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八代目幸四郎の木内宗吾〜「佐倉義民伝」

昭和42年5月国立劇場:「佐倉義民伝〜東山桜荘子」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(木内宗吾・仏光寺住職光然・堀田上野介三役)、八代目市川中車(渡し守甚兵衛・松平伊豆守二役)、十七代目市村羽左衛門(幻の長吉・徳川家綱・堀田式部三役)、二代目中村又五郎(宗吾女房おさん・植村隼人二役)他

*本稿は未完です。最新の章はこちら


1)「東山桜荘子」の社会的視点

本稿は、まだ開場間もない昭和42年(1967)5月国立劇場(国立劇場開場はその前年・昭和41年11月のこと)での、八代目幸四郎の木内宗吾による通し狂言「佐倉義民伝」の舞台映像です。サブタイトルが「東山桜荘子」となっています。「通し上演」は国立劇場の上演理念のひとつですから、ここで早速「佐倉義民伝」が通しで取り上げられたこと自体は歓迎すべきことですが、明治以後に自由民権運動のシンボルとして祀り上げられた・つまり何かしら体制批判の因子を持つ佐倉惣五郎(=木内宗吾)が主人公である芝居を国立劇場が取り上げるのはちょっと驚きのところがあり、本作が持つ政治的な側面をどのように描くつもりであったか・そこに興味を以て見ました。

しかし、結論から先に云えば、補綴演出担当の加賀山直三先生は、嘉永4年(1851)初演時外題「東山桜荘子」の姿を純粋に学術的に明らかにしたいと云う素朴なお考えであったみたいで、本作が後世に担うことになる「世直し劇」的な側面を努めて見ないようにしている為、舞台が甚だ物足りないことになってしまいました。大詰で堀田上野介(領民を飢餓に散々苦しめ・無慈悲にも宗吾の家族を処刑してしまった領主)が改心して「民は国家の宝じゃなア」の一言で幕になる。しかもこの堀田公を演じるのが・さっきまで木内宗吾をやっていた同じ幸四郎なのであるから、これを見て吉之助も「アホな芝居を見たなア」と思わず嘆息してしまいました。

作者瀬川如皐がそれを書かなかった・書けなかったと云うことではなく、当時の作劇の制約の中で如皐は出来るだけの仕事をやったのです。佐倉惣五郎は明治以後に自由民権運動のシンボルとしてその名前が全国に知れて行きました。その場面で歌舞伎の「佐倉義民伝」が果たした役割は無視出来ぬものがあったのですから、「東山桜荘子」のなかに「世直し劇」的な因子が間違いなくあったのです。そこを抽出して本質を抉り出さねばなりません。そうすると復活上演に際し「東山桜荘子」をそのまま、宗吾女房おさんや僧光然の死霊が堀田公を苦しめて・おかげで堀田公は改心して「いい領主」になりました・めでたしめでたし・「民は国家の宝じゃなア」で終わらせるわけに行かないと思うのですがね。如皐の代わりにそんな箇所をバッサリ切り落として、「世直し劇」的な側面を明らかにすることこそ補綴者の責務なのです。だからかなりの脚色・作り変えが必要になって来るでしょう。松竹歌舞伎の「佐倉義民伝」の定形は「印旛沼渡し・宗吾内・東叡寺直訴」の三場通しですが、前進座版であると、前に門訴を付け・後ろに仏光寺・さらに大詰に祭礼の場を付けた形になりますが、多分これが通し狂言「佐倉義民伝」としては一番納まる形であろうと思います。

そう書くと今回の国立劇場上演意義がなかったかの如く聞こえたかも知れませんが、決してそんなことはない。いつも上演される「印旛沼渡し・宗吾内・東叡山直訴」の三場だけを抜いて見れば、幸四郎も中車もさすがに上手いし・又五郎も上手い。そこはちゃんと観客の琴線に触れる「泣ける」芝居に仕立てられています。そのような「泣ける」状況に彼らを追い込んだものは何か・・家族さえも犠牲にして・それでも宗吾は直訴に走らなければならなかったのか・・と云うことを突き詰めて考えれば、その疑問と云うか怒りから、社会劇的な視点が自ずと開けて来ることになるはずです。そこまでの段取りは如皐がちゃんと用意してくれています。当時の作劇ではそこまでが如皐の精一杯だったのですから、後は如皐の代わって補綴者がその先を行わねばなりません。そうでなければ、何だ歌舞伎なんてそんな程度の社会意識か、この社会の理不尽さへの怒りが全然ないのかと云うことになってしまいます。筋をそれらしく通すことよりも、そちらの方がずっと大事なことであると思いますね。(この稿つづく)

(R7・5・25)


2)宗吾のピュアな憤り

『水呑み百姓をいじめて暴利を得て出世した良くない役人が威張ることがある。水呑み百姓の社会では行為に対する判断はできずに、ただ反感だけがある。何か説明できぬ気分が漂うている時、誰かがひとつの清純な感情をほとばしらせて、その感情で批判して反抗する。田舎における任侠行為は、こんな時に起こってきて、無頼漢などはあずからない。佐倉宗吾などが代表的人物として言われているが、すべて道理も何も分からぬ人が、何かを要求し、説明を求めて来、ぴったりはまる判断がついてくると、そこに出てくるものは、いちばん古い判断や感情である。われわれは、こういう生活を先祖から与えられておらねばならぬ、そういうはずはない、という判断になる。だから、任侠ということも、田舎の生活の道徳的な鍛錬淘治の行き届いておらぬ社会のいちばん最後に到達するものだから、大事だと思う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)

上記折口信夫の文章から分かることは、「われわれ庶民は、安穏な生活を与えられておらねばならぬ、こんな不当な状況はない」という原初的かつ清純な感情が、憤(いきどお)りにも似た形でパッと迸(ほとばし)る、「佐倉義民伝」とはそんなドラマなのだと云うことです。「こんなことが世の中で行われて良いのか」という憤り、これはもともと個人的な感情に過ぎません。しかし、これがピュアで無私なもので・なおかつ社会道徳に合致したものであれば、それは公(おおやけ)の性格を帯びて来るのです。佐倉惣吾の場合がまさしくそうです。

佐倉惣吾(宗吾)が「惣五郎」と呼ばれるのも、その感情が原初的な公憤であることを誰しもが認めるからです。それは無私な心情ですが、さらに突き詰めていけば政治的な意味合いを帯びることになります。御霊信仰を重ねて「御霊=ごりょう=五郎」の発想から佐倉惣五郎と呼ばれます。現行の仏光寺の場は、文久元年(1861)8月守田座で再演された時、小団次の要望で黙阿弥が書き加えたものでした。領主により宗吾の家族が無惨に処刑されたことを聞いて光然和尚が怒り狂って経典を引き裂き印旛沼に入水するという凄まじさで、これはほとんど荒事の荒れ同然の場面です。暴れるのは宗吾ではなく光然ですが、ここに民間信仰での佐倉惣五郎の御霊神的性格がはっきり現れます。(蛇足ですが、黙阿弥が明治16年(1883)に書いた「新皿屋舗月雨暈(魚屋宗五郎)」の主人公を「宗五郎」にした背景には、そこに佐倉惣五郎の連想があると吉之助は考えています。)

「宗吾内・子別れ」を、暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界という対立構図で読むことはもちろん出来ます。もちろんこれで十分泣ける芝居に仕立てることが出来ます。しかし、ドラマを子別れの辛さ・悲しさの方にあまりフォーカスし過ぎると、「そもそも宗吾は何のために直訴に訴えねばならぬのか」という根本動機が見え難くなってしまいます。残念ながら、大歌舞伎で見取りで上演される「宗吾内・子別れ」は、そう云うことになり易い。

従って通し狂言としての「義民伝」が目指すべきことは、「甚兵衛渡し」と「宗吾内・子別れ」をメインに据えつつ、如何にして宗吾の心情のピュアなところを観客に強く印象付けるかなのです。今回(昭和42年・1967・5月国立劇場)の「義民伝」は、門訴の場も仏光寺の場も出ていますから、通しの体裁としてはそれなりに出来てはいるのです。しかし、中身を見ると、お上(堀田公)に何にも罪はなく・ただ佞人(金沢勘解由)にそそのかされただけのことで、怨霊に苦しめられた堀田公が、ホントに反省したのか・しなかったのか分からないが、兎も角「民は国家の宝じゃなア」と言ってこれからの善政を誓ってチョンと云うのでは、「全部秘書に任せていたので、このような事態になっていることを私はまったく知らなかったが、これは大変遺憾なことであり、迅速かつ適正に取り計らうよう関係各所に指示したところです」という国会答弁を聞かされたみたいな気分で、日本の政事(まつりごと)は幕末の昔も今も大して変わっておらぬなと思いますね。まあ「東山桜荘子(義民伝)」の筋をただその通りに再現すればそのようになってしまうことは理解はしますが、ホントにこれで良いのか、ホントにこれが如皐の本意であるかと云う疑問が沸々と湧いて来ないでしょうか。

ですから如皐の「義民伝」に本来見えないものを付け加えるようですが、「義民伝」のドラマを今日に生かすためには、やはり何某か社会劇的な視点を加えねばならないと思います。まずは宗吾のピュアな憤りにしっかりと対峙することですね。このことは如皐の本意に沿うと思います。(この稿つづく)

*別稿「惣五郎とかぶき的心情〜「佐倉義民伝」の心情的分析」が参考になります。

(R7・5・30)


)戦後日本での「義民伝」上演

ところで「義民伝」の木内宗吾は、戦前に於いては初代吉右衛門の当たり役として有名でした。一方、娘婿の八代目幸四郎(初代白鸚)が宗吾を演じたのは、今回(昭和42年5月国立劇場)を含めて2回のみです。宗吾という役はシリアスな役どころを得意にした幸四郎にピッタリのニンだと思うのに・これほど少ないとは意外なことでしたが、調べてみるとそもそも戦後の大歌舞伎での「義民伝」上演自体が少ないようです。データベースで検索すると昭和20年(1945)から令和7年(2025)現在までの80年で「義民伝」の大歌舞伎での上演は15回です。(注:この数は前進座での上演を含みません。)ちなみにこのうち二代目白鸚が3回・二代目吉右衛門が1回、「義民伝」を演じました。これも少ない。

戦後民主主義の世の中でこそ「義民伝」の先見性(社会劇的な視点)が評価されて良いはずなのに・そうでもなさそうだと云うのには、何か深刻な事情がありそうです。吉之助が思うには、恐らくそれは戦時中に喧伝された「滅私奉公」(国に身を捧げる)の御手本として「佐倉宗五郎」が盛んに持ち上げられたことが災いしているのです。芝居を見ながら・何だか「ホラ見ろ、お前も見習って滅私奉公しろ」と強制されてるみたいで居心地が悪い・どうも素直にドラマに没入出来ないと云うことです。その名残りが今も尾を引いているようです。

しかし、童話「ベロ出しチョンマ」の作者である斎藤隆介氏は次のように言っていますね。

『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

直訴とは確かに穏当ではない政治的行動ですが、強者である為政者に対する弱者・被統治民からの命を掛けた・やむを得ぬ行動であると考えられます。当時の農民の弱い立場ならそうする以外に状況打開の方法が考えられなかったのです。天下人である将軍に対し下々の者が直接訴え出ることは本来あるまじき事で、そのこと自体が重い罪に問われます。しかし、それを覚悟のうえで・命を棄てて訴え出たということは、たとえ身分の低い者であっても、そうまでするのは・そこにやむにやまれぬ熱い思いがあるのであろう。だから訴えを直接取り上げることはならぬが、しかし、訴え出たおぬしの気持ちは理解したぞ、そこを含んで・後のことはこちらに任せよと云うことになるわけです。「義民伝」の直訴の場面は、このような時代物の「赦しの構図」を引いているのです。 宗吾(=惣五郎)の直訴はかぶき的心情の行為であり、その裏付けとなる相手の心を強く揺さぶるためのピュアな思いがあるのです。世間にこのことが理解されれば義民伝」の評価も変わってくると思うのですが。(この稿つづく)

(R7・6・1)


 


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