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十代目幸四郎初役の佐々木盛綱

令和3年9月歌舞伎座:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」

十代目松本幸四郎(佐々木盛綱)、五代目中村雀右衛門(高綱妻篝火)、二代目中村錦之助(和田兵衛秀盛)、五代目中村米吉(盛綱妻早瀬)、五代目中村歌六(盛綱母微妙)他


1)幸四郎の進む道

今月(9月)歌舞伎座の「盛綱陣屋」では、幸四郎が初役で時代物の大役・佐々木盛綱を勤めます。言うまでもなく盛綱は高麗屋・播磨屋にはとりわけ重い役であり、両家の芸脈を引き継ぐ立場にある幸四郎にとって、何としてもモノにしたい役です。そう云うわけで舞台を期待して見ましたが、一方、サイトの「盛綱陣屋」関連の記事をご覧いただくと分かりますが、「盛綱陣屋」は吉之助が現行型の見直しが必要であると考える演目の筆頭格であって、見ていて不満を覚えることが多い(とりあえず別稿「盛綱陣屋の音楽的な見方」をご参照いただきたい)。したがって現行型の盛綱を吉之助はどうしても醒めて見てしまう立場にいますが、それは兎も角、幸四郎にはまずは現行型の盛綱の肚をしっかり学んでもらわねばなりません。これ以後に願わくば出来ることならば盛綱の型の再検討をしてもらいたいと云うことで、幸四郎初役の盛綱を見ました。大筋において父上(二代目白鸚)の型を踏襲したということかと思いますが、ぱっと見の印象も含めて多少の相違もあります。そこも含めて吉之助の感じたところをつれづれなるまま書いてみたいと思います。

まず幸四郎の盛綱はぱっと見で生締めの役どころの優美さを大事にした印象で、父上であると同じ生締めでも実事の方に寄る印象ですが、幸四郎の場合は、優美さに頼るせいで・演技全体の線が細く見えて来ます。肚が薄く見えると云っておきましょうか。これは風貌のせいもあるから・そのこと自体どうこう言うつもりはないですが、幸四郎が優美さに頼る印象が強くなるのは、台詞のトーンを高調子に置いているせいです。これが問題です。恐らく生締めの役=優美=台詞の高調子という思い込みがあるのだろうと思います。しかし、これだと、台詞が義太夫狂言の調子にはまりません。床(竹本の三味線・太夫)が示導するトーンとかけ離れた調子で台詞を言っても、これでは台詞が水っぽくなって・腹が薄く聞こえるだけです。

これは「盛綱陣屋」だけのことではなく義太夫狂言の鉄則と云うべきことですが、幸四郎には、もうひとつ申し上げたいことがあります。幸四郎は「自分の声」と云うものを、声域のどの辺にイメージを置いているのでしょうか。幸四郎の声は案外調子が低くて、それが本来の幸四郎の声であると吉之助は思っているのですが。例えば先月(8月)の「義賢最期」の時の義賢のような低調子の方が幸四郎本来の声であろうし、今回(令和3年9月歌舞伎座)の盛綱もそう云う感じでやってくれれば良かったのです。幸四郎のなかに生締め=優美=高調子という思い込みがあると書いたのは、そこのところです。一方で、幸四郎は、「廓文章」の伊左衛門とか・「油地獄」の与兵衛など、仁左衛門系統の役で・その後継をも期待される位置にあるわけですが、これらがどちらかと云えば高調子の役です。その両方の声を一応のレベルで器用にこなしているのだから・これは大したことだとも言えますけれども、このことは、結局、幸四郎は「自分の声」を持っていないと云うことにしかねないと思いますがねえ。別稿「十代目幸四郎が進む道」で触れましたが、骨太い実事の役と優美な色男の役と、印象的に相反する芸道二筋道を進まねばならない時、幸四郎が「幸四郎」の名跡を継ぐ者として死守せねばならないのは、どちらの方か?と云うことです。答えは明らかだと思います。幸四郎が盛綱を高調子でやっているのを聞くと、そこのスタンスの取り方(覚悟)が「甘い」と思うのだねえ。高麗屋・播磨屋系統の盛綱は、実事の方へ寄った盛綱です。実事の盛綱ならば、もっと低調子に取った方が良い。それが幸四郎本来の声に似合ってもいるでしょう。いつぞやも書きましたが、名優と云うのはみんな「自分の声」を持っているものです。極端なことを云えば、例え悪声であったとしても「自分の声」を持ってさえいれば、その声を聞けばこの役者・名調子!となるのです。四代目源之助とか六代目菊五郎などがいい例です。吉之助が言いたいことは、幸四郎は「自分の声」のイメージをしっかり固めなさいということです。そこを早く固めないと、いつまでたっても弁慶がニン違いみたいな陰口を叩かれることになります。「自分の声」を持っていれば、これが幸四郎の弁慶だと云うことになるのです。(この稿つづく)

(R3・9・20)


2)十代目幸四郎初役の盛綱

まっそれは兎も角、幸四郎にはまずは現行型の盛綱の肚をしっかり学んでもらわねばなりません。また今回(令和3年9月歌舞伎座)の「盛綱陣屋」は他にも初役の役者が多いわけで、そういう意味で10年後の歌舞伎を占う舞台になりそうです。段取りとしてはみんなそれなりに出来てはいますが、全体的に薄味の印象がすることは否めません。それは台詞あるいは身体の捌きに義太夫狂言の息がまだ十分身に付いていないからで、そこら辺が至急の課題になってきます。

舞台を順に追って見ますが、和田兵衛上使で幸四郎(盛綱)と兵衛(錦之助)が対すると、どちらも台詞が高調子なので、対話の押し引きが乏しく・一本調子に聞こえます。ここには、いつぞや「鞘当」で述べたのと同じく、声のバランス設計があるのです。この場合には盛綱が低調子・兵衛が高調子になりますが、まあ最悪逆であっても良しとしますが、互いに高調子で張り合ったのでは虚々実々の駆け引きにならぬと云うところは分かっておいて欲しいと思いますねえ。そう易々と小四郎解放にならぬことは分かり切ったことなので、ここは息を詰めて・互いに相手の肚を探ろうとしているのです。それよりも二人とも、カッコ良く台詞を時代に張ろうという方に意識が向いてないか、そこが問題かなと思います。

歌六は和田兵衛が出来る人で、今回は座組みの関係で老け女形がいないので歌六が微妙を勤めることになったのかなと思います(このこと自体歌舞伎の層の薄さを示しているようです)が・それでも老け女形が立派に勤まるのだから大した実力ですが、やはりちょっと強過ぎる印象になってしまったようです。盛綱に小四郎を切腹させることを頼まれて・これを承知し、「気遣いめさんな、遅れはせぬ」の台詞が、微妙が小四郎を見るなりバッサリやりそうな決意に聞こえて、吉之助は一瞬驚きました。ここでの微妙は息子(盛綱)の頼みを理屈では理解していますが、祖母としての強い躊躇(ためら)いがあるわけなので、「気遣いめさんな、遅れはせぬ」の台詞は、むしろこれから恐ろしいことをせねばならぬ自分に必死に言い聞かせる感じに言って欲しいと思います。(ところで、もしかしたら歌六の覚寿は良いかも知れませんね。)

この場の幸四郎の盛綱は、段取りはしっかり取れています。「思案の扇からりと捨て」も良く出来ましたが、思案に思案を重ねて出した結論(やはり小四郎には死んでもらわねばならぬ)を何としても母(微妙)に受けてもらわねばならぬ、さらにこのことは隠密になされねばならぬわけなのですから、微妙への頼みこみでの盛綱は、低調子で抑え気味に言わねばならぬことは明白だと思います。ここを高調子で高らかに歌いあげたのでは肚違いになると云うところは分かっておいて欲しいと思います。幸四郎の盛綱だと、周囲に丸聞こえのように見えますね。

雀右衛門の篝火は本役に違いありませんが、このところの雀右衛門はどうも気合いを欠く気配がします。篝火は仕出かすような役ではないかも知れないが、本役が出て来た安心感が欲しいのですがね、ちょっと影が薄い印象です。米吉の早瀬は力が空回りしている印象で、声が大きいだけで、義太夫狂言の空間に嵌っていません。(この稿つづく)

(R3・9・22)


3)盛綱の首実検と長台詞

首実検の段取りは、文楽であるとアッと云う間に終わりますけど、歌舞伎では盛綱の独り芝居で首実検をじっくり引き伸ばします。吉之助にはこれがまどろっこしく感じられます。しかし、逆の見方をすれば、頭脳明晰な盛綱が瞬時に下した決断の思考プロセスを微速度撮影の如く最大限に引き伸ばし、表情・視線の細かな変化で見せる、つまり歌舞伎は、文楽と真逆のアプローチで盛綱の心理の襞に迫ろうと云うことなのですね。そこに役者の様々な工夫があるわけです。幸四郎も、ここは見せ場だと云うことで、一段と気合いを入れて首実検を見せてくれます。ひと目見て贋首と悟り、「弟(高綱)よ、生きていたか」という感じで二ヤリとする辺りは、父上(二代目白鸚)の盛綱はしなかったと思いますが、そう云うところは幸四郎が独自の解釈でやっているようです。

歌舞伎では、首実検をドラマの頂点(クライマックス)と位置付けているわけです。しかし、吉之助は、首実検が終わって時政一行が去った後、盛綱が篝火を呼び寄せ・瀕死の小四郎に対面を許し、微妙に「そなたは京方へ味方する心底か」と問われて、盛綱が爆発的に自らの心情を吐露する長台詞の方を、より重く見たいと思います。歌舞伎では、首実検の段取りを重くし過ぎる為、肝心の盛綱の長台詞を引き立たなくしていると感じます。そこが盛綱の在来型に対する一番大きな不満です。

ところで、映画で遺されている初代吉右衛門の盛綱(昭和28年11月歌舞伎座)を見ると、最晩年(翌年・昭和29年9月に死去)の舞台ゆえ体力の衰えが見えないわけではないですが、それでも長台詞の言葉の粒立ちの良さ・明瞭さ・息の良さは比類のない出来です。初代の体格は貧弱で、時代物役者の押し出しという点で引けを取るものの、それでもなお初代が時代物の第一人者とされた理由は、その見事な台詞廻しと人間描写にあったのです。しかも映画を見ると、首実検は同じく在来型でやっているのだけれど、盛綱の長台詞がちゃんとこの芝居の頂点に位置付けられた印象がします。それはホンのちょっとした印象の違いなのですが・首実検の感触を重くし過ぎないおかげで、それで長台詞が引き立つことになるのです。つまり芝居のバランス配分が上手いのだな。自分の得意が台詞にあることを初代はよく分かっているのです。このセンスが初代吉右衛門の名優たる所以です。ここに「盛綱陣屋」再検討のための大きなヒントがあると思います。

盛綱の長台詞は、タテ言葉と呼ばれるものです。立て板に水を流すように一気にしゃべる台詞だと云うことです。これはサラサラと流麗にしゃべるのとは違います。言葉のひとつひとつの粒をしっかり立てて・勢いを付けてしゃべるのです。そこから盛綱の実事としての格が立ち現れます。そのためには息が詰んでいなければなりません。幸四郎の長台詞はそんなに悪くはありませんが、言葉を滑らかにしゃべろうとしていますね。速度は付いていますが、これでは言葉のエッジが立ちません。言葉の息が弱くなる。結果として、役の印象が優美な方向へ流れ、盛綱の心情が聞き手にいまいち生々しく迫ってこないきらいがあります。ここは義太夫狂言の音遣いに更なる工夫が必要なのです。そのお手本が曽祖父さん(初代吉右衛門)の映画で遺っているのですから、幸四郎は映画を見て・そこのところをじっくり学び取ってもらいたいと思いますね。

(R3・9・24)

(付記)歌舞伎座9月大歌舞伎の第2部(盛綱陣屋)は、舞台関係者5名にPCR検査陽性が出たため、当初2日予定のところ、6日までの公演を中止し、7日が初日との処置が取られました。なお第1部と第3部については、予定通り初日2日で公演されました。




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