江戸歌舞伎旧跡散策・その1
平将門と神田明神
1)平将門と神田明神
神田明神は、神田・日本橋・秋葉原・大手町・急神田市場・築地魚市場など、108か所の町会の総氏神で、江戸っ子には「明神さま」の名称で親しまれています。 また神田祭を行なう神社としても知られます。現在の正式名称は、「神田神社」と云います。(サイトはこちら。)
社伝に拠れば神田明神は天平2年(730)の創建で、その頃は神田ノ宮と云いました。承平5年(935)に平将門が朝廷に対して叛乱を起こしましたが、戦死しました。将門の首は都でさらされましたが、それが都から持ち出されて(伝説では夜中に首が関東に向けて飛んで行ったとも)、当社の近くに葬られました。これが将門首塚で、現在の東京都千代田区大手町一丁目にあります。その後、天変地異が頻発して、これが将門の祟りであるとして畏れられ、御霊として祀られるようになりました。こうして延慶2年(1309)に当社の相殿神とされて現在に至っています。
江戸時代に入って元和2年(1616)に江戸城鬼門守護の位置にあたる現在地(東京都千代田区外神田二丁目)に遷地して、幕府により社殿が造営されました。以後、神田明神は「江戸総鎮守」として幕府を始め江戸 町人の尊敬を集めました。神田明神は、まさに江戸っ子のシンボル的な神社なのです。
関東の民衆は、将門のことを、その後の武士の先駆けとして、関東周辺の民衆を守るために時の為政者に対して立ち上がった人と見なしました。民衆は将門にお上に対する反骨心、反体制的な気分を読んだのです。そこに江戸のかぶき者の心意気に深く通じ合うところがあったと云うことです。だから江戸幕府は江戸っ子の気持ちに配慮して、神田明神には特別の計らいをしたようです。神田明神は神田祭を行なう神社としても知られます。神田祭は江戸の三大祭のひとつで、その山車は将軍上覧のために江戸城内に入ることを許されたので、これを「天下祭」とも云いました。これも幕府の江戸町民に対する懐柔政策のひとつであったと思います。
明治7年(1874)明治天皇の行幸に当たって、天皇が参拝する神社に朝廷に反逆した将門が祀られているのはあるまじきことだとされて、将門霊は祭礼から外されて、境内摂社に移されるということが起きました。忠君愛国を旗印にした明治政府は、将門の反体制的なイメージを嫌ったのです。将門霊が本社祭神に復帰したのは、つい最近のこと、昭和59年(1984)のことでした。
なお神田明神を敬う者は成田山新勝寺を参拝してはならないというタブーが江戸っ子の間にはあるそうです。これは叛乱を起こした将門討伐のため、朝廷が僧・寛朝を成田の地に向かわせ護摩祈祷を行 ったと云う、成田山新勝寺が開座した経緯に拠るものです。不動明王が将門霊を苦しめるからと云うのが、その理由です。
と云うと気になって来るのは、成田屋(市川団十郎)はどうなるんだ?と云うことです。神田明神を信仰する江戸っ子は、お不動さまを信仰する成田屋のことをどう感じていた のか?将門は御霊として歌舞伎の重要なキャラクターでもあるのに、タブーに触れると云うことで成田屋はこれを演じなかったのか?とか、疑問がいろいろ湧いて来ます。
しかし、歌舞伎十八番のひとつ、「鎌髭」(現在ほとんど上演されませんが)には、これは俵藤太秀郷が髭を剃るとして平将門の首に鎌を当てるが 、首が全然斬れないというお話だそうで(ただし異本もあります)、そうだとすると、これは魔訶不思議なことですねえ。また舞踊「忍夜恋曲者」(将門)では、大宅太郎光圀を歴代団十郎が勤めた例もあります。光圀は滝夜叉姫に対抗する役だから良いということなのでしょうかね。また団十郎が「助六」を勤める際には、贔屓筋である築地魚市場から江戸紫の鉢巻が贈られる仕来りになっています。魚河岸の神様を祀るのが水神社ですが、団十郎は神田明神内にある水神社に御礼の参拝に行っています。だからタブーのことは、 こちらが心配するほど気にされていないのかも知れません。調べてみると面白いことが見つかるかも知れませんね。
*写真は平成30年6月13日、吉之助の撮影です。
*江戸歌舞伎旧跡散策・その2:初代団十郎と深川不動堂もご覧ください。
(H30・6・22)
(追記)
2)平将門の首塚
承平5年(935)に平将門が朝廷に対して叛乱を起こし、たちまち坂東八か国を平定、自ら平新皇を称しましたが、平定盛と藤原秀郷の奇襲を受けて戦死しました。将門の首は都でさらされましたが、それが都から持ち出されたかして、伝説では夜中に首が関東に向けて飛んで行ったとも伝えられて、当地に葬られました。これが将門首塚で、現在の東京都千代田区大手町一丁目2−1にあります。
なお江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭で、歌舞伎「伽羅先代萩」のモデルである伊達騒動で、原田甲斐が伊達安芸を斬り付け・殺害した場所でもありました。
*首塚の脇にカエルの置き物がありますが、これは将門の首が京都から飛んで帰ったという伝承に因み、必ず「帰る(カエル)」という願掛けで、令和3年(2021)の改修工事以前は敷地内にカエルの置き物がたくさんあったそうです。
*裏面から見た首塚。
*写真は令和6年10月21日、吉之助の撮影です。
(R6・10・21)