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新三の「怒気」について〜六代目勘九郎・初役の新三

令和6年8月歌舞伎座:「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三」

六代目中村勘九郎(髪結新三)、十代目松本幸四郎(弥太五郎源七)、二代目中村七之助(手代忠七)、二代目坂東巳之助(下剃勝奴)、二代目中村長三郎(丁稚長松)、二代目中村鶴松(お熊)、三代目中村扇雀(後家お常)、初代坂東弥十郎(家主長兵衛)、三代目中村歌女之丞(家主女房おかく)他


1)勘九郎・初役の新三

本稿は令和6年8月歌舞伎座・納涼歌舞伎・第2部・「髪結新三」の観劇随想です。勘九郎が初役にて新三を勤めるのが話題です。勘九郎は現在42歳ですが、とっくに新三はどこかで経験済みかと思っていたので、これが初役とは驚きでした。思い出だせば親父さん(十八代目勘三郎)が初めて新三を勤めたのは昭和63年(1988)4月国立小劇場でのことで勘三郎(当時は五代目勘九郎)が32歳の時でした。公演中の4月16日に先代(十七代目勘三郎)が亡くなりました。当時のことはよく覚えていますけど・本稿ではそのことに深入りはしませんが、ここで吉之助が言いたいことは、中村屋にとって「髪結新三」が大事な演目であるのは云うまでもないことで、だからこそ当代勘九郎は新三を演じることに殊更慎重になっていたのであろうなと、心中が察せられるということです。

別稿(本年2月歌舞伎座「籠釣瓶」観劇随想)でも触れましたが、親父さん(十八代目勘三郎)の死後・中村屋一門を率いる勘九郎の苦労は並大抵でなかったでしょう。亡父の人気をそのまま引き継げるメリットもあるが、どうしてもご贔屓が亡き父の再現を息子に求めます。そうなってしまうのは仕方がないことですが、これに応えようとする勘九郎の舞台が亡き父のコピーに見えてしまう。そのような場面をこれまで幾度となく見てきました。しかし、勘九郎の芸質は、愛嬌が勝った亡父とは異なるものです。どちらかと言えば、線が太い実事の役に向きのニンであろうと思います。これまでの勘九郎はそこを亡父の方へ引き寄せた印象があって、自らの資質を十分生かし切れていなかったと思います。

しかし、十三回忌を過ぎて2月・「籠釣瓶」では、亡父の呪縛を吹っ切って・自分なりの次郎左衛門を作ろうとする姿勢が見えました。今回の「髪結新三」も満を持して取り組むということで、勘九郎の芸もこれから大きく変わると思います。そうこうしている内に襲名の話が出てくるでしょう。

ところで今回公演の特別ビジュアルですが、この写真はモノクロで新三の野太い悪を印象付けてなかなか良いですねえ。この写真の新三には「怒気」が見えます。十八代目勘三郎の新三はもちろんいいものでしたけど、このようなドス黒い悪の感触は出せませんでした。またこれは十七代目の新三とも違った感触です。勘九郎が親父さんのイメージを吹っ切って・このような野太い新三像を新たに作ろうと云うのならば・これは大いに期待が持てると思いました。

そんな期待をして歌舞伎座に向かったのですが、実際の舞台で見た勘九郎の新三は、まだそこまでの域に至っていないようでした。特別ビジュアルでイメージしたよりも、カラッと軽い印象がしますねえ。吉之助としては少々時代に傾いたとしても・もう少し重く粘った感じに持って行って欲しかったのですが、或いは親父さんの新三の行き方との折衷を取ったということでありましょうか。まあそんな不満も若干ありますが、これから回数を経ることで変わるでしょう。今回は勘九郎の新三が線の太さを意識したところを評価したいと思います。(この稿つづく)

(R6・9・1)


2)新三の「怒気」について

前章で新三の「怒気」ということを書きました。多分、新三は日常に飽き足らぬところがあって・何か「でっけえ」ことをしたいと思っているのです。「でっけえ」ったって、大店のお嬢さんをかどわかして銭をふんだくり、街の顔役の親分の鼻を明かして、周囲から「あいつも大した男になったもんだ」と云われたいだけのことです。新三の「でっけえ」って云うのは、そんな程度のことに過ぎません。しかし、新三は閉塞した日常に不満を抱いており、何かヒリヒリした刺激的なものが欲しい。そのような説明が出来ない憤懣こそが新三の「怒気」です。日々そんなモヤモヤを抱えているところで・白子屋店先でお熊と忠七の話を立ち聞きしてしまう。これをきっかけに普段は押し込んでいる「怒気」が新三のなかで立ち上ってくる。それはお熊に対する身分違いの淡い恋心であるかも知れないし、お店者(忠七)に対する入墨者のやっかみであるかも知れません。これを世間・社会に対する怒りだとしてしまうとちょっと筋が違うようではあるけれど、新三としては何となくそこに重なるところがあるんだと主張したい気分が多分あるだろう。そんなところで「髪結新三」は社会的視座を帯び、江戸の新三の気分が現代に重なってくるのかも知れませんね。

例えば富吉町新三内の新三と家主長兵衛のやり取りは、どんな場合でも、落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいな、軽妙で軽いお笑いタッチになりやすいものです。大家と店子の馴れ合い構図みたいなものを感じてしまいます。しかし、長兵衛の台詞をよく読めば、親分・弥太五郎源七にも屈しない新三がどうして年寄りの家主に屈するかが分かるはずです。

『・・・入れ墨というものを手前は何と心得てる。人交じりのできねえ証だ。たとい手前に墨があろうが知らねえつもりで店(たな)を貸すのだ。表向き聞いた日には一日でも店は貸せねえ。・・・・おれが太えのを今知ったか。こういう時にたんまりと金を取ろうばっかりに、入れ墨者を合点で、店を貸しておく家主(いえぬし)だ。』

「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われる裏長屋の生活にも、裏返せば、親方・子方という隷属関係によって常に監視される厳しい権力構造があるのです。それを拒否すれば共同体のなかで生きて行けない。せっかく取った三十両の半分持っていかれるということは、新三も「仕方ねえなあ」とヘラヘラ笑って取られたはずがありません。それでも長兵衛は有無を言わさず搾取するのです。新三は苦虫を噛み潰した表情で、しかし何も抗弁出来ず、黙って下を向いたでしょう。新三は「でっけえ」ことをしたつもりでも、社会はこれを許さず・容赦なく半分奪い取る、新三は甘んじるしかない。このような厳しい社会的現実が、現行歌舞伎の「髪結新三」の舞台からは全然見えて来ません。

そういえば「髪結新三」は明治6年(1873)初演ですから、すでにリアルな江戸の世話物ではないわけなのです。当時ならば人心・風俗ともに幕末江戸から大して変わっていなかったでしょうし、作者黙阿弥は新時代の演劇に適応出来ず苦しんでいたでしょうが、吉之助にはこの時期の黙阿弥が前を見据えずに・後ろ向きの芝居を書いたとは思えないのですがね。しかし、現代で「髪結新三」に人気があるのは、本作が後ろ向きの芝居(江戸ノスタルジーの芝居)だと思われているからですね。「髪結新三」はもう少し積極的な読み直しがされて良いかも知れません。

そう云うわけで、新三の「怒気」を取っ掛かりに、これまでの新三役者にはない、祖父・父の新三ともひと味違う、新しい切り口の新三像を見せてくれるかもと、勘九郎初役の新三に大いに期待したのです。ところで勘九郎が次のように語っている記事を読みました。

「父(十八代目勘三郎)が世話物をやるときに、『リアルだけど、現代劇になってはいけない』とよく言っていました。世話物は、当時の“あるある”を現代劇としてやっていたものですが、今では、畳で生活をしたことのない方々も観にいらっしゃるわけでして、つまりは時代物なんです。これを、現代のお客様は分からないからいいやと諦めずに、追求していくのが我々歌舞伎役者の宿命だと思っています。世話物のなかでも、お客様自身が江戸の生活をどこかからそっとのぞいているような気持ちになる“生世話物”として、ぜひお楽しみいただけたら」中村勘九郎:「歌舞伎美人」インタビュー・2024・8・1

インタビューで勘九郎が「「髪結新三」を時代物だと思ってやりたい」と言ったのでないことは明らかですけれど、言ったご本人も気が付いていないようだが、勘九郎はホント大事なところに触れているのです。世話物も、現代の観客から見れば、もはや時代物のなかのバラエティーのひとつだと云うことです。だから、「髪結新三」も或る意味・時代物だと思って覚悟してやった方が良いのです。ただし「様式的に写実する」こと。そこに生世話の様式をしっかり出して見せること。このように考えれば、勘九郎のニンに於いて野太い新三像を新たに作り出すことが出来る、吉之助はそう思うのですがね。(この稿つづく)

(R6・9・7)


3)「写実の様式」ということ

同月(8月)歌舞伎座での新作歌舞伎「狐花」での勘九郎の悪役上月監物は、たっぷりとした濃厚な悪の味わいを醸し出していました。他の役者が軒並み新作っぽいサラッとした軽い感触であったなか、勘九郎の監物だけが漆黒の重量感で以て中心に居座り、それが「狐花」を「かぶき」の感触にしていました。新作ものの監物と古典の新三を一緒にするようで恐縮ですけれど、生世話の「髪結新三」も現代人にとって或る意味・時代物だとするならば、生世話の「写実の様式」をたっぷり濃厚に見せることで、却って江戸のリアルが際立って来る、そう考えることが出来ると思います。しかし、多分歌舞伎役者は、写実と様式は相反するもので・「写実の様式」なんかないと思っているでしょう。写実とはサラッとした軽い感じで演技することだと云う呪縛から逃れることはなかなか難しい。

序幕第2場・永代橋は新三の悪の味わいを出して、生世話の「髪結新三」のなかで最も様式的な場面だと云えます。手代忠七を蹴倒して「オイよく聞けよ・・」で始まる新三の長台詞のことを「ツラネ」とは呼びませんが、それは芝居のなかからシーンを切り取って・新三の気っ風を歌うブレヒト的な意味での「ソング」であって、まさに「写実の様式」を歌うものです。今回(令和6年8月歌舞伎座)の勘九郎の新三はこの長台詞をやや早めの二拍子で処理していますねえ。タンタンタン・・というリズムで小気味良く写実らしく聞こえるし、ダラダラと粘る感じはないので・そこに適度な様式感覚もある、まあそう云うことでしょうかね。しかし、これだと勘九郎本来の骨太い個性があまり生きて来ない印象がします。それなりに骨っぽいところはあるのですが、どこかアッサリして物足りない。勘九郎の個性を生かすならば、ここは現代人にとっては「髪結新三」も或る意味・時代物だと開き直って、新三の悪の野太さを前面に押し出した方が良いのではないでしょうかね。そこで「写実の様式」という考え方が役に立つと思います。

勘九郎は新三の長台詞をやや早めの二拍子で処理しています。ここは役者の個性・考え方に拠るので・基調のテンポとしてはこれでも良いですが、長台詞全体を二拍子で通しているために・一本調子に聞こえます。長台詞のなかの山場が見えない。山場を作るためには谷もなけりゃいけないわけですから、谷も作らねばならないのです。新三の長台詞の山場はどこでしょうか。それは「相合傘の五分と五分・・」と「覚えはねえと白貼りの・・」という箇所です。しかし、タンタン・・という二拍子で通しているなかで・そこだけいきなり時代に押そうたって押せるわけがない。ここで押すためには正しい「段取り」というものが必要なのです。

「にこにこ笑った大黒(だいこく)の口をつぼめた傘(からかさ)も並(なら)んでさして来たからは、相合傘の五分と五分・・」

時代に張りたい箇所の直前を同じ早さの二拍子で割るのではなく、「七」と「五」のフレーズで大きく括ってみる。こうして「七」を心持ち早めに、「五」を心持ち遅めにとる。こうすることで二拍子感覚を大まかに保ちながら、台詞を小さくユラユラした揺れる感覚に出来ます。そうして直前の台詞を小さくユラユラ揺らしておいて、「相合傘の五分と五分」でググッと一気に強く時代に押し出す。これが生世話の「写実の様式」の段取りの取り方です。別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。

「七」と「五」のリズムの揺れを様式と写実の交錯・時代と世話の揺れであると考えることは出来ます。まあ一般的には早めが写実・遅めが時代の感覚でしょうが、逆に捉えることも出来ます。そこは役者の個性・考え方次第です。勘九郎の個性を生かすならば、「傘も(5)/並んでさして(7)/来たからは(5)/相合傘の五分と五分」は、「来たからは(5)」の最後でテンポをぐっと落として時代の色を強くして、「相合傘の五分と五分」でさらにテンポを落として大時代の感覚、このように持って行ったら如何でしょうか。俺は入墨者だけど素人のお前(忠七)と人間として・と云うよりも「男」として対等なんだゼエと云うわけです。そのような新三の強い自己主張がここにあるのですから、これであのモノクロのビジュアル写真に近いドス黒い悪の感触の新三が出来上がると思うのですが。(この稿つづく)

(R6・9・9)


4)世話と時代の活け殺し

「世話と時代の活け殺し」なんて言葉を、昨今は滅多に聞かなくなりましたね。世話と時代の活け殺しというのは、いままで基調のテンポを取っていた演技を最後の方で速度をぐっと落としておいて・時代の感覚で終わるかなと思いきや・世話の軽い感覚にサッと引いて終えてみせるなんて技法を云います。音楽ではこれをテンポ・ルバートと呼びます。ルバートとは盗むという意味で、まさに基調のテンポを盗んでおいて、最後に帳尻を合わせるということ。つまり活け殺しと同じことです。この技法は時代物でも世話物でも使うことが出来ます。活け殺しで、時代と世話のどちらが強調できるかは場面にもよるし、役者の個性にもよります。

現代の歌舞伎役者は、世話物のなかで台詞の一部を大時代に張り出すなんてことが、わざとらしくって・クサくって・恥ずかしくって出来ないと思っているでしょう。世話物の写実ってのはサラッと軽い感じで演技することだという思い込みから逃れることがなかなか出来ないのです。しかし、現行歌舞伎の世話物は感触がサラサラしていてコクがない。

『一般的に新劇と言われているものは、どんなささいな言葉「あっ」っていう叫び声一つでも、フィクショナルなそれに対応する肉体があるんだっていう意識を、日常を描写する演技を志向したがために欠落させちゃったっていうことがあると思うんですよ。だから新劇の演技ってのは、おおむね日常にもたれかかっている。そういう意味で表現が自律してこないわけです。今の歌舞伎の場合は、そういうことを一時期やったんだけども、今度はそういうフィクションが習慣になっているわけだから、新しく自分が作ったものじゃないわけでしょう。もう歌舞伎の世界全体がそういう約束事で出来ているわけだから、全体がフィクションになっちゃっている。そういう肉体をその都度作る必要がない。それは最初からなぞりになるわけですね。そうするとこのフィクションは日常と等しいわけで、新劇とちょうど対極にあるひっくり返った関係にすぎないんだっていう考え方を取れる。』(鈴木忠志:広末保との対談・「行為と論理のはざま」・1975年3月)

歌舞伎役者だって元々、どんなささいな言葉「あっ」っていう叫び声一つでも、フィクショナルなそれに対応する肉体があるんだっていう意識を持っていたのです。しかし、現代歌舞伎ではそういうものは主として時代物に適用される原理であって、世話物は写実・つまり日常をありのままに映すものだと云う近代演劇の概念に毒されて、世話物からこのフィクショナルの原理を排除してしまいましたね。逆に時代物の方は、フィクショナルななぞりが主体になるものだと決め込んでしまって、これもおかしな感触になってしまいました。しかし、本来の歌舞伎は、時代と世話の感覚が・様式と写実の狭間に自在に揺れ動いて、それでそれぞれの作品独自の色合いを醸し出していたものなのですがねえ。そういう意味では時代物・世話物なんて区分自体がどこか変なのです。

勘九郎は、昭和期のお祖父さん(十七代目勘三郎)の髪結新三でも早野勘平でも遺された映像(最晩年のものよりは・出来るだけ昔の映像が望ましい)を見てみれば宜しい。世話物であるのに「どうしてここで大時代か」と驚くような瞬間がありますから。そんな「世話と時代の活け殺し」に、勘九郎本来の骨太い個性を活かすためのヒントがあると思うのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・9・17)


5)世話物ももはや時代物

勘九郎の新三は、最初に材木町白子屋店先に登場した時の雰囲気はなかなか悪くありません。しかし、芝居が回り始まると次第に感触がカラッと軽い方へ傾斜していきます。良く云えば小気味が良いということですが、もう少し粘った感じに、例え少々時代っぽく見えたとしても、たっぷりやってくれた方が、勘九郎の太いタッチの個性が活かされるだろうにと思います。多分勘九郎のなかに在る写実のイメージがこういう軽い感触なのでしょうねえ。だから芝居に勢いが付いてくると、自然と感触が軽い方へ傾斜してしまうのです。

そこで勘九郎のなかの写実の軽い感触を生かして、勘九郎の特質である太いタッチの個性との両立を考えてみたいのです。「現代の観客から見れば世話物ももはや時代物みたいなものである」という現実認識を踏まえるならば、全体の芝居の感触の基調(ベース)をもう少し粘った感じに・重くたっぷりとした方向へ持っていく。「時代の感触を少々強めに置く」と云えば、まあそう云うことです。こうしておいて「世話と時代の活け殺し」の技法で軽い世話の感触へ刺さり込む、これで勘九郎の個性が生きて、なおかつ勘九郎のなかに在る写実のイメージも活かされると思いますけどね。そういう意味で昭和期のお祖父さん(十七代目勘三郎)の映像が大いに参考になるだろうと思います。つまり世話と時代の押し引きの呼吸、これが大事なのです。

当然ですが、このためには共演者の協力が必要不可欠です。例えば富吉町新三内での新三と家主長兵衛(弥十郎)のやり取りですが、この場を落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいな軽妙で軽いお笑いタッチのシーンだとするならば、勘九郎と弥十郎のやり取りはそれなりのものだと思います。観客もよく反応しているし、上手いものです。しかし、これでは肚のなかに・言いようのない「怒気」を抱えて・何か「でっけえ」ことをしてみてえと日々イラついている新三になりません。そう云う新三を描くことこそ、ホントの生世話の写実(リアル)ではないでしょうか。そこを突き詰めることで、勘九郎の新三は自分のものになって行くと思いますね。再演を期待いたしましょうか。

(R6・9・19)


 

 

 


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