「鷺娘」の責め〜「鷺娘」
舞踊「鷺娘」は・よく西洋バレエの「瀕死の白鳥」に擬されます。もう二十数年以上前の話ですが・MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)でバレエ・ガラが行われて・世界の名だたるバレエ・ダンサーたちが得意のパ・ドゥ・ドゥを披露した時に・そのトリを玉三郎の「鷺娘」が勤めたことがありました。その時のテレビ放送を思い返しますと、それまでのプログラムのバレエの華やかな舞台と玉三郎の日本舞踊とがまったく違和感がなくて、「ああ、これはジャパニーズ・バレエだな」と素直に感じたことを思い出します。白い鷺の精が娘の姿に変わって・恋に悩む女心を切々と訴え、やがて地獄の責めに苦しむ姿を見せるという幻想的な舞台です。ひとつには独特の照明演出のおかげもあったかも知れません。空間がひとつに感じられて、言葉ではなくても・洋の東西を問わず確実にイメージが伝わっていく肉体表現というものがあるのだということを思いました。
玉三郎の「鷺娘」をジャパニーズ・バレエと言うのは皮肉で言っているのではありません。おそらくニューヨークの観客はこれは「瀕死の白鳥」の日本版だと思って舞台を見たことでしょうし、そういう解釈で見て別によろしいことなのです。舞台を見ながらいろんな思いを交錯させることは楽しいことです。そのお楽しみは自分だけのもので・それに正しいも間違っているもあるものではありません。
しかし、昔の「鷺娘」の舞台というのは今日の舞台とはちょっと違っておりました。そもそも昔の「鷺娘」には責めがなかったようです。幕切れは三段に乗って・撞木を振り上げて見得をして終わったもので、幕切れで鷺が落ち入るということはなかったのです。このような古風な幕切れを取る「鷺娘」を今でもたまに見ることがあります。
「鷺娘」が玉三郎の舞台のような「瀕死の白鳥」風になっていくのは、大正11年(1922)にアンナ・パヴァロヴァが来日して踊った「瀕死の白鳥」の影響が明らかにあります。パヴァロヴァの舞台を見た六代目菊五郎が「これはロシアの鷺娘だ」と思わずつぶやき・二代目花柳寿輔は「パヴァロヴァの死にゆく白鳥の幕切れの迫力に背筋に戦慄が走った」と書いています。このように「鷺娘」の舞台が今のように鷺が落ち入る演出に大きく変化していくのは大正末以降のことで、花柳研究会から始まったことのようです。
しかし、「鷺娘」に責めを入れたのは実は九代目団十郎で、明治十九年(1886)新富座でのことでした。つまり、「鷺娘」の責めは直接的にはパヴァロヴァの影響ではない わけです。九代目が「鷺娘」に責めを入れたのには九代目なりの理屈がありました。昔から女の踊りには責めがつきものであったからです。例えば「関の扉」の墨染の踊りでも責めの場面では鳥の振りが入っています。それは墨染がぶっかえってからの「夫の形見の片袖に、引かれ寄る身は陽炎(かげろう)姿」の部分です。ここで桜の精である墨染が鳥のように羽ばたく振りをします。実はこれは熊野のカラス(鳥)の振りでして、熊野信仰から来るものです。昔は女が死ねば熊野の鳥に責められるという俗信がありました。例えば傾城はいつも心にもない嘘を客に対して平気で言って・誓紙を何枚も書いてみせたりします。ところが誓紙を一枚書くごとに熊野の鳥が三羽づつ死ぬということが熊野信仰では言われています。だから女は死ぬと必ず鳥に責められる・女形の踊りには責めが付きものであるということになるわけです。このように女形の舞踊の振りには熊野信仰の背景を知っていないと分からないものがあるのです。
そう考えると舞踊「鷺娘」において「添うも添われずあまつさえ、邪慳の刃に先立ちて・・」と恋に悩む女心を切々と訴え・さらに地獄のあり様に苦しむという責めが入るのは・鷺がカラスになってしまうという不都合(?)があるとは言え・ごく自然な成り行きのように思えるのです。そう考えてみると逆に昔の「鷺娘」の舞台に責めがなかったという方が不思議なことに感じますが、それは何故なのかというのが今度は気になってきます。
「鷺娘」には大きく三つの系統があるそうです。ひとつは宝暦12年(1762)市村座での二世瀬川菊之丞の初演の「鷺娘」で、これは「残雪槑曾我」(のこんのゆきかついろそが)の二番目狂言の大詰所作事として演じられたもので・五変化舞踊のうちのひとつでありました。ふたつめは文化10年(1813)三代目坂東三津五郎による十二変化のひとつとしての「鷺娘」です。これは「四季詠寄三大字」(しきのながめよせてみつだい)と言いました。みっつめの「鷺娘」は天保10年(1839)、四代目中村歌右衛門による八変化のひとつで「花翫暦色所八景」(はなごよみいろのしょわけ]と言い、これは俗に「新鷺娘」とも呼ばれています。これらすべての「鷺娘」は変化舞踊のひとつである のです。
変化舞踊というのは・ひとりの役者が役を次々と変えて複数の役を踊り抜くものです。結局・昔の「鷺娘」に責めがなかった理由は簡単なことで、本来の「鷺娘」は変化舞踊のひとつの趣向にすぎないわけで・それ自体としては完結したものではなかったのです。だから熊野信仰の背景を持たなかったのでしょう。
しかし、九代目団十郎が明治十九年に「鷺娘」を踊ることになった時、娘の恋の懊悩の主題をこの小品のなかで完結させたいと九代目は恐らく考えたのかも知れません。そこで九代目は「鷺娘」にクドキを入れ・寝鳥の合方を追加し・羽ばたきという合の手を入るなどの工夫をしたのです。そこに九代目の近代的 演劇解釈があるのです。あるいは先見の明と言うべきかも知れません。後にパヴァロヴァの「瀕死の白鳥」を見て・六代目菊五郎が「これはロシアの鷺娘だ」と思わずつぶやいたというのは、それがまさに九代目の創意の延長線上にあったということに違いありません。
(H18・7・13)