江戸歌舞伎旧跡散策・その2
初代団十郎と深川不動堂 (追記:七代目団十郎宅跡)
*江戸歌舞伎旧跡散策・その1平将門と神田明神の続きです。
初代団十郎の先祖は甲州(現在の山梨県)出身と云われています。江戸に入る以前に下総国成田(現在の千葉県成田市)に住 んだ時期がありました。このような経緯から、団十郎は成田山新勝寺の不動明王を信仰していました。なかなか子宝に恵まれなかった団十郎が熱心に祈願したところ、念願通り子供(後の二代目団十郎)が生まれたので、団十郎のお不動様への信仰心はますます強くなりました。
元禄10年(1697)「兵根元曽我」(つわものこんげんそが)という芝居のなかで、団十郎はお不動様が登場する場面を出して大当たりを取りました。これが現在、歌舞伎十八番の「不動」の原型になるものです。団十郎がお不動さまに扮して中央にどっかと座わるという芝居です。これにお不動様を信仰する観客がこぞって賽銭を投げて、舞台に賽銭の山が出来たそうです。集まった御金を団十郎が新勝寺に寄進して、この時から団十郎は「成田屋」の屋号を名乗ることになりました。
これを機に江戸っ子の間に「成田までは遠い、江戸の街でお不動さまを拝みたい」という気運が高まって、元禄16年(1703)、深川富岡八幡の別当寺・永代寺において第1回目の成田不動の出開帳が行われました。これが深川不動尊の始まりとされています。と云うわけで深川不動尊の設立には、初代団十郎が深く係わっているということです。別当寺と云うのは、江戸時代は神仏習合であったので、寺社を管理するお寺のことです。成田不動の出開帳は、江戸時代を通じ12回行われ、一回を除き、それ以外は永代寺で行われました。しかし、明治になって神仏分離が行われて、永代寺は廃寺になってしまいました。(永代寺のあった場所は、現在は深川公園になっています。「門前仲町」と云うのは、深川永代寺の門前町という意味だそうです。)しかし、お不動様を信仰する地元の人々の強い要望によって、明治11年(1878)に、現在の場所に成田不動の分霊を祀って「深川不動堂」として存続することを東京府が認め、現在に至っています。(深川不動堂のサイトはこちら。)
なお現在の市川団十郎家は、九代目団十郎の時から神道に変わっています。しかし、成田屋と成田山新勝寺との深い関係は現在も続いていることは、御存知の通りです。
写真下は深川不動堂のお隣りにある富岡八幡宮。深川不動堂の前身であった永代寺はかつて別当寺として富岡八幡宮を管理する立場にありました。明治の神仏分離により、今は分かれています。
*写真は平成30年3月3日、吉之助の撮影です。
*江戸歌舞伎旧跡散策・その3:黒船稲荷〜四代目南北宅跡もご覧ください。
(H30・6・24)
(追記:七代目団十郎宅跡)
江戸の昔は、多くの歌舞伎役者が深川辺りに住まいを構えていました。団十郎家も、四代目団十郎が安永5年(1776)に隠居して深川木場島田町(現在の木場2丁目)に邸宅を構えて以来、七代目団十郎まで市川家代々が島田町内に居住していました。富岡八幡からであると、ゆっくり歩いても10分掛からない近距離になります。首都高速道路の傍。(現在の木場2ー11〜13付近)
しかし、天保13年(1842)の天保の改革で、七代目団十郎は奢侈禁止令に違反したとして江戸を追放されました。追放の申渡書によれば、天井を金泥で塗、桐紋をあしらった豪華な箪笥を用い、庭に御影石の灯籠などを置いていたということです。このため広大な邸宅は取り壊されました。現在は江東区立木場二丁目公園となっている場所がその跡地ですが、夢の跡と云うか・何だか虚しい気分になってきますねえ。登録史跡の看板はあるけれども、往時を偲ぶ痕跡はまったく見当たりません。
*写真は平成31年2月18日、吉之助の撮影です。
(R3・11・26)