泉鏡花について
*「吉之助の雑談」での泉鏡花関連記事をまとめました。
泉鏡花のお芝居と言うと・どうしても新派のイメージがしますが、実は新派で有名な「滝の白糸」・「婦系図」・「歌行燈」などは鏡花の小説を他人が脚色したものでして、鏡花自身の筆になる脚本ではありません。三百余篇といわれる鏡花作品においてオリジナル戯曲は約二十編というところです。どちらかと言えば鏡花オリジナルより・脚色作品の方で鏡花のイメージが出来上がっているところがあるようです。しかし、鏡花のなかで戯曲のウェイトが低いわけでは決してありません。
それまで小説専門であった鏡花が大正期に入って戯曲創作に意欲を見せ始めたきっかけは、明治40年(1907)にドイツ文学者登張竹風との共訳で・ハウプトマンの戯曲「沈鐘」を出版したことにあるそうです。この「沈鐘」は山に棲む妖精と・人間の鋳鐘師との恋を描いた世紀末的幻想戯曲です。そして大正2年(1913)3月に戯曲「夜叉ヶ池」が発表され、さらに同年7月に「紅玉」・12月には「海神別荘」と戯曲が三本立て続けに発表されることになります。
ということは「夜叉ヶ池」と「海神別荘」は・同時期に並行して構想されたということでして、ハウプトマンの世紀末芸術の影響下においてこれを見る必要があるということです。「夜叉ヶ池」と「海神別荘」は対の関係で見た方が良さそうです。今月(平成18年7月)の歌舞伎座でこれら二作品で昼のプログラムにしているのも・確かに玉三郎の意図を感じさせるところです。
「夜叉ヶ池」や「海神別荘」に世紀末的な要素がどこにあるかと言うと、ひとつには現世(日本的に言えば世間)と言うものに対する歪(ひず)んだ感性がそこに見えるからです。このことは妖精界と人間界との対比のなかで描かれており、特に「夜叉ヶ池」では村人たちの俗物ぶりが滑稽に描かれているから・妖精界の方が多少清らかに見えるかも知れませんが、別に妖精界のことを鏡花が理想郷と描いているわけではないのです。よく見れば妖精(妖怪)たちも彼らの次元のなかでそれなりに俗物であるのですから。妖精界は人間界の陰画と考えた方がよろしいでしょう。
現世(日本的に言えば世間)と言うものに対する歪みというのが・どこに実感されるかといえば、現世から押し出される者たちの心情から出てくるのです。それは「夜叉ヶ池」で言えば荻原晃であり・「山吹」では夫人と人形遣いであり・「天守物語」では図書之助です。彼らは世間からはみ出し・世間の重圧から押し出され・あるいは疎外され・拒否されて、異界へ流れて来るのです。「海神別荘」はちょっと趣が異なるのは生贄にされた美女が世間への恨みを口にせず・親子の情愛を 頑固に主張する(実はそれも世間への意地から出るものである)からですが、現世の歪みを観念的に解き明かしている点で「海神別荘」は非常にユニーク な作品です。このことは別稿「超自我の幻想」をご覧下さい。「海神別荘」は「夜叉ヶ池」と対を成し、観念的に補完し合っているのです。
そう言えば「夜叉ヶ池」の竜神になっている白雪姫はその昔・百合と同じように村人たちに人身御供にされて夜叉ヶ池に身を沈めたという前世を持つのでした。同じく「天守物語」の富姫も負け戦の落人の美しい婦人が襲われて自害した身が転生して姫路城の天守閣に棲む妖怪になったのでした。つまり、妖怪たちも元は現世から押し出されてきた者たちなのです。
そこに「世間への強い意地」というものが見えてきます。このことは別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」で考察しましたが、登場人物に圧し掛かって くる時代の重さ・状況の重さ、「今自分たちを取り巻いているこの状況はこれでいいのか」という強い苛立ち・憤りがそこにあるのです。これが1900年前後の世界的に共通した時代的心情です。この意味において泉鏡花の芝居は世紀末的であり、同時にかぶき的心情と同質なものを持つのです。
吉之助が鏡花作品はいずれ歌舞伎に組み入れられるだろうと言うのは、新派において女形芸が消え去りつつあるという・そのことだけで言うのではありません。作品の持つ心情において・綺堂や青果の新歌舞伎と同質のものを鏡花作品が持っている ・鏡花作品を歌舞伎にする取っ掛かりがそこにあるということになるわけです。
(H18・8・1)
別稿「超自我の幻想」は泉鏡花の戯曲「海神別荘」についての論考ですが、ここで超自我命令の究極の内容は「楽しめ、好きだろうと嫌いだろうと楽しめ」という逆説であるという哲学者スラヴォイ・ジェジェクの言葉を引きました。論考においては話が脇にそれるので割愛をしましたが、ジェジェクはさらに興味深いことを書いています。
『日本人はもしかすると、超自我の行き詰まりから脱出する特異な方法を見つけているかも知れない。彼らは「好きだろうと嫌いだろうと楽しめ」という逆説に立ち向かい、日常の義務の一部として「オモシロイ」を組織し、公式の・組織的な活動が終わると、義務から解放され、やっと自由になって本当に面白いことをすることが出来、本当にリラックスして楽しめる・・・。』(スラヴォイ・ジェジェク:「幻想の感染」・崇高から滑稽へ・青土社)
ジェジェクは日本人のこういう鋭い観察をどこから仕入れたのでしょうか。ゾロゾロとガイドさんを先頭にしてヨーロッパの観光地を練り歩き・みやげ物店のブランド品に殺到する日本人のツアー集団からでしょうかね。いまや国際語であると言われる「カワイイ!」もこの類です。西欧人も日本人の生活の智恵(?)を学びつつあるということかも知れません。しかし、まあ、哀しい智恵ではありますね。
美女が「・・・早く殺して。ああ、嬉しい」とニッコリするのは、美女が俗世を棄て・美の世界に蘇生したということではありません。「お前、私の悪意ある呪いでないのが知れたろう。」という公子に対して美女は「お見棄てのう、幾久しく・・」と答えてふたりは結ばれるのですが、ここに鏡花は(美女うなだる)とト書きを入れているのを見逃してはなりません。美女は屈服した(あるいはあきらめた)のです。永遠に「オモシロイ」を組織しているのが竜宮であったわけです。しかも、「オモシロイ」の義務から解放されて・リラックスする時が絶対来ないのが竜宮なのです。(このト書きの部分を玉三郎の美女が十分に表現していたと は言えなかったと思いますが。)
そう考えると幕切れの公子の「おい、女のいる極楽に男はおらんぞ。男のいる極楽に女はいない。」もなかなか意味深に聞こえませんか。
(H18・7・28)
『なぜなら美というものは、ファイドロスよ、よく覚えておくがいい、美というものだけが神々しいと同時に目に見えるものなのだ。そう言うわけだから、美は感覚的な者の行く道であるし、芸術家が精神へ行く道なのだ。そこで君はしかし、愛する友よ、精神的なものへ行くために感覚を通らなければならぬ人間が、一度でも英知と真の人間の品位を獲得することができると思うかね。それとも君はむしろ(私はその決定を君の自由に任せるが)これは危険でかつ愛すべき道であり、真に邪道であり・罪の道であって、かならず人を邪路に導くものだと思うかね。なぜと言って、これは是非言っておかねばならぬが、我々詩人たちが美の道を進んで行けば、必ずエロスの神が道づれになって、得々と道案内をするに決まっているのだ。(中略)我々は奈落を否定したいし、品位を得たいとは思うのだが、しかし我々がどう身を転じようとも、奈落は我々を引きつけるのだ。なぜと言って認識には、ファイドロスよ、何の品位も厳かさもないからだ。それは物を知り・理解し・許すもので、品性も形態もない。それは奈落に共感を持つ。それはまさに奈落なのだ。』(トーマス・マン:「ベニスに死す」)
トーマス・マンの小説「ベニスに死す」(1913年)の主人公・初老の作家アッシェンバッハがその死の数日前に見る幻影の場面です。アッッシェンバッハは旅先のベニスでギリシア美を想わせる美少年タッジオに魅せられ・彼の姿を追い求め、死へと突き進んでいきます。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画ではアッシェンバッハは音楽家の設定になっていますが、これはマンがグスタフ・マーラーをモデルにしてアッシェンバッハの人間像を作り上げたと考えられているからです。映画ではマーラーの交響曲第5番の第4楽章アダージェットが印象的に使われていました。特にアッシェンバッハが海辺にたたずむ美少年タッジオを見ながら倒れる最終シーンは原作に伍する名場面だと思われました。
泉鏡花の「山吹」(1923年)も同じような同時代的テーマに拠っているのですが、必死になって正気に踏みとどまろうとして奈落に堕ちていくアッッシェンバッハとは違って・画家島村はかろうじて奈落に堕ちるのを踏みとどまります。(別稿「鏡花の耽美主義について」をご参照ください。)
「うむ、魔界かな。これははてな、夢か、いや、現実だ。(夫人の脱ぎ捨てていった駒下駄を見る)ええ、俺の身も、俺の名も棄てようか・・・(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕しつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投げ棄つ。)」
このような芸術家の奈落への誘惑は、「圧し掛かって くる時代の重さ・状況の重さ」から出てくるものです。日本的に言えば「世間の重さ」ということになります。明治期における「かぶき的心情」は個人と社会の問題から捉えられます。別稿「特別講座:かぶき的心情」で明治期におけるかぶき的心情のバリエーションとしているものがそれです。江戸期のかぶき的心情は社会(世間)を個に対立するものと意識していませんが、明治期はこれを明確に意識しています。引き裂かれる時代的心情がそこから出てきます。
島村の「いや、仕事がある」と言う台詞をダサいと笑うわけにはいきません。そこに島村がかろうじて正気に踏みとどまる芸術家の冷徹な観察眼があると思わざるを得ません。もしかしたら踏みとどまることもまた奈落なのではないでしょうか。
(H18・8・4)
「新歌舞伎というのはどこが歌舞伎なんでしょうか・何だか歌舞伎の名を借りた普通のお芝居に見えますが・・」というご質問を頂くことがあります。吉之助はこういう時には「歌舞伎役者が演る芝居はみんな歌舞伎なんです」と答えることにしています。これは別に答えをはぐらかしているつもりはないのです。やはり「新歌舞伎」と呼ぶからには、どこかに歌舞伎たる何ものかがあるはずです。
これは一般論で・例外はいくらでも挙げられますが、まず内容(思想)的に見ればそこに「やむにやまれぬ思い」・「それでもやらねばならぬ」という引き裂かれた心情があるならば・「かぶき的心情」に連なる演劇として・演技様式はどうであれ・それは「歌舞伎」と呼んで良いものだと思います。(別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」をご参照ください。) 泉鏡花を歌舞伎に取り込む取っ掛かりもここにあるのです。
歌舞伎というのは、その長い歴史のなかで様々な演技様式を取り込んでいった結構懐の深い演劇ですから、歌舞伎はどのようにでも変化し得えます。鏡花のフォルムというものを歌舞伎のなかに取り込んでしまえばそれでよろしいことです。巷間言うところの「歌舞伎らしさ」なんてものは観る者の固定観念に過ぎないと思っています。
(H18・8・7)