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四代目雀右衛門の桜姫・再演

平成5年11月国立劇場:「桜姫東文章」

四代目中村雀右衛門(白菊丸・桜姫二役)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(清玄・釣鐘の権助・大友常陸之介頼国三役)、十代目岩井半四郎(僧残月)、松本幸雀(局長浦)、二代目市川新車(十一代目市川高麗蔵)(葛飾のお十)、六代目片岡十蔵(六代目片岡市蔵)(松井源吾)、三代目中村歌昇(三代目中村又五郎)(入間悪五郎)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(粟津七郎)、八代目大谷友右衛門(吉田松若)他

(補綴・演出:郡司正勝)


1)雀右衛門の桜姫・再演の意味

本稿で紹介するのは、平成5年(1993)11月国立劇場での通し狂言「桜姫東文章」の舞台映像です。残念ながら当時の吉之助は仕事が忙しかったので、この舞台を生(なま)で見ることが出来ませんでした。話題は何と言っても平成の立女形として脂の乗り切った四代目雀右衛門が昭和42年(1967)3月国立劇場での初役以来、約26年ぶりに桜姫を再演することでした。ちなみにこの時の雀右衛門は73歳でした。この年齢で雀右衛門が桜姫に再挑戦したと云うのも驚きでした。

この上演が持つ意義については、書けば長いことになります。まず「桜姫東文章」は文化14年(1817)3月江戸河原崎座で初演されてから、ずっと上演が途絶えていました。昭和34年(1959)11月歌舞伎座で六代目歌右衛門が桜姫を演じて復活したのが、実に142年ぶりの上演だったのです。つまり「桜姫」上演の伝統はまったくなかったわけです。雀右衛門が桜姫を初役で演じたのは昭和42年3月国立劇場でのことでした。(ちなみにこの時に白菊丸を勤めたのが若き日の玉三郎です。)雀右衛門の今回の再演はここから26年後と長い間(ま)が開くわけですが、この間に玉三郎による一連の「桜姫」上演が挟まります。

一方、玉三郎が桜姫を演じたのは、昭和50年(1975)6月新橋演舞場が最初のことでした。それから昭和60年(1985)3月歌舞伎座まで数回(ニューヨークでの海外公演も含む)の上演がされました。昭和50年代の「桜姫」上演はすべて玉三郎の桜姫によるもので、いずれも大評判を取りました。このため「桜姫」と言えば玉三郎だと云うイメージが我々のなかに非常に強いわけです。これはもちろん吉之助にとってもそうです。しかし、昭和60年上演の後、玉三郎による「桜姫」上演はしばらく上演が途切れました。平成16年(2004)7月歌舞伎座での上演まで、19年の間が開くことになります。理由は長丁場で出ずっぱりの「桜姫」は玉三郎にとって体力的にとても厳しいため・この役を避けていたと云うことだったそうです。

つまり雀右衛門による平成5年「桜姫」再演は、ちょうど玉三郎による「桜姫」上演が途切れた間の上演であったと云うことなのです。「玉三郎と言えば桜姫・桜姫と云えば玉三郎」と云われた昭和歌舞伎の伝説がほぼ固まったところで、雀右衛門のこの再演が行われたと云うことです。当時の玉三郎の桜姫の世評の高さが、噂だけでも雀右衛門の耳に入らなかったはずがありません。なにしろ当時は「歌右衛門も雀右衛門も成功しなかった桜姫の真価を世に知らしめたのは玉三郎である」と巷間云われていたのです。これを耳にした雀右衛門がどういう気分であったかは察せられます。

当月(平成5年・1993・11月国立劇場)の筋書の「演者の言葉」のなかで雀右衛門は、「玉三郎くんの(桜姫の)舞台は見たことがありません」と発言しています。そこに逆に玉三郎の存在を強く意識したところを感じます。雀右衛門からすれば、そりゃあそうなると思います。今回(平成5年11月国立劇場)上演は雀右衛門にとって、言葉にせずとも、「歌右衛門兄さんと私の桜姫がホントに成功しなかったか、そろそろ白黒を付けましょうか」という気持ちが当然あったはずです。だから吉之助としては、雀右衛門の26年ぶりの回答を拝見する気持ちで心して映像を見ました。

結論を先に申し上げれば、雀右衛門の桜姫は、「桜姫」が文化14年初演以来途切れることなく上演されて来たとすれば、つまり歌舞伎に「桜姫」上演の伝統が出来上がっていたのであれば、多分こんな感じになったであろうと思える桜姫に仕上がっていました。ですから今回の映像で雀右衛門がこれまでの世評の取り下げを要求していると思うので・ここははっきり記しておきたいと思いますが、「桜姫では歌右衛門も雀右衛門も成功しなかった」という評価は、ここではっきり没にしておきたいと思います。決してそんなことはありません。(この稿つづく)

(R5・10・25)


2)「山の宿」での雀右衛門の桜姫

雀右衛門の桜姫については、雑誌「演劇界」・平成5年11月号に芸談が掲載されており、これが大いに参考になります。

『私たち(歌舞伎役者)はどんな役でも性根がなければならないと教えられて参りました。桜姫にも南北なりの描き方で、やはり役の肚はあります。それでいて、とてつもない飛躍のあるのが南北の面白さで、難しさでもあります。(中略)桜姫は「お姫様」というところが役の根本でしょう。ですから私は、やはり歌舞伎の赤姫を基本にして、その外見だけが変って行くというやり方です。本格的なお姫様であって、それが宿女(しゅくた)と混ぜ合いになるところに面白さがあるわけですから・・・やはり、新作ではなく昔の戯作者が書いたものですから、昔からの歌舞伎の技法というものを前提にしていると思うのです。』(四代目中村雀右衛門芸談:雑誌「演劇界」・平成5年11月号・特集「桜姫東文章」再考)

雀右衛門の芸談は、役作りを個々のケースで行うのではなく、まず役どころとして大まかなパターンで把握し・そこから細部を彫り上げていくと云う歌舞伎の過程(プロセス)をしっかりと踏まえています。このことが今回(平成5年・1993・11月国立劇場)の桜姫を安定感ある印象にしています。つまり役の肚が太いということです。

桜姫と云うと眼目は「山の宿」で姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使い分けるところなので、その箇所での雀右衛門の芸談を引きます。

『「山の宿」になると、悪いことは覚え放題覚えてしまって、ガラッと変わるわけですが、やはりところどころにお姫様が出るのは隠しても隠し切れない。(中略)姫言葉と女郎言葉をまぜこぜに使うセリフは、二種類の言葉を流れるごとくに言ってしまう手もありますが、私としては、ある程度時代と世話を使い分けるようにしました。女郎言葉はもっと伝法にと、兄さんたちからも言われましたしね。やはり、あの時代の宿場女郎のリアリティというか、生活感みたいなものは出したいと思います。』(四代目中村雀右衛門芸談:雑誌「演劇界」・平成5年11月号・特集「桜姫東文章」再考)

ここで雀右衛門が「二種類の言葉を流れるごとくに言ってしまう手もあります」と言っているのが、まさに昭和の時代の玉三郎の桜姫の言い回しでした。(注:令和の時代の玉三郎の桜姫の言い回しは若干変化しています。これについては別稿「五代目玉三郎の令和の桜姫」を参照してください。)

併せて歌右衛門が桜姫を演じた時の芸談(昭和34年11月歌舞伎座)を引いておきます。雀右衛門の桜姫は、歌右衛門と同じ発想に拠っていると思うからです。歌右衛門は次のように言っています。

『山の宿」は姫になったり、バラガキになったりの芝居が中心ですが、これは非常に難しいと思います。ただ姫とバラガキをガラリと変えるだけではいけないと思います。バラガキになっても姫の気持ち、姫の感じでいう時もある。それでなければ具合のわるいものがあると感じるんです。(中略)バラガキな言葉をいう時、姫の心で云うのとは逆に、姫の言葉の時にも、フッとバラガキな気持ちでいるという時もあるべきだと思いますが、しかし、どうしても、つい、その言葉の時にはその心持ちになってしまいがちで、こんな所はもっと考える余地がありましょう。どうしても、変わる時にはフッと前の心持ちが途切れてしまいがちでしてね。』(六代目中村歌右衛門芸談:「演劇界」昭和34年12月号)

そこで吉之助は、歌右衛門の云う通りに心持ちを姫とバラガキに交錯させながら、台詞を口のなかでムニャムニャ言ってみます。そのようにしてみて思うことは、歌右衛門の発想に沿って台詞をしゃべると、姫とバラガキの様式の落差は必然的に埋まって平坦にならされて行くだろうと云うことです。

同じ要領で改めて雀右衛門の桜姫の台詞を追って聞くと、雀右衛門は姫言葉と女郎言葉の様式をチャンポンに切り替えることを意識していますが、常にお姫様の性根が芯にあるので、伝法な台詞でもお姫様がどこかに出て来るお姫様の台詞にも伝法なところがどこまに混ざる、だから却って姫とバラガキの様式落差は埋まって・平坦な感触に聞こえて来るのです。結果的にお姫様の一貫した性根がそこに現れることになります。(この稿つづく)

(R5・11・2)


3)「山の宿」での雀右衛門の桜姫・続き

文化14年(1817)3月河原崎座での「桜姫東文章」で桜姫を演じたのは五代目半四郎で、この時半四郎は安永4年生まれの41歳でした。さすがに冒頭の白菊丸は無理だと思ったか、初代松之助(五代目半四郎の次男で・後の七代目半四郎)が勤めました。

歌舞伎には「桜姫」上演の伝統がない、と云うよりも・早い話が南北ものの伝統自体がないわけです。「目千両」と云われ・悪婆ものを得意とした半四郎が桜姫をどのように演じたか。これは想像するしか手がないわけですが、雀右衛門が言う通り、桜姫を赤姫であると捉え、清玄と権助という二人の男に翻弄されて、ひらひらと風に吹かれて・あちらへ飛びこちらへ飛び、姿かたちが様々に変わるように見えても、赤姫の性根は決して変わらないと考えるのが、歌舞伎のメソッドとして常套のところかも知れませんね。当然半四郎もそうやっただろうと考えるのは、至極真っ当な考え方に違いあfりません。

今回(平成5年・1993・11月国立劇場)の「山の宿」での雀右衛門の風鈴お姫(桜姫)の台詞を聞くと、なるほどよく練れてるなあと感じます。しっかり筋の通った一人の人間がそこにいるという感覚があります。人格のブレでなく、悪いことをチラッチラッと見せると云う感じでありましょうか。ワルぶってみても、あくまで性根はお姫様なのです。

『「山の宿」になると、悪いことは覚え放題覚えてしまって、ガラッと変わるわけですが、やはりところどころにお姫様が出るのは隠しても隠し切れない。そして清玄の幽霊から権助が一族の敵と聞かされると、スッとお姫様に戻るのです。』(四代目中村雀右衛門芸談:雑誌「演劇界」・平成5年11月号・特集「桜姫東文章」再考)

「桜姫」で観客が理解に苦しむのは、清玄の幽霊から権助が一族の敵と聞かされると、桜姫は夫である権助を殺し・我が子まで殺して・自分はお姫様に戻るという結末をどう受け取れば良いかと云うことかと思います。しかし、雀右衛門の桜姫であると、自分は吉田の家のお姫様という性根がしっかりとありますから、「桜姫」が吉田の家の没落から再興までという「御家騒動物」のラインで割とスンナリ理解できるようです、

もし「桜姫」が「東海道四谷怪談」のように、文化14年初演以来途切れることなく、幕末・明治を経て現代まで上演されて来たとすれば、「桜姫」は長年上演を経て積みあがったノウハウと「伝統の古色が染み付いて、こんな感じになっていたかなと思えるような、濃厚な絵草紙風の感触なのです。(この稿つづく)

(R5・11・5)


4)「桜姫」は御家騒動物なのか

そう云うわけで今回(平成5年・1993・11月国立劇場)の雀右衛門主演による「桜姫」は御家騒動物の感触です。それにしてもこれが「桜姫」の在るべき感触か?という疑問は残りますが、その疑問をひとまず置いて想像してみるに、ちょうど文政8年初演の「東海道四谷怪談」が、幕末・明治維新の荒波をも乗り越えて、長年繰り返し上演されていくなかで、「忠臣蔵」との関連を離れて・単独でお岩のお化け芝居のイメージを増幅させていくのと似たような現象が、「桜姫」でもきっと起こるに違いない。もしかしたらその結果が「桜姫」では御家騒動物だと云うことかも知れないと思えるのです。そのなかで桜姫(風鈴お姫)はせいぜい悪婆ぶってはいるが・しかしそれが完全に身に付いていないお姫様(赤姫)と云うことになりますかね。

先ほど「雀右衛門の桜姫では桜姫が夫である権助を殺し・我が子までも殺し・自分はお姫様に戻るという結末が割とスンナリ理解できる」と書きました。これは御家騒動物の型通りの幕切れとして有り得るものだから、理解できるわけです。云わば取って付けたお定まりの決着で、そこに意義あるものを見ていないと云うことになります。桜姫はそのような御家騒動物の枠組みのなかで動いているのです。こうして「桜姫」を眺めると、作品の中心にお姫様(赤姫)としての桜姫が真ん中にデンと居座って動かないイメージになって来ます。初演の五代目半四郎の桜姫も案外こんな感触であったかも知れないと思うところは確かにありますね。

だから雀右衛門の桜姫には納得できるところが多々あるのですが、しかし、「桜姫」を御家騒動物だと捉えると、何か大事なものを取り落とした気がすることも事実です。そう感じるのは現代人の感覚かも知れませんが、一番気になる問題は清玄のことです。御家騒動物の線で見ると、権助の比重が重くなると思います。権助(忍ぶの惣太)は桜姫の弟梅若を殺して、都鳥の一巻を奪ったからです。吉田の家の没落に深く関与する権助の位置が重くなるのは当然ですが、相対的に輪廻の業(ごう)に惑わされた清玄の恋が軽くなってしまう、ここが問題なのです。今回の舞台映像を見ると、清玄が迫ってくるのを桜姫が嫌がって逃げ回る、桜姫は権助の方しか向いていないので、「桜姫」全体のなかで清玄と権助が対等の位置に見えないのです。しかし、原作では清玄と権助は生き別れになった双子の兄弟で、二人は同等の重さでなければならないはずです。

このように清玄の比重が軽く見えてしまうことに関しては、今回上演の郡司正勝先生の補綴・演出に問題があるせいだと思われるので、以下はこれについて論じることにします。ちなみに昭和42年(1967)3月国立劇場で雀右衛門が初めて桜姫を演じた時の上演の補綴・演出も郡司先生でした。上演時間の制約があって、その時の脚本よりも細部を切り詰めた補綴がされています。どうやらこれが悪影響を及ぼしているようなのです。

ところで昭和42年国立上演時の逸話ですが、清玄を勤めた十四代目勘弥が「この芝居の主人公は桜姫ではなく・清玄だ、だから外題を「清玄東文章」に替えろ」と強硬にゴネたらしいのです。役者の我儘としてよくありそうな話です。郡司先生もさすがに「これは作者南北が付けた外題だからダメ」と言って突っぱねたらしいのですが、それは兎も角、勘弥の言い分にも一理ある気がするのです。本作は清玄を主人公と見立てても良いようなところが確かにあると思います。

白菊丸と心中しようとして清玄は死に損ない、ここまで生きて来てしまいました。白菊丸の生まれ変わりが桜姫だと知った時の清玄の驚き。桜姫が不義者の汚名を来て放逐されることになった時、清玄は「あの時果たせなかった白菊丸との約束を今果たそう、それが業(ごう)に迷った白菊丸(=桜姫)を救うことだ」と考えて、桜姫との恋へと墜ちて行くのは自然な流れで、清玄がまことに「あはれ」に思われます。作者南北は在来の「清玄・桜姫」説話の趣向に則って・いつもの通り御家騒動のエンタテイメントを手際よく仕立てただけのことであったかも知れません。しかし、現代人から見ると、桜姫の業に巻かれて堕ちて行く清玄の悲劇が、これがえらく精神性があって・奥深いストーリーに映るわけです。これが「桜姫」の隠されたテーマなのかも知れません。。

このように天才戯作者南北の筆から・本人さえも予期しなかった・時代を超越した切り口が飛び出すことになりました。こんな斬新な切り口を無視して、旧態依然の御家騒動物の感触のなかに「桜姫」を閉じ込めてしまうことが、本作にとって宜しいことなのでしょうか。このことを郡司先生に問いたい気がしますねえ。(この稿つづく)

(R5・11・6)


5)脚本改訂の問題点

今回(平成5年・1993・11月国立劇場)の「桜姫」が旧態依然の御家騒動物に見える原因は、郡司先生が当月筋書の「補綴・演出の言葉」で書いている通り、昭和42年(1967)3月国立劇場の上演よりも上演時間(休憩含む)を1時間ほど切り詰めねばならなかった事情から来ています。江戸時代には1日掛けてやっていた通し狂言を現代に上演する為には、興行形態に合わせた限られた時間(平成初めならば4時間半くらい)でこれをやらねばなりません。このような興行からの要請は、令和現在での上演ではますます切実なものになって来ています。

郡司先生の改訂は細部に及んでいますが、目に付く大きな改訂が二か所あります。ひとつは二幕目の前半「稲瀬川の場」のカット、もうひとつは二幕目の「三囲(みめぐり)の場」と三幕目「岩淵庵室の場」との間に本来あるべき幕間休憩をカットし・これを回り舞台で繋いだことです。いずれもあまり宜しくない改訂です。このため輪廻の業(ごう)に惑わされた清玄の恋が軽くなってしまう。これが軽いと桜姫の変転の衝撃も効いて来ないと云うことなのです。まあこう云うことも実際にやってみなければ分からないことです。だから結果をきちんと検証しなければなりません。

まず「桜姫」をどうしても切り詰めねばならないなら、最初の選択肢として挙がるのは発端「江の島稚児ヶ淵」のカットだと思います。しかし、「稚児ヶ淵」復活は昭和42年国立劇場での郡司先生の功績とされているものなので、先生としてはここに手を付けたくなかった。それで「稲瀬川」がカットされることになったと推測します。しかし、この判断は間違っていると思いますね。どちらかをカットせねばならぬのならば、涙を呑んで「稚児ヶ淵」の方をカットすべきだったと思います。

昭和の玉三郎の桜姫の上演でも昭和53年10月新橋演舞場での上演(吉之助は生で見ました)までは「稚児ヶ淵」はありましたが、その後の上演ではカットされていました。(注:その後の平成16年・令和3年の変則上演では「稚児ヶ淵」は復活されました。)したがって平成5年時点・雀右衛門再演の「稚児ヶ淵」再復活は意義あることであったし、雀右衛門73歳がお稚児さん姿になるという話題もある、まあそういう判断があってのことでしょうが、郡司先生は「稲瀬川」のカットの方を選択しました。このため輪廻の業に惑わされた清玄が次第に桜姫への恋に本気になっていく過程(プロセス)が十分に描かれないままとなってしまいました。御家騒動物の発端に清玄の迷恋の趣向を絡めただけの芝居に見えてしまう。結局、桜姫は元のお姫様になって御家は再興めでたしめでたしの結末には収まって見えるが、「清玄と云うのはこの程度の役回りにしか過ぎなかったのか?」という弱々しい印象になってしました。これすべて「稲瀬川」のカットが原因しています。

この点は大事なことですが、清玄が桜姫にのめりこんでいく過程は、桜姫が白菊丸の生まれ変わりと分かったら・その途端桜姫に恋しちゃったと云うほど単純なものではないのです。どうもこの改訂を見る限り郡司先生も軽く考えているようであるし・巷の劇評などを見ても大体その線みたいですが、清玄は灌頂を受けた真言の高僧なのです。当然行動も思想の裏付けがなくてはなりません。清玄は清玄なりの論理プロセスを踏んで、正しく「堕ちるべくして堕ちて行く」のです。これが仏が自分に与え給うた試練だとでも云うかのように、論理的に正しく堕ちる。だから尚のこと苦しいのです。このプロセスを描いているのが、「稲瀬川」です。

今回改訂では序幕「桜谷草庵」で清玄が女犯の罪を着せられた時点で数珠を切る改変をしています。つまりこの時点で清玄は桜姫に恋しちゃったと云うことですね。しかし、原作では「稲瀬川」で清玄と桜姫とのチグハグな長い会話があり(清玄は白菊丸と会話しているつもりなのです)、桜姫から「(清玄が)力となってくれれば有難い」と言われたので、清玄は「分かりました、それなれば祝言しましょう」となるので、この時点で清玄の恋が本気モードに変わります。原作では清玄が数珠を切るのは、この後です。この件は別稿「桜姫の業(ごう)の仕業」に詳しく書きましたから、そちらをご覧ください。

もうひとつの問題は、二幕目の「三囲」と三幕目「岩淵庵室」との間に本来あるべき幕間休憩をカットし・回り舞台で繋いだ件です。回り舞台での場面転換は、転換するふたつの場面が同時か、或いは連続している時間であることを意味します。回り舞台をテンポ・アップだと称して・安直に使用することは、してはならぬことです。(近頃よく目にしますが、テンポ・アップと称して、セリ或いはスッポンを安直に使用するのも同じことです。)台本を削るよりも休憩時間を削った方がいいでしょと云う苦肉の判断だったとは思いますが、郡司先生でもこんなことをやるのかとガッカリしますねえ。このため「三囲」と「岩淵庵室」の間の、距離と時間が分からなくなってしまいました。

まず大事なことは、この芝居は江戸を舞台としており・観客は江戸の地理に明るいのですから、正しい距離と時間を描くのが当然と云うことです。ふたつの場面が時間的にどれくらい離れているか脚本からは読めません。「三囲」は現在の台東区向島2丁目近辺、「岩淵庵室」は北区岩淵町近辺になります。大川(隅田川)を挟んで直線距離で10キロくらい離れています。清玄・桜姫とほぼ同時に放逐された残月と長浦はここ岩淵の荒れた草庵に住んでいますが、彼らがここに居着くまでにそれなりの日にちが必要でしょう。さらに清玄が赤ん坊を抱いて・どういうルートを辿ったか分かりませんが・彷徨っているうち行き倒れて、残月に助けられる。桜姫は彷徨っているうちに見世物師勘六にかどわかされて庵室にやって来る。それほど日にちは離れていないにしても、これらもそれなりの時間差が必要です。いずれにせよ「三囲」と「岩淵庵室」は連続しておらず、ドラマ的に急旋回しており、局面がはっきりと変わっています。これらふたつを回り舞台で繋ぐなんてことは有り得ないことです。これでは清玄の迷恋が変容していく段階が見えなくなってしまいます。

「桜姫」を御家騒動物であると見ると、梅若を殺して都鳥の一巻を盗んで吉田の家を没落に追い込んだ釣鐘の権助が仇(かたき)であり、さらに女犯の罪を清玄になすり付けて破戒に追い込み、最終的にその権助を桜姫が仇討ちして吉田の御家が再興となる、これが御家騒動物の主筋となるわけです。そうすると清玄は幽霊になって桜姫に権助が仇だと教える役回りに過ぎないのか?このためだけに南北は17年前の「稚児ヶ淵」での清玄と白菊丸の心中未遂の伏線を設定したんですか?と聞きたくなりますね。これでは桜姫の業に巻かれて堕ちて行く清玄の悲劇のプロセスがドラマのなかに浮かび上がって来ません。そうなったのは郡司先生のふたつの脚本改訂が深く原因していると思いますね。(この稿つづく)

(R5・11・10)


6)雀右衛門の桜姫、幸四郎の清玄・権助ニ役

「桜姫」を「清玄・桜姫」説話を元にした輪廻転生の物語だと読むならば、発端・江の島稚児ヶ淵の場は是非とも欲しい場です。しかし、前章で触れた通り、清玄が桜姫を白菊丸の生まれ変わりであると知り・そこから論理的に堕ちて行くプロセスをしっかり描かなければ、芝居のなかで清玄の筋が正しく機能して来ません。輪廻転生を感知しているのは清玄だけだからです。桜姫にはあずかり知らぬことです。今回(平成5年・1993・11月国立劇場)は補綴に問題があるせいで、その辺が不徹底でした。多分これから「桜姫」通し上演で「稚児ヶ淵」を出す場合は上演時間が長くなるので、平成16年(2004)3月歌舞伎座で玉三郎が行ったように昼の部・夜の部にふたつに分けて上演することしか対処出来ないでしょうねえ。まあそれでも仕方がないと思います。

そう云う問題はありますが、雀右衛門73歳のお稚児さん姿は見ものではあります。感心するのは、稚児白菊丸と桜姫との間にイメージの落差があまりなく、白菊丸が転生したのが桜姫であることを演劇的にスンナリ納得させることです。何故そうなるかと云うのは説明が難しいですが、ここはさすが雀右衛門ということですが・転生後の桜姫が濃厚・かつ伝統的な「赤姫」の感触を感じさせるからでしょうかね。桜姫の性根(赤姫)から引き出された白菊丸なのです。だから若干女っぽいお稚児さんだとは思いますが、さほど違和感はありません。よく考えられた役作りだと思います。

文化14年(1817)3月河原崎座での「桜姫」初演では、桜姫を演じた五代目半四郎は安永5年生まれの41歳でした。まさに人気・技芸両面で全盛期を迎えていたわけで、舞台は半四郎のための桜姫と云う様相を呈したことでしょう。まさに桜姫が「宇宙」の中心にブラック・ホールの如くどっかと居座って動かないイメージであったに違いありません。お姫様・あるいは宿女(しゅくた)と様相をコロコロと変えるかに見えるけれども、それは桜姫の外面が変わって見えるだけのことで、桜姫の本質は変わってはいません。男たちは桜姫を振り回しているつもりだけれど、実は宇宙の中心に位置する桜姫の引力に翻弄されているのです。

同じような感覚が、今回の雀右衛門の桜姫にもあります。歌舞伎には、役の本質を大まかに「肚」で捉え、そこから細部を彫り込んでいく伝統的な方法論があります。雀右衛門は桜姫の肚を「お姫様(赤姫)」で大きく掴んでいます。だからちっとやそっとのことで揺るがない安定感があるわけです。

この安定感が良い方に出たのが、まず序幕・新清水と二幕目・三囲、それと四幕・山の宿ですかね。山の宿で夫権助を殺した後・大詰で元の吉田のお姫様に戻るのがスンナリ腑に落ちると云うことは先に触れましたが、それはまさに雀右衛門が桜姫の肚を「お姫様」で大きく掴んでいるからに他なりません。

一方、安定感が悪い方に出たと云うのでもないが・若干物足りなく感じるのは、序幕・第二場・桜谷草庵で突然権助にしな垂れかかる場面、それと三幕目・岩淵庵室ですかねえ。旧来のお姫様のイメージならばまあそうなるだろうなと云うところだが、印象が受動的に過ぎて、男たちを翻弄するパワーをいまひとつ感じさせてくれない不満があります。芸を終始内輪に持っていくのではなく、局面が変わったことをはっきり示して欲しいと思うのです。もう少し男たちに対して態度を明確に(清玄に対しては否・権助に対しては応と)してもらいたいのです。雀右衛門の桜姫はそこが不明瞭で(まあどちらにも受け取れるということかも知れないが)、特に岩淵庵室がちょっと重くもたれた印象になってしまったのは、これは雀右衛門のせいだけではないですが、ここはもう少し工夫の余地がありそうです。

幸四郎は南北と格別ご縁が深いイメージがありませんが、今更言っても遅いですが、もう少し南北に積極的に取り組んで欲しかったと思いますねえ。むしろ幸四郎は南北に「向き」の柄だと思っているのですが。今回の舞台でも清玄に輪廻転生の律に感応する資質を見せたと思いますが、前述の通り補綴に問題があるせいで、清玄の魅力を十分に表出出来たとは言えなかったようです。権助の方は、もう少し野太く見せた方が良かったかもしれませんね。

(R5・11・17)


 

 


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