(TOP)         (戻る)

お化け芝居の明晰さ〜「東海道四谷怪談」&「色彩間苅豆」


)お化け芝居の明晰さ

『盆の祭り(仮に祭りと言うておく)は、世間では、死んだ精霊を迎えて祭るものであると言うているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱うて、魂の入れ替えをしたのであった。(中略)盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは諾はれない事である。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期と言うのが本当で、人間の体のなかへその魂を入れて、不要なものには、帰ってもらうのである。(中略)七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)

盆狂言・夏狂言と云えば、お化け芝居(怪談狂言)です。代表的なのはもちろん「東海道四谷怪談」ですが、これは決して陰惨なものではなく、もしかしたらとても明晰な・カラッとしたものかも知れないということを考えます。

先月(平成25年7月)歌舞伎座での菊之助のお岩による「四谷怪談」ですが、おどろおどろしさと云うか・ドロッとした陰惨さが足りないと感じた方は多かったかも知れません。なるほどお化け芝居と云うと、おどろおどろしさとか陰惨さというキーワードがすぐ頭をよぎります。だからお化け芝居の「四谷怪談」にこだわる方には、菊之助のお岩は感触がアッサリした感じで物足りなかったと思います。しかし、そのようなおどろおどろしさとか陰惨さが「四谷怪談」本来の感触であったかどうか、そういうことをちょっと考えてみると面白いと思います。

「四谷怪談」は文政八年の初演以来の盆狂言の定番で、これまでお化け狂言として、いかにしてお岩さまの怨念の凄まじさを描くか、その恐ろしさでどれだけ観客を怖がらせるかということで、型(演出)が練り上げられて来たのです。おどろおどろしく陰惨な「四谷怪談」というのは、初演以来200年の間に培われたイメージで、それは作品から引き出されたものですから、もちろん何がしかの真実を孕んでいるのです。それはそれで正しいことです。しかし、歴史が塗り上げたおどろおどろしさや陰惨さの分厚い絵の具を「四谷怪談」から取り払ったら、何が見えてくるでしょうか。それは「四谷怪談」の明晰さであるかも知れません。その明晰さが菊之助とお岩の感触とまったく同じだというつもりはないけれど、それにやや似たところのサラッとした感触なのです。そこから「四谷怪談」初演時の感触を類推するヒントが 出てくるかも知れません。

『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」
(河合)「どういう超自然ですか?」
(村上)「つまり怨霊とか・・・。」
(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」
(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」
(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」
(村上)「でも現代の我々 は、そういうの一つの装置として書かざるを得ないのですね。」
(河合)「だから、いまはなかなか大変なんですよ。」』
(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)

河合隼雄先生は平安時代の人々にとって怨霊の存在はまったく現実であっただろうと言います。吉之助はこんなことを考えます。霊魂の不滅とか、怨霊・幽霊の存在というものは昔の人々の世界観の一部としてあったものでした。つまり当然のものとしてあったもので、ですから昔の人々はそのようなものを通じて世界や人生というものを実感として理解しました。ということはそれらは超自然の非合理な存在であったのではなく、当時の人々にとって全く逆にとても明晰で合理的な存在であったということです。

もちろん江戸の民衆にとっても、お岩さまは怖かったはずです。しかし、それはお岩さまが祟るから怖いのであって、幽霊が怖いということではなかったのです。当時の人々にとって、幽霊の存在は疑うことが出来ないことでした。昔の人はお岩さまが出て来る正当な理由があって伊右衛門に祟るという理屈をちゃんと理解していました。伊右衛門が誅されるべき男であることは当然ですから、そのためにその世界が正義と不義の尺度が明確な「忠臣蔵」に仕組まれたのです。南北の「四谷怪談」はそのような明晰な世界観のもとで作られているのです。(この稿つづく)

(H25・8・2)


)累説話の成立

江戸の三大幽霊はお岩(「四谷怪談」)・お菊(「播州皿屋敷」)・そして累(るい=かさね・「色彩間苅豆」)だと言われます。特に累は江戸の怪異ブームのはしりと言える存在で興味深いものです。累説話は下総国の羽生村という江戸に比較的近いところで実際に起こった事件とされていますが、その実説というのは、実は元禄三年 (1691)に出版された「死霊解脱物語聞書」から来たものです。この「聞書」は、悪霊に祟られて苦しむ病人に悪霊祓いを施した祐天上人や・村人たちから聞いた話を残寿という僧が書き留めたものですが、そのもとになった事件の詳細が明らかでないので、残寿の聞書がどれくらい事実に忠実なのか・創作が入っているのかは、よく分からないそうです。

この累説話について、文化人類学者の小松和彦先生が、「悪霊論〜異界からのメッセージ」のなかで解説くださっているので、詳しくはそちらをお読みいただきたいですが、以下しばらくこの本をなぞる感じになりますが、累説話が怨霊譚に変化していく過程を簡単に まとめてみます。

累説話のもとになった悪霊憑き事件がどんな事件であったか。それがどのような過程で江戸庶民の怨霊譚に変化していくのか。小松先生は、それは原典である「死霊解脱物語聞書」の要約化のプロセスにあると指摘して、それをふたりの研究者の「聞書」の要約を例に挙げて、解説しています。ひとつは諏訪春雄先生による要約、もうひとつは服部幸雄先生による要約です。この比較がなかなか興味深いのです。

小松先生は、オリジナルの「聞書」の筋の展開に比較的忠実な要約として、まず諏訪先生のものを紹介しています。引用すると長くなるので、端折って記します(詳細は小松先生の本をお読みいただきたい)が、「下総国羽生村に累という醜い女が住んでいた。その入り婿であった与右衛門という男が、累を殺してしまった。その後、与右衛門は後妻を娶り、菊という娘が生まれました。しかし、菊が十三歳の時、菊が煩って苦しみながら、「わたしは菊ではなく、そなたの妻の累だ、その昔、よくもわたしを殺したな」と呻くので、吃驚した与右衛門は寺に逃げ込んだ。その後、村人が怨霊をなだめようと手を尽くすも、死霊は菊からなかなか離れようとしない。しかし、羽生村を訪れた祐天上人が法力を以って遂に累の怨霊を解脱させた。寛文12年のことである・・・」というのがその前半のあらましです。

ここでお分かりの通り、寛文十二年に下総国羽生村で悪霊憑き騒ぎがあって、菊という娘が累という死霊にとりつかれた。祐天上人の死霊祓いによって、その原因は、どうやら与右衛門が前妻の累を殺したということが発端であると判明したというストーリー展開を辿っています。

累説話はまだ続きます。累の死霊が成仏したと村人が安堵したのもつかの間、菊はまたも死霊に悩まされます。祐天上人が駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体を問うと、それは助と名乗る子供であった。昔を知っている老人の話しから、61年前に、累の父の先代与右衛門が娶った女の連れ子が助という子供で、この子が醜かったので殺されたこと、その後に夫婦に生まれた娘も醜い子で、それが累であった、ということが分かってきた。祐天上人が助に十念を授けると、助の死霊もついに成仏した。・・以上が「聞書」の物語展開に沿ったところの、諏訪先生の要約の、概略であります。

ここで分かるのは、「聞書」が伝える事件は、これは幽霊出現事件ではなく、もともとは憑きモノ事件であったということです。これを僧残寿が「聞書」にしたことで分かる通り、「聞書」は祐天上人がその有難い法力で見事死霊を退散させたということを布教のために広めたという役割もあったわけです。

さらに小松先生は、興味深い指摘をしています。原因不明であった憑きモノ騒動が、祐天上人の死霊祓いによって、その原因が次第に解き明かされていく、そして、その原因が明らかになった後、人々の脳裡に、すべての発端が先代与右衛門の助殺しにあ ったことが刻み付けられる。そこから累が醜く生まれたことも、累が二代目与右衛門に殺されたことも、さらに菊が病気になったことも、原因は助殺しにあったと、そのすべての事象が原因と結果の一本の糸で結び付けられ、因果の物語とが組み立てられていくということです。

そのような変形の例として、小松先生が次に挙げるのが、服部先生の「聞書」要約です。その要約は、「羽生村に住む百姓与右衛門は他村から妻を娶った。その妻の連れ子が助という男の子だった。その子は目っかちでびっこだった・・・」という感じで始まります。つまり、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているのです。小松先生は、次のように書いています。

『この服部の要約をさらに変形してみたら、すなわち、累の怨霊が菊に乗り移って恨みごとを述べるのではなく、直接目指す敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現するように変形したらどうなるだろうか。そのとき、累の物語は、江戸時代に全盛を究める幽霊譚へと変形することになるわけである。「播州皿屋敷」のお菊や、「東海道四谷怪談」のお岩の物語では、出現するために累が必要とした霊媒という装置などもうなくとも出現しうるとみなされるようになっていた。その意味で、累説話は、悪霊憑き物語と幽霊物語の分岐点・境界に位置する物語といえるはずである。』(小松和彦:「悪霊論」)

以上の小松先生の論考をベースにして、さらに吉之助なりの考察を加えていきます。(この稿つづく)

(H25・8・7)


)原因と結果の相関関係

バートランド・ラッセルは、科学と哲学の違いを問われて、「科学とは私たちに分かっているもの、哲学は分かっていないものを取り上げる・・ですかね。これは単純な区分ですが、知識の進歩によりいくつかの問題が、哲学から科学の方へ移行して行くのです。」というようなことを語っています。

その昔、科学は魔術と同じように考えられていた時代がありました。しかし、例えば旱魃が長く続いて人々が飢餓に喘いでいる時に、呪術師がお呪いをして、 その後すぐに雨が降ったとする。そうすると、これは呪術師がお呪いをしたから雨が降ったわけだから、原因とその結果の間に明らかに相関関係が見えると、人々がそう信じた場合には、それは科学的な行為 だということになるのです。現代人から見れば、迷信に捉われているように見えるでしょうが、このようにお呪いをすれば・それが天に何かの作用をして・それで雨が降る(らしい)という思考は、何かしら科学的 な筋道を踏んでいると言える。そういうところから科学は出発しているのです。

なぜ風が吹くのでしょうか。それは風の神様がふいごを廻して風を送っているのだと古代ギリシア人は考えました。そのような考え方はギリシア人の世界観に裏打ちされたもので、そのなかで成立したものでした。だから、現代人から見れば馬鹿げた考え方に見えるでしょうが、これは迷信でも何でもなくて、 古代ギリシアの世界のしっかりした科学的思考に基づいたものなのです。そのようなところから、科学的思考が出発しているのです。このようなことが、科学思想史の本を読めば、その最初の方にはいろいろ書いてあります。一応、吉之助は理系の人間でありますので、そのようなことを学んできました。

大事なことは、原因と結果に明らかな相関関係、両者の間に一本の筋道が見い出せるということ、「これがこうなるから、こういう結果になるのか、そうか、分かったぞ」という感覚があるならば、それは何かしら科学的な感覚であるということです。それは、何かしらパッと明るい、すべてが見えたような明晰な感覚なのです。

『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」
(河合)「どういう超自然ですか?」
(村上)「つまり怨霊とか・・・。」
(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」
(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」
(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」」』
(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)

河合先生の言っていることは、六条御息所の生霊にせよ、それは平安の貴族の世界観のなかで成立したものなのだから、それは現実の一部として存在したものだということです。六条御息所の身体から何らかの念が抜け出して、それが葵の上を苦しめたということは、恐ろしいものだけれども、平安の人々はそれをまったく現実の一部として理解しました。 だから、これは科学的思考に基づいた人間理解なのです。現代人は、生霊というものを非科学的な存在だとして認めませんから、そのような明晰さが分からなくなっています。だから、平安の人々は、 迷信に囲まれて、生霊とか怨霊に日々恐れ慄いて暮らしていたなどいうことになる。しかし、それは間違いです。現代人から見れば、そう思えるだけのことです。

さて、前章で見た通り、小松和彦先生は、服部幸雄先生の「聞書」要約について、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているとして、より因果律が強まった怨霊譚の方へ変形がなされていると指摘しています。なるほど、憑きモノ事件が幽霊譚に変化して行くプロセスは、小松先生の説明は見事でよく理解できます。吉之助は、この点にまったく異論はありません。

しかし、吉之助がここで明確にしておきたいことは、「聞書」要約において服部先生が累説話の怨霊譚化を意図したのかどうかという点です。但し書きつけますと、小松先生が服部先生にそのような意図 的なものがあったと決め付けているわけではありませんが、そのように言いたそうな書き方だと思います。しかし、服部先生に、累説話の因果律を強調して怨霊譚へ転化させようとする意図がないことは、明らかなのです。服部先生は、ただ読者に原因と結果がよく分かるように、時系列を整理して、古いところ(原因)から解き明かし、次々と起こる不思議な現象を理解できるようにしただけなのです。つまり、そこに見えるのは、原因と結果を一本の筋道に解き明かした・努めて科学的な態度です。つまりこの要約に見えるのは明晰さです。

ところが、別の角度から見れば、小松先生が指摘するように、その要約に見えるのは、因果律を強調して、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語だという風にも読めるわけです。そこに陰惨な非合理の世界が出現することになる。これは小松先生が「怨霊学者」ということですから、まあそのお立場から論旨を展開しているので仕方ないと思います。しかし、服部先生の要約のなかにある明晰さについて 言及しておくことは、やはり大事なことだと思います。これは僧残寿の「死霊解脱物語聞書」についても同様です。

例えば(話が飛ぶようですが)横溝正史の推理小説「八つ墓村」とか「悪魔が来たりて笛を吹く」とかを読みます(その昔、吉之助の若い頃にブームになりました)と、次々起こる事件が悪霊の仕業か呪いみたいで、何が起こっているのだろうと、訳が分からなくて・おぞましく陰惨な感じがしますが、そこに名探偵(金田一耕助)がひょこり現れて、謎を見事に解き明かしていきます。「はあ、なるほど悪霊の仕業と思いきや、そんなトリックで殺人をしたわけね、これで納得だね」ということになります。そこにある感覚は、正しく科学的な思考で、それは明晰な感覚なのです。それにしても、呪いやら伝説やらに結び付けてこんな手の込んだ殺し方をするとは酔狂な犯人だねと読後には思いますが 。

僧残寿の「死霊解脱物語聞書」も、また推理小説のようなものです。訳の分からない憑きモノ騒動に、ひょっこり現れた旅の僧(祐天上人)の死霊祓いによって、村の人々が誰も知らなかった過去の真相が次々に明らかにされていく、これは 江戸の人々にとって推理小説を読むような面白さです。祐天上人は名探偵です。そこにあるものは、科学的思考です。累説話の根底にも、そのような明晰さがあることを指摘しておきたいと思います。ですから同じ累説話を前にしながら、服部先生や吉之助はそこに明晰さを見ており、小松先生はそこに因果の暗さを見ていることになります。

累説話を基にした歌舞伎といえば、「色彩間苅豆」(かさね)があることはご存知の通りです。「かさね」の舞台は陰惨な物語であるように思うでしょうが、そこにも明晰さが見える場面があります。それは捕り手に絡まれた与右衛門がそこで手紙を見付け、これを広げて月明りに透かして読もうとしてポーズを取る、その瞬間です。背景の黒幕がバッと切り落とされます。まだ薄暗い下総の田園風景が出現します。それは現代人の目から見れば、行燈の明りのように頼りない「薄暗さ」であるでしょう。しかし、当時の江戸の人々にとって、行燈の明りは十分な明るさであったことを忘れてはなりません。背景の黒幕がバッと切り落とされた瞬間から、与右衛門の旧悪が明かされ・かさねの因果の物語の、その発端からこれまでの筋道が次第に解き明かされ 、すべてが一本の糸につながって、観客に物語が次第に見えてくる。それは江戸の人々にとって、十分なほどの「明るさ」なのです。(この稿つづく)

(H25・8・13)


)明晰さを見るか・因果の暗さを見るか

「死霊解脱物語聞書」の物語に明晰さを見るか・因果の暗さを見るか、それはどちらが正しいとか・間違っているということではなく、その眺める視座が異なるから様相が違って見えるということです。しかし、批評の立場から対象を見る場合には、正面から見たり・横から見たり・後ろから見たりして、そうやって出来るだけバランスを取った見方をする姿勢が必要になります。そうすることで批評が客観性を持つものになるか・さらに新たな真実が見出せるかどうかは分かりませんが、批評する場合にはそのような検証が必要になります。累説話のなかに、科学の明晰さと因果の暗さの両面を見ながら、どちらの可能性をも検討せねばなりません。

例えば、次の挿絵をご覧下さい。正徳2年(1712)に出版の「死霊解脱物語聞書」にある「霊界訪問を語る菊」の挿絵です。「聞書」の最初の本が元禄三年(1691)出版とされていますから、それより21年後の本になります。菊が夢うつつの状態(憑依状態)で、悪霊に導かれ霊界を訪れたことを、村人たちに語る姿が描かれています。菊の背後に、累(かさね)の悪霊が描かれています。

 

この挿絵の示すところは、憑依状態の菊が描かれていて、その菊が語るところを、村人たちが興味深そうに聞き入っているということです。菊の背後に累の悪霊が描かれているけれども、村人たちに累の姿が見えているわけではありません。しかし、村人たちは背後の 霊の存在を確かに感じ取っているのです。そして、正気の菊がこれを語るのではなく、累の悪霊が菊のなかに入り込んで、菊は累に語らされているのだという理屈も、ちゃんと理解しているのです。だから、村人たちは恐れ慄くことがまったくないのです。つまり、当時の科学的感覚において、「それはあり得ることだ、不可解なことではない」と皆が思っているから、怖くないのです。

憑依状態の菊が語ることは、村人たちが知らない・真実を確かめようがない・はるか昔の殺人事件です。このことは疑って掛かれば、祐天上人が何らかの暗示(催眠術)をかけて菊にありもしない事を語らせたということも考えられます。あるいは、 閉塞した村社会のなかの複雑な人間関係が原因で菊のなかにありもしない物語が構築されていったということも考えられないことではないです。これが法廷であるならば、それが真実であったかを検証していく必要がありますし、もしそれが真実でないならば・ないで、その物語がどのように作り上げられたのか・そのプロセスを検証して行くことは、社会学的に面白い研究テーマです。

しかし、「聞書」では、与右衛門および先代与右衛門が殺人を犯したことは事実であると、地の文で語っています。そして、その「事実」を踏まえれば、これまで村のなかで起こってきた奇怪な出来事はすべて明解に説明ができるのです。ですから、「そうか分かったぞ、不可解な出来事だと思ったけれど、そういう事実が発端になって、いろんな事件が起こったわけか、これで一連の事件がひとつの糸につながったぞ」という明晰な科学的な感覚が、累説話にあるということです。

ところが、一連の事件がひとつの糸につながった後、改めて感じさせられるのは、人間の業(ごう)の深さ・やりきれなさということです。これは当時の仏教の世界観によって理解されます。「何と、人生というものは、自分の意志だけではどうにもならないものに、動かされ、操られているのだなあ」という思いです。そういうものは、何となく重苦しく暗いものです。いったん、原因と結果がひとつの糸で結ばれてしまうと、途端にそれが鬱な気分に変わってしまうことがあるものです。そこから、仏教の因果論の暗さが生まれてきます。

因果律を強調して行けば、累説話は、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語ということになります。累説話は本来は 菊の憑き物騒動であるのですが、次第に累の怨霊譚に変化して行くのです。上掲の挿絵でも、累の悪霊が明確に描かれています。見えなかったものの姿が、人々の心のなかに次第に怨霊の像として定着していきます。挿絵は、累説話の怨霊譚への変遷の途上を見せているとも解釈できます。そこまで約20年の年月が掛かっています。そうすると、これは小松先生の研究領域になるわけです。

芝居における因果論については、別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」で取り上げました。芝居というものは、時間の座標に縛られています。過去と現在・未来を行ったり来たりというような錯綜した展開には、不向きの芸術なのです。基本的に、筋は時間の進行に沿って(伸び縮みはしているけれども)、古い時点から進行していって・それが現在への伏線となるという風に展開して行きます。時に回想の形で過去が挿入される芝居もありますが、巧くやらないと筋がこんがらかって大変なことになります。

だから芝居の場合は、「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、「分かった」という感覚にはならないわけです。このことは逆に言うならば、演劇というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸術だということですね。(この稿つづく)

(H25・8・25)


盆狂言としての累物の意味

もともと田舎の憑き物騒動に過ぎなかった累説話が、元禄3年(1691)の「聞書」出版で、江戸の民衆にぱっと広まったわけではありません。累説話が歌舞伎で取り上げられた最初は、享保16年(1731)での江戸市村座での盆狂言であったそうです。その後、累説話はどんどん書き換えられて、筋が変化していきます。現在伝わっている伊達騒動に仕組んだ累物の先駆となるのは、安永7年(1778)での江戸中村座での・初代桜田治助他作による「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」です。これは翌年に浄瑠璃化されて、累の筋だけ独立して「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」として、現在でもたまに上演されることがあります。その筋を見ると、足利家お抱えの相撲取り絹川は、主君の乱行を憂い殿寵愛の遊女高尾太夫を殺しますが、高尾の妹累と一緒になって故郷である羽生村へ帰って百姓与右衛門となりますが、高尾の霊が祟った累は顔が醜く変わってしまう・・というものです。

まず興味深いのは、「聞書」が伝えるところの菊の憑き物騒動(累の霊が菊に取り憑く)という設定より、怨霊となって出る累の方に焦点が行っていることです。。また、「文書」では先代与右衛門が犯した助殺しの因果により、累は醜い姿で生まれることになっていますが、「薫樹累物語」では、死霊の祟りによって累が美しい顔から醜い顔に変えられてしまうという風に筋が変化します。また与右衛門も「聞書」では先代と二代目がいるわけですが、「薫樹累物語」では与右衛門はひとりに整理されています。そして、自分が関与していない或る事情によって理不尽にも累が祟られて面相が変貌してしまい、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るという筋になっています。改めて思うに、時系列を整理した服部先生の「聞書」要約を見ても、これだと先代与右衛門の助殺しに始まって時代が数十年に渡りますから、因果の物語をそのまま芝居にするのは無理があるようです。だから、 累説話が芝居に取り上げられるに当たりプロットが整理されて単純になって行くことには、それなりの必然があるわけです。

もう少し時代が下ったところの舞踊「かさね(「色彩間苅豆」)は、文政6年(1823)江戸森田座での四代目鶴屋南北の「法懸松成田利剣(かさかけまつなりたのりけん)」の二番目・序幕で、歌詞は二代目松井幸三が書いたものです。舞踊「かさね」では書き換えられて「薫樹累物語」から 設定がまた多少変わっていますが、自分が関与していない或る事情によって理不尽に累が祟られて面相が変貌してしまって、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るというところは変わっていません。与右衛門の過去の所業がより因果に仕立てられているということは言えそうです。

こうやって、伝言ゲームの如くに、原説である「聞書」から舞踊「かさね」へ筋が変化して行く流れをざっと見ると、演劇というものが、原説のなかのどういう要素を取り・どういう 要素を捨て・そして芝居としてスッキリしたドラマに再構築していくか、その過程を見る気がしてきます。舞踊「かさね」は、美しい腰元が突然醜い姿に変貌してしまう・それは実は恋人与右衛門の過去の所業に原因があった・・ということで、うまくスリラー仕立ての変化物になっています。しかし、この点をもう少し掘り下げたいのです。

累説話が江戸の民衆に流布して行くについては、芝居のイメージに拠るところが多かったと思います。江戸民衆の累(かさね)のお化けのイメージは、歌舞伎が作ったのです。その過程で、何が累説話の核心であると人々が感じたのかということが、大事なポイントだと思います。元禄より時代がずっと下った江戸の民衆は、累説話は因果の物語であると受け取るようになっていました。そのなかで死霊となって菊 に取り憑く累の姿が、人々の心のなかに、どこか悲しく浮かび上がってきたはずです。「聞書」に出てくる累は最初から醜くて性格の悪い女に生まれたことになっています。しかし、それも先代与右衛門の過去の所業のせいであって、累が悪いことは全然なかったのです。ホントは累は美しい姿で生まれるはずだった。それが因果のなせる業(わざ)により醜く生まれてしまったということです。人々は、累のことをそのように理解しました。

ということは、累物の芝居のなかで、舞台で最初に累を美しい姿で登場させることは、累に対する供養の意味が確かにあったのです。それは、累に対して「これが本当のあなたの姿なんだよ」と認めることであるからです。そして、自分がまったく関与していない・恋人与右衛門の悪業によって、理不尽にも自分の面相が変えられてしまうことに因果のなせる業を感じて、人々が「それは是非ないことだなあ、人生は何と悲しいことだなあ」と あわれを感じることに、累に対する供養の意味が確かにあったのです。そこに盆狂言としての累物の意味があったはずです。このことは当時の江戸の民衆の世界観において理解されねばなりません。

ですから別稿「これが私の顔かいの」で書いた通り、変わり果てた姿を鏡で見せられて「これが私の顔かいの」と累が嘆く時に聞こえるものは、「生きるってどういうことなの・・・」という累の悲しみです。ホントは彼女は、ほんの小さな幸せを願っていただけのはずです。それが、自分の意志と関係ないところで、この世のところのモノと思われない姿とされて、人々に怖がられて・・・それはとても悲しいことなのです。だから心底恐ろしいのです。(この稿つづく)

(H25・8・29)


「装置」としてのお化け

お化けと幽霊と妖怪がどう違うのかというのは、よく出る質問だと思います。幽霊というのは死んだ人の魂が成仏できないで・この世に残っているもの、妖怪というのは人間ではない・動物とか物とかが化けたものと、大まかに区別出来ると思いますが、 そのどちらもお化けと呼ぶことがありますから、区分には曖昧なところがあるようです。

泉鏡花といえば無類の「お化け好き」で通っていますが、鏡花のお化けというのは歌舞伎の怪談芝居に出てくるお化けと違って、特定の人を呪ったり・取り憑いたりするために出てくるものではないようです。 鏡花のお化けは、何げなく見るとすぐ横に座って居るという感じのお化けなのです。「変だなあ・こんなものはこの世に居るはずがないのになあ・・でも、そこに確かにそこに居るのだから・いないと思う俺の方が変なのかもなあ・・」などと思いながら一緒に並んで黙って部屋に座っているという感じのお化けです。つまりアッケラカンとしたお化けなのです。(別稿「たそがれの味」をご参照ください。)

そのようなお化けが普通のものだとすると、この点は折口信夫も「近代文学論」のなかで指摘していますが、歌舞伎の怪談芝居のお化けというのは特異だということが分かると思います。歌舞伎に出て来るお化けというのは、大抵恨みを以って成仏できないで・現世に現れますが、その場合、恨みの対象となる人物(あるいはその親族など)が必ずいます。そして、その原因となる人物が誅されると、お化けは恨みを消して、その後は出て来ません。恨みの対象が誅せられれば、お化けが再び登場する必然がないからです。 芝居というものは「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、観客が「分かった」という感覚にはならないので、芝居というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸能なのです。もちろん因果論は当時の民衆の仏教的世界観が背景にあるものですが、同時に明晰な論理関係を芝居のなかに持ち込んでいます。

「四谷怪談」を見ていて不思議に思うことは、お岩の幽霊は伊右衛門の母親お熊や悪仲間の秋山長兵衛を取り殺しますが、肝心要の恨みの対象である伊右衛門を自分の手で取り殺さないことです。伊右衛門に取り付いて・地獄へ道連れなんてドン・ジョヴァン二の最後のような場面(地獄落ち)を、観客は内心期待しているはずです。しかし、「四谷怪談」では、そうならないのです。伊右衛門を誅するのは四十七士である佐藤与茂七で、彼は伊右衛門を討った後でその足で師直屋敷の討ち入りに駆けつけます。つまり、お岩は与茂七に処刑を「任せる」のです。これはお岩の怨念の晴らし方という視点から見ると、いまひとつ晴れやかではない。この点を疑問に感じてもらいたいのです。

ここで明らかなことは、お岩の幽霊の件が「四谷怪談」の「装置」に過ぎないということ、つまり厳密な意味においてそれが「四谷怪談」の本質ではないらしいということです。もしそれが 「四谷怪談」の本質であるならば、伊右衛門はお岩の幽霊によって葬られなければ、ドラマ的にスカッと来ません。「歌舞伎素人講釈」ではこれについては何度も書きましたので、詳細は別稿「軽やかな伊右衛門」、あるいは「世界とは何か」などをお読みください。「四谷怪談」は「忠臣蔵」 という世界の明晰な論理関係の下にあると言えます。だから吉之助は、お岩の幽霊の件は装置だと言うのです。

「装置」というのは、その1において村上春樹氏が使っている言葉です。つまり、物語の筋を展開させていくための仕掛けということです。歌舞伎のお化け芝居は、そのような特徴を持っています。それは芝居が因果論に陥りやすい要素を持つ芸能であるから、そうなるわけです。例えば黙阿弥の「蔦紅葉宇都谷峠(文弥殺し)」(安政3年・1856・江戸市村座)でも、文弥の幽霊が現れて恨みがましいことを言うけれど、伊丹屋十兵衛に直接手を下すことはありません。そのドラマは、読み様によっては、文弥の幽霊は十兵衛のなかの罪悪感が作り出した幻影であって、十兵衛は罪悪感によって自滅して行くという風に も読めます。それは近代精神分析学的な読み方にも耐えられるものです。つまり、「宇都谷峠」は陰惨で非合理な芝居のように見えますが、文弥の幽霊は完全に装置化しており、実は明晰な論理関係の下に在るのです。

このように歌舞伎を検証して行くと、お化け芝居のなかに「恨みを抱いて死んで・死後に幽霊になってその人物や縁者に祟る」という因果関係の陰惨さ ・非合理な世界のおどろおどろしさを見るということは、作品成立時の(つまり江戸期の)民衆の感覚のなかにオリジナルとして在ったものではないということを考えざるを得ないわけです。

吉之助は、お化け芝居の因果論の陰惨さ・おどろおどろしさという感覚は、案外近い時期、すなわち明治末期か大正期に入ってから生成してきたものだという風に考えています。その論証のためには、明治期の円朝の怪談噺やら講談やら・周辺のものも検討して行かねばなりませんが、ここで言えることは、そのようなものは否定すべき非合理なものとして、否定されるべき旧弊・否定されるべき江戸というような感覚と複合的に重なり合いながら、陰惨さ・おどろおどろしさという或る種ネガティヴな感覚で捉えられて行く、そのような複雑な過程を辿っています。泉鏡花を始めとして、明治期の知識人の・こんな人がと思う人が大変なお化け好きであったりして、怪談会などに嬉々として参加していました。合理主義一辺倒な世の中であるからこそ非合理に憧れるという側面もありますが(西洋の知識階級でも同時期に心霊会のようなことが流行しました)、そこに明治という時代の精神の微妙なところが見えて来 ます。明治という時代には、とても捻じれたところがあります。それは江戸と明治の亀裂から来るものです。

「四谷怪談」は観客を怖がらせるために様々な工夫を凝らしているうちに、お化け芝居として練れて行くわけですが、吉之助は、そこに明治という時代の役割を考えて見たいのです。「四谷怪談」上演史のことで言えば、市川齋入(明治から大正に掛けて上方でケレン芝居で鳴らした役者)が果たした役割が大きいようです。齋入は上方ですが、ケレン芝居としての「四谷怪談」の影響が東京の方にも及んでいます。ですから、現代の「四谷怪談」から、陰惨さ・おどろおどろしさという分厚い泥絵の具を取り去って見れば、そこから現れるものは、それは案外アッケラカンとして明晰なものであるかも知れません。そういう「四谷怪談」を想像してみたら面白いと思いますね。

(H25・9・9)



(TOP)         (戻る)