(TOP)     (戻る)

初代壱太郎の上方型の勘平

令和5年3月京都南座:「仮名手本忠臣蔵〜五・六段目」(Aプロ)

初代中村壱太郎(早野勘平)、初代片岡千之助(女房おかる)、初代中村鷹之資(斧定九郎)、二代目片岡千次郎(母おかや)、初代中村玉(千崎弥五郎)、三代目中村吉之丞(原郷右衛門)、二代目尾上右近(一文字屋お才)他


1)西と東の「六段目」

令和5年3月京都南座の花形歌舞伎は、「仮名手本忠臣蔵〜五・六段目」の勘平を、Aプロでは壱太郎(32歳)が上方型で、Bプロでは右近(30歳)が江戸・菊五郎型で、競演すると云う趣向が面白そうなので、京都まで行ってきました。勘平さんは「30になるやならず」のお歳頃ですから、役と役者がちょうど旬が似合うことでも期待されます。本稿では、Aプロの壱太郎の上方型の勘平を取り上げます。壱太郎が勘平を勤めるのは、今回が初めてであるようです。

現行歌舞伎で「六段目」を見る時・それは大抵江戸・菊五郎型であって、上方型の勘平を見る機会はほとんどないわけです。吉之助も両者の違いを知識として承知はしていますが、こうやって直近で並べて見比べてみると、まことに興味深いものがあります。どちらが良いかとか好きかとかは置いて、上方型の場合・現地(京都山崎)がすぐそこですし、地理風俗・生活感覚がリアルなものになるのは、これは当然のことです。そこのところは吉之助としては改めて感じ入るほどのことはないのです。

直近で両者を並べて見て吉之助が感じ入るのは、むしろ菊五郎型の方が様式的で・古い感覚に見えて来るほど、上方型が新しいと感じることです。つまり「型臭さ」をあまり感じないと云うことです。ここから近代の自然主義演劇へは、距離はそれほど遠くないと思うのです。(菊五郎型の様式性については、逆の観点から同月Bプロの観劇随想のなかでちょっと触れました。) そう感じるほど六段目の上方型は、勘平以外の役者の何気ない台詞・動きまでも、細かく自然に造られています。これも元を正せば、人形浄瑠璃(丸本)の「六段目」のテキストが良く出来ているからに違いありませんが、歌舞伎の上方型は原作の良さを素直に生かしています。

それにしても、近松物の「封印切」や「河庄」など、現行上演ではちょっと感触が様式的な方向へ後退しているように感じますが、同じような演出コンセプトで自然主義演劇的に処理してみたら、もっとドラマが活き活きして来るのではないでしょうかねえ。(そのためにはテキストを若干手直しする必要があるかも知れません。)そのようなことを考えさせるヒントが、この「六段目」の上方型にはあると云うことです。(この稿つづく)

(R5・3・15)


2)上方型の「六段目」

上方型の「六段目」が近代の自然主義演劇のように「新しく」感じられると云うのは、普段は菊五郎型ばかり目にしており・たまにしか見ないから新鮮に映るということも確かにあろうけれど、そこから上方歌舞伎と江戸歌舞伎の芸の在り方を考えることも出来ると思います。

別稿「上方芸の伝承と四代目藤十郎の芸」で触れましたが、上方の芸の伝承の根本は、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」ということなのです。しかし、「自分で考えて・自分の解釈で演じなさい・それは誰から教えてもらうものでもない」という考え方は西欧演劇ならば至極当然の考え方なのです。だから上方の芸の伝承は西欧のそれに近い、と云うよりも、洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であると吉之助には思えるのです。ですから先人の工夫を「型」として受け継ごうとする江戸歌舞伎の芸よりも、上方芸の方が本来創造的で・活力に富むということになる(はずである)。折口信夫が「大阪人の野性味」と云うことを言っていますが、それです。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

ですから、上方型の「六段目」が近代の自然主義演劇のように「新しく」感じられると云うことは、まさにそのような上方歌舞伎の芸の在り方を真っ直ぐに見せていると云うことなのです。そのようなことを教えてくれる上方歌舞伎の好例は、「六段目」以外にないわけでもないですが、まあそう多くはありません。従って、上方型の勘平はこうやって・江戸型ではああやって、ここが違う・あそこが違うという見方は、まあそれは知識として役に立つことではありますが、実は大したことではない。もっと学ぶべきことが他にあるのです。直近で両者を並べて見る得難い機会ですから、「上方歌舞伎の芸とは何か」と云うことも考えてみると面白いと思いますね。

「江戸歌舞伎の芸は創造的でない」と聞こえたかも知れないので・付け加えますが、これは江戸歌舞伎の芸の在り方が「伝承・様式」に重きを置いていると云うことです。それが証拠に現代では、江戸歌舞伎は生き残り・上方歌舞伎は消滅の危機に瀕しています。歌舞伎は過去に発し・過去から高められる芸能なのですから、「伝承と創造」・この二つの要素がバランス良く立つことで、これからも歌舞伎は続いて行くということになるでしょうね。(この稿つづく)

(R5・3・16)


3)上方型の新しさ

本来「六段目」の上方型をベースに江戸・菊五郎型が出来たわけですが、上方型を滅多に見られない現在にあっては、上方型は菊五郎型の批判型としての意味を持つことになるでしょう。批判型とは、今まで「古典」として当たり前と感じていた菊五郎型のクリエイティブな力を再確認するための大事な指標になると云うことです。(同じ意味において「熊谷陣屋」の団十郎型に対する芝翫型も、批判型です。別稿「型とは何か」をご参照ください。)

菊五郎型のポイントは、主役のオレ(三代目菊五郎)の姿をカッコ良く・かつ効果的に決めて見せることです。「六段目」はもちろん勘平のドラマですが、勘平の気持ちで上方型を読み込んで・これをさらに勘平にフォーカスして磨き上げたのが菊五郎型です。だから菊五郎型で見ると、「もうちょっと真相が分かるのが早かったら・勘平は死ななくて済んで・仇討ちに参加できたのに・可哀そうに・・」と誰でもそう思うと思います。菊五郎型は観客にそう感じさせるように出来ているのです。

一方、上方型の「六段目」は、菊五郎型を慣れた目からは、菊五郎型よりもカメラをずっと後ろに引いて、周囲の人物を含めたドラマ全体を俯瞰した感じがします。人物はそれぞれ自らの意思を以て動いているが・相互に影響し合い、その関係性のなかで勘平は「誤解」に追い込まれ・自らも「誤解」をして・「悲劇」が起こることになります。そのなかで特に老母おかやが重要な役割を持つのは言うまでもないですが、おかやが誤解したからこうなったのではなく、そもそも誤解の原因が勘平にあるのです。すなわち勘平は主人判官の大事(三段目の刃傷)に居合わせなかった失態を犯し・死んでお詫びをせねばならないところを・ここ山崎の里で名誉回復の機会を待っている身です。(お軽を含む)舅与市兵衛一家も勘平の名誉回復を願っています。そんななか一刻も早く資金を用立て・由良助様に仇討ちの仲間に入ることを認めてもらわねばと云う焦(あせ)りが、勘平を悲劇に追い込むのです。菊五郎型は別に大事の台詞を切り捨てたわけでもないのですが、勘平にフォーカスし過ぎたせいか・つまり観客を勘平に過度に感情移入させてしまうせいか、何となくそのところを見えにくくしているようです。だから、今回のように直近で両者を並べて見ると、上方型の方が視界が開けた印象がしますね。そこが上方型の「新しさ」だと思います。

菊五郎型と上方型との相違は挙げたら切りないですが、特に印象的なのは、紋服の扱いだと思いますね。菊五郎型では、一文字屋お才とのやり取りで・財布の縞柄を見とがめた時、浅黄の紋服と大小をお軽に持って来させて着替えます。上方型では、二人侍が来た時・勘平は慌てて仏壇下の押し入れから紋服と大小を取り出しますが、おかやに紋服をひったくられて着替えられない。真相が明らかになった後・勘平が落ち入る時に、おかやが勘平の背中に紋服を掛けてやると云う段取りになっています。結局、勘平は「塩治家に奉公する武士としての私」というアイデンティティにこだわり続け・そのために命を落すわけです。紋服の扱いがそのことを象徴しています。(この稿つづく)

(R5・3・20)


4)壱太郎の勘平

壱太郎は現在は女形の役どころが多いようですが、いずれ立役での活躍も増えていくと思います。上方型の勘平はそのための大事な布石ですが、堅実な芸を見せて・とても良い出来でありましたね。「30になるやならず」の年頃に相応の等身大の勘平で、このことが「六段目」のドラマに確かなリアリティを与えています。女形芸の裏打ちがあるから、手堅いなかにも・そこはかとない儚さを感じさせます。

上方型の勘平が観客に背を向けて腹に刀を突き立てるのは、菊五郎型と比べて地味に映るのは仕方がないです(腹切りのタイミングも菊五郎型とは異なります)が、これも上方型の全体の流れを改めて見渡せば、ドラマのなかで腹切りを突出させない(腹切りをサプライズにしない)ところに上方型の意図があると思います。これは、勘平はどんな形であれ・いずれ死なねばならぬ身であった・由良助としては失態を犯した勘平を許すわけに行かなかったと云うことなのです。その非情さを人一倍感じているのが(この場に登場しない)由良助です。勘平の処遇は、「九段目」での加古川本蔵の処遇と並んで、由良助が最も苦慮した案件であったと云うことです。「仮名手本忠臣蔵」を五段構成で読んだ場合、勘平が三段目の悲劇を担い・本蔵が四段目の悲劇を担うわけです。歌舞伎の上方型は文楽の段取りとは若干異なってはいるけれど・そこの骨格をある程度残しているので、勘平の死は観客に厳粛な印象を与えるだろうと思います。(別稿「勘平は死なねばならない」もご参照ください。)

上方型の「六段目」は勘平はもちろん大事ですが、周囲の人物が勘平を包み込むように全体で動いていくドラマなのです。だから芝居のアンサンブルが重要になるわけですが、今回(令和5年3月京都南座)の「六段目」はそこのところもよく出来ていました。そのなかで特におかやのウェイトが重いことは云うまでもないですが、千次郎のおかやはよく頑張りました。敢闘賞ものでありましたね。

(R5・3・23)


 

 


  (TOP)     (戻る)