古典的な「七段目」〜国立劇場の「忠臣蔵」通し
平成28年11月国立劇場:「仮名手本忠臣蔵・七段目」二代目中村吉右衛門(大星由良助)、五代目中村雀右衛門(お軽)、三代目中村又五郎(平右衛門)
1)「六段目」の役割
吉之助は、これまで自身が見てきた昭和50年代から平成の今日までの40年ほどの歌舞伎を大まかに古典化の流れのなかで捉えています。この流れは昭和40年代に既に始まっていたと思いますが、思えば昭和50年代の歌舞伎(ここでイメージするのはやはり六代目歌右衛門でしょう)は今の歌舞伎(ここでイメージするのは菊五郎や吉右衛門ということになる)と比べると、感触がちょっとねっとりしていたと思います。テンポのことで云えば、吉之助の感覚としては今の方がむしろ若干早めに思えます。ただこういう感覚は相対的なものであるので、年配の吉之助には(まだ若いつもりだが)そう感じられるけれども、今の若い観客は菊五郎や吉右衛門のテンポを恐らくゆっくりした感覚に受け取っているのかなと思います。歌右衛門のテンポだと、今の若い観客は持たないかも知れません。テンポ感覚だけが古典化の指標ではないですが、大まかにこの40年の歌舞伎は順調に古典化への方向にあったと云えるだろうと吉之助は考えています。
一方、吉之助の若い頃にも(三代目)猿之助歌舞伎があり、平成の(故・十八代目)勘三郎の新作歌舞伎があって、現在も若手役者たちがいろいろ新しい歌舞伎を意欲的に試みています。ただ吉之助は勘三郎が存命中にも書きましたけれども(「勘三郎の法界坊」を参照のこと)、一方に「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」があって、もう一方の対極として「真面目で神妙な古典歌舞伎」があると云う印象が、その後ますます強くなっているようです。これは盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に演じるようにしないと、いつまで経っても二つの流れが交差しませんね。
イヤ吉之助は今の平成の古典歌舞伎がツマラナイと言っているのではありません。そう言っているように聞こえるかも知れませんが、そういうことではない。今の古典歌舞伎が「そは然り」という感覚に収まり過ぎていることが、吉之助には気に掛かるのです。そのひとつの要因がテンポ感覚にあり、もうひとつは時代と世話の生け殺し(コントラスト)の不足です。あるいは吉之助が観劇随想でよく書く不満ですが、台詞の末尾を引っ張って詠嘆調に歌おうとする傾向にあったりします。この傾向は昭和50年代の歌舞伎に既にあったものには違いないですが、すっかり世代が変わっても、その後も一向に改善されぬまま、むしろそれがお約束みたいになって、ここまで来ています。
「歌舞伎素人講釈」をずっとお読みの方はお分かりのことと思いますが、吉之助は「然り、しかし、それで良いのだろうか・・・」というところにドラマを止めるのが、歌舞伎のあるべき感覚であると考えているのです。これは厳密に云えばまだ懐疑ではありません(懐疑と云うと近代人的な概念になってしまいます)が、そのまま延長すればそれは懐疑にまで至るところの、原形質的な疑問形なのです。これが歌舞伎的な感覚です。同時に、これが江戸の時代的感覚です。だから江戸期はプレ近代という位置付けになるわけです。
「そは然り」となると、それはお能に近い感覚になってしまいます。例えばお能であると、後シテの怨霊が狂いを見せても、やがてそれは僧侶に祈り伏せられて橋掛かりの向こうへ静かに消えて行きます。こうして「そは然り」の感覚に収まっていくのが、お能の古典的な様式感覚と云うものです。
歌舞伎であると、後シテの怨霊が狂いを見せるところに押し戻しが出て対決の構図になって、そこで引っ張りの絵面となって幕が閉まります。怨霊の狂いは凍結されて、ドラマは未解決のままに終わる、これが歌舞伎の様式感覚なのです。お能の感覚からするとドラマは収束されないままとなり、だからこそそこに「然り、しかし、それで良いのだろうか・・・」という割り切れないものが残ります。つまり、これは意識的に古典的な感覚をどこかでちょっと壊しているのです。吉之助としては、古典歌舞伎(と云われるもの)に、そのような感覚を常に求めたいのです。そう考えてみると、昨今の古典歌舞伎は「そは然り」という感覚に収まり過ぎていませんか?ということです。吉之助が言いたいことは、そういうことです。別稿「古典的な勘平」で平成28年11月国立劇場での菊五郎の勘平について書きましたが、その古典的な感触が高く評価できるものとしつつも、まだ何か足りないような些細なことを吉之助がぐだぐだ書いているのはそこのところです。「もう少し早く真相が明らかになっていれば勘平は助かったのになあ、でも連判に加えてもらって良かったなあ」という感じで芝居が終わるから、確かにドラマ的に収束した古典的な感覚になるのです。だから菊五郎の勘平は「生きるのを諦めてしまった勘平に見える」というようなご感想が出てくるわけです。
「六段目」だけ論じるならばこのような感想もまあ分かりますがねえ、しかし、吉之助が思うには、「六段目」の勘平は刀を腹に刺しながらも、なお「コンチクショウ、ここで死んでたまるか」という気概があるのです。逆に言えば、そう思わなければ勘平は刀を腹に刺せないのです。勘平は決して生きることを諦めてはおらず、勘平は刀を腹に刺して「俺は死ぬことなど恐れてはいないんだぞ」ということを示しておいて、むしろ新たな生を主張しているのです。この勘平の心情が次の「七段目」以降の「忠臣蔵」に、新たな展開をもたらすことになります。(この稿つづく)
(H29・2・16)
由良助のいない間に、伴内が由良助の刀を抜いて刀身が錆びているのを見て、「さて錆びたりな赤鰯」と驚きます。もちろんこの錆刀は由良助が仇討ちの意志なしと敵を欺くための計略ですが、「七段目」終盤では、由良助がお軽に手を添わせて、この錆刀で縁の下に隠れている九太夫を刺します。これは丸本を見てみれば、由良助はわざとこの錆刀で九太夫を刺すのです。現在では文楽でも詞章を省いていますが、丸本ではその詞章はこうなってます。
『コリヤ平右衛門、最前錆刀を忘れ置いたは、こいつ(九太夫)をば、なぶり殺しという知らせ、命取らずと、苦痛させよ、(平右衛門は)かしこまったと、抜くより早く、躍り上がり飛び上がり、切れどもわづか二、三寸、明き所もなしに疵だらけ、 (九太夫は)のたうちまわって、平右殿、お軽殿、詫びしてたべと、手を合わせ、以前は足軽づれなりと、目もかけざる寺岡に、三拝するぞ見苦しき』
つまり斬れ味の悪い刀で斬りつけて、相手に致命傷を与えず、苦痛をさせてなぶるための錆刀なのです。裏切り者の九太夫に対する由良助の強い憎しみが、そこに感じられます。これは重要な場面だと思いますが、文楽でも歌舞伎でもこの場面をカットしてしまうのは、茶屋場の華やかな気分が損なわれてしまって、いい気分で「七段目」を終われないという理屈があるのでしょう。確かに凄惨で正視し難い場面ですから、そのことは理解できる気がします。吉之助もこのカットは仕方ないかなあと思いますが、ただし、カットするにしても、ここで垣間見ることができる由良助の心の闇みたいなものは、しっかり心のなかに留めておきたいと思います。茶屋場の由良助は穏やかな笑顔を見せているけれども内心は鬼だということを、このことだけでハッと想起させます。
別稿「七段目の虚と実」で触れましたが、「七段目」の隠された本質は、実は乖離感覚にあるのです。それは、祇園の一力茶屋の華やかな雰囲気によって見えないようにされています。しかし、由良助は主人判官の遺言により、何がなんでも仇討ちをせねばならない立場にあります。由良助は封建主義の倫理観でがんじがらめに縛られています。「七段目」の由良助は、「何の罪もないお軽を殺すことで、私はどれほどの苦しみを味あわねばならないのか。主君の仇討ちを遂行することで、私はこれからどれだけの罪を犯さねばならないのか。仇討ちを終えるまで、私は鬼となるのだ」ともがき苦しむことでかろうじて耐えるのです。九太夫を殺すことも、由良助にとってそれは主人への義務の遂行であると同時に、これはまた罪をひとつ重ねることなのです。そこには真実の自分はいない。由良助はこのことが分かっているのです。「七段目」において由良助がこの苦しみを垣間見せる場面は、決して多くはありません。それはチラリと垣間見えても、由良助の柔和な笑顔のなかにすぐに消えて、見えなくなってしまいます。由良助の錆刀だけが、このことを形として明確に見せています。(この稿つづく)
(H29・2・23)
「七段目」をこの一幕だけで見れば、その筋は「仇討ちの意志なしと見えた由良助は、実はそうではなかったのです」ということであり、「あわや殺されそうになったお軽は救われて、兄の平右衛門は義士の仲間に入れてもらえて、めでたしめでたし」ということです。これは確かにそういうことに違いないですが、これだけであると「そは然り」ということで古典的構図に落ち着いてしまいます。そこにちょっぴりバロック的な感覚で切り込みを入れるとすれば、一体どんなことができるでしょうか。浄瑠璃作者はそのような工夫を「七段目」に仕込んでいるのではないか、そういうことを考えてみたいのです。
ご存じの通り「菅原伝授手習鑑」や「義経千本桜」は五段構成の時代物浄瑠璃です。このことからも分かる通り、時代物浄瑠璃の定型は五段構成です。一方、「仮名手本忠臣蔵」は十一段構成になっています。実は概念的には五段構成を踏まえているのですが、これを表面上、十一段に細分化しています。浄瑠璃作者がどうしてこれを細分化したのかは推測するしかないですが、塩治(=赤穂)義士の仇討ちの経緯を発端(刃傷の原因)から結末(討ち入り)までの一連の流れを描くとなると、そこに様々な劇的起伏があり人間模様がある、それらドラマの局面(一段)をすべて等価に捉えることによって、モザイク的に「忠臣蔵」事件全体の大きな流れを描 き出そうということであると考えます。つまり、十一段という形式は、古典的な時代浄瑠璃の感覚をどこかバロック的なセンスでちょっと崩しているということです。ただし、大筋での形式感はしっかり保っています。史実の元禄赤穂事件は、内匠頭刃傷から討ち入りまでに約1年9か月ほどの時間が経過しています。「忠臣蔵」ではこれを春夏秋冬のサイクルのなかで捉えています。この一連の流れのなかから、自ずとそれぞれの段の論理的な位置付けを見出すことが出来ます。
「仮名手本忠臣蔵」を五段構成として見た場合、その場割りは、
初段 大序・二段目・三段目
二段目 四段目
三段目 五段目・六段目
四段目 七段目・八段目・九段目
五段目 十段目・十一段目
となると思います。「七段目」は掛け合い場ですが、実質的に四段目の大端場(おおはば)という位置付けになるでしょう。つまり、四段目切場となる「九段目」に対する端場(導入部)なのですが、重さとしては切場と変わりないのです。(同じような四段目の大端場としては、「義経千本桜」での「川連法眼館」が挙げられます。「七段目」は掛け合い場だから、もうひとつ仕掛けがあるのですが、これについては後で触れます。)
「七段目」と「九段目」との関係は、「九段目・山科閑居」を見れば、明らかです。今回の国立劇場での3か月にわたる「忠臣蔵」通し上演・12月の第3部での「九段目」では、普段の上演では省かれることが多い「雪転(こか)し」の場面が上演されました。幕開きに由良助が仲居幇間に送られて大きな雪玉を転がしながら登場します。祇園からの帰りだということです。「九段目」というのは、「七段目・祇園一力茶屋」と密接に繋がっているのです。一力茶屋には雪が見えないけれども、山科閑居では雪が積もってますから、それは翌日のことではないかも知れませんが、恐らくほとんど間がない。「七段目」と「九段目」は事実上連続した場であるということが明らかです。このことは、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」の一場としての「七段目」にどのように影響してくるでしょうか。「仇討ちの意志なしと見えた由良助は、実はそうではなかったのです」で終わるのではなく、これは「本心を明かさなかった由良助は仇討ちに向けての行動を遂に開始しました」ということに他なりません。これからその続きが始まるのです。由良助の復讐の炎が、メラメラと燃えています。由良助は、まず手始めに裏切り者の九太夫を血祭りに挙げ(七段目)、次に主人判官が切腹の折に「恨むらくは舘にて加古川本蔵に抱き留められ、師直を討ちもらし、無念骨髄に通つて忘れがたし」と名指した本蔵を葬ります(九段目)。「これで仇討ちの準備は出来た、いよいよ我々四十七名は仇師直の屋敷に討ち入って主君の無念を晴らすぞ」と云うのが、「七段目」と「九段目」の位置付けなのです。(この稿つづく)
(H29・3・2)
次に考えねばならぬ大事なことは、原作の人形浄瑠璃の「七段目」が掛け合い場として作られているということです。複数の太夫がそれぞれ役を分けて浄瑠璃を語ります。ご存じの通り、浄瑠璃というものが語り物というものを起源に持つていますから、普通ならば、浄瑠璃(義太夫節)は一段を一人の太夫がすべて語り通すものです。そうならば 、そこに一つの視座と、曲の統一感覚が自然と出て来ます。「七段目」を掛け合い場にすることは、そのような統一感覚を良かれ悪しかれ意図的に壊わすことに他なりません。何の為に浄瑠璃作者は、そんなことをしたのでしょうか。
これについては、別稿「誠から出た・みんな嘘」 のなかで、吉之助は「七段目」は竹田出雲 ら浄瑠璃作者が書いた歌舞伎へのラヴレターであると書きました。「七段目」の由良助は当時の人気役者であった初代沢村宗十郎が延享四年(1747・つまり「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の大岸宮内の茶屋場遊びをモデルにして作られたと言われています。つまり歌舞伎が強く意識されているのです。様式の縛りの強い語り物から、演劇性がより強い自由な芸能へ人形浄瑠璃が変容して行こうとする意欲がそこに見えます。
しかし、なるほど演劇性への傾斜ということは理解できるけれども、それならば、どうして「忠臣蔵」の他の段も掛け合い場にしなかったのか、どうして「七段目」だけが掛け合い場なのかという疑問が依然として残ります。結論から先に言いますと、由良助の茶屋場遊びだから掛け合い場なのです。上方和事と云えば、代表的なのは茶屋場遊びです。上方和事の本質は、「今の私は本当の自分の姿ではない(今の私はどうしようもなく自分を偽っている)」と云う乖離感覚だということを、吉之助がずっと言って来ました。(別稿「和事芸の起源」などを参照してください。)その乖離感覚のために、浄瑠璃作者は上方和事の芸を必要としたのです。由良助は本心を隠しつつ茶屋場で遊びます。「七段目」に由良助の真実はありません。一力茶屋での由良助は、虚の存在です。但し書きしておきますが、茶屋場で遊ぶのが由良助の嘘で・仇討ちするのが由良助の本音だというほど、事はそう単純では ないかも知れません。普通はそういう風に考えるわけですがね、吉之助は別のことを考えています。仇討ちすることも、由良助にとって虚なのです。(別稿「七段目の虚と実」を参照ください。)由良助の考えていることは、誰にも分かりません。周囲の者たちは、由良助の考えていることを勝手に詮索して、不安になったり、疑ったり、怒ったり、裏切ったりします。そうしているうちに、本当に信用できる人物かどうか、彼らの本質が露わにされていきます。城明け渡し以降の「忠臣蔵」は、すべてそのようなドラマなのです。由良助という虚の存在(ブラック・ホール)を中心にして、お軽も平右衛門も九太夫も伴内も三人侍も、「七段目」の登場人物たちがぐるぐる回る万華鏡のような虚の世界、それが華やかな祇園の茶屋場です。そのような乖離感覚を現出するために、浄瑠璃作者は「七段目」を掛け合い場にしたということです。(この稿つづく)
(H29・3・10)
華やかな祇園の茶屋場の乖離感覚、同時にそれは由良助の「今の私は本当の自分の姿ではない(今の私はどうしようもなく自分を偽っている)」という思いと重なっています。だから浄瑠璃作者は「七段目」を掛け合い場にしたのです。「七段目」は「忠臣蔵」の他の段よりも、芝居(歌舞伎)の方へ大きく寄っていると云うことです。だとすれば、「七段目」をやるためには、本質が語り物である人形浄瑠璃より、歌舞伎の方がずっと有利に違いない。ただし、その有利さを歌舞伎が上手に生かせればの話ですが。
例えば別稿「誠から出た・みんな嘘」で触れましたが、お軽と平右衛門の兄妹のじゃらじゃらした会話が上手ければ、そのじゃらじゃら引き伸ばされるほど楽しくなって、それが「七段目」のドラマの本質と似合って来るのです。例えば玉三郎のお軽と仁左衛門の平右衛門のコンビがそうでした。趣は異なりますが、吉之助にとっては、六代目歌右衛門のお軽と二代目松緑の平右衛門のコンビも忘れ難いものでした。兄が真剣に話をしようとしても、お軽は最初はそれを真面目に聞こうとしません。お軽は真実が歪んで、正しい形で見えなくなっていたのです。それは遊郭が虚構で成り立つ場所だからです。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘である。そのような虚構の世界にお軽は住んでいますから、実(じつ)の世界に生きる兄の言うことをお軽は正しく受け止めることが出来ず、そのやり取りはチグハグになって行きます。それがお軽と平右衛門の兄妹のじゃらじゃらです。
だから歌舞伎の有利さを生かすということは、「七段目」の入れ事をどう目一杯生かすかということなのです。もしお軽と平右衛門の兄妹の会話を、夫のために身を売って華やかな祇園でひとり健気に生きる妹、足軽身分だが何とかして由良助のお役に立ちたいと一心に願う実直な兄の会話というような、実(じつ)の会話として描くとすれば、まあそれは決して間違いではありませんが、芝居としては それでは面白くならないのです。「七段目」の登場人物のなかで、平右衛門だけが唯一まともな・普通の感覚を持った人間です。これは普通の芝居であると実(じつ)ということですが、祇園の世界の感覚からすると、それは野暮なことなのです。
お軽と平右衛門のじゃらじゃらは、口で云うのは簡単なことですが、なかなか難しいことです。それは役者の華ということとも、深く関係してくるからです。吉之助も「七段目」は随分回数は見たと思いますが、ホントに心底上手いなあと感心したのは、上に挙げた二組くらいでしょうかねえ。意外と満足できるのは、少ないものです。今回(平成28年11月国立劇場)のお軽(雀右衛門)・又五郎(平右衛門)のコンビも悪くはないですが、どちらかと云えば、実(じつ)の方に寄っている印象です。それは彼らの持ち味であるし、もちろん間違いではないので、或る種の真実味は表出しています。この兄妹は、ホント一生懸命に生きていて、健気で、そして哀れなのです。そういう感じは確かに伝わって来ます。だから後味は、決して悪くはないです。これは文楽での「七段目」に近いもので、そういう視点に立つならば、確かにこれで十分合格点と云えるものです。しかし、吉之助は、歌舞伎の「七段目」はもっと面白く出来ると思っているのです。そうすると「七段目」は、「忠臣蔵」通しのなかで、ちょっと突出した感触になるかも知れません。しかし、それは浄瑠璃作者が元々意図したものであって、もしかしたら作者は歌舞伎が本作を取り上げることを意識して仕掛けたものとも思えるわけです。作者が「これが芝居なら、さぞよろしゅおまっしゃろなあ」と微笑しているように思えますね。
だから敢えてこういうことを言いたいのです。「七段目」は竹田出雲 ら浄瑠璃作者が書いた歌舞伎へのラヴレターなのですから、歌舞伎が「七段目」をやるならば、作者が望んだような、由良助を中心にして登場人物たちがぐるぐる回る万華鏡の華やかな虚の世界を舞台に現出させてもらいたい。吉之助は、そのように思うわけです。(この稿つづく)
(H29・3・14)
今回(平成28年11月国立劇場)の吉右衛門の由良助に関しては、別稿「吉右衛門の七段目・由良助」で触れたことと同じになりますが、吉右衛門は茶屋場に酔態で遊ぶ時と・仇討の本望に立ち返る時の声色をはっきり変えて、二色の声で由良助に対処しています。これは酔態で遊ぶ時を由良助の虚、仇討の本望に立ち返る時を由良助の実(じつ)と考えるならば、確かに理解できる演じ方です。つまり、或る種の「モドリ」のように由良助を捉えて、由良助の二面を描き分ける考え方です。しかし、これでは、何のために浄瑠璃作者が歌舞伎の初代沢村宗十郎の和事の由良助を「七段目」にわざわざ取り入れたのか、全然分からないことになりはしませんか。これは声色を変えて対処するのではなく、声色を変えず口調に於いて仕分けた方が良いのです。
繰り返しますが、和事の本質は「今の私は本当の自分の姿ではない(今の私はどうしようもなく自分を偽っている)」ということにあります。そのような由良助を描くために、浄瑠璃作者が初代宗十郎の和事の技法を「七段目」に導入したのです。「七段目」が描くところは、由良助の考えていることは誰にも分からない、もしかしたら当の由良助にさえ・・ということです。「茶屋場で遊ぶのが由良助の虚で・仇討ちするのが由良助の実」なのでは ありません。仇討ちすることも、由良助にとって虚なのです。それでは由良助の本音は、どこにあるのでしょうか。それは「七段目」にも九太夫を打擲する場面の台詞に少し出ますが、明確には出てきません。それは「九段目」の、死にゆく本蔵と由良助の会話のなかに出て来るのです。『本蔵苦しさ打忘れ、「ハヽヽヽ。したりしたり。計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」と悔やむを聞くに、 (由良助は)「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」と思へば無念に閉ぢふさがる。胸は七重の門の戸を、洩るるは涙ばかりなり。』(「九段目」)
主人判官は短慮なことをしてくれたものだ、この忠義を戦場で発揮することこそ武士の本分であろうに・・と由良助は嘆いています。主人が殿中で刃傷などと馬鹿なことをしてくれなければ、御家はお取り潰しになることはなかったのに。我々家来は安穏な生活を送れていたはずだったのに。みんな幸せに暮らせたはずなのに。由良助はそうはっきり言っていませんけれども、何故?どうしてこんなことになったんだ?という疑問と憤りが由良助の胸を衝くのです。由良助にはこの憤りをぶつける先が見つかりません。だから武士の立場としてとりあえず矛先は師直へ向かうということです。由良助の本音は、そういうことだと吉之助は思います。
ですから「七段目」は、「あわや殺されそうになったお軽は救われて、兄の平右衛門は義士の仲間に入れてもらえて、めでたしめでたし」という古典的な構図で終わるのではありません。由良助は仇討の決意を遂に表に出しましたけれども、まだ本心を内に秘めたまま明かしていません。「七段目」は「然り、しかし、それで良いのだろうか」と云う形で終わり、ドラマは「九段目」へ引き継がれます。そのような形で「七段目」は古典的な構図をちょっと崩して、バロック的な方向へ寄っているということです。このことは、とても大事なことです。
今回(平成28年11月国立劇場)の「七段目」は古典的な印象に仕上がっています。見取り狂言として「七段目」の単独で見るならば、なかなかの水準であることは疑いありません。しかし、贅沢な不満ですが、これを「九段目・山科閑居」に繋がる場と考えるならば、「然り」という形に収まり過ぎに思われます。浄瑠璃作者が夢見た歌舞伎の「七段目」の感触を想像するならば、もうちょっと崩しても良い。そろそろ「仮名手本忠臣蔵」作品全体の読み直しが必要になってきたと思いますねえ。(H29・3・15)
*別稿「古典的な勘平」での六段目は、同じく平成28年11月国立劇場で通し上演されたものであり、内容的に対となるものなので、併せてお読みください。