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「廿四孝」と八重垣姫〜六代目歌右衛門の八重垣姫

昭和46年10月国立劇場:通し狂言「本朝廿四孝」

六代目中村歌右衛門(八重垣姫・道行の濡衣)、二代目中村鴈治郎(花作蓑作実は武田勝頼)、七代目中村芝翫(腰元濡衣)、三代目実川延若(関兵衛実は斎藤道三)、六代目市村竹之丞(五代目中村富十郎)(武田入道信玄・原小文次)、六代目中村東蔵(白須賀六郎)、五代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)(信玄奥方常磐井御前)、四代目尾上菊次郎(長尾入道謙信)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(武田勝頼実は板垣兵部の倅)、五代目嵐璃珏(武田家家老板垣兵部)他

*本稿では、無用の混乱を避けるため、近松半二の作品名は略さず「本朝廿四孝」と表記しています。「廿四孝」とのみ記する時は、中国の書物「廿四孝」のことを指すとお読みください。

*本稿は別稿「「山本勘助」を継ぐ者は誰か」の続編となっています。


1)八重垣姫は親不孝娘なのか

本稿で紹介するのは、昭和46年(1971)10月国立劇場での通し狂言「本朝廿四孝」(四段目・謙信館十種香を中心とする)映像です。なお別稿にて紹介する昭和52年(1977)6月国立劇場での通し狂言「本朝廿四孝」(三段目・勘助住家を中心とする)舞台映像の観劇随想と併せて、二つの観劇随想で以て、数ある時代浄瑠璃のなかでも飛び抜けて・筋が錯綜して難解とされている「本朝廿四孝」の全体像を考えてみようという趣向であります。三段目・勘助住家については別稿「「廿四孝」の世界とは」、「「山本勘助」を継ぐ者は誰か」の2本をご覧ください。本稿では、上記2本での考察を踏まえて四段目・謙信館十種香を検証していくことになります。

お浚いになりますが、ここまでの「本朝廿四孝」検証をざっと振り返ることにします。近松半二の「本朝廿四孝」の世界は、外殻と内殻の二重構造で出来ています。「本朝廿四孝」の内殻的世界とは、騙し絵の如く、積み重なった情報の細部にこだわらず・全体を俯瞰すれば浮き上がってくる模様(真実・マコト)のようなものです。これが中国の書物「廿四孝」が教えるところの教訓です。すなわち「孝行をするならば何事でも決して見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こるだろう」と云うことです。

一方、「本朝廿四孝」の外殻的世界とは、「大名たちがみな疑心暗鬼で・互いに監視し合い・権謀術数を張りめぐらしている」と云う「戦国の世」の有様・足利幕府内の政治的闘争の有様です。「甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は川中島で何度も戦った。合戦はダラダラ続いて、結局決着がつかなかった。それは一体何故なのか?」と云う歴史上の謎を解き明かす形で筋が展開します。

以上の考察は、四段目・謙信館十種香の検証においても有効です。しかし、歌舞伎での・いつもの「十種香」の舞台を見ると、八重垣姫はそんなものとまったく無関係な世界に生きているように見えると思います。八重垣姫は絵姿の許婚(武田勝頼)を眺めてうっとりと「こんな殿御と添ひ臥しの」と呟いたりして、自らの感情に溺れるばかりです。蓑作が勝頼そっくりだと知ると積極的に迫る、家宝として諏訪法性の兜を勝頼のために盗み出す、父・謙信が勝頼を殺そうとしていると知ると・父の考えに背いて・この危急を勝頼に知らせようとする、その強い思いが諏訪明神に通じて八重垣姫は狐と化して・氷の張った諏訪湖を渡ります。良く云えば、自己の感情に忠実な女性が引き起こすロマンティックな奇跡譚と云うことです。しかし、世間からは、標題である「廿四孝」の教えから最も遠い親不孝娘と云う風に見られていると思います。

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」は吉之助が人形浄瑠璃を考える時に必ず参照する名著ですが、「本朝廿四孝・十種香」の項を見ると、

「この場は四段目とは云えど、斯芸本領の凄惨悲愴の筋を書かず、太夫と人形遣いの芸格本位に仕組みたるもの故、之を語る太夫は、舞台の高尚と、人形の品位とを、寸亳も失わぬように辿つて語り、人形遣いは人形の容(かたち)と、間と振りとを見物の眼底に永く印象するよう遣わねばならぬ事に成つて居る場である。故に難しさとしては限りなき物ながら場格としては、三段目よりもズーツと下るのである。切場も「二十四孝」の外題は、三段目がお仕舞(しまい)である。

と書いてあります。「「廿四孝」の外題は三段目でお終い」って事は、つまり「十種香」は親孝行の主題と関係がない、八重垣姫は親不孝娘の典型と云うことでしょうかね?まあ上記文章から分かることは、明治期の文楽の世界でも八重垣姫はそんな風に見られていたのだなあと云うことだけですねえ。しかし、そんな親不孝娘の奇跡譚をどうして半二が四段目に置いたかについては、其日庵でさえ最初から考えるのを放棄しているようです。そもそも四段目というのは、時代浄瑠璃のなかで常に重い場です。四段目では当然全体の主題に則ったドラマが置かれるべきです。半二がそれを怠ったとはとても思えません。半二の意図をじっくり考えてみる必要があると思います。

そこで吉之助が八重垣姫の奇跡を考察したのが、別稿「超自我の奇蹟」です。詳細は別稿に譲りますが、ここで大事なポイントは、武田勝頼と八重垣姫は、政略結婚によって取り決められた許婚であったと云うことです。八重垣姫は、自分は勝頼の妻となるべくして生まれたと信じ、「私はこの方を夫として尽くす」と思ってきた女性でした。つまり夫となるべき人に尽くすことが、八重垣姫のアイデンティティーなのです。ところがその夫となるべき人(勝頼)が「家宝の兜を盗んで来い」とトンデモナイことを云う。八重垣姫は苦しみますが、最終的にこれを受けます。このことは親不孝な行為なのでしょうか?もしかしたら、そうではないかも知れません。八重垣姫は自分のアイデンティティーから発する超自我の指し示すところに従って動いています。だから八重垣姫はいつでもこう主張できるはずです。

「この御方(勝頼)が私の夫であると・この御方に尽くせと・この御方の言うことに従いなさいと決めたのは、お父様(長尾謙信)よ。これが私の使命なのよ。だから私はお父様の言い付けに忠実に従っているのよ。」

と云うことです。そう考えると、「本朝廿四孝」・四段目は忠孝の物語となるのです。「孝行をするならば何事でも決して見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こるだろう」というドラマとなるのです。この認識を踏まえたうえで、通し狂言「本朝廿四孝」を読んでいくことにします。(この稿つづく)

(R4・12・31)


2)今回通し上演の問題点

寺社仏閣の門前は、人の往来が多くて・いつも賑やかな場所です。言い換えれば、群衆のなかに素性思惑の知れない人が混じっていたりしても分からない。そこで何かが行われていそうな気配があるのです。そう云うわけで芝居では寺社仏閣の門前あるいは境内がドラマの発端に使われることが多いようです。例えば「新薄雪物語」での新清水花見の場、「東海道四谷怪談」の浅草雷門前の場などを思い出してもらえば良いと思います。登場人物たちの思惑が交錯して何かのドラマが始まる、そのような場なのです。「本朝廿四孝」の二段目端場になる「諏訪明神お百度石の場」も、同様です。

この諏訪明神境内の場に、「本朝廿四孝」のドラマの主要人物たちが、一見脈路もなく、入れ替わり立ち替わり現れます。半二はここに主要人物を集わせることで、すべての事の発端がここ諏訪明神のご神体である法性の兜の行方から起こっていることを暗示します。武田家と長尾家の長年の争い(川中島の戦い)は、もともと武田家が秘匿していた法性の兜を長尾家が借りたまま・これを返さないことから始まったものでした。法性の兜が落ち着くべきところに納まれば、両家の不和は解消することになるはずです。

そこで諏訪明神境内の場に集う顔触れを見ると、まず三段目・勘助住家の筋に関わる人物、横蔵と長尾景勝です。この場での横蔵と景勝との出会いが、次の勘助住家でのドラマの大きな伏線となります。(別稿「「山本勘助」を継ぐ者は誰か」を参照ください。)次に四段目・謙信館(十種香)の筋に関わることになる、濡衣と蓑作です。さらに二段目・勝頼切腹に絡む深い事情を知る武田家家老・板垣兵部、「本朝廿四孝」全段の核心を握っているらしい謎の人物(実は斎藤道三だが・ここでは正体が知れぬまま)が登場します。この場には、横蔵と濡衣がちょっと言葉を交わす場面があります。ここで三段目と四段目の筋がちょっと交錯するわけですが、別に何が起こるでもないのです。ただ、ここで三段目と四段目の筋は互いに無関係ではないと云うことが暗示されていると云うことです。

このなかで、後の三段目と四段目に共通して登場することになる大事な役は、長尾景勝です。ただし四段目・謙信館の端場・景勝上使はいつもの歌舞伎ではカットされます(今回の上演でもカットされています)から、景勝の役目がどうしても軽く見えてしまいます。しかし、「本朝廿四孝」全体を通してみると景勝の比重は、なかなかどうして重いものです。景勝は足利将軍狙撃の犯人を割り出せなければ・切腹してその首を差し出さねばならぬ立場にあるのに、自ら積極的に犯人詮議に乗り出して、果敢に動き回ることで、事態解決を計ります。そのひとつが、将軍狙撃事件の全体像を把握している横蔵(後の山本勘助)を見出したこと(三段目)です。これで事件は解決へ向けて大きく動き出したことになります。(詳細は別稿「「山本勘助」を継ぐ者は誰か」をご覧ください。)

もうひとつの件は、四段目・謙信館で、本心としては武田信玄と共に足利家への忠義を守る心があるのに・この本心を決して周囲に明かそうとしない父・長尾謙信に対し、景勝が自ら上使と称して現れ、(武田家はすでに嫡男・勝頼の首を刎ねた・長尾家も態度を明らかにせねばならぬとして)「手弱女御前にご契約された通りに我が首(景勝)を刎ねて渡されよ」と迫って、謙信を当惑させることです。(景勝上使の場) 景勝は「父上、そなたの本心はどこにあるのか」と、謙信に早期の決断を迫るのです。恐らくこのために謙信は重い腰を上げざるを得なくなったのです。ここから四段目・謙信館(十種香)のドラマが動き始めます。

それにしても今回上演(昭和46年10月国立劇場)の四段目・謙信館で、景勝上使の場がカットされたことは残念でしたねえ。これではせっかくの通し狂言としての価値は半減だと言いたいところです。ホントは、「諏訪明神お百度石の場」に加えて、勝頼切腹の場、さらに景勝上使を含む四段目・謙信館をノーカットで上演してこそ、正しい意味での「通し狂言」になるはずです。(「お百度石の場」を四段目の筋へ繋がる濡衣・蓑作の件のみに絞り込んだのは、これはやむを得ない処置でした。だから今回の「お百度石の場」には景勝が登場しません。)まあその言い訳は常に「時間が足りない」と云うことになります。しかし、今回の通し上演「本朝廿四孝」では脚本を上手くアレンジすれば、景勝上使の時間くらい捻り出すことは出来ただろうにと思います。そこは本来、監修者(戸部銀作)の仕事だろうと思います。しかし、監修の仕事というのは現場との妥協の産物であるのだなあと、その苦労をお察しするところももちろんあります。

例えば今回の通し狂言としての「本朝廿四孝」では、濡衣は芝翫(だから二段目・勝頼切腹と四段目・謙信館の濡衣は芝翫が勤める)なのに、中幕の「道行似合の女夫丸」では道行の濡衣だけを歌右衛門が勤めます。こうなってしまったのは、「道行似合の女夫丸」が昭和40年(1965)4月・東横ホールで歌右衛門主宰の研究会・莟会が復活したものであったので、歌右衛門を立てなければならなかった事情があったようです。身内の芝翫に役を譲るのを歌右衛門が拒んだのか、戸部氏が歌右衛門に遠慮したのか・詳しいことは分かりませんが、これはスター主義の弊害であることは疑いありません。歌右衛門贔屓の吉之助にとっては歌右衛門の濡衣を見られるのは有難いことです(当然ながら歌右衛門の踊りは良いものです)が、通し狂言としては、これはやはりイレギュラーなやり方でした。これならば思い切って道行を外してでも、四段目のドラマをとことん描き切ることに徹した方が宜しかったかも知れませんね。(この稿つづく)

(R5・1・22)


3)濡衣という女性

「本朝廿四孝」四段目・十種香の主人公は、もちろん八重垣姫に違いありません。どうしても濡衣は脇に見えてしまいますが、「本朝廿四孝」を通しで眺めると、ドラマの展開に濡衣という女性がとても重要な役割を担っていることに気が付きます。まず「濡衣」というネーミングが注目されます。「濡衣」と云うのは艶めいた名前のようにも聞えますが・実はそうではなく、「濡衣」とは読んで字のごとく、「身に覚えのない罪・無実の罪を着てその汚名を負うこと」です。濡衣は、心根の正しい・清らかな女性です。しかし、まったく思いがけないところから・身に覚えのない汚名を負うことになり、運命に振り回されるがままに死ぬことになる、まったく可哀そうな女性なのです。しかし、「本朝廿四孝」の筋全体を見ると、まさに濡衣の死がこの混沌とした争いの世界に平和をもたらすことが分かります。

しかもここが大事な点だと思うのですが、丸本のどこにも「この平和は濡衣が死んでくれたおかげです」なんてことが一言も触れられていないことです。誰も濡衣の死を悲しんだりしません。歴史とは、非情なものです。時代物の「世界」は、まるで当たり前の如く、濡衣の死を飲み込んで平然としています。しかし、「本朝廿四孝」の四段目結末が「諏訪の湖歩(かち)わたり、夜も東雲(しののめ)に明け渡る、甲斐と越後の両将とその名を今に残しける」という詞章通りとなるためには、何がしかの犠牲が必要であったのです。本章では、濡衣のことを考えて行きます。

話は二段目に遡ります。武田・長尾両家は足利将軍狙撃の犯人を見つけ出せない時は嫡男の首を斬って渡すとの誓約をしており、その期限が刻々と迫っています。誓約を果たすため、まず武田信玄の嫡子・勝頼が切腹しますが、その恋人が濡衣でした。二段目・勝頼切腹の場はドンデン返しの連続で・ドラマ的には深いものがありません。しかし、四段目・謙信館にどうして勝頼が登場するのか・濡衣とはどういう関係かを理解するために、二段目の筋を承知しておく必要があります。実は切腹した勝頼は、武田の家老・板垣兵部が我が子を取り換え子して育てられた偽勝頼だったと云うのです。信玄は兵部の企みに気が付いており、取り換えられた実子を蓑作として養育していました。このことを信玄以外の人は知りませんでした。偽勝頼も自分が偽だと知らぬまま、家の約束を守って切腹して果てたのです。その後、信玄が登場し兵部の企みを明かして・これを罰します。

そうすると濡衣の立場はどうなるでしょうか。自分は勝頼の嫁になると思っていたのに、その勝頼が切腹して死んでしまった。これだけでも悲しいのに、その勝頼が偽者で・反逆者の息子と云うのです。死んだ偽勝頼はそんな企み事を知らなかったわけですが、濡衣は一転して反逆者の嫁ということになってしまいました。ところが主人信玄に切られた悪家老・兵部が自らの罪を悔いて、こんなことを言い始めるのです。

「勿体なくも御主人(信玄)を害せんとせし大罪人(兵部)、逆磔(さかばりつけ)にも行なはれず、大将の御手にかゝる有難さ。コリヤ濡衣、この館の御重宝諏訪法性の御兜、今謙信の手に入りたり。汝も信濃生まれとあれば、今の命をながらへて、何卒国へ立ち帰り方便(てだて)をもつて兜を奪い取り、勝頼公へ奉らば、倅(偽勝頼)、親(兵部)と一つでない潔白、死後の言訳この上なし。

濡衣は信濃の実家へ立ち返り、武田・長尾家不和の原因である諏訪法性の御兜を本物の勝頼公に差し出せば、死んだ倅(偽勝頼)が悪家老の親(兵部)と一体でない死後の言い訳になるから、偽勝頼の嫁女である汝(濡衣)頼むと、死に際の舅(兵部)が言い残したのです。「どうしてこうなっちゃうの」と云う感じですが、死んだ夫(偽勝頼)の潔白を晴らすために、蓑作(本物の勝頼)と共に信濃へと赴かざるを得なくなります。

「道行似合の女夫丸」では、薬売りの夫婦に身をやつした蓑作(本物の勝頼)と濡衣が、信濃へと向かいます。

「〽とかく浮世は伊勢の浜荻、難波の芦と変はれども変らぬものは夫の名と、お前もいはば勝頼様。いつの世にかはあひ染川の、身の浮き沈み七度は、氷を渡る信濃路へ、急ぎ行くのが第一丸。この御薬も簑作も、もとが新羅の流れにて、かれよしこれよし世の中も、よしと浮世を渡る川、心濁さず墨染の、この身の末は天の川、空にも恋があればこそ、雲に浮名は七夕の糸繰り返し返しつつ、恋の染衣濡衣が昔を忍ぶ流行(はやり)唄。

もともと悪臣・兵部が取り換え子を思い付いたのは、二人の赤子の面差しがそっくりであったからでした。だから偽勝頼と蓑作(本物の勝頼)は瓜二つなのです。蓑作に主従として付き添いながら、亡き夫のことを思い出して濡衣の心境は複雑です。これは、そんな二人のちょっとギクシャクしたところのある道行なのです。

四段目・謙信館(十種香)には、今回上演(昭和46年10月国立劇場)では省かれましたが、長尾景勝が登場する前に、濡衣と父・花守り関兵衛が何気ない会話をする場面があります。濡衣は幼い時に武田家に奉公に出たのですが、信濃の実家に戻ってすぐに濡衣と蓑作が長尾家に奉公することが出来たのは、関兵衛と云う伝手があったからでした。ところが実はこの関兵衛が斎藤道三、つまり足利将軍狙撃の犯人・「本朝廿四孝」の世界に大混乱を引き起こした張本人であったのです。

濡衣と関兵衛が出会う場面は、いつもの歌舞伎の上演形態で「十種香・狐火」までで終わるのならば不要です。しかし、今回上演のように、謙信館奥庭で関兵衛の手弱女御前狙撃が失敗(濡衣が身替わりとなって死ぬ)し・その正体が明らかになる結末を付けた場合には、この場面のカットは重大な欠陥になると思いますねえ。何故ならば、あらかじめ濡衣が関兵衛の娘であることを明かしておかないと、どうして濡衣が手弱女御前の身替わりとなって死んだのか、観客にはその理由が呑み込めぬからです。

謙信館(十種香)幕切れでは、長尾謙信が濡衣を取り押さえ「うぬには尋ねる仔細あり、奥へ失せう」と言います。これはいつもの幕切れですが、この後、奥で謙信が濡衣に何を語って、濡衣が何を決意したか、そのことが丸本にも一切語られていません。だからここは濡衣が手弱女御前の身替わりになった事実から観客が推し量らねばなりません。恐らく謙信が語ったことは、花守り関兵衛(濡衣の父)の正体が天下を乱す大悪人斎藤道三であり、この国の混乱は道三が足利将軍を狙撃した事件から始まったということです。だからそなた(濡衣)にとっては父なのだが、武田・長尾両家のために・果ては天下国家のために何とか協力してもらえないかと云うことだったでしょうかね。ここで濡衣は表向きの政治の複雑なところは理解しなかったとしても、二段目・勝頼切腹の場で濡衣が請け負った「夫(偽勝頼)の無実」を証明するために、父・関兵衛の陰謀を潰(つい)えねばならぬと云うことを理解したと思います。だから濡衣は自発的に手弱女御前の身替わりを申し出たのです。濡衣はどこまでも心正しい女性なのです。自分が撃ったのが娘だと知った関兵衛は道三の正体を顕わして、

「ええ口惜しや。数十年の鬱憤を一時に散ぜしと思いしに、勝頼が恩に引かされて、敵方へ巻き込まれ、大望ある此の親に、よくも不覚を取らせしな。憎い女が死にざまや」

と悔しがりますが、観念して自刃します。さらに死に際に道三は、

「信玄謙信仲悪しく見せかけしも、我を見出す計略とは、今迄知らざる心の浅はか。最後に魂改むる此の世の餞別。」

と言って、道三は自分に加担していた北条氏時の(難攻不落と云われた)小田原城の攻略法を(聞かれてもいないのに)ベラベラと話してしまいます。この場面は時代物のエンディングのベタな定形に則っているから・道三はそうは語っていないけれども、娘(濡衣)の死によって道三が悔い改めたと云うことは明らかなのです。

この件から次のことが言えると思います。二段目では、偽勝頼の死によって悪家老である父・板垣兵部が悔い改めて、死に際に嫁(濡衣)に息子の無実を証明するために信濃へ向うことを頼む。四段目では、娘(濡衣)は自ら犠牲となって父斎藤道三の陰謀を潰えさせ、父は悔い改めて死ぬと云うことです。つまり濡衣が、義父と実父と、二人の悪人の父の改心に絡んでいます。これは、悪い親を悔い改めさせて・真人間に戻して死なせた、子供たち(偽勝頼と濡衣)の陰の「親孝行」の物語なのです。これが「本朝廿四孝」の裏の物語だと云うことですね。

しかし、今回(昭和46年10月国立劇場)・通し上演「本朝廿四孝」大詰では道三は自刃はせず、道三は舞台中央に置かれた三段に上って、戦場でのまたの再会を約して一同が「さらば・さらば」で終わるわけです。まあこれは今回だけのことではありません。昔から「本朝廿四孝」を通しで収める時の歌舞伎のやり方なのですがね。これであると濡衣の犠牲は非情にも政治サイドに利用されただけの・ただそれだけの死だと云う結末になってしまいそうです。そう云うところにメスを入れて、作品の在るべき姿を見せるのが監修者(戸部銀作)本来の仕事ではないかと、いちおう指摘して置きましょうかね。(この稿つづく)

(R5・1・25)


4)「反魂香」の奇跡・「廿四孝」の奇

「本朝廿四孝」謙信館(十種香)は中央に蓑作(本物の勝頼)・上手に八重垣姫・下手に濡衣とシンメトリカル(左右対称)な舞台構図ですが、視覚的に対称であるだけでなく、実際、八重垣姫と濡衣の境遇は対称的です。恋する男(許婚・夫)に対する強い思いはどちらも同じです。しかし、八重垣姫の方は深窓の令嬢で・その強い思いだけに浸っていればそれで宜しいわけですが、濡衣は境遇にがんじがらめに縛られており・まったく自由が利きません。それでも濡衣は亡き夫に対する強い思いを貫きます。前述の通り、丸本には「混迷した世の中が平和になったのも濡衣の犠牲のおかげです」なんてどこにも書いてありません。濡衣の犠牲は政治サイドに利用されただけに見えます。歴史というものは非情なもので、庶民の犠牲を「ごっつあん」と呑み込んで平然としています。そしてすべて忘れ去られてしまう。半二はそこに八重垣姫と濡衣の歴史の役割のシンメトリカルな意味を込めたのかも知れませんね。兎に角、八重垣姫の思いは純粋で・混じり気がないものです。その思いの強さが奇跡を呼び起こすのです。

四段目・謙信館は、「十種香」(じしゅこう・じゅっしゅこう)と通称されます。十種香とは、栴檀(せんだん)・沈水(じんすい)・蘇合(そごう)・鬱金(うこん)など十種類の香木を調合したお香のことです。昔は大名など身分の高い息女は、お嫁入りの時には十種香箱を持っていくのが慣例であったそうです。八重垣姫は許婚の武田勝頼が切腹して死んでしまった(と表向きにはそうなっている)のを信じているので、仏間にその絵姿を掛けて香を焚いて回向をしています。

日本人の歴史に対する特徴的な態度とは、古今東西の故事来歴から似たような事例を引用して、それによって現在の事象を注釈しようとする態度であると云うことは、別稿「「廿四孝」の世界とは」で触れました。今の歴史を語るために過去の歴史に立ち返り、その典拠を引くのです。八重垣姫が回向する場面を丸本から引きます。

「申し勝頼様、親と親との許嫁、ありし様子を聞くよりも、嫁入りする日を待ち兼ねて、お前の姿を絵に描かし見れば見る程美しい。こんな殿御と添ひ臥しの身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、絵像の側で十種香の、煙も香花となつたるか。回向せうとてお姿を絵には描かしはせぬものを、魂かへす反魂香、名画の力もあるならば可愛とたつた一言の、お声が聞きたい」と、絵像の側に身を打ち伏し、流涕(りゅうてい)こがれ見え給ふ。

ここに「魂かへす反魂香」という文句が出てきます。「反魂香」と云えば思い出すのは「吃又」(傾城反魂香)のことですが、「吃又」にお香が登場しないので何のことだか分かりません。実は近松門左衛門の「傾城反魂香」の(今は上演されない)中の巻に、狩野四郎二郎元信に嫁いだみや(昔は傾城遠山)が実は亡霊で、元信はみやの願いで香を焚いた寝室のなかで熊野三山の絵を襖(ふすま)に描き、二人はこれを背に熊野詣での道行をする(三熊野かげろう姿)と云う場面があります。近松半二は当然本作のことを知っていたはずです。

「反魂香」とは、焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを言います。その典拠は中国の故事にあります。唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。

反魂香の故事はふたつのことを考えさせます。ひとつは、あの世へ旅立っていった者(死者)がこの世に残すその思いの強さということです。それは未練とか恨みのようなネガティヴな思いではなく、生きることへの愛おしさというようなポジティヴな思いです。もうひとつは、現世に生きる者(生者)が自分が追い求めるものを煙のなかに見ようとするその思いの強さということです。憧れとか・愛おしさということもありますが、それは何としても生き抜こうとか・愛する者を守り抜こうと云う・強くポジティヴな思いです。八重垣姫の思いは純粋無垢なもので、それゆえにポジティヴな色合いを帯びています。その思いが届いたかのように、本物の勝頼(蓑作)が姫の眼前に現れるのです。それは十種香の煙が引き寄せた奇跡なのです。

このように考えると、八重垣姫の直観は、まるで真実を見抜いたが如くに、ことごとく当たるのです。「ヤア我が夫か、勝頼さま」とすがり付こうとするのを、蓑作は「こは思ひ寄らざる御仰せ。勝頼とは覚えなし。御麁忽あるな」と懸命に否定しますが、嘘は隠せません。姫の直観通りに、切腹したのは偽勝頼で、蓑作こそ本物の武田勝頼でした。

「謙信館」幕切れでは、父・謙信が「諏訪法性の兜を盗み出ださんうぬらが巧み、物陰にて聞いたる故、勝頼に使者を言ひ付け、帰りを待つて討ち取らさんと・・・」と思いがけないことを言います。次の「狐火」の場で、八重垣姫は夫に危急を知らせようと悩み、そこに神狐が憑依して姫は狐に身を変えて、氷の張った諏訪湖を渡ります。これは八重垣姫が父に反抗し・自分の恋心を優先したかに見えますが、「本朝廿四孝」・四段目結末を見れば、ここでも姫の直感が正しかったことが分かります。長尾家と武田家の長年の確執は表向きのことでした。謙信には勝頼を殺すつもりなど最初からなかったのです。表向き両家が不和にあるかように世間に見せていただけだったのです。ですから四段目結末ですべてが解決した時、姫と勝頼との間を阻むものは何もありません。二人はめでたく結婚することになります。もはや本家の文楽でもやらない場面ですが、丸本の四段目末尾詞章には「家の誉と法性の、今ぞ兜を甲州へ、戻す両家の確執も、納まる婚礼三々九度・・」とあります。

これはまるで結果論のように聞こえますが、結局、八重垣姫は父謙信から「この人(勝頼)がお前の夫となるべき人だよ、この人に尽くすのがお前の勤めだよ」と言われたことを守り、その言葉に疑いも抱かず・ただひたすらにそれを守り続けて、それで狐火の奇跡を起こしたのですから、八重垣姫こそホントの「親孝行娘」なのではありませんか。八重垣姫の奇跡は、「本朝廿四孝」の政治的事件の行方に何の影響も及ぼさないのですがね。しかし、それゆえあまりに個人的な・あまりに純粋でロマンティックなエピソードとなるのです。

ここで改めて当時の大坂の観客は、子供の頃に寺子屋で習った中国の「廿四孝」の教えを想起することになるのです。その逸話は、親孝行だけのことを言っているのではないのです。親孝行は「孝行」のひとつの事例に過ぎません。「廿四孝」の教えとは、「孝行をするならば何事でも決して見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こるだろう」と云うことです。

それにしても八重垣姫はやること・成すこと・すべていい方に当たる、他方濡衣はやること・成すこと・すべて悪い方に当たるわけです。そこが何とも「あはれ」であるなあと思うのです。(この稿つづく)

(R5・1・27)


5)歌右衛門の八重垣姫

現実には例外はいくらもあるでしょうが、芝居の世界では、大名家のお姫様や大店のお嬢様に自由意志はないことになっています。いろんな柵(しがらみ)にがんじがらめに縛られているのです。政治の取り引きの材料として他家に嫁いで、実家の安泰を保つのが、大名家のお姫様の役割です。大坂商人の世界でも似たようなことがあって、商家では娘が生まれるのを大層喜んだものでした。息子が生まれても出来が良いとは限りません。それならば手代のなかから出来の良いのを選んで娘と娶せた方が「店」が存続する可能性がぐっと高くなるのです。歌舞伎で「野崎村」のお染などで、大店のお嬢様の袂の扱いを時代物のお姫様と同じにするという約束はそこから来ます。

したがって「本朝廿四孝」の八重垣姫もそのような過酷な宿命を背負わされているわけです。状況は不自由なはずですが、八重垣姫の場合、宿命がアイデンティティーと一体化しているので、姫が自らの不自由を強く意識することは少ないのかもしれません。許婚(勝頼)がいい男であることも幸いしているようですね。八重垣姫は自分に背負わされた宿命を、ポジティヴに捉えようとしているようです。そこが八重垣姫の奇跡をロマンティックなエピソードに見せるのです。またそれが八重垣姫が(例えば博多人形などで)昔から庶民に愛されるキャラクターである所以にもなっているのでしょう。

ですから八重垣姫は、ただ華やかであるばかりではダメです。眺める角度によって明るく見えたり・暗く見えたりする場面があると思います。その奇跡は決して八重垣姫が自身の意志で自発的に引き起こしたものではなく、姫が自らの宿命・或いはアイデンティティーにひたすら忠実であるからこそ起こるのです。その明と暗のバランス加減は、実に難しいものです。文楽太夫の摂津大掾は

(豊沢団平師匠に)「八重垣姫の出と来ましては、「ギン(吟)」のオンの遣い分けが、ビードロ甕(かめ)のなかで金魚が泳ぐように、澱まずにハッキリ、ユラユラと「ギン」の音を遣い分けて語んなはれと云われました時は、私は太夫を辞めようかと思いました。また「サハリ」になっては、実に泣きました。(中略)涙はオボコ涙で、涙にまでオボコな色気がなくてはイケませんと云われましたから、「イヤ泣いたのは八重垣姫ではありませぬ、私が泣いたのです」と申しましたら、プッと笑いはりました。」(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」)

と語っています。この「ユラユラ」を大名家のお姫様の鷹揚さと許婚のことを思う一途さの交錯・揺らぎと読むことはもちろん出来ると思いますが、別の読み方も出来るでしょう。八重垣姫の一途さ・強さは内面にある宿命の要請(つまりイメージ的には暗い要素)から来ているのでしょう。そこから外れることは決して許されません。だからその範疇で八重垣姫は明と暗のイメージに小さく揺れると云うことです。

歌右衛門の八重垣姫の袂の扱い方を見ていると、そう云うことを考えさせられますねえ。歌右衛門は身体の置き方・袂の扱いを、卑屈にさえ感じるほど、内輪へ内輪へと持って行きます。ホントに身体を虐め抜いています。息を詰めた・しっかり制御された所作から浮かび上がるのは、恋をする喜び(自発的な喜び)と云うよりも、自己実現に向けて内側から強制される喜びのようなものです。(別稿「超自我の奇蹟」をご参照ください。)歌右衛門の八重垣姫の動きを見ると、そのことが感覚的に理解出来る気がします。

芝翫の濡衣は可愛らしさのなかにも・そこはかとない寂しさがあって、これが歌右衛門の八重垣姫の陽と実に良い対称になっています。「十種孝」の組み合わせとして、理想的なコンビであったと思いますね。蓑作(勝頼)には七代目梅幸と云う忘れ難い名品もありますが、鴈治郎の蓑作も「民間に育った大名の嫡子」というところを世話と時代を巧みに切り替えて見せて、これも記憶に残しておきたい蓑作であると思います。

(R5・1・28)


 

 


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