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三島由紀夫生誕百年記念企画

九代目幸四郎の源為朝〜「椿説弓張月」再演

昭和62年11月国立劇場:「椿説弓張月」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(鎮西八郎源為朝)、十七代目市村羽左衛門(八町礫紀平治太夫)、四代目中村雀右衛門(白縫姫・寧王女ニ役)、九代目沢村宗十郎(阿公)、二代目中村又五郎(崇徳上皇の霊)、八代目坂東彦三郎(初代坂東楽善)(陶松寿)、二代目沢村藤十郎(為朝妻簓江)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(高間太郎原鑑)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(高間妻磯萩)


1)六代目染五郎の源為朝

本稿で紹介するのは、昭和62年・1987・11月国立劇場での、九代目幸四郎(当時45歳)の源為朝による三島由紀夫作・「椿説弓張月」・再演の舞台映像です。残念ながら、吉之助は仕事の関係で、この上演は生(なま)では見ることが出来ませんでした。「弓張月」が初演されたのは昭和44年・1969・11月国立劇場(八代目幸四郎主演)のことでしたから、本公演は18年振りの再演ということです。

ちなみに「弓張月」の三演目が平成14年・2002・12月歌舞伎座(三代目猿之助主演)で、再演からさらに15年後のことになりますが、この舞台は生で見ました。本稿中でも言及することがあると思うので、付け加えておきます。

昭和62年11月国立劇場での「弓張月」再演の見どころの第一は、主役の鎮西八郎為朝を九代目幸四郎が勤めたことです。実は昭和44年・初演の為朝役に三島が希望したのは、六代目染五郎(後の九代目幸四郎-二代目白鸚)であったと云われています。実現していれば27歳での為朝役のはずでした。惜しくもれが実現しなかったのは、当時染五郎が翌年にミュージカル「ラ・マンチャの男」のブロードウェイでの主演(1970年3月〜5月・ニューヨーク・マーティンベック劇場)が控えており・その準備に取り掛かっていたからであったようです。このため初演の為朝役は八代目幸四郎に決まったわけですが、三島の落胆は大きかったようです。

18年後の再演で、作者の希望通りの九代目幸四郎・為朝がやっと実現したこと、これがこの公演の最大の目玉であったと思います。もっとも18年後のことだから、青い蕾の為朝ではなく、壮年45歳の為朝ということになってしまいましたが。史実の為朝は、流刑地である大島で平家の軍勢に攻められて自害した時は32歳であったと伝えられています。曲亭馬琴の「椿説弓張月」では為朝はその後大島を脱出して・更なる新天地を目指したことになっていますから、まあ壮年の為朝もそれなりです。

どうして三島が為朝役に染五郎の起用を強く望んだのか、このことは考えておかねばならぬことです。歌舞伎は役者が主体の演劇であり、その昔・座付き狂言作者は役者の仁(ニン)にはめて脚本を書いたのでした。三島歌舞伎でも他の作品は六代目歌右衛門のために書かれたものでした。「弓張月」においても漠たるイメージであったとしても・執筆に際して具体的な役者を思い浮かべない方が不思議なことに思われます。確かに為朝-染五郎を明確に示唆する三島の手記は見当たらないようですが、眺めれば「アアそれだから染五郎なのかな」と思い当たるものがないでもありません。例えば、

『全篇、つねに海が背後にあり、(私は歌舞伎の海の場面が大好きだ)、英雄為朝は常に挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「故忠への回帰」に心を誘われる。彼が望んだ平家討伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを云えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完の英雄」のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・(以下略)』(三島由紀夫:「弓張月」の劇化と演出、国立劇場・初演プログラム、昭和44年11月)

と云う文章がそれです。この文章のなかで三島が述べている為朝のイメージなどは、吉之助にはドン・キホーテのイメージに全くそっくりに思われます。すなわち「ラ・マンチャの男」です。アロンソ・キハーノ(=ドン・キホーテのこと)が見せる痩せた老人の滑稽と、精悍な武将為朝の悲壮感とはちょっと見のイメージは異なりますが、「常に挫折し、つねに決戦の機を逸す」ところは全く同じで、それでも尚「見果てぬ夢」を追い求める清らかさ・高潔さ、そして彼らはそれが決して実現することがないことをあらかじめ分かっている、そこもまったく同じなのです。ちなみにミュージカル「ラ・マンチャの男」は1965年ブロードウェイでの初演ですが、日本での初演は昭和44年・1969・4〜5月・帝国劇場、つまりこれは国立劇場での「弓張月」初演の半年前のこと、主演のドン・キホーテ役はもちろん六代目染五郎(当時26歳)でありました。

三島が為朝役に染五郎を望んだきっかけがミュージカル「ラ・マンチャの男」であったと云いたいわけではないのです。そんな繋がりを主張するつもりなど毛頭ありません。しかし、当時の・若き六代目染五郎の役者としての資質は、歌舞伎役者としての枠にはまり切らないほど・無限の可能性を秘めていて、同時にそれは伝統芸能者として順調に・無難にやって行くためには悲劇的なことでもあったわけなのだが、それでも夢の実現のために身を投げ出さずに居られないという悲壮感(或る意味で狂気にも似たもの)をも孕むものであったかなと思いますね。いつの時代にも有望な若手はいるものですが、そこまで感じさせる役者は稀です。

「ラ・マンチャの男」のプロデューサー・アルバート・W・セルデンは、「帝劇での染五郎のラ・マンチャ初演の舞台を見て、世界中の「ラマンチャの男」主演俳優・ベスト8を日替わりで競演させる企画を決心した」と語ったそうです。このような冒険的なアイデアを名プロデューサーに決心させるような・ストイックな資質が当時の染五郎にあったと云うことです。同じようなことを三島も染五郎に感じたに違いない。だから為朝役に六代目染五郎なのです。この類似性は染五郎のことは抜きにしても、三島の「弓張月」を考える上においても、大事な材料となることです。(この稿つづく)

昭和44年4月帝国劇場・「ラ・マンチャの男」ポスター

(R7・12・4)


2)為朝=ドン・キホーテ

吉之助の場合は六代目染五郎を通じて為朝=ドン・キホーテ的な符号に思い至りましたが、三島の生前に似たようなことを指摘した方がいらっしゃったことを、後になってから知りました。「殉教の美学」(昭和39年2月発表)のなかで、文芸評論家・磯田光一氏が、こんなことを書いています。(三島の自決は昭和45年11月25日であるから、その6年前のこと。)ちょっと長めになりますが、気になる箇所を抜き出してみます。

『三島由紀夫について論じようとしていながら、なぜ話を「ドン・キホーテ」から始めなければならなかったか、不審に思う読者もあるかもしれない。だが、「中世」の黄昏であると同時に「近代」の曙でもあったルネッサンス期の芸術家(セルバンテス)について語ることは、現代日本の私たちにとっては、そのまま「戦中」(中世)から「戦後」(近代)への歴史的な転換について、比喩的に語ることに等しいのである。兵士としてその生涯を出発した純潔なナショナリスト・セルバンテスが、1588年のスペイン無敵艦隊の壊滅後に、なぜ「ドン・キホーテ」というロマンの作者として再生しなければならなかったか、この問いも、今日の或る特定の世代(戦時下のナショナリズム体験に触れた世代)にとっては、文学の存在理由に関する最も根源的な問いであることを失ってはいない。(中略)そこに私は三島解釈の、そしてひいては戦後文学評価の、最も中核的な課題の一つがあるとさえ言いたい。』(磯田光一:「殉教の美学〜三島由紀夫論」・昭和39年2月・冬樹社)

『夢なくして人は如何にして生きうるか。私の目には、少なくとも美学上の問題としては、実生活上のドン・キホーテの論理(すなわち私小説的演技)も、芸術上におけるサンチョの論理(「組織と人間」論やイデオロギー文学)も、すでに今日的な意味を失ったものとしか見えないのである。ここで少々、結論めいたことを言わせてもらうとすれば、三島由紀夫の文学の新しさは、単なるドン・キホーテでもなく、また単なるサンチョでもなく、両者を包蔵した「セルバンテスの眼」を獲得することにって成立しているのである。』(磯田光一:「殉教の美学〜三島由紀夫論」・昭和39年2月・冬樹社)

『彼(セルバンテス)はまさしく「虚無」の中から「中世」を、そして「騎士道」の夢を、虚構の世界に再建しようと願ったのではなかったか。だが彼は、「近代」の毒に深く傷ついていたがゆえに、「近代」」の限界をも、よく見抜くことができたのである。滅びゆく「中世」の姿を目の前に据え、やがて世を支配するであろう商業資本主義の威圧をひしひしと我が身に感じながら、なおかつ「騎士道」の夢にふけることは、時代錯誤であり、反革命的であり、この上ない愚行であることを、セルバンテスは知りぬいていた。しかし、同時に彼の目には、商業資本主義の論理に還元できない「精神」の領域を救出するには、この世で最も愚かな人間を造形すること以外にありえないことも明らかだったのである。』(磯田光一:「殉教の美学〜三島由紀夫論」・昭和39年2月・冬樹社)

磯田氏の指摘は、三島文学を考える上でとても示唆あるものです。昭和39年(1964年・東京オリンピックの年)当時の日本は高度成長期の途上にあり、多くの人たちが古い時代(戦前)のことをすっかり忘れて浮かれていましたが、新しい時代(戦後)の価値観に適応出来なくて苦しんだ人たちも少なからずいたのです。三島も、磯田氏も、そうだったのでしょうねえ。本稿では三島歌舞伎「椿説弓張月」(昭和44年・1969・11月国立劇場の初演であるから磯田氏の評論から見れば未来の三島作品になる)にのみ焦点を絞って考えますが、磯田氏の指摘は原作である曲亭馬琴の読本「椿説弓張月」についても興味深い符合を示します。

馬琴の「弓張月」は、文化4年・1807・正月に前編を発行、その後・後編・続編・拾遺を続刊し、文化8年・1811・3月に残編で完結しました。まず「弓張月」を、滅びゆく古き良き時代と・新しい時代との対立の線で捉えたいと思います。すると主人公・源為朝は、平安期の貴族社会(戦前)から、鎌倉期の武家社会(戦後)への一大転換期の狭間に立つ英雄と云うことになります。しかし、史実での為朝は、流刑地である大島で謀反の気配を見せた為、平家の軍勢に攻められて自害した(伝・治承元年・1177)とされています。これが史実であるならば、為朝は来るべき新しい時代の批判者となるにはちょっと中途半端である(そうなる以前に死んでしまったのであるから)わけなのです。そこで曲亭馬琴が行ったことは、「為朝は実は生きていた」と前提を変えてしまったことでした。為朝は大島を脱出し、自らの理想を実現すべく更なる新天地(最終的には琉球にたどり着く)を求めて旅立った。これによって為朝は、旧時代への夢を歌い続ける英雄として再生したのです、

馬琴が生きた時代には大きな戦乱は起きませんでしたが、彼の創作の中核となる文化文政期とは、町人経済が著しく伸長して、武士による支配体制の綻びが目立ち始めた時期でした。そこには大きな亀裂があり、古い時代の(武士の)価値観と・新しい時代の(町人の)価値観がまさにせめぎ合っていました。このことは馬琴と同時代人である四代目鶴屋南北の歌舞伎を考えてみれば理解出来ると思います。このような大激動の時代に馬琴の「弓張月」が執筆されたのです。

如何でしょうか。これでセルバンテスと曲亭馬琴・そして三島由紀夫がまったりと重なりましたかねえ。どうして三島が生涯の最後の時期に書いたのが歌舞伎「椿説弓張月」であったか、その気持ちが何となく分かったような気がしてくるのです。(この稿つづく)

(R7・12・8)


3)「待つ」という行為

三島由紀夫を題材としたモーリス・ベジャール振付作品・「M」(エム)のなかで「待ちましょう」が重要なキーワードであることは、別稿で触れました。三島文学に於いては、「待つ」という行為がとても大事な要素になります。三島自身は待つことが大の苦手であったそうです。しかし、それでも「散々待った、もう待てぬ。しかし、あと30分、最後の30分待とう・・」と云って更にまた「待つ」のです。

「弓張月」の為朝も、またそうです。為朝もひたすら「待つ」のです。保元の乱で敗北し伊豆大島へ流されて、そこで密かに平家打倒の機会を伺います。しかし、平家の攻撃を受けて事は成りませんでした。為朝は崇徳院の御陵を拝し・ここで自害することを望みますが、願いは受け入れられません。為朝は九州に向かい・ここで再び挙兵しようとしますが、これも大嵐に阻まれてしまいました。結果はすべて裏切られ、「待つ」という状態が全編ずっと続くのです。

『英雄為朝は常に挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「故忠への回帰」に心を誘われる。彼が望んだ平家討伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。』(三島由紀夫:「弓張月」の劇化と演出、国立劇場・初演プログラム、昭和44年11月)

それでは為朝は何を「待つ」のでしょうか。平家打倒を待つのか?朝廷復権を待つのか?そうでもあるようですが、そうでもなさそうです。為朝は何かを「待っている」には違いありません。しかし、それが実現するかどうかに余り関心がないようですね。ここでは「待つ」という行為が自己目的化してしまっています。「待つ」と云っても、ベンチに腰掛けて携帯画面でも見ながら・のんびり待つのではありません。何かが来る方を見詰めて・いつ来るかいつ来るかと息を詰めて・ジリジリしながら待つのです。こうなると為朝は「何かを待つ」と云う状態にこだわっているとしか言いようがありません。

ここで三島の「弓張月」が持つ「空疎さ」と云うことに思い至るのです。「弓張月」初演(昭和44年11月国立劇場)映像を見て感じたことですが、為朝は見た目の形容は立派であるけれども、自分でドラマを切り拓いていくことをしないようです。「平家征伐の準備整いまして御座りまする」と云われれば「ううむ」と腰を上げ、事が頓挫すると「清盛の運なお強し」と言うように他動的な印象です。つまりそこに能動的なドラマがないのです。

ところで初演劇評で郡司正勝先生がこんなことを書いていますね。

『かぶきの「見せる」という精神構造を、ハンドルングとみて、作の第一条件として押し出した点に、新しいエネルギーが感じられる。つまり戯曲としてのドラマツルギーが先になるのではなく、見世物の思想が先行し、見せるという行為が、思想となっている点が、新鮮でユニークである。(中略)したがって(馬琴原作である)「弓張月」かならずしも、芝居に適したものとは思えぬが、三島があえてそれをとったのは、その狂気であったと云える。』(郡司正勝:劇評「みしまごのみ・風流山車かぶき」、「演劇界」昭和44年12月号)

郡司先生は持って回った言い回しをしていますが、端的に言えば、「見た目ばかり追って芝居の中身が乏しい」と云うことです。ハンドルング(Handling)は劇の進行・展開を意味する言葉ですが、これをドラマツルギーと対照させた場合、それは「劇の内的な高まり・必然性の準備」であると考えれば宜しいでしょう。「弓張月」では、ハンドルングがそのように機能しているようには思えません。なぜならば為朝は、例えば平家打倒のため・或いは朝廷復権のために行為することはなく、ただひたすら「待つ」。為朝は「自分が何かを待つ」と云う状態で硬化しているからです。三島の「弓張月」が持つ「空疎さ」は、そこから来るのです。(この稿つづく)

(追記)「待つ」という行為については、別稿・「近代能楽集・班女」論考を併せてお読みください。

(R7・12・11)


4)「待つ」という行為・続き

為朝は、平家打倒のため・或いは朝廷復権のため状況打開に自ら動くことはなく、ただひたすらに時を「待つ」のです。為朝は「自分が何かを待つ」と云う状態で硬化している。これが馬琴原作の「弓張月」の特質であり、歌舞伎化された三島の「弓張月」にも、この特質がしっかり引き継がれています。と云うよりも、むしろこの特質ゆえに三島は馬琴の「弓張月」の歌舞伎化を思い立ったと云うことでしょうね。三島文学に於いては、「待つ」という行為がとても大事な要素なのです。

どうして三島が為朝役に染五郎の起用を強く望んだか、改めてこのことを考えなければなりません。昭和44年11月国立劇場での「弓張月」初演映像を見て、為朝役の八代目幸四郎は、英雄役者と呼ばれたくらいですから・もちろん形容としては立派なものですが、どこか手持ち無沙汰な印象がしたのです。しかし、これは八代目が悪いのではなく、為朝に能動的にドラマを切り回すところがないせいです。吉之助が申しあげたいことは、「弓張月」の為朝は、状況が変化するのをひたすら「待つ」。「待つ」という状態だけがあり、そこにドラマがない。だから芝居が空疎な印象になって来る。そのため八代目の形容の大きさが活きて来ないと云うことです。

今回(昭和62年11月国立劇場)の「弓張月」の九代目幸四郎の為朝でも、全体的にそのような空疎な印象に変わりはありません。それは脚本自体の問題であるから仕方ない。それでは、為朝役が息子の九代目幸四郎に替わって何が変化したかと云えば、それは「待つ」という状態の悲劇性・すなわち

『英雄為朝は常に挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「故忠への回帰」に心を誘われる。彼が望んだ平家討伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。』(三島由紀夫:「弓張月」の劇化と演出、国立劇場・初演プログラム、昭和44年11月)

という悲劇性を、九代目幸四郎はそこに「居る」ことだけで知らしめたと云うことです。八代目の為朝に、それはなかったことでした。八代目の場合、その形容の大きさは、どちらかと云えば、それはポジティブな意思的な印象を呈したと思います。これであると、「弓張月」の為朝の仁(ニン)とは合って来ないのです。為朝は確かに「それを待っている」のだけれど、それが決して実現しないであろうことを分かっているのです。それでも尚も「待とうとする」ことによって、「待つ」という行為自体が純化されて行く、「弓張月」の為朝はそのようで在ろうとする人物なのです。そのようなストイックな印象が、八代目の場合には不足していました。

他方、このような仁(ニン)を備えているのが、息子の九代目幸四郎なのです。厳密に云うならば、「見果てぬ夢」を見ていた二十代の頃の九代目(当時は六代目染五郎)のイメージです。当時の九代目は痩面で・ちょっと陰の差すナイーヴさが印象的でした。しかしまあ、45歳時点の九代目も、その頃のイメージをしっかり残しておりましたね。ですから九代目の為朝は、最初登場した時の、ぱっと見の悲壮な印象が素晴らしい。まさに役の仁(ニン)そのもの、作者三島が思い描いたイメージそのままでした。ただし芝居が進むにつれてやはり空疎な印象がしてしまうのは、これは脚本自体の特質であるから仕方がないことです。(この稿つづく)

(R7・12・14)


5)「弓張月」・宙乗りの幕切れ

「弓張月」幕切れ・運天海浜宵宮の場で為朝は、平家は滅び・琉球も安定した今、自分は再び新院(崇徳院)の御陵に戻って・お仕えをしたいと語ります。すると為朝の気持ちを受け入れたかのように、海原から天馬が現れました。驚く一同を後目に為朝は天馬にまたがり、

「もはやこれまで、必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見る時は、この為朝の形見と思やれ・・・。」

と言い残して、天空高く故国日本に向けて飛び去って行きます。(注:「弓張月を見る時は・・」の台詞は馬琴の原作にないものです。)

ところで聞くところでは、初演(昭和44年11月国立劇場)の制作会議で為朝を乗せた天馬を宙乗りで見せようと云うプランが出て・三島も乗り気であったようですが、技術的な問題から実現しなかったそうです。多分当時の技術では作り物の馬に人が乗るということで、安全性に懸念があったのだと思います。尚ケレンと蔑まれて一時期絶えていた「宙乗り」の演出を戦後に初めて復活したのは国立劇場の功績のひとつでして、それは昭和42年9月国立劇場での「骨寄せの岩藤」での岩藤(十七代目勘三郎)の宙乗りが最初の試みでした。ただしこの時は本舞台上を横に通過するものでした。また今日一般的になっている花道のはるか上空を飛行し三階客席に設置した鳥屋に消える本格的なやり方を初めて行ったのもやはり国立劇場でした。それは昭和43年4月国立劇場での「四の切」の狐忠信(三代目猿之助)の宙乗りで、その後の猿之助歌舞伎の定番になったことはご存じの通りです。

まっそれは兎も角、今回(昭和62年11月国立劇場)の再演でも宙乗りは実現しませんでした。天馬にまたがった為朝が空中高く花道を颯爽と飛ぶ宙乗りの幕切れを実現したのは、「弓張月」三演目になる平成14年・2002・12月歌舞伎座での、三代目猿之助(為朝)でした。幸い吉之助はこの舞台を生(なま)で見ました。その時の記憶を思い出しながら、「弓張月」幕切れの宙乗り演出について考えます。

猿之助(為朝)の天馬にまたがった宙乗りは、猿之助がやるからそのように見えると云うこともありますが、「信じれば必ず夢は叶う」というようなポジティブな印象で終わる幕切れでありましたねえ。これは猿之助のスーパー歌舞伎「新・三国志」での諸葛孔明の決め台詞でした。まことに熱血漢・猿之助の気概を示す台詞であるとは言えます。「弓張月」では、為朝は一度白峯の崇徳院の御陵を訪れ・そこで腹を切ることを願い出ています。しかし、その時は受け入れられませんでした。その後「待って・また待って」、今その時が遂に来たのです。為朝は天馬にのって喜び勇んで去っていく、「信じたから夢が今叶った」と云うことでしょうかね。猿之助が天馬と共に三階鳥屋に消え去るのを見ながらそんなことを感じました。

しかし、これでは「弓張月」幕切れの意味がまるで違ってしまうと吉之助は思いますね。「弓張月」幕切れは或る種の悲しみを秘めているのです。それは為朝は「役割を終えた」と云うことです。歴史のなかでの役目を終えたのです。平家は滅び(ただし平家討伐を実現したのは頼朝であって・為朝ではなかった)、琉球は平和を取り戻した(これも芝居を見る限り為朝がそうしたと云うよりも・状況がそうなっちゃった感が強いのだが)今、為朝は「役割を終えた」のです。だから事が成った今あの世の崇徳院は御陵で腹を切る為朝の願いを遂に受け入れたということです。

馬琴の原作「弓張月」残篇巻之五には、神馬に乗って去った為朝の後日談が記されています。讃岐国白峯の崇徳院の御陵を守る護衛が腹を十文字に掻き切った武士が御廟の柱に身を寄せて息切れているのを発見しました。国の守護がその鑑定に向かいますが、従者のひとりが死人の面を見て、「怪しやこの者の面影は筑紫の御曹司(為朝)に似たり」と言います。これを聞いて皆はどっと笑い、「為朝はその昔大嶋で自害したはずだ・どうせこれは平家の残党だろう」と言って誰も信じませんでした。その後、かの死骸は忽然と消え失せて、行方がまるで分らなくなってしまい、人々はこれは狐狸の仕業ではないかと噂したとあります。

「弓張月」最後の場面の宙乗りに、為朝の「孤忠」が凝縮されなければならないと思いますね。幸運は決して為朝に巡って来ることはない。願望は実現することはなく、報われることもない。だからと云って、為朝は決して絶望しているのではないのです。それでもおのれの信じるところに向かって進んでいく気持ちを最後まで持っているのです。為朝にとっては、腹を掻き切るという行為でさえ、自己の信念を貫く前向きな行為です。それは悲しいまでに孤独で、身体にツーンと来るほど冷たい感触なのだけれど、失ってしまってはならない大切なものがそこにある気がする、そのようなものなのです。

舞台では実現不可能なことですが(或いは映像を組み合わせれば可能かも知れませんが)、天馬にまたがった宙乗りの為朝の後ろ姿が、海上のはるか向こうに(つまり舞台の奥へ)だんだん小さくなって行き、やがて一点となって消えていく、舜天王(しゅんてんおう)・寧王女(ねいわんにょ)らが茫然とその光景を見守ると・そんな感じに「弓張月」幕切れを仕立てられたとしたら、もしかしたら三島が思い描いたイメージに沿うのかなあと、吉之助は時々そんなことを考えるのですがね。(この稿つづく)

(R7・12・17)


6)飛び去っていく為朝のイメージ

『あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを云えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完の英雄」のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・(以下略)』(三島由紀夫:「弓張月」の劇化と演出、国立劇場・初演プログラム、昭和44年11月)

「弓張月」初演プログラムに三島は、このように書きました。戯曲でも・小説であっても、それは作者の心情を何かしら投影したものになっていくのです。「天馬にまたがった為朝の後ろ姿が・海上のはるか向こうにだんだん小さくなって行き・やがて一点となって消えていく」、これは吉之助が三島の戯曲「弓張月」から思い描いた空想の幕切れのシーンですが、これが吉之助のなかの三島の最後のイメージに重なっていきます。三島盾の会メンバー三人と共に市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本庁)に乗り込んで割腹自殺という衝撃的な死を遂げた(いわゆる「三島事件」)のは、「弓張月」初演からちょうど一年後になる・昭和45年(1970)11月25日のことでした。

本サイトを見ればお分かりの如く、吉之助にとって三島は非常に重要な作家ではあるのですが、あの自決事件が吉之助にとってどういう意味を持ったかは、現時点・55年の歳月が経過してもまだ上手く説明が出来ません。と云うか、このことについて深く考えたくない気持ちが吉之助のなかで依然として強いようです。現時点でもただ重い印象を受けたとしか申せません。しかし、それは三島の自決のことをまったく考えていないと云うことではないので、吉之助は吉之助なりに、或るイメージで以て自分の心のなかにしっかり納めています。それが「海上のはるか向こうに飛び去って・だんだん小さくなって行き・やがて一点となって消えていく」、そのようなイメージであります。

ところで戯曲「弓張月」執筆の約1年前に書かれた「仙洞御所」序文のなかに妙に気になる一節があります。三島の自決について・どれだけの量の評論が書かれたか分かりませんが、そのなかに「仙洞御所」序文を引用したものがあるでしょうかね・不勉強にして知りませんが、下に引用した一節はまるで三島が自身の最後の歌舞伎作品を「弓張月」にしたことの動機を告白しているように思われます。

「終わらない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走していく庭」のイメージに、海上のはるか向こうに飛び去って消えて行く為朝のイメージが重なってくる気がします。「一瞬の影を宿して飛び去ってゆく蝶」のイメージは、戯曲「弓張月」では・嵐を鎮めるため海に身を投じた白縫姫の魂が黒い蝶に変わるシーンに重なるようです。

『理想的な庭とは、終わらない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走していく庭である事が必要であろう。われわれの所有をいつもすりぬけようとして、たえず彼方へと遁れ去ってゆく庭、蝶のように一瞬の影を宿して飛び去ってゆくような庭、しかもそこに必ず存在することが保証されている庭、・・・そういう庭とは何であろうか。私はここで又、仙洞御所の庭に思い当たる。なぜならその御庭は私の所有でないと同様に,今はどなたの住家でもないからである。もしわれわれが理想的な庭を持とうとすれば、それを終わらない庭、果てしのない庭、しかも不断に遁走する庭、蝶のように飛び去る庭にしようとするならば、われわれにできる最上の事、もっとも賢明な方法は、所有者がある日姿を消してしまうことではないだろうか。庭に飛び去る蝶の特徴を与えようとするならば、所有者がむしろ飛び去る蝶に化身すればよいではないか。生はつかのまであり、庭は永遠になる。そして又、庭はつかのまであり、生は永遠になる。・・・』(三島由紀夫:「仙洞御所」序文、昭和43年3月)

ですから、すべての戯曲・小説に出てくるものは作者のイマジネーションによる産物、だから作者がそれを永遠のものにしようとするならば、作者にできる最上の事、もっとも賢明な方法は、作者がある日姿を消してしまうことである。それが三島の最後(自決)の意味なのであろうと思います。これはベジャールが三島を題材として制作したバレエ「M」(エム)に於いても、同様なことを強く感じるところです。

(R7・12・24)


 


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