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歌舞伎ファンへのお勧めオペラ:ロイヤル・オペラの「トゥーランドット」


1)「トゥーランドット」とヴェリズモ・オペラのこと

本稿では「歌舞伎ファンへのお勧めオペラ」と題し、英国ロイヤル・オペラ(以前は「コヴェント・ガーデン王立歌劇場」と呼んだものですが・最近はあまりそう言いませんねえ)でのプッチーニの歌劇「トゥーランドット」を紹介します。オペラの記事ですが、歌舞伎ファンが歌舞伎(オペラではなく・歌舞伎です)を見る為に必ずや参考となる見方を教えてくれる舞台です。

英国ロイヤル・オペラが初来日したのは昭和61年(1986)9月のことであったと記憶します。一番人気はアグネス・バルツァとホセ・カレラスが共演した歌劇「カルメン」(ビゼー作曲)でありましたけど、もうひとつ吉之助の記憶に強烈に残った舞台は、アンドレイ・シェルバン演出による歌劇「トゥーランドット」でありました。「トゥーランドット」の舞台は映像を含めていろいろ見ました。豪華絢爛のゼッフィレッリのMET演出も悪くはありませんでしたが、吉之助はこれまで見たなかで個人的に、シェルバン演出による「トゥーランドット」の舞台が最も優れていたと思っています。

これはどうやら吉之助だけの評価ではなさそうで、シェルバン演出は1984年9月ロンドンでの初演ですが・とても評判が良くて、2024年現在も若干の改訂を経て上演が続けられており、本年で40年目に入るロイヤル・オペラの定番プロダクションです。英国ロイヤル・オペラは本年(2024)6月末に来日し、再びシェルバン演出の「トゥーランドット」が日本で上演されることが決まっています。吉之助も38年ぶりにこの舞台を再見したいと思っています。

アンドレイ・シェルバンは演劇出身の演出家で、吉之助は昭和53年(1978)7月日生劇場で劇団四季によるシェルバン演出の「桜の園」(チェーホフ作)の舞台を見たことがあります。(この時代の四季はミュージカルばかりやっていたわけじゃなかったのです。)シェルバン演出の「桜の園」は作品の喜劇的な要素を強調したいと云う触れ込みだったと思いますが・コミカルな印象はあまり受けなかったけれども、舞台全体が白っぽい色彩で覆われて・そこはかとなく繊細な印象がした素敵な舞台であったと記憶します。

ところで別稿近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ」において、近松門左衛門の世話物浄瑠璃の・上中下三部構成になる悲劇の様式は概念として「一幕物」として捉えるべきであること、ここで対比されるべきは、十九世紀末ごろに欧米オペラで創始された「一幕物のヴェリズモ・オペラ(現実主義的オペラ、つまり言い換えれば世話物オペラ)」であることを指摘しました。つまりマスカーニの「カヴァレリア・ルステカーナ」とか・レオンカヴァッロの「道化師」のような一幕オペラのことですが、その後、ヴェリズモ・オペラは興味深い変容を見せることになります。ヴェリズモ・オペラは一幕物としてはほとんど一発花火で終わってしまい、その後は多幕物オペラとして変容することになるのです。現在多幕物ヴェリズモ・オペラとして広義に分類されるものは、「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)、「フランチャスカ・ダ・リミニ」(ザンドナイ)など。プッチーニであると「ボエーム」のように如何にも世話物オペラらしいものがありますが、「蝶々夫人」や「トゥーランドット」のようにエキゾチックな東洋風俗を描いて・一見すると世話物のイメージから遠そうに思えるものもヴェリズモ・オペラなのです。

外見的な題材・或いは構成面から「蝶々夫人」や「トゥーランドット」を見ると、これらがヴェリズモ・オペラ(世話物オペラ)であることは概念的に理解が出来ないと思いますね。やはりこれは感性的側面から感じ取らなければ、つまり「アア」の感性で見なければ、納得が出来ないことになるでしょう。蝶々夫人」の場合は、その高潔な精神を示すために自害する蝶々さんの気持ちに「アア」があるのです。一方「トゥーランドット」では、主役級のふたり(カラフ王子・トゥーランドット姫)には、プッチーニの「アア」は存在しません。プッチーニの「アア」は、恋するカラフのために自害する召使い女リューの方へ向けられています。繰り返しますが、「アア」とは人間ならば誰でも持っている感性です。「アア」の感情は、肯定でも否定でもなく、その人を心の底から直截的に震わせる何ものかです。ですからプッチーニが考える「トゥーランドット」の真の頂点は、カラフのカッコいいアリア「誰も寝てはならぬ」ではなく、リューが自害する直前に歌うアリア「氷のような姫君の心も」であると云うことです。プッチーニがリューに見ている感情は、プッチーニが蝶々さんに見たものと同じです。(注:プッチーニはリューの死までを書いて亡くなり、作曲は未完に終わりました。現行の「トゥーランドット」の版は弟子のアルファーノが補筆完成したものです。)

つまり「アア」の感情(人情)を細やかに・かつ濃厚に描き出すことこそヴェリズモ・オペラの本質だと云うこと、これで「蝶々夫人」や「トゥーランドット」がヴェリズモ・オペラであることが納得出来ると思います。これは、近松が「虚実皮膜論」で云っていることとまったく同じことです。

『芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜の間にあるものなり。(中略)虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。』

そこで気が付く歌舞伎とヴェリズモ・オペラとの類似点とは、近松が創始した世話物悲劇の上中下三部構成が近松以後に途絶えて、これが多幕物の世話物悲劇へと変容していくことです。例えば後の南北や黙阿弥の世話物を考えてみてください。つまり別稿「女殺油地獄」論考で触れた通り、人情を細やかに・濃厚に描き出すことこそ肝要だと云うこと、世話物悲劇の定義を「アア」の感情に置くならば、正しい世話物悲劇の理解になると云うことです。(この稿つづく)

(R6・1・3)


2)「トゥーランドット」のエンディング

それにしても中国が舞台の歌劇「トゥーランドット」(初演は1926年)の音楽では、激しいリズムや不協和音・粗野な色彩感覚が強烈に前面に出ますね。こういう要素が「蝶々夫人」(初演は1904年)にも全然ないわけでもないと思いますが、「蝶々夫人」ではそれはまだ異国趣味(エキゾキシズム)の範疇に留まっています。欧米人には「蝶々夫人」が好きと云う方は多いですけれど、「トゥーランドット」は気色悪いオペラだと感じる方が少なくなかろうと思います。これは多分作曲年代の違いから来るものが大きいでしょう。当時(第2次世界大戦直前)の西欧に蔓延していた黄禍論の反映、欧米人が東洋人に感じているミステリアスな要素(何を考えているか・本心がよく分からない・得体の知れなさ・漠然たる恐怖)みたいなものがストレートに聞こえる気がします。

しかし、吉之助の感覚では、それは作曲者プッチーニがそのような偏見から音楽を書いたということではなく、プッチーニの核心はあくまで召使い女リューが恋するカラフのために犠牲的な自死を遂げる・その心情にあると感じるのです。リューの自己犠牲がこの過酷な状況を一変させて世界は愛に満たされると云うことです。(注:カラフとトゥーランドットの「愛」の方ではなく、リューの無償の「愛」のことです。)そう考えるならば「トゥーランドット」も、「蝶々夫人」と同じような主題を扱っていると思います。「アア」の感情(人情)を濃厚に描き出すことこそヴェリズモ・オペラの本質です。これをさらに濃厚に煮詰めて・クッキリと浮かび上がらせるために強烈な異国趣味(エキゾキシズム)の味付けが必要であったと云うことです。

ロイヤル・オペラでの、アンドレイ・シェルバンによる「トゥーランドット」演出(初演は1984年9月)の特徴は、主役級の四人(カラフ・トゥーランドット・ティモール・リュー)以外の歌手たちにお面をかぶせてしまったことです。これが強烈な違和感を醸成すると云うか、プッチーニの音楽のなかにある異国趣味(エキゾキシズム)を越えた不安感を増幅させます。

「トゥーランドット」の音楽のなかで三人の役人(ピン・ポン・パン)のパートはコミカル・かつアイロニカルで面白いものですが、これは中世イタリアに起源を発する仮面喜劇(コンメディア・デッラルテ)のスタイルを取り入れています。演出によっては素顔で演じるものもあります(仮面してると演じ難いせいか・そう云う場合が多いようです)が、やはりピン・ポン・パンは仮面でコミカルに演じられてこそ、その面白さが納得されるというところです。

*カラフ(フランコ・ボニソッリ)に絡むピン・ポン・パン。これは1986年の舞台。

プッチーニはリューの死までを書いたところで1924年に亡くなってしまい・「トゥーランドット」は未完のままで終わったことは先に触れました。現行の「トゥーランドット」の版は弟子のアルファーノが補筆完成したものです。アルファーノ版の幕切れの音楽は愛の勝利を称えて壮麗にフォルティシモで終わりますが、アリア「誰も寝てはならぬ」の旋律を繰り返しているだけじゃないかという批判もあったりして、エンディングの評価はいまいちであるようです。「トゥーランドット」は1926年4月25日ミラノスカラ座でトスカニーニの指揮により初演されました。トスカニーニは、この日、プッチーニが絶筆した箇所でオーケストラを止め「ここまで書いてプッチーニは亡くなりました」と言って指揮台を下りました。(2日目からは通常に演奏されました。したがって26日を本当の初演日だとする説もあります。)

ところでその後プッチーニが遺したメモが発見されたそうで、それに拠れば、プッチーニは「トゥーランドット」の音楽をピアニッシモで終わらせるつもりであったそうです。その心は、「このオペラは愛の勝利で終わるけれども・この幸せがいつまでも続くかどうか・それは誰にも分からないよ」という皮肉を利かせたものであったようです。(このアイデアを取り入れたのがイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオによる補綴完成版で、ベリオ版の初演はワレリー・ゲルギエフ指揮の2002年ザルツブルク音楽祭でした。ベリオ版では、作曲者の意図を汲んで静かに終わるエンディングとなっています。)

シェルバンによる「トゥーランドット」演出は1984年製作ですから・アルファーノ版に拠っていますが、さすがシェルバンは鋭敏な感性で脚本のなかに隠された皮肉を読み取ったようですねえ。シェルバン演出では、愛の勝利の喝采で沸くなか抱き合うカラフとトゥーランドット姫の前を、それとまったく無関係であるかの如くリューの葬礼の列が静かに通過するエンディングになっています。

*シェルバン演出「トゥーランドット」の幕切れ。愛を歌って抱き合うカラフとトゥーランドット姫の前を、リューの葬礼の列が通過する。

(R6・1・11)



 

 

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