江戸歌舞伎旧跡散策・その3
黒船稲荷〜四代目南北宅跡
*江戸歌舞伎旧跡散策・その2:初代団十郎と深川不動堂の続きです。
四代目鶴屋南北は、宝暦5年(1755)に日本橋で生まれ、一時亀戸に住んだこともありますが、晩年は深川の黒船稲荷神社( 現在の江東区牡丹1-12-9)の境内に住みました。黒船稲荷は、東京メトロ・門前仲町駅から黒船橋を渡って徒歩数分くらいのところにあります。 現在の黒船稲荷は住宅の間にひっそり佇んでいて、当時の雰囲気を想像することはちょっと無理です。古地図を見ると当時の黒船稲荷の敷地はもっと広かったようです。
ここから「東海道四谷怪談」(文政8年・1825)などの名作が世に出されたわけです。文政2年(1829)11月27日 、南北はこの地で75歳で没しました。葬儀は翌年1月13日に本所押上の春慶寺(現在の墨田区業平2-14-9)で執り行われました。
鶴屋南北が滑稽を得意とする作家だという認識は当時からありました。「戯作者小伝」にも「生まれつき滑稽を好みて、人を笑わすことをわざとす」とあります。長慶寺で行なわれた南北の葬式では、寺内によしずの茶屋を作り 、門弟たちが赤前垂れで団子を竹の皮に包み、「寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)」という南北の書き残した戯文を冊子にして配ったそうです。冒頭は次のようなものです。
『略儀ながら狭うはござりますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申し上げ奉りまする。先ずは私存生の間、永久御贔屓になし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、如何ばかりか有難い冷や汗に存じ奉りまする・・』
それは南北が自分の葬式のために書いた台本でした。棺が砕けて狂帷子の南北が桶底をポンポンと打ち鳴らして登場し て、「十本の卒塔婆で爺いがとうとうごねられけるは、誠にめでとうなられんける、うんといふて絶えられける、是からそろそろ万歳、ハア万歳・・」という万歳で舞い納めるという「末期(まつご=松後)万歳」でした。ご存じの通り、南北は大変な葬式好き・棺桶好きで、舞台にもしばしば登場させています。「戯作者小伝」は「みなみなあきれて、これぞ最後の滑稽なるべきとて、みそかにわらひてさりぬ」と記しています。
(付記)別稿「道化としての鶴屋南北」もご参照ください。
*写真は、平成31年1月28日、吉之助の撮影です。
*江戸歌舞伎旧跡散策・その4:八百屋お七の史跡もご覧ください。
(H31・3・9)