五代目玉三郎の白菊丸、四代目雀右衛門の桜姫
昭和42年3月国立劇場:「桜姫東文章」
十四代目守田勘弥(清玄)、八代目坂東三津五郎(釣鐘権助)、四代目中村雀右衛門(桜姫)、五代目坂東玉三郎(白菊丸)、九代目市川八百蔵(残月)、五代目沢村源之助(長浦) 、八代目沢村宗十郎(葛飾のお十)他
1)玉三郎の白菊丸
本稿で取り上げるのは、昭和42年(1967)3月国立劇場での「桜姫東文章」の映像です。ただし全編の映像は残されておらず、部分的に欠落があります。
「桜姫東文章」は文化14年(1817)3月江戸河原崎座での初演。配役は、五代目半四郎の桜姫、七代目団十郎の清玄・権助二役でした。なおこの時の桜姫の前世である白菊丸を五代目半四郎ではなく、岩井松之助(後の七代目半四郎・五代目の次男に当たる)が演じました。
戦後の「桜姫」の上演は、昭和34年(1959)11月歌舞伎座(三島由紀夫監修)で六代目歌右衛門の桜姫、八代目幸四郎の清玄・権助二役で上演されたのが、久しぶりの復活でした。しかし、この時は発端の江の島児ヶ淵の場からの完全上演ではなく、新清水の場からの上演でした。桜姫の前世である白菊丸を登場させて、本作の輪廻構造を明確に示すまでは出来ませんでした。江の島児ヶ淵の場を含めて「桜姫」が完全上演されたのは、本稿で紹介する昭和42年(1967)3月国立劇場(郡司正勝監修)の上演が、文化14年の初演から実に150年ぶりと云うことになります。
昭和42年(1967)3月国立劇場の上演が注目される理由はいくつかありますが、まずひとつは、江の島児ヶ淵の場の白菊丸に起用されたのが、当時16歳の五代目玉三郎であったことです。この2年後の昭和44年(1969)11月国立劇場で三島由紀夫の新作歌舞伎「椿説弓張月」が作者の演出により初演されましたが、この時、作者により白縫姫に玉三郎が抜擢されました。
「その奇蹟の待望の甲斐あって、玉三郎君という、繊細で優婉な、象牙細工のような若女形が生まれた。(中略)玉三郎君という美少年の反時代的な魅惑は、その年齢の特権によって、時代の好尚そのものをひっくり返してしまう魔力をそなえているかもしれない。」(「玉三郎君のこと」昭和45年)
と三島は書いています。三島が素材としての玉三郎を見出したきっかけが、どうやら昭和42年の国立の「桜姫」の白菊丸であったようです。白菊丸ですから女形ではなく、若衆の玉三郎です。或いは三島は若き日の美輪明宏(玉三郎より15歳年上)に近いものを見出したのかも知れません。聞くところでは郡司正勝の当初の「桜姫」上演プランには発端の江の島児ヶ淵の場がなかったそうで、この場は清玄役の十四代目勘弥の提案に拠って上演が付け加えられたものでした。勘弥の提案の裏には息子の玉三郎の売り出しの意図が当然あったはずです。結果として期待通りに白菊丸が玉三郎の出世作となったわけです。
そこで今回(昭和42年3月国立劇場)の玉三郎の白菊丸ですが、花道を出て来た時には、勘弥の清玄(正確に云うとこの時期の清玄は前名の自休)と比べてあまりに背が高いのでちょっと違和感と云うところはありますが、不思議な透明感を持つ若衆という印象を確認することができました。白菊丸が舞台上にいるのはそう長い時間ではないですが、三島が玉三郎の白菊丸に感心したのははそんなところであったであろうかなどと、映像を見ながら想像しました。(この稿つづく)
(H30・7・2)
もうひとつの吉之助の注目は、「山の宿」における雀右衛門の桜姫(すなわち女郎に堕ちた風鈴お姫)が、姫言葉(時代)と女郎言葉(バラガキの生世話)をチャンポンに使い分ける場面をどのように処理するかと云うことでした。と云うのは、後の歌舞伎では「六代目歌右衛門も四代目雀右衛門も成功しなかった桜姫を現代に蘇らせたのは五代目玉三郎の功績である」ということがよく言われるからです。例えば平成24年12月10日、渡辺保は鈴木忠志とトークを行い、こう言っています。(同じ話題を別稿「南北の台詞は現代に蘇ったか〜早稲田小劇場の白石加代子」でも取り上げているので、そちらも併せご覧ください。)
『玉三郎以前、以後と言うと、玉三郎が実際に「劇的なるものをめぐって」を観たかどうかは分からないですけど、(歌舞伎で)鶴屋南北ができるようになったのは、あなた(鈴木忠志)のおかげだと思っています。(中略)女形の歴史のなかでは、玉三郎が分水嶺なんです。歌右衛門も雀右衛門も「桜姫東文章」に成功しなかった。だけど玉三郎が成功したのは、南北の台詞が言えるようになったからです。身体ということで言えば、この転換点は近代から現代への転換点だったと思います。歌右衛門も雀右衛門も近代の人なんです。だけど、玉三郎以後は現代でしょう。玉三郎は客観的に自分の役を外側から見ているわけですから。それにあなたのテンポがあれば、なおさら鬼に金棒ですから。』(渡辺保:鈴木忠志との対談・平成24年 12月10日、吉祥寺シアター:「鈴木忠志対談集〜私たちは必要とされるのか?」に収録)
渡辺のこの発言は色々なことを考えさせてくれますが、特に渡辺が歌舞伎の南北上演史を「玉三郎以前と以後」とまで、そこまで明確に規定したことに吉之助はちょっと驚いたのです。もちろん玉三郎の桜姫が素晴らしいことは、吉之助も実際に見てよく承知しています。それならば歌右衛門や雀右衛門が演じた桜姫はどんなものであったか?彼らの演じた桜姫はホントに成功しなかったのか?玉三郎の桜姫とどんなところが違ったのか?ということを知りたいと思ったのです。残念ながら歌右衛門の桜姫の映像は遺っていないようです。雀右衛門の桜姫に関しては、部分的に映像が欠落して全編でないにしても兎に角検証できるものがあるわけですから、これは見ておきたいと思いました。
そこで今回の映像(昭和42年3月国立劇場)での「山の宿」の雀右衛門の桜姫ですが、吉之助が見る限り、姫言葉と女郎言葉の様式をチャンポンに使い分けることに雀右衛門がさほど難儀した様子はなさそうです。どちらの様式も意外なほど違和感を感じさせるところが少なく、これをひとつの中庸な様式として無難に処理出来ている感じがしました。なかなかやるじゃないか、これはこれで考えた台詞廻しではないかと吉之助には思えたのです。ただし何となく幕末の草双紙的な歌舞伎(例えば「偐紫田舎源氏」の古寺)の暗く湿った感触を思わせました。つまりこれは伝統的な歌舞伎の古めかしい感触なのです。
ここで歌右衛門が桜姫を演じた時の芸談(昭和34年11月歌舞伎座)を参考に引いてみたいと思います。雀右衛門の桜姫は、歌右衛門と同じ発想に拠っていると感じるからです。歌右衛門は次のように言っています。
『山の宿」は姫になったり、バラガキになったりの芝居が中心ですが、これは非常に難しいと思います。ただ姫とバラガキをガラリと変えるだけではいけないと思います。バラガキになっても姫の気持ち、姫の感じでいう時もある。それでなければ具合のわるいものがあると感じるんです。(中略)バラガキな言葉をいう時、姫の心で云うのとは逆に、姫の言葉の時にも、フッとバラガキな気持ちでいるという時もあるべきだと思いますが、しかし、どうしても、つい、その言葉の時にはその心持ちになってしまいがちで、こんな所はもっと考える余地がありましょう。どうしても、変わる時にはフッと前の心持ちが途切れてしまいがちでしてね。』(六代目中村歌右衛門芸談:「演劇界」昭和34年12月号)
バラガキな台詞の時にも姫の心で云う時がある、逆に姫の台詞の時にもフッとバラガキな気持ちで云う時もあるというのです。考え過ぎじゃないかと思うほど、歌右衛門が深く考えて込んでいることにちょっと驚かされます。しかし、役の心理から台詞廻し(様式)を読み込んでいこうとする、これはまさに近代演劇の発想に違いありません。
例えば桜姫が権助に云う、「幼き者が欲しくばの、自らの産み落せし、おまえのほんの子があるじゃアねえかな」という台詞は姫の心持ちで云う、その方が客席に響く(伝わる)ものがあると歌右衛門は言っています。逆に変わり目をガラリと見せようとすると存外響かないようだとも言っています。切り替えの技巧が技巧として浮き上がってしまうと役の心情が伝わらないと云うことでしょうかね。
そこで吉之助は、歌右衛門の云うように、心持ちを姫とバラガキに交錯させながら、台詞を口のなかでムニャムニャ言ってみます。そのようにしてみて思うことは、歌右衛門の発想に沿って台詞をしゃべってみると、姫とバラガキの様式の落差は必然的に埋まって平坦にならされて行くだろうなと云うことです。そこから桜姫と云うひとつの人格が浮かび上がって来ることになるでしょう。ここから改めて雀右衛門の桜姫を見ると、姫言葉と女郎言葉の様式をチャンポンに切り替えることをあまり意識せず、桜姫(風鈴お姫)の一貫した性根をそこに見出そうとする台詞廻しであったことに気が付くのです。(この稿つづく)
(H30・7・4)
一方、玉三郎の桜姫は、歌右衛門・雀右衛門の発想からすると、コペルニクス的転換を見せたものです。吉之助が玉三郎の桜姫を最初に見た時(昭和53年10月新橋演舞場)の衝撃を思い返してみるに、玉三郎は、姫言葉(時代)と女郎言葉(バラガキの生世話)の台詞のフォルムの違いを、そのまま素直に台詞廻し(様式)にすることだけに徹していたと思います。もしかしたら何も考えていないように聞こえたかも知れませんが、そう云うことではなくて、発想のプロセスが歌右衛門とはまったく正反対なのです。つまり形(様式)から役の心情を語らしめようとしていると云うことです。
「山の宿」での桜姫(風鈴お姫)の台詞では、言葉と性根がバラバラにされています。言葉の端と端を結び付けてひとつの流れに仕立ててはいますが、実はひとつの一貫した意図(性根)を持っているわけではないのです。それでも芝居を知り尽くした人ならば、その習性からそこにひとつの意図を読み取ろうと懸命に試みるでしょう。歌右衛門・雀右衛門がしたことはそういうことですが、一方、若き玉三郎はまだそう云う先入観を持っていません。だからそう云う障壁を難なく乗り越えてしまうのです。玉三郎は、彼が持つ天才的なピュアな感性で、言葉そのものに素直に反応するのです。(玉三郎も年齢を経て来ると多少考えるところが出てきて様相が変わってきます。これについては平成16年7月歌舞伎座での五代目玉三郎の桜姫を取り上げた別稿「桜姫という業」をご参照ください。)
その結果、浮かび上がることは、ひとりの人間から桜姫と風鈴お姫のふたつの像が乖離して見えて来ると云うことです。一貫した一つの人格が立ち現れるのではなく、これは二つの人格でもあり・同時に一つの人格でもあるという現象を呈するのです。どちらの側面も等価なのです。カチャカチャとチャンネルを切り替えてデジタル的に姫言葉と女郎言葉を処理する、とても技巧的かつ装飾的な桜姫になるのです。だから玉三郎の桜姫が現代的なものになるのです。
どちらが南北の様式として正しいか?という問いは、あまり意味がないかも知れません。どちらの答えもあり得ると思います。しかし、吉之助は、雀右衛門の桜姫を見ながら、これは在来の古い感触かも知れないが、伝統的な発想で桜姫を構築するならば、雀右衛門の桜姫のようになるかなあと思いました。もし「桜姫東文章」が「東海道四谷怪談」のように歌舞伎のなかで切れ目なく上演されて来たとするならば、恐らく現在の桜姫もこんな感触になると思うのです
しかし、どちらの行き方が現代的か?という問いならば、これはちょっとは意味ある問いになりそうです。幕末にいったん伝統が途絶えてしまった南北劇を現代に蘇らせる為には、新作と同じような態度で南北劇に対さねばなりません。「古い革袋に新しい酒を盛る」という行為が必要なのです。「六代目歌右衛門も四代目雀右衛門も成功しなかった桜姫を現代に蘇らせたのは五代目玉三郎の功績である」と云う渡辺保の言葉は、そのような意味に解すれば納得ができると思います。これが歌右衛門・雀右衛門の桜姫の価値を貶めるものでないことは、言うまでもないことです。このようなことを考えさせてくれた点で、今回の映像(昭和42年3月国立劇場)は、とても興味深いものでした。
(H30・7・6)