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五代目米吉のお三輪・三代目福之助の鱶七

令和7年3月京都南座:「妹背山婦女庭訓〜金殿」

五代目中村米吉(杉酒屋娘お三輪)、三代目中村福之助(鱶七実は金輪五郎今国)、初代中村虎之介(烏帽子折求女実は藤原淡海)、二代目市川猿弥(蘇我入鹿)、初代中村壱太郎(豆腐買おむら)、初代上村吉太朗(入鹿妹橘姫)他


1)お三輪の悲劇の意味

本稿は令和7年3月京都南座・花形歌舞伎での、米吉初役のお三輪・福之助初役の鱶七による「妹背山・金殿」の観劇随想です。

ところで「お三輪は女形ならば誰もがいつかは演ってみたいと思う役だ」と云われますが、実際演ってみるとどんなものでしょうかね。周囲から受け身で苛められるばかりで・自分から能動的に仕掛けていく場面がないし、感情が爆発して疑着の相になって・やっと発散出来ると思いきや、金輪五郎にいきなりブスリとやられると云うことで、ストレス発散が難しい役ではないかと思います。

可憐な町娘がたまたま恋してしまったのがやんごとない御方(藤原淡海)であったために、醜い非情な政争の生贄にされて死んでいくと云うのが、「御殿」の主筋です。それでもお三輪は今際(いまわ)の際に「あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝いと言って死んでいきます。このお三輪の最後の言葉が現代の女性にどれくらい受け入れられるか、そこに「御殿」の成否が掛かっています。恐らく令和の現在の「御殿」理解は「恋する人を一途に思い詰める・お三輪の心はひたすら美しい」と云うところに留まっているでしょう。まあそれは決して的を外しているわけでなく、それがなければ「御殿」のドラマは始まりませんが、もし「御殿」がそれだけのドラマであるとすると、まるでお三輪の遺骸を放り出すかのような幕切れに決して共感が出来ないと思います。

けれども「この無情の幕切れのなかに作者・近松半二の無限の慟哭が聞こえる」、このことが分かって来れば「御殿」の幕切れがまったく違った様相になって見えて来るのではないでしょうかね。それは、たった一人の娘の、醜い政治の世界とまったく無関係の・個人的な感情(恋心)に過ぎません。「あの人と一緒に・いつまでも幸せに安穏に暮らしたい」という儚い願望を示しているだけのことです。しかし、ひとりの娘の健気な願いが、それはちっぽけなものに過ぎないけれども、そんな個人のちっぽけな願いでも世の中の在り方を根底から覆す力を持つことだってあるのだと信じたい。「御殿」がそのいい例です。そのためにお三輪は犠牲になったのです。今は芝居の話だけど、「世の中をもっと住み良いものにしたい・もっと自由で公正な世の中にしたい」と云う強い願いが人々の心のなかから無くなってしまったら、そりゃあ世の中が良くなるはずがないよね、だからそうなるようにしようよ、これが半二がお三輪に授けたメッセージだと思います。しかし、芝居ではこのメッセージを時代物の厳しい幕切れに託さざるを得ない、そこに半二の慟哭が聞こえると云うことですね。(この稿つづく)

(R7・3・10)


2)米吉のお三輪・福之助の鱶七

米吉・初役のお三輪は清らかで可愛い娘であるのは、そこのところは予想通りです。お三輪の要件は殿御を想うひたむきさと汚れなき気持ちと云うことですが、そこはしっかり押さえられています。しかし、まあ現在のところ可愛らしさの範疇に留まっている感じです。これは初役ならば仕方ないことであるし、可愛くなければ米吉じゃないのだから、現段階ではこれで十分宜しいのです。しかし、このためいじめ官女に苛められても、「可哀想だけれど、あはれまでではない」という印象になってしまいました。やはりこの場面は「あはれ」に見えて欲しいのです。ここは米吉に限ったことではなく、若手女形に共通した課題ですね。

一見したところ、昨年1月の八重垣姫・或いは昨年11月の時姫との性格の差異があまり感知されないようです。どれも似たような可愛い印象がします。確かに「殿御を想うひたむきさ」と云うことでは同じ性根に違いありません。けれどお姫様と杉酒屋の娘とは情念の表出が異なって来ると思います。時代と世話の様式の違いと云うこともありますが、情念の表出の仕方がもっとストレート、と云うかもっとあられもないのがお三輪だと思います。多分そこまで開き直るのが、女形にとって並大抵でないのでしょうねえ。しかし、そこまで行かないと疑着の相に至らないことになります。嫉妬した女の生血ならば誰でも入鹿の神通力を消し去る魔力を持つわけではありません。お三輪の生血は特別なのです。そこの違いを感知させてもらいたいですね。

他方鱶七という役は位置付けが難しい奇妙な役だと思います。個人的な・ちっぽけな憤(いきどお)りに過ぎなかったお三輪の情念を、いわば公憤(おおやけばら)のレベルにまで引き上げる・と云うか論理的に「こじつける」のがその役割だと云えましょうか。吉之助が思うには、鱶七役者は(金輪五郎としての)二度目の出では大時代でスケールの大きさを誇る役者が大勢居ますけれど、前半(鱶七上使)に不満がある役者が少なくありません。大抵は漁師鱶七としての最初の出を後半と同じような重ったるい大時代の感覚でやっています。しかし、ここははるか昔の大時代の宮殿に・その場にまったく場違いの漁師が現れると云う・感覚のギャップが大事であるはずです。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に出て来るいかれ帽子屋みたいなものです。ここを大時代にやってしまったら二度目の出との変化が引き立たないではありませんか。前半を世話の軽みを以て勤めて・しかもスケールの大きさを失うことがなかった鱶七役者は、唯一二代目鴈治郎だけであったと思います。鴈治郎は小柄な役者でしたけど、鱶七に肝心なのは体格の良さではなく・肚であるなあとつくづく思いますね。

そこで福之助初役の鱶七を見ると、父芝翫譲りの線の太さを持っていることは予想通りですが、前半(鱶七上使)の成績がなかなか良かったことは嬉しいことでしたね。ここは父上より良いくらいでした。前半を世話で出来たというわけでもないのですが、台詞がテンポ良くハキハキしているので、重ったるい印象に陥らなかったことが「軽み」に通じたと云うことかと思います。一方、後半の出(金輪五郎)については大時代の重々しさを意識し過ぎて、却ってスケール不足を露呈してしまいました。そこは当然ながら父上の方が立派。義太夫狂言の息の持ち方が若手に共通した課題ですね。ともあれ前半(鱶七上使)が良かった鱶七役者は近頃珍しいことだと褒めておきます。

虎之介・これも初役の求女(実は淡海)はナヨナヨした感じにせず、淡海の性根を踏まえてキリッとした印象に仕立てたところが良かったと思います。壱太郎・これも初役の豆腐買も、「不思議の国」に迷いこんだアリスの前にひょっこり現れた三月ウサギみたいで良かったですね。

(R7・3・11)


 

 


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