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五代目菊之助の鷺娘・うかれ坊主

令和4年8月(?)国立劇場:「鷺娘」・「うかれ坊主」

五代目尾上菊之助(鷺の精・願人坊主)

「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」、無観客上演映像)


国立劇場制作による「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」シリーズとして、昨年(令和4年)「娘道成寺」と「鏡獅子」の2作がネット配信されました。本年(令和5年)は、それに続く第3弾として「鷺娘」・「うかれ坊主」が映像制作されてネット配信されましたので、本稿ではこれを取り上げることにします。なお昨年の2作も同様でしたが、不親切なことに、本作にも撮影年月・場所の表記がありません。この種の伝統芸能の映像資料では、歳月が経過するとともに、必ず撮影年月・場所の表記が大事になってきます。いずれ菊之助も「菊之助」の名前ではなくなるわけですから、こう云うところまで仕事をきっちりお願いしたいと思いますね。本サイトも記事の整理の都合上・撮影年月が必要なので、最近の菊之助の毎月の出演記録も調べて・撮影したなら多分この時期しかなかろうと云うことで、本稿では吉之助の推測で「令和4年8月・国立劇場」としましたが、違うのでしたらば・ご指摘をいただきたい。それぞれの映像に丁寧な解説と菊之助の談話が付くのは良いことだと思います。

さて「うかれ坊主」と云うと、六代目菊五郎が思い出されます。これはもともと文化8年(1811)3月江戸中村座で三代目三津五郎が踊った七変化所作事・「七枚続花の姿絵」(しちまいつづきはなのすがたえ)の七役のうちのひとつ・「願人坊主」でした。これを六代目菊五郎が単独で抜き出して復活させたのが「うかれ坊主」で、初演は昭和4年(1929)6月歌舞伎座でのことで、この時は上に「那須野」の玉藻前から引き抜いて・下が「うかれ坊主」でした。しかし、やってみると「うかれ坊主」は好評でしたが・玉藻前との組み合わせの評判がいまひとつであったようで、その後は、上に「羽の禿」・「年増」あるいは「汐汲」などが組み合わされることが多いようです。今回のような「鷺娘」に「うかれ坊主」と云う組み合わせは、舞踊会でも多分過去にないと思います。

今回の映像は恐らく別個の演目をたまたま二つ並べてみただけのことで・これを上下二段に仕立てた意図はないと思いますけれど、これは臍曲がりで云うのではなく、見る側はそう云う感じでこれを見るのです。そこのところは、制作の段階でちょっと念頭に置かねばならぬことだと思います。上下二段として見た場合、古式に三段に上って形を決める幕切れの「鷺娘」ならば兎も角、近代的・幻想的な舞台演出の「鷺娘」を上に持ってくると・これが下の「うかれ坊主」の踊りに感触的にうまく繋がらぬ感じがしますね。まあビデオでは間に解説が入ることだし・深く考えなければ済むことかも知れませんが、演目の出し方には工夫がありたいものです。いつもの通り「羽の禿」との組み合わせで良かったのではないでしょうか。(本年6月博多座では菊之助はこの組み合わせで出すようですね。)菊之助の「鷺娘」が良い出来だけに尚更そう思いますがね。

ところで菊之助の「鷺娘」については、昨年(令和4年)6月博多座での舞台映像を別稿にて取り上げました。そのなかで、「鷺娘」は、歌詞を読んでも、作品イメージを確固たるものにすることがなかなか難しいと云うことを書きました。本稿ではそのことをもう一度考えてみたいと思います。例えば舞台で踊るのが鷺の精であるのか・人間の娘が鷺になったのか、生霊であるのか・死霊であるのかと云うようなことです。

これについては、別稿「谷崎潤一郎の「吉野葛」論考」で・地唄「狐噲(こんかい)」について述べたことがそのまま当てはまると考えます。地唄「狐噲」の出目は不明ですが、遊女は商売で客を騙すものだからこれは偽りの恋、だからこれは狐の恋だという論理だろうと思います。古来、狐は人間の生活と関係が深く、しばしば化けて人を騙すとされていました。遊女は女狐に擬せられました。だから地唄「狐噲」に唄われているのは遊女の偽りの恋かと云うと、そうではないのです。そこに描かれているのは、真(まこと)の恋です。遊女は「いたわしやな」と云うほど悩みやつれて苦しんでいます。それは真の恋なのですが、しかし、男女の自由恋愛は当時の倫理道徳の概念では大っぴらに表現してはならないことでした。家の束縛など規制が多い時代でした。だから、外見においては、それは遊女の恋だ、偽りの恋だ、だから狐の恋だということにして置くのです。これを世間一般の相愛の男女の愛別離苦の唄にしてしまったら、当時の倫理道徳の概念では、それは非常に危険な、淫らな風を帯びてしまうでしょう。だから遊里での出来事、狐が仕掛ける偽りの恋の唄ということにして置くのです。唄の作者が本当に描きたいものは、そこにはない。この曲を聴く者も、暗黙のうちにそのことを分かっていて、この曲を聴くのです。そうやって地唄「狐噲」はやっと安心できるものとなるのです。

「鷺娘」にも、似たような論理が考えられます。もともと「鷺娘」には責めがないものでした。そこに責めを挿入したのは九代目団十郎で、明治19年(1886)新富座でのことでした。それは昔から女の踊りには責めがつきものであったからです。実は鷺の精の羽ばたく振りは熊野信仰から来るもので、熊野のカラス(鳥)の振りです。昔は女が死ねば熊野の鳥に責められるという俗信がありました。例えば遊女はいつも心にもない嘘を客に対して平気で言って・誓紙を何枚も書いてみせたりします。ところが誓紙を一枚書くごとに熊野の鳥が三羽づつ死ぬということが熊野信仰では言われます。だから女は死ぬと必ず鳥に責められる・女形の踊りには責めが付きものであるということになるわけです。そう考えると舞踊「鷺娘」において「添うも添われずあまつさえ、邪慳の刃に先立ちて・・」と恋に悩む女心を切々と訴え・さらに地獄のあり様に苦しむという責めが入るのは、鷺がカラスになるという不都合があるとは云え・同じく鳥類だからと云う論理も、ごく自然な成り行きだろうと思います。(別稿「鷺娘の責め」をご参照ください。)

ですから恐らく「鷺娘」の場合も、それは親の許さぬ恋に身を焼いて亡くなった娘の、真(まこと)の恋を描いているのでしょうねえ。しかし、それは決して大っぴらに表現することではない、それをしてしまったら当時の倫理道徳ではとても危険なことになります。そこでこれは鷺の精の恋・偽の恋だと云うことにするのです。だから鷺の精でも・人間の娘でも、見ようによってどちらにでも見える、踊り手の気持ちによっても違う、見る人の気持ちによっても見えるものが違うと云うことで良いのだろうと思います。

菊之助の「鷺娘」は、玉三郎の名品よりも・もう少し人間(娘)の方に寄った実(じつ)の感覚がします。余白があると云うか、鷺の精でも・人間の娘でも、観客に解釈の余地を許容するところがあるのが好ましいと思いますね。前回(令和4年)6月博多座)と比べると、今回は無観客での収録のせいか若干ライヴ感覚が引いて・感触が重めのように感じますが、踊りはさらに丁寧になっており、どちらとも甲乙付け難い出来だと思います。

菊之助が「うかれ坊主」を踊るのは、多分これが最初のことだと思います。願人坊主は普段の菊之助のイメージにない役柄で・これ自体が軽いサプライズですが、しっかり踊っていて結構だと思います。吉之助にとっては二代目松緑・或いは十七代目勘三郎の晩年の舞台が思い出されますが、「うかれ坊主」は踊り続けて・長い歳月をかけて・やっと身体に馴染んだ味わいになって行く演目だと思います。そこに至るまでには、まだまだ時間がある。つまり伸びしろがある。菊之助は着実に芸の過程を踏んでいますね。

(R5・3・30)



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