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「絹川村閑居」の悲劇の構造〜四代目梅枝初役の時姫

令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記〜絹川村閑居」

五代目中村時蔵(三浦之助義村)、四代目中村梅枝(時姫)、六代目市川高麗蔵(おくる)、六代目中村東蔵(母長門)、八代目中村芝翫(佐々木高綱)他


1)「鎌倉三代記」の面白さ

本稿は令和5年(2023)11月歌舞伎座での「鎌倉三代記」の観劇随想ですが、舞台について記する前に、例によって作品の周辺を逍遥したいと思います。現行の「絹川村閑居」は前半をカットして三浦之助の登場から始まり、幕切れ近くの長門の死もカットするのが通例です。今回上演でもそのようになっていますが、この場割りでは今後本作が歌舞伎のレパートリーとして生き残るのは難しかろうと毎度見る度に思いますねえ。今回もそんなことを感じました。

戦後の上演記録を見ると、本作の上演は78年間で32回(今回含む)と頻度は決して多くありません。しかし、大事な演目として守られてきたと云う印象は確かにあります。時代物の義太夫狂言らしいスケールの大きさと重さがある、主役三人が絵面で決まる幕切れが映える、時姫が女形の大役・「三姫」のひとりであるなど、本作が見取りで上演されてきた理由はいろいろあると思います。しかし、現行の場割りではただ時代物のスケールが大きいと云うだけのことで、迫ってくるドラマがあまりに足りない気がします。大坂夏の陣がモデルだと云うのに徳川・豊臣でなくて、北条だの佐々木だのと訳が分からない、おまけに夫や姑・周囲の人間が寄ってたかって時姫に父親(時政)を殺せと迫るのが倫理的に理解し難いとか、歌舞伎が初めての方には、見掛けは派手だけど、筋が錯綜して内容空疎な芝居に見えて、ちょっと我慢出来ないのじゃないかと思いますねえ。

しかし、吉之助にとって「鎌倉三代記」は通しで見ると筋の面白さでは随一ではないかと思える芝居のひとつなのです。その昔(昭和58年・1983・5月)国立小劇場の文楽公演で、昼の部で「近江源氏先陣館」半通し、夜の部で「鎌倉三代記」半通しという組み合わせで上演が行なわれたことがありました。これは文楽でも滅多にない好企画であったと思います。これが面白いのなんのって、昼の部の「盛綱陣屋」の首実検で高綱の偽首として登場するのは実は身替わりを買って出た百姓藤三郎の首で、夜の部の「鎌倉三代記」では高綱はその藤三郎を名乗って時政を付け狙うと云うのだから奇想天外。これはつまり「盛綱陣屋」の続編になっているわけです。偽首の経緯は高綱物語のなかでも語られますが、多くの方がそこは軽く聞き流してしまいそうです。これは仕方がないことですが、聞くと見るでは大違いと云うか、これらの経緯(謎解き)もそれを芝居で見て承知しておれば、高綱の物語がグンと面白く聞こえると云うものです。十全な姿ならば、「絹川村閑居」はこんなに面白いんだと感動すること間違いなしです。ちなみにこの時の文楽の通し上演は、

「近江源氏先陣館」半通し:坂本城、盛綱陣屋(和田兵衛上使・小四郎恩愛・盛綱首実検)、高綱隠れ家

「鎌倉三代記」半通し:入れ墨、絹川村閑居(局使者・米洗い・三浦之助母別れ・高綱物語)、石山本陣、高楼

という場割りでありました。(この稿つづく)

(R5・11・18)


2)「鎌倉三代記」成立の経緯

「鎌倉三代記」は、「近江源氏先陣館」(明和6年・1769・12月大坂竹本座初演)の続編として書かれ、その翌年の明和7年(1770)5月に同じく竹本座で初演された「太平頭鍪飾(たいへいかぶとのかざり)」が原型であると推定されています。外題に「近江源氏」の角書が付されています。作者は近松半二以下「近江源氏」と同じ執筆陣だと思われます。「太平頭鍪飾」の評判は上々だったようですが、お上の神経を逆撫でする箇所がどこかにあったらしく25日で上演差し止めとなり、このため正本が出版されませんでした。(当時の人形浄瑠璃では上演されると必ず台本が出版されたものでした。)現在上演される「鎌倉三代記」は、安永10年(=天明元年・1781)3月江戸肥前座での初演です。「太平頭鍪飾」から11年の歳月が経過し、初演も大坂から江戸に変わっています。詳しい経緯は本稿ではどうでも宜しいのですが、その後の研究に拠れば、お上に問題とされた箇所を修正して筋を整えた上で・別の題名で読本出版がされたり・何度か改訂上演が試みられたようです。残念ながら「太平頭鍪飾」正本が存在しないので、どこがどのように改訂されたかが分かりません。しかし、「鎌倉三代記」はほぼ大筋で「太平頭鍪飾」を踏まえたものと考えて良いようです。

「鎌倉三代記」(文楽)では、時姫は「夫ゆえには幾奈落の、責め苦を受くるとも厭うまじ。父の陣所に立ち帰り、仕おうせてお目にかけう」と言います(注:歌舞伎ではこの台詞はカット)が、その後の展開では、三浦之助は討死に、時政暗殺の計略は失敗に終わってしまい、時姫は自害します。「鎌倉三代記」のドラマが虚しく見えるとすれば、それは結果として時姫が三浦之助を想う強い気持ちが奇蹟を引き起こすことがないせいです。例えば同じく近松半二の作になる「本朝廿四孝」では八重垣姫は勝頼を想う心が奇蹟を起こします。諏訪明神の白狐の霊力の助けにより姫は諏訪湖上を渡り、武田・長尾両家は和睦し、足利の世に平和が訪れます。(別稿「廿四孝」と八重垣姫」をご参照ください。)時姫にも何か奇蹟を起こさせてやりたかったものです。「本朝廿四孝」であれほど大胆な歴史改変を行った半二のことです。もしかしたら半二は「太平頭鍪飾」でもそんな大胆な筋を構想したかも知れない、「太平頭鍪飾」がお上の不興を買ったのは・そういう箇所であったかなとも思うのですが、いずれにせよ吉之助の想像に過ぎませんがね。(この稿つづく)

(R5・11・21)


「夫を取るか・親を取るか」

「鎌倉三代記」成立の大まかな経緯は前節の通りですが、七段目に当たる「絹川村閑居」が文楽でも2時間10分ほど掛かる長丁場のため、歌舞伎の上演ではさらに大幅な改変を余儀なくされました。前半の局使者・米洗いがカットされ、姑長門の死の場面は削除、さらにおくるが自害させられてしまいました。(原作ではおくるは自害はせず・最後まで舞台にいます。)このような改変で一番被害を被ったのは時姫で、歌舞伎の時姫は、夫・姑・周囲の人間に寄ってたかって責められて「父時政を殺してみしょう」と無理やり言わされるイメージになってしまいました。このような舞台を見て「時代錯誤の倫理思想に染まった何て芝居だ」と感じてしまうのも無理ないことです。しかし、ここでハタッと立ち止まって、近松半二がホントにそう云う芝居を書いたのか、ホントに半二の作意がそこにあったのか、冷静に考えてみて欲しいと思います。読み手から作品の方へ寄って行かねばなりません。これが「古典」の正しい読み方なのです。そうすれば、十全ではない歌舞伎の「絹川村閑居」からであっても、半二の正しい作意を引き出せるはずです。そのためにはまず役の性根を正しく掴む必要があります。

大事なことは、「夫を取るか・親を取るか」という問いに対し時姫が夫を取って親を捨てたと云うことではなく、時姫はこれを飛び越えて、「夫に対して忠・同時に親に対して孝」となる・まったく新しい次元の選択肢を見出したと云うことなのです。なぜならば時姫は三浦之助の許嫁であるからです。時姫は生まれてからここまで、三浦之助の妻になると定められて生きて来ました。時姫が三浦之助に尽くすことは、彼女が勤めるべき仕事として父時政が決めたことです。だから夫に付くことは、父時政の言いつけを守ること(つまり親に対し孝行)なのです。(別稿「私が私であるために」をご参照ください。)このことは、父時政が時姫を取り戻すため絹川村へ送り込んだ二人の局(讃岐の局・阿波の局)に対し、時姫が次のように返答していることでも明らかです。(この台詞は「絹川村閑居」のカットされた前半部分にあります。)

「度々父上よりお召しあれど、女は夫の家を家とせよと、常々の仰せを守る自らに、いまさら帰れとは父上とも覚えぬ。ことに姑御のお失例御介抱の隙なければ、再び鎌倉へ帰る心はないわいの。そのとほり申し上げて給も」

「嫁しては夫の家を家とせよと常日頃言っていたのはお父様じゃないの。その教えを忠実に守っている私に、いまさら帰って来いとはどう云うことよ。私はイヤよ」と言うことです。これが時姫の性根なのです。(この稿つづく)

(R5・11・23)


最高に生きるために

「絹川村閑居」が時姫が夫・姑や周囲の人間に寄ってたかって責められて・「父時政を殺してみしょう」と無理やり言わされるドラマであるならば、本当にそうであるならば、本作は現代人・特に女性観客の共感を得ることは決して出来ないでしょう。しかし、時姫が能動的に「それ」を選び取ったとするならば、ドラマはまったく異なる様相を見せると思います。

本作のシチュエーションはかなり極端です。そこは戦争という極限状況が背景だから仕方がないこととして、家来は主人のために命を捨てるべしと云う封建道徳とか・女は夫に従うべきという女庭訓の思想とか、そう云うことをちょっと一時的に忘れてみたらどうかと思いますねえ。例えば「私は私が愛するもの・信じるものの為に生きたい」という主題なら、現代にも立派に通じる主題になると思います。「私は三浦之助さまのために生まれてきた、だから三浦之助さまのために死すことは最高に生きることだ、最高に生きるために私は死ぬのだ」と云う感情は、まあ倒錯しているのは確かですが、愛の感情にカーッとのぼせている瞬間にはそう云う気分になることもあると思います。そこに時姫の真実がある。「曽根崎心中」のお初だってそうです。心中の大義を叫ぶお初の台詞をご覧ください。元禄の世に心中ブームを巻き起こした台詞です。

「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」(曽根崎心中)

お初の台詞と「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」と云う時姫の台詞の間に何の相違も見出せません。それはどちらも「私は最高に生きる」という感情から発せられています。

前述の通り歌舞伎の「絹川村閑居」は十全な形ではありませんが、それでも時姫の周囲を見回せば、夫(三浦之助)・姑(長門)も高綱もおくるも、それぞれの次元に於いて、自分が愛する共同体(京方)の存続のため全身全霊で命を懸けていることが分かると思います。もはや京方は滅亡の危機に瀕しています。残された策は「鎌倉方の大将北条時政を討つ」しかないと云うところまで追い込まれています。彼らは時姫にどれほど人の道にもとることを頼んでいるのかよく分かっています。と云うことは、裏を返せば、時姫にそのような頼み事をせねばならないと云うことは、夫三浦之助や姑長門がどれほど時姫を嫁として受け入れているか、高綱やおくるがどれほど時姫を愛しているかということの証に他ならないのです。

ですから三浦之助の許嫁であり・三浦之助に尽くすことこそ自らが勤めるべき仕事だと信じて生きて来た時姫にとって、彼女が今日まで生きてきたことの意味がここで問われることになります。時姫は「この瞬間のために私は生きてきたの」と叫ぶことになる。それが「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」という台詞なのですから、そうすると「父様赦して下さりませ」で時姫の性根をどこに置いてしゃべるべきかは自ずと明らかだと思いますね。そこのところが分からないと、この芝居は「すべては時姫に時政暗殺を迫るための謀略であった」と云うことになってしまいます。(この稿つづく)

(R5・11・26)


5)型が持つものを素直に出す

このように「鎌倉三代記」の時姫のドラマは、「自身のアイデンティティにどれだけ忠実であるか」を問うものなのです。江戸時代のドラマですから戦争という極限状況で「夫を取るか・親を取るか」を問う体裁となっていますが、細かいことはどうでも良いのです。詰まるところは「君は自分が愛するもののためにトコトン生きているかい」と云うことです。バックグラウンドは全然異なっても、そう云うドラマは現代でもたくさんあると思います。「設定は極端だけれど江戸時代の人々も自分が信じるもののために一生懸命生きたのだなあ」と感じないとすれば、現代人が歌舞伎を見る意味はあまりないと思います。歌舞伎からそう云うポジティブなものを読み取ることが「古典」を学ぶ者の努めだと思っています。

吉之助が見た「鎌倉三代記」の舞台など数が知れていますが、そのなかでは魁春の時姫が素晴らしいものでした。魁春の時姫は、夫三浦之助に「ササ返答如何に」と詰め寄られた瞬間にパアッと輝くのですねえ。この瞬間に時姫に或るスイッチが入るのです。「この瞬間のために私は生きてきたの」という感覚があって、そこで「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」という台詞が発せられるから、ここで見事に時姫の悲劇のエッジが立つのです。時姫はこれから自分がすることの恐ろしさに震えていますが、同時に夫のために死すことの悦びにも震えているのです。このような乖離した感覚は魁春でしか見たことはないですねえ。(残念ながら吉之助は六代目歌右衛門の時姫を見ていませんが、歌右衛門は魁春にここを厳しく伝授しただろうと思います。)前述の通り現在の歌舞伎での「鎌倉三代記」脚本は十全でないものです。しかし、この不十分な脚本であっても、余計なことを考えず・型が持つものをホントに素直にそのまま出すならば、描かれるべきものはそのまま素直に舞台に現れる、魁春の時姫はその好例であると思います。(魁春の八重垣姫も同様です。)

さて今回(令和5年11月歌舞伎座)の梅枝の時姫ですが、初役にして十分な成果を上げています。容姿の古風な味わいが義太夫狂言によく似合います。もっとも「北条時政討って見せう」でパアッと輝くと云うところまではまだ行きませんが、そこはこれからの課題でしょう。梅枝の良い点は、時姫の行動に何かしら能動的な・ポジティブな側面を見ようとしていることです。状況に翻弄されてヒナヒナ・シクシクばかりの赤姫になっていないと云うことですね。「一生懸命に愛す・一生懸命に尽くす」、まずそこのところがしっかり出来ているならば、時姫の性根は立派に立つと云うことです。(この稿つづく)

(R5・11・29)


6)姑長門の自死の場面のカットについて

今回(令和5年11月歌舞伎座)の東蔵の姑長門は、義理をわきまえ情も厚い、なかなか良い出来です。肝心要の長門の自死の場面がカットされているせいで、せっかくの東蔵の好演が生きて来ないのは残念ですが、それは兎も角、ここでハタっと考えることは、長年「絹川村閑居」から長門の自死の場面がカットされて来た理由は上演時間の制約(今回の十全でない脚本でも1時間20分掛かっているのに・長門の自死を復活すればさらに20分ほど伸びる)と云うことが大きいと思いますけれど、現代人には長門の自死の場面がなかなか理解し難いと云うことも、もしかしたらあるかも知れないなとも思うのです。

それは長門の自死がかなり衝撃的であるからです。何しろ興奮した時姫が「一念通るか通らぬか、女の切っ先試みん」と言って槍を構えて突き出すと、長門が障子越しにその槍先を掴んで自分の脇腹にぶっ刺すのです。「これはちょっと付いて行けないや」と感じる方は少なくなかろうと思います。しかし、そこで踏みとどまって長門の述懐をよく聞いて欲しいと思います。長門は苦しい息の下で

「生みの親御をふり捨てゝ、何の恩もない姑を、誠の母とこのほどの起き臥し介抱心遣ひ、親切とも過分とも、どうも礼の云ひやうがなさ、こなたに功が立てさしたさ、三浦が母を仕止めたれば、生みの父北條殿へ、孝行の一つは立つ。またこの母への返礼には、このとほりの功を立てゝ下され。親を忘れて義を立つる、手本の鑓先。ヲヽあっぱれ手のうち、健気の働き出かした嫁女・・(中略)とても果報のあることなら女夫この世で末永う、孫悦ぶを冥途から、見るなら何ぼう嬉しかろ。・・」

と言うのです。長門は時姫に心底感謝しています。「貴方に親不孝者の汚名は着せぬ、三浦の母を仕止めたと云うことで父北条殿への孝行は立とう、その代わり、この義母への手向けに北条殿を討つ、是非ともそれをお願いします」と云うことです。時姫に理不尽な行為を強いねばならないことへの詫びでもありましょうか。倒錯した場面であることは確かです。敗北寸前にまで追い込まれた者たちの凄まじい執念です。と同時に、それと同じくらいに強い時姫に対する愛情を感じますねえ。平和な世の中であったならば夫婦仲睦まじく・婆よ孫よと愛情を以て皆が暮らせたものを、戦争と云う極限状況がこれほどまでに人の心を引き裂き・無残なものに変えてしまうのかと云うことです。そのような問題提起をこの場面は含んでいるのです。ですから長門の自死の場面は、見るのはなかなか辛い場面ではあるけれども、凝視せねばならない場面でもあります。

だから「絹川村閑居」で長門の自死の場面を復活させることは原典主義者である吉之助はもちろん賛成です。しかし、歌舞伎のなかで現行のやり方が定型になっている以上、それはなかなか容易なことではなさそうです。復活すれば復活したで、ドラマが描くものはその分さらに重く深刻なものとなります。この重さは長門だけが背負うものではなく、出演者全員が分担して背負わねばなりません。そのために「絹川村閑居」全体の段取り・バランスを根本的に練り直す必要がありそうです。(この稿つづく)

(R5・12・1)


7)おくるの述懐の意味

今回(令和5年11月歌舞伎座)の舞台では、高麗蔵のおくるも律儀な印象があって役をわきまえた・とても良い出来だと思います。おくるが良かったから猶更そう感じるのかも知れませんが、それにしてもこの芝居でいつも感じることは、述懐の直後におくるが自害せねばならない理由は何もないと云うことですね。原作(文楽)では、おくるは槍を脇腹に刺して瀕死の長門に付き添って最後まで舞台にいるのです。歌舞伎では長門の自死の場面がカットされるので、用済みになったおくるを舞台から消すために無理やり自害させたような印象が強い。おくるを退場させたいのならば、「ソレおくる、奥へ行て母人の世話頼む」とでも言えば済む話なのに・それをせずに殺してしまうのは、マコトに乱暴な処置だと思います。はるか昔にこの箇所を書き換えた座付き狂言作者(誰だか知らないが)のセンスが疑われます。歌舞伎でのおくるの自害は、これに先立つ高綱の物語の・次の台詞を受けたものです。すなわち、

「あれにいるおくるが夫藤三と云っしは、面体われに見まがふばかり似たるを幸ひ、価をくれて命を買ひ取り、去年石山の陣にて、北條家を欺きし、佐々木が贋首こそかの藤三郎・・」

「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」での首実検で登場した・あの偽首が、おくるの夫・藤三郎であったのです。続編「鎌倉三代記」では高綱は藤三郎・つまりただの百姓になりすまして時政に近づこうとします。このため真(まこと)の藤三郎に見せるための協力をおくるに依頼したのです。高綱の物語を受けた・おくるの述懐を見ますと、

「わたしが夫は水呑百姓、かつ/\のすぎわいさへ、長の病気の貧苦の中、不相応な御恩のお貢、金銀に命は売らねど、夫も元は侍の端くれ、生れ付いて臆病で弓引くことも叶はぬ非力、わが身を悔むこの年頃、誰あらう佐々木様に面ざし似たが仕合せで『討死の数に入るは一生の本望』と、にこ/\笑うて行かれた顔。いま見るやうに思はれて、あなたのお顔を見るにつけ、思ひ出されて懐しうござりまする」

歌舞伎では、この述懐の後「夫とともに死出三途」と原作にない台詞を言って・おくるは自害してしまいます。しかし、前述の通り原作でのおくるは、瀕死の長門に付き添って最後まで舞台にいます。

このような歌舞伎の改変が問題であるのは、この場でおくるが自害してしまうと、上の述懐が偽首となって死んだ夫への愁嘆にしか聞こえなくなることです。そのように聞くと、高綱物語でせっかく高揚した芝居の気分を醒ましてしまう作用しか起こしません。しかし、ここが大事なことなのですが、夫の死後もおくるは生き延びて高綱のなりすましの計略にここまでずっと協力して来たわけです。「絹川村閑居」では藤三郎=高綱であると観客に明かしたけれども、鎌倉方(時政)にまで明かしたわけではない。計略の実行はこれからです。京方の逆転勝利の為おくるの協力が必要な場面がまだまだあるかも知れません。そのような緊迫した状況なのに、ここでおくるを自害させることほどおかしなことはありません。

もしそうならば、その後もおくるが高綱に協力して生き続けるならば、上記のおくるの述懐をどのように読むべきかということです。それはつまりこう云うことでしょう。「偽首になった夫の死を無駄にしないためにも、妻である私も高綱さまの計略に協力して、京方のために命を懸けて戦う」ということです。この述懐は、おくるなりの・力強い戦(いくさ)の宣言なのです。おくるの述懐をそのように読まねばなりません。時姫から見ればずっと下の身分の女性ですが、それでも妻は夫のための義理をとことん果たそうとする、究極の状況で「自身のアイデンティティにどれだけ忠実であるか」が試される、そのような実例を時姫はおくるに見ることになります。そこから「夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」という時姫の決意が導き出されます。(この稿つづく)

(R5・12・5)


8)「絹川村閑居」の重大なカット

「絹川村閑居」では時姫が「父時政を討ってみしょう」と叫ぶ場面が、形を変えて二度出てきます。まずひとつ目は、

「思ひ切って討ちませう。北條時政討って見せう。父様赦して下さりませ」

です。現行歌舞伎であると、この時姫の台詞が「絹川村閑居」のクライマックスであるかの如く見えると思います。しかし、原作を読むと実はそうではなく、時姫はこの後さらにドラマ的かつ段階的に追い込まれていきます。と云って語弊があるならば、時姫は理念的にさらに高められて行くのです。次の台詞こそが「絹川村閑居」の本当のクライマックスです。その台詞とは、

「オオそれよ。親を捨て命を捨て、主に従ふは弓取の道。夫に従ふは女の操、不孝の罰の当らば当れ、夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」

です。ただし現行歌舞伎では、この直後に時姫が突き出した槍で姑長門が自害する場面も含めて、この台詞までもカットされています。このため現行歌舞伎では時姫の感情が次第に激していくプロセスがまったく見えないのです。しかし、原作を見直せば、上記二つの台詞の間に、時姫の決意をさらに強固で熱いものにするための段取りを浄瑠璃作者がしっかり準備していることが一目瞭然です。その過程(プロセス)を見てみます。(詳しくは別掲の「絹川村閑居」床本をご参照ください。)まずは、

1.時姫の台詞:「思ひ切って討ちませう。北條時政討って見せう。」
2.高綱の物語
3.おくるの述懐
(これ以後は現行歌舞伎ではすべてカット)
4.時姫は「いづれを見ても義理ゆえに死なねばならぬ定りか」と嘆く。
三浦は「愚か/\、生は難く死は易し」と時姫を叱り、既に自分は深手を負っており命は長くないと告げる。時姫は「これほどの手を負ひ給ふと、知らぬ女の浅ましさ」と泣く。
6.高綱は「三浦が首は安達藤三が討ち取るぞ」と言い、三浦の首を持参して敵の大将時政に近づく計略だと宣言する。三浦は「ハハハハ忝し悦ばしや。最期の本望この上なし、冥途で再会々々」と笑う。
7.時姫の台詞:「夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」
8.時姫の突き出した槍を掴んで姑長門が自害する。
9.瀕死の長門の述懐。

となるわけです。これでもか・これでもかと云う感じで時姫を・そして観客を段階的に追い込んで行きます。「これはとても付いて行けない」と悲鳴を上げたくなるほど、登場人物全員が何ものかに憑かれた倒錯状態の嵐なのです。しかし、浄瑠璃作者が本当に訴えたいこと(本作の主題)は実はそこにはありません。それは長門の述懐の最後の方に出て来ます。すなわちそれは、

「親を忘れて義を立つる、手本の鑓先。ヲヽあっぱれ手のうち、健気の働き出かした嫁女・・(中略)とても果報のあることなら女夫この世で末永う、孫悦ぶを冥途から、見るなら何ぼう嬉しかろ。・・」

と云う箇所です。長門の自害によって、幕切れの異様な高揚感は徐々に沈静化していきます。この後は、現行歌舞伎と同じく、三浦・時姫・高綱の三人三様の別れで締められます。(この稿つづく)

(R5・12・6)


9)魅力的な男たち

ここまで「絹川村閑居」を三人の女性、時姫・長門・おくるの視点から眺めて来ました。当時の女性の道徳は「夫に従え・家に従え」ということでした。この教えを胸に彼女たちは自らの在るべき道を模索したのです。と云うことは、男たちが彼女たちの犠牲的行為に足る魅力的な存在でなければ、これに尽くす意味はないはずですね。「魅力的」と云うのは、見た目がカッコいいと云うことだけでなく、正義を体現しているとか・勇気があるとか・強いとか・いろんな要素があり得ます。いずれにせよそれが彼女たちの目から見て魅力的な存在でなければ、これに尽くす意味はありません。「絹川村閑居」は時姫・長門・おくるの三者三様の悲劇的様相を描いていますが、男たちが魅力的でないと、彼女たちの悲劇がドラマ的にスッキリ「立たない」ことになります。ここは大事なことだから強調しておきたいと思います。

今回(令和5年11月歌舞伎座)の時蔵の三浦之助は初役だそうですが、儚(はかな)い美しさがあって悪くない出来です。三浦之助は既に深手を負っていますが・死を覚悟していますから、あまり苦痛の表現を出し過ぎると哀れさが立って未練がましく見えると云うことはあります。そこをキリッとした風情で出すということもあり得ると思います。そこの兼ね合いが難しいところですが、女形である時蔵が三浦之助を演じるならばこれで宜しいのではないでしょうか。梅枝の時姫との親子共演もはまって見えました。

問題は芝翫の高綱だと思いますね。前半の藤三郎についてはもう少し世話の軽みが欲しいとは思いますが、それでもそう大きな不満ではありません。しかし、井戸から登場して正体を見顕わす高綱がこれでは困ります。もっと引き締まった感じでやって欲しいですねえ。井戸の水に浸かっているうちにふやけたかと思うような、見掛けばかりで中身が空疎な高綱です。肚が出来ていないからこう云うことになります。芝翫は時代物の大役に相応しい恵まれた風姿を持っているのに残念なことだと思います。先日(10月国立劇場)の金輪五郎(鱶七)のような役ならば、見掛けのスケールが大きく見えれば足りるから、あれでも良いのです。金輪五郎なんてどういう人物だかバックグランドが知れない。肚の裏付けになる材料があまりありません。だから「時代物らしく」やってさえいればそれで足ります。しかし、高綱がこれでは困ります。これでは死んでいく者たちが「立ちません」。

「近江源氏先陣館」・「鎌倉三代記」をざっと見ると、高綱は稀代の策士と云うことになってはいますが、やっていることは虚しいですねえ。息子(小四郎)を偽首の傍証にして死なせてしまうし、周囲の人間を散々巻き込んで、結局、最終目的(鎌倉方の大将時政謀殺)を果たせないのです。大言壮語は吐くけれども、成果を出せていない。だから見掛けばかりで中身が空疎な高綱になってしまうのかも知れませんが、それだと高綱が女たちが尽くしたいと思う「魅力的な男」に映らないんだよね。そこのところをよっく考えて欲しいのです。

史実の真田幸村は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で戦死しました。しかし、幸村は影武者が何人もいたと云われる謀将だから、そう易々と死んだと思えない。きっとどこかに生きていて・巻き返しの機会を狙っているはずだ。と云うことで、大坂城落城直前に幸村が豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたとの伝説が生まれました。その当時、

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」

というわらべ歌が流行したそうです。幸村はあらゆる策を使って徹底的に戦う、勝利への執念はさながら「鬼の如し」と云うわけです。決して負けることはない。(まあ勝ちもしないんですが、決して「負けない」。だから戦い続けるのです。)徳川方には、幸村は鬼のように恐ろしく見えたはずです。

「絹川村閑居」幕切れで、高綱以外の人々の愁嘆の有り様を肚のなかにすべて受け取って、高綱が敢然と立つのです。「おのれ今に見ておれ」と云う風に。高綱の肚のなかには、勝利への執念がぎっしり詰まっています。ですから高綱はしっかりと前を向いて勝利への眼差しを決して捨てることはない。それが京方の逆転勝利のために命を懸けて戦ってくれた人々の思いに報いることでもあります。そのような決然とした姿勢が高綱を(史実の幸村を)魅力的な存在にしているのだと思います。高綱をそのように見せて欲しいものです。

(R5・12・8)


〇余談:藤三郎の首

本稿は「鎌倉三代記」観劇随想の余談ですが、これは「近江源氏先陣館」の続編が「鎌倉三代記」である・つまり作者は同じく近松半二だと決めつけた上での話です。「絹川村閑居」の物語で高綱が、

「あれにいるおくるが夫藤三と云っしは、面体われに見まがふばかり似たるを幸ひ、価をくれて命を買ひ取り、去年石山の陣にて、北條家を欺きし、佐々木が贋首こそかの藤三郎・・」

と明かします。吉之助は「盛綱陣屋」の首実検を見る時いつも、あの首桶の上に載ってる首は藤三郎なんだなあと、高綱の身替わりとなって死んだ藤三郎の人生をチラッと思うのです。チラッとです。こればかり考えてると肝心の芝居がそっちのけになりますから、誰にでもお勧めはいたしません。「盛綱陣屋」の首実検の核心はもちろん小四郎の自害に感じ入った盛綱が決心を翻すところにあるのですから・そのドラマを注視せねばなりませんが、芝居ではただの作り物の首が無言のまま在るだけですけれど、ここで死んだ藤三郎のことをチラッと考えると、はるか未来の「鎌倉三代記」のことまでも線がピーンとつながって、「盛綱陣屋」のドラマに奥行きが出ると思いますね。

*大正5年(1916)11月歌舞伎座:「盛綱陣屋」
十五代目羽左衛門の佐々木盛綱と藤三郎の首(後ろ姿ですが)。

つまり高綱の計略実現のため(京方の勝利のため)命を捨てた者は小四郎だけではない。藤三郎だってそうなのだと云うことです。このことは結構大事な認識で、芝居の小道具にされてツイ忘れられてしまうけど、偽首だって元は生きていた人間だったんだと云うことです。もちろん藤三郎は自発的に身替わりを申し出たでしょう。そうでなければ妻のおくるがその後高綱に協力し行動を共にするはずがありません。「絹川村閑居」でおくるはこう述懐します。

「(夫藤三郎が)誰あらう佐々木様に面ざし似たが仕合せで『討死の数に入るは一生の本望』と、にこ/\笑うて行かれた顔。いま見るやうに思はれて、あなたのお顔を見るにつけ、思ひ出されて懐しうござりまする」

おくるの述懐を聞くと、吉之助の脳裏には、時系列を昔に遡って「盛綱陣屋」の首実検の光景が浮かびます。そうすると今度は「鎌倉三代記」のドラマが立体的に見えて来ます。京方の逆転勝利のため・高綱のために命を捨てて戦ってくれた人々が大勢いたわけですね。その思いに報いることが高綱の責務です。この覚悟が高綱という役を魅力的なものにします。

付け加えておけば、対する鎌倉方にも味方の勝利のために命を捨てて戦った人々が大勢いたはずです。もちろん盛綱もそうです。戦争という極限状況のなかでもみんな必死に生きていたと云う当たり前のことを今更ながら思いますね。

(R5・12・10)


 


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