リッカルド・ムーティ指揮の歌劇「シモン・ボッカネグラ」
令和7年9月13日東京音楽大学・池袋キャンパス・100周年記念ホール
ジョルジェ・ぺテアン(シモン・ボッカネグラ)、イヴォナ・ソポトカ(アメーリア)、ミケーレ・ペルトゥージ(フィエスコ)、ピエロ・プレッティ(アドルノ)、北川辰彦(パオロ)、片山将司(ピエトロ)他
リッカルド・ムーティ指揮東京春祭管弦楽団、東京オペラ・シンガーズ
1)ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミー」
オペラの話題から始まりますが、そこは「歌舞伎素人講釈」のことですから、そのうち歌舞伎の話が絡んで来るかも知れません。9月前半の吉之助はリッカルド・ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミー」を聴講して来ました。これは日本の若い音楽家たちにイタリア・オペラのコツを伝授するという目的でムーティが2019年から始めたもので、今回が5回目になります。今回のお題はヴェルディの歌劇「シモン・ボッカネグラ」で、東京春祭管弦楽団(東京のオケから選抜の臨時編成オケ)さらに日本人歌手・合唱団を加えて、指揮研修生5名がムーティの面前で指揮棒を振って、これにムーティが適宜アドバイスを与えながら、全体の表現を仕上げて行きます。世界のトップレベルの指揮者の指導でオペラが出来上がっていく過程(プロセス)を体験できる音楽ファンにはとても貴重な体験です。6回のリハーサルを行った後、指揮研修生による発表公演、さらにその模範解答とでも云いますか・ムーティ指揮による本番公演(こちらは外国人歌手を招聘)を行ないます。
9月13日にムーティ指揮による本番公演を聴きましたが、とても素晴らしい演奏でした。歌手の水準が高かったこともあって、東京春祭でこれまでムーティが振ったヴェルディのオペラ(リゴレット・マクベス・仮面舞踏会・アイーダ・アッティラ・そしてシモン)のなかで、もしかしたら今回の「シモン」が最高の出来であったかなと思えるほどでした。
それだけのことなら「さすがはマエストロ・ムーティ」と感激して終わることで、別に本稿で取り上げる必要もないことなのです。吉之助が今回改めて「指揮とは何か」という問題に打ちのめされる思いがしたのは、事前のアカデミーでのリハーサルの進み具合が、これまでの過去のアカデミーと違って、スムーズに行かなかったせいでした。これにはいくつか理由があったと思いますが、「アカデミーも数回続くと、当初期待されたレベルを維持するのは難しいことになってくるものだナア」と感じる場面が、今回のリハーサルでは少なくなかったのです。(だからと云ってアカデミーが面白くなかったかと云うと話は別で、ギクシャク進む方が面白くなる。)例えばリハーサルではオケが鳴り過ぎて・歌手の歌唱を圧倒する場面が多かった。ムーティはオペラではオケの音をピアノに(小さく)することが大事なんだということを再三言っていましたが、ついに根負けしたか、「オケの皆さん、歌手をよく聞いてくださいね、60年間指揮してきてオケにこれほどピアノ・ピアノと言わなければならないのは、これまでになかったことだ」と愚痴を言いました。(語調は抑えていました。)リハーサルでのオケは全体的に威勢が良過ぎて・若干ニュアンス不足に感じました。このため吉之助は13日の本番公演については、正直申すと「今度の演奏はいまいちかも知れないな」という覚悟をして会場に赴いたのでした。
ところがムーティの本番公演のオケは、まったく別ものみたいに素晴らしい出来でした。これがマエストロ・ムーティの指揮の魔術がもたらしたものであることは疑いありません。吉之助は最前列で聴きましたが、本番のムーティは物凄い集中力とオーラの強さを見せました。しかし、リハーサルに付き合った吉之助には分かりますが、リハーサルのなかでムーティが単独で細部に渡ってオケに修正を掛ける時間はほとんどなかったのです。あったとすれば前日(12日)のゲネプロ(通し稽古)と云うことになります(これは非公開であったので吉之助は聴いていません)が、ゲネプロは途中で演奏を止めるものではないので、やはり細かいことを指示する場面はなかったはずです。
つまり前日のゲネプロでムーティは、細かいことをまったく言わず、「なすべきこと」を指揮棒と身振りだけでオケ全員に知らしめたと云うことです。本番公演を聴きながら・リハーサルのいろんな場面を思い出して、あの時とは段違いの表現の精妙さと彫りの深さを見せ付けられて、吉之助は唖然とするばかりでした。指揮研修生の面々はこれを聴いてどう感じたでしょうかね。(この稿つづく)
(R7・9・19)
2)指揮の不思議さ
「指揮」と云うのは、言葉では説明出来ない・まったく不思議なものだなアと思います。例えば「アカデミー」でも研修生がオケを振るのをムーティが途中で止めて・「ちょっと貸してみろ」と言って代わりに指揮棒を一閃すると、さっきまでとまるで違う引き締まった・ニュアンス豊かな響きがオケから引き出される、そのような光景を幾度となく見て来ました。このような現象は、オケの奏者たちが若輩の研修生だから舐めて弾くとか・世界のマエストロだと一転緊張して本気で弾くと云うことで起こることではありません。言葉では上手く説明出来ませんが、個人のバックグラウンドにある人間性とか知識・経験その他に裏打ちされたところの「気」みたいなものが引き起こす現象なのだろうと思います。ですから指揮者は生身の人間として「自分がそこで何を求めているか」すべてを曝してオケの前に無心で立つ、その時にオケは指揮者の何ものかに感応したかのように自動的に動き出すのです。だから「指揮」と云うのは「コックリさん」みたいな現象だなあと吉之助は思っています。
大事なことは、指揮者は「自分がその曲でどんなことを感じているか・どんな表現を求めているか」・そのことをしっかり設計図として持っていなければならない、そのことを前以て・数秒先か0.1秒先かそれは時と場面によりますが、とにかくオケに先んじて明確にそれを「身振り」として提示する、そう云うことではないかと思います。身振りとしての指揮棒の振り方に特に正解があるわけではありません。ただオケのみんなに分かってもらえないといけないわけだから、「こういう場合にはこのように振った方が良い」と云うような大体のものはあるということです。
それにしても、今回に限ったことではありませんが、指揮研修生の方が仲間がオケを振っている時に・(仲間がどのように振るか)そちらの方を見ていないで・目の前に置いた楽譜の音符を一心に追っている方が少なくないのは、ちょっと困ったことだナと思いました。次に自分の順番が回って来た時にそこを自分がどのように振るか・そればかり気になって余裕がないのはもちろん分かるけれども、仲間がどのように振るか(参考になる場面が必ずあるはずだ)、そこをムーティがどのようにアドバイスを与えて修正するか、時にムーティが後ろから研修生をバックアップするように自らも振り始める(それだけでオケの音が微妙に変化していく)、アカデミーでそこを仔細に観察しないでどうするの?って思いますけどねえ。まずは全身で見て・聴いて・感じることだと思います。アカデミー期間中の6日間で指揮棒の振り方が変わってくる方もいますが、あまり変化が見えない方もいらっしゃいます。そこは人それぞれです。
アカデミー期間中のムーティも大した集中力でしたが、本番公演(9月13日)のムーティは指揮棒を腕で振ると云うのではなく、身体全体で指揮棒を振るという感じで、兎に角凄かった。そのこと自体はこれまでの「アカデミー」でも同じく経験したことではあるのだけれど、今回の「アカデミー」が若干スムーズに進行しなかったせいもあってか、吉之助としては、最後の最後にムーティのイタリア・オペラに掛ける「意地」を見せ付けられた気分がして感に堪えました。(この稿つづく)
(R7・9・22)
3)「かぶき的心情」との相似
ところで吉之助には「アカデミー」の時にムーティが語った言葉が妙に心に残っています。
『イタリアはとても悲劇的な国です。決して明るくない歴史を持っているのです。イタリアはダンテ・ミケランジェロ・ラファエロの国です。ところが外国の方はそのように感じていないようですね。イタリアが太陽のように明るい国だと思い込んでいます。それで今では私たちイタリア人までそんなステレオタイプなイメージにはまってしまっていますが。』
もちろん「シモン」は悲劇を扱ったオペラですし、そもそもヴェルディのオペラはそう云うものが多いわけですから、ムーティの発言は特に驚くものではありません。ムーティの発言は直截的には、「シモン」成立時(19世紀半ば」のイタリアが国家統一を果たしておらず、他国の支配を受けて・いくつかの小国に分断されていた悲劇的状況のことを指していますが、吉之助はムーティが「イタリアは悲劇的な歴史を持った国である」と規定したことにちょっと感じ入ったのです。ムーティは現在(2025年)の世界の状況を通してオペラを読んでいる、今回のアカデミーで「シモン」が選ばれたのもそのような背景があるからなので、何と云いますかねえ、吉之助はムーティの言がこの世の「生」の有り様を悲劇的であると捉えていると聞きました。ヴェルディのオペラは2025年の世界の状況を先取りしている。このことがムーティのオペラ観(ヴェルディを中心とする19世紀オペラ観)に大きな影を落としているように思われるのです。
但し書きを付けますと、ムーティは「イタリアは燦燦たる太陽の国」というイメージを否定しているわけでもないのです。片方が明るいと・もう一方はもっと暗く感じられるという意味に於いて「暗い」と言うのです。同じような例として、ムーティが別の機会に2013年・シカゴ交響楽団を前にしてヴェルディ:レクイエムのリハーサルでの発言を挙げておきましょうか。
『我々イタリア人は、永遠の安息を得るために神に祈ることはしません。神に要求するのです。私たち人間を造り給うたのは、神様、あなたです。だからあなたには、私たちのことを思いやる責任があるのです。ならば、そのようにして下さい。あなたはその責任を果たしてください。神よ、私たちを救いたまえ。・・・これがヴェルディの「レクイエム」です。』
別稿「歌舞伎とオペラ」に於いて、吉之助は19世紀的グランド・オペラと・それに100年から150年先駆けたプレ近代としての江戸歌舞伎との感性的な類似を指摘しました。「イタリアは悲劇的な歴史を持った国である」とするムーティの発言は、吉之助の「かぶき的心情」論を補強するものであると思いますね。
(R7・9・25)
*ムーティ語録:イタリア・オペラ・アカデミー・5〜ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」もご参考にしてください。