四代目猿之助を経て)孫の団子に引き継がれて、「古典」と呼ぶにはまだ早いけれど、その方向が見えて来たということは云えそうです。今回(令和7年8月歌舞伎座)の「野田版・研辰」にも同じような印象を持ちますが、こちらはもう少し歳月が掛かりそうな感じがしますね。
但し書きを付けますが、舞台の出来が「まだまだ」と言うのではありません。この段階を経なければ、「古典」への道は開けて来ないのです。「野田版・研辰」は「ヤマトタケル」よりも初演が20年遅いわけですし、研辰を演じた故・十八代目勘三郎の強烈なイメージがまだ根強く残っていることがある。作品のスタイル自体がまったく異なるせいもあります。(古典化の観点からすると長沢勝俊作曲の「ヤマトタケル」背景音楽が果たした役割はとても大きいことを指摘しておきます。)吉之助が見た印象では、今回の「野田版・研辰」は、(もちろんみんな頑張っているのだが)主演の勘九郎だけでなく・他の役者たちもみな、恐らく演出の野田秀樹も、客席で見ている吉之助もまたそうなのですが、誰しもそれぞれ初演のイメージをどこかで追ってしまう。だから芝居がなかなかスムーズな流れに乗って来ないもどかしさが若干つきまといます。歌舞伎は伝統芸能ですから過去への憧れを持つのは大事なことですが、演じる側も見る側も、まだ「吹っ切れていない」と云うことでしょうかね。(これは書かないでもいいことですが、現時点に於いては、「ヤマトタケル」の方がいくらか「吹っ切れたところがある」ということです。)過去への意識を胸に秘めつつ、作品を「かぶき」のイメージへ大きく取り込んで前に進む作業が必要なのです。そうなるためにはもう少し歳月が・或いは更なる代替わりが必要なのかも知れません。(この稿つづく)
(R7・8・11)
5)六代目勘九郎の守山辰次
吉之助は「野田版・研辰」を作品として評価しつつも、主演の十八代目勘三郎の個性があまりに勝ち過ぎるために再演が難しいだろうと考えていました。そこで今回(令和7年8月歌舞伎座)での主役を勤める勘九郎のことですが、よく頑張りました。予想以上によく頑張ったと言って宜しいです。息子であるから声質も似ているので父上のことを思い出す瞬間がしばしばあるし、かと言って父上の「なぞり」に陥らず、ちゃんと勘九郎の辰次になっていました。まあちょっと無理してる感じがしないことはない。勘九郎の辰次では父上とニンが異なるから・シリアス味が強くなる、だから父上の時のように無条件に笑えない雰囲気になって来ますが、そこを含めて勘九郎の辰次になっていました。
例えば大師堂裏手の場で自分を斬るための刀を辰次が研ぐ、これを見ていた群衆が「助けてやれよ」と言い始めたため・平井兄弟はやむなくその場を立ち去ります(実は見せ掛けである)。勘三郎の辰次は刀を研ぐシーンは上手いもので、「散りたくねえ、死にたくねえ」という台詞は身につまされました。しかし、勘三郎の辰次ですと、もちろん嘘を語ったつもりはなかろうが、何と云いますかねえ、辰次はその時の気持ちの真実を正直に語ってはいるのだが、平井兄弟が立ち去ってしまうと・また辰次の気持ちに微妙な変化が起きる、「ハアうまくやったぜ・これで助かった」みたいな、ここで一息ついたら勘三郎の辰次はまた性懲りもなく面白ろおかしく生きていくのであろうなあと思わせるところがありました。
一方、シリアス味の強い勘九郎の辰次であると、この辰次は「これからは俺も性根を改めて真面目に生きていこうなあ」と云うことをちっとは真剣に考えただろうと云う気がしますね。だから平井兄弟がこの場に戻って来て辰次が斬られるラストシーンで、「仇討ちという行為」の非情さがより強く観客の心に突き刺さります。その意味では幕切れは「原作・研辰」のテイストに近くなったと云えるでしょう。ちなみに平井兄弟を演じた染五郎・勘太郎も勘九郎の方向性に沿った感じでシリアス味が強めで、これも良かったですね。
このように同じ作品も演者を変えて演じれば、見えて来る光景も自ずと変わってくるものです。そうやって作品を繰り返し上演しているうちに、いつの間にやら作品の最大公約数的なイメージが積み上がっていく、歌舞伎新作が「古典」になるとは多分そのようなプロセスでしょう。だから「野田版・研辰」にとって古典化の道程はまだ始まったばかりです。しかし、幸先良いスタートを切ったのではないでしょうかね。
(R7・8・15)