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三島由紀夫生誕百年記念企画

九代目幸四郎の源為朝〜「椿説弓張月」再演

昭和62年11月国立劇場:「椿説弓張月」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(鎮西八郎源為朝)、十七代目市村羽左衛門(八町礫紀平治太夫)、四代目中村雀右衛門(白縫姫・寧王女ニ役)、九代目沢村宗十郎(阿公)、二代目中村又五郎(崇徳上皇の霊)、八代目坂東彦三郎(初代坂東楽善)(陶松寿)、二代目沢村藤十郎(為朝妻簓江)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(高間太郎原鑑)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(高間妻磯萩)

*この原稿は未完です。


1)六代目染五郎の源為朝

本稿で紹介するのは、昭和62年・1987・11月国立劇場での、九代目幸四郎(当時45歳)の源為朝による三島由紀夫作・「椿説弓張月」・再演の舞台映像です。残念ながら、吉之助は仕事の関係で、この上演は生(なま)では見ることが出来ませんでした。「弓張月」が初演されたのは昭和44年・1969・11月国立劇場(八代目幸四郎主演)のことでしたから、本公演は18年振りの再演ということです。

ちなみに「弓張月」の三演目が平成14年・2002・12月歌舞伎座(三代目猿之助主演)で、再演からさらに15年後のことになりますが、この舞台は生で見ました。本稿中でも言及することがあると思うので、付け加えておきます。

昭和62年11月国立劇場での「弓張月」再演の見どころの第一は、主役の鎮西八郎為朝を九代目幸四郎が勤めたことです。実は昭和44年・初演の為朝役に三島が希望したのは、六代目染五郎(後の九代目幸四郎-二代目白鸚)であったと云われています。実現していれば27歳での為朝役のはずでした。惜しくもれが実現しなかったのは、当時染五郎が翌年にミュージカル「ラ・マンチャの男」のブロードウェイでの主演(1970年3月〜5月・ニューヨーク・マーティンベック劇場)が控えており・その準備に取り掛かっていたからであったようです。このため初演の為朝役は八代目幸四郎に決まったわけですが、三島の落胆は大きかったようです。

18年後の再演で、作者の希望通りの九代目幸四郎・為朝がやっと実現したこと、これがこの公演の最大の目玉であったと思います。もっとも18年後のことだから、青い蕾の為朝ではなく、壮年45歳の為朝ということになってしまいましたが。史実の為朝は、流刑地である大島で平家の軍勢に攻められて自害した時は32歳であったと伝えられています。曲亭馬琴の「椿説弓張月」では為朝はその後大島を脱出して・更なる新天地を目指したことになっていますから、まあ壮年の為朝もそれなりです。

どうして三島が為朝役に染五郎の起用を強く望んだか、このことは考えておかねばならぬことです。歌舞伎は役者が主体の演劇であり、その昔・座付き狂言作者は役者の仁(ニン)にはめて脚本を書いたのでした。三島歌舞伎でも他の作品は六代目歌右衛門のために書かれたものでした。「弓張月」においても漠たるイメージであったとしても・執筆に際して具体的な役者を思い浮かべない方が不思議なことに思われます。確かに為朝-染五郎を明確に示唆する三島の手記は見当たらないようですが、眺めれば「アアそれだから染五郎なのかな」と思い当たるものがないでもありません。例えば、

『全篇、つねに海が背後にあり、(私は歌舞伎の海の場面が大好きだ)、英雄為朝は常に挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「故忠への回帰」に心を誘われる。彼が望んだ平家討伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを云えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完の英雄」のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・(以下略)』(三島由紀夫:「弓張月」の劇化と演出、国立劇場・初演プログラム、昭和44年11月)

と云う文章がそれです。この文章のなかで三島が述べている為朝のイメージなどは、吉之助にはドン・キホーテのイメージに全くそっくりに思われます。すなわち「ラ・マンチャの男」です。アロンソ・キハーノ(=ドン・キホーテのこと)は痩せた老人で、精悍な武将為朝とはちょっと見のイメージは異なりますが、「常に挫折し、つねに決戦の機を逸す」ところは全く同じで、それでも尚「見果てぬ夢」を追い求める清らかさ・高潔さ、そして彼らはそれが決して実現することがないことをあらかじめ分かっている、そこもまったく同じなのです。ちなみにミュージカル「ラ・マンチャの男」は1965年ブロードウェイでの初演ですが、日本での初演は昭和44年・1969・4〜5月・帝国劇場、つまりこれは国立劇場での「弓張月」初演の半年前のこと、主演のドン・キホーテ役はもちろん六代目染五郎(当時26歳)でありました。

三島が為朝役に染五郎を望んだきっかけがミュージカル「ラ・マンチャの男」であったと云いたいわけではないのです。そんな繋がりを証明するつもりなど毛頭ありません。しかし、当時の・若き六代目染五郎の役者としての資質は、歌舞伎役者としての枠にはまり切らないほど・無限の可能性を秘めていて、同時にそれは伝統芸能者として無難にやって行くためには悲劇的なことでもあったわけなのだが、それでも夢の実現のために身を投げ出さずに居られないという悲壮感(或る意味で狂気にも似たもの)をも孕むものであったかなと思いますね。いつの時代にも有望な若手はいるものですが、そこまで感じさせる役者は決して多くありません。

「ラ・マンチャの男」のプロデューサー・アルバート・W・セルデンは、「帝劇での染五郎のラ・マンチャ初演の舞台を見て、世界中の「ラマンチャの男」主演俳優・ベスト8を日替わりで競演させる企画を決心した」と語ったそうです。このような冒険的なアイデアを名プロデューサーに決心させるような・ストイックな資質が当時の染五郎にあったと云うことです。同じようなことを三島も染五郎に感じたに違いない。だから為朝役に染五郎なのです。この類似性は染五郎のことは抜きにしても、三島の「弓張月」を考える上においても、大事な材料となることです。(この稿つづく)

昭和44年4月帝国劇場・「ラ・マンチャの男」ポスター

(R7・12・4)


 


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