六代目勘九郎の進境
令和7年2月歌舞伎座:「きらら浮世伝」
六代目中村勘九郎(蔦屋重三郎・中山富三郎)、二代目中村七之助(遊女篠竹・お篠)、五代目中村米吉(遊女菊園・伝蔵女房お菊)、初代中村隼人(勇助後の喜多川歌麿)、四代目中村橋之助(伝蔵後の山東京伝)、三代目中村福之助(左七後の滝沢馬琴)、四代目中村歌之助(鉄蔵後の葛飾北斎)、二代目中村錦之助(初鹿野河内守信興)、八代目中村芝翫(恋川春町)、五代目中村歌六(大田南畝)他
1)六代目勘九郎の進境
本稿は令和7年2月歌舞伎座での、勘九郎の蔦屋重三郎・七之助の遊女お篠他による「きらら浮世伝」の観劇随想です。本作は昭和63年(1988)3月に今はなき銀座セゾン劇場(後にル テアトル銀座と改称し・2013年5月に閉場)で五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎・当時33歳)・美保純らにより初演されたものですが、この舞台は吉之助は見ていません。今回歌舞伎座上演は、その37年後の再演と云うことになります。今年のNHK大河ドラマの主人公が蔦屋重三郎であることの便乗企画ではあるけれども、新派や新劇・現代劇でも・ジャンルは兎も角、もともと歌舞伎のために書かれたものでない芝居を歌舞伎として取り上げることはこれから増えてくると思います。
新作と云うと二の足を踏む吉之助ですが、今回の新作同然の「きらら浮世伝」の舞台は、なかなか面白く見ました。脚本の横内謙介氏は現在はスーパー歌舞伎執筆でご活躍ですが、当時26歳の新進作家であったそうです。若書きの青臭さと熱気が感じられて、当時(昭和63年頃)の雰囲気が何となく思い出されます。なにしろ当時はバブル景気の絶頂期で、「現在よりも未来はもっと良くなる・良く出来る」ということがまだまだ信じられた時代でした。
「若書きの青臭さ」と書きましたが、第1幕(主人公重三郎が出版プロデューサーとして成功するまでを描く)は次々と登場するバイキャラクター(これがまた誰でも名前を知ってる歴史上の有名人ばかり)を羅列するのに忙しくて、筋を十分に膨らませ切れていないようです。芝居がどこへ向かおうとしているか、方向性が見えて来ない。早いテンポの芝居が気忙しくて、吉之助には少々付いて行けないところがありました。そこは脚本に手直しが必要かなと思いましたが、第2幕になると、戯作者や浮世絵師たちが次々と打ち出す新趣向・新機軸がお上の癪に障り始めて、言論と政治の対立構図が鮮明になって来て、これが軸になって芝居が引き締まって来る。すると今度は「若書きの熱気」の方が勝って来て、第1幕が舌足らずに感じられたことまで何だか「勢いがあって良かった」みたいに思えてくるのが不思議なもので、やはり芝居と云うものは「終わり良ければすべて良し」だと思いますねえ。
実は吉之助は今回の「きらら浮世伝」の舞台が歌舞伎になっているかなんてことに興味はないのです。もともと歌舞伎のために書かれたものではないのですから、そのような歌舞伎でない所をむしろはっきり打ち出した方が良い位に思っています。そう云う慣れてないところをどのように処理するか、それが歌舞伎役者にとって刺激になり、芸の引き出しにもなる。と云うか、「歌舞伎になりそうでないものでも、結局、歌舞伎役者は歌舞伎として・そこそこ見られるものにしちゃう」のですから、そこのところは歌舞伎役者の感性を信じなきゃ始まりませんね。しかしまあ、新作よりは、「忘れられた古典」の掘り起こしの方がアタル確率が高いのじゃないかと思ってはいますが、今度はそちらの方にも取り組んでもらいたいものです。(この稿つづく)
(R7・3・1)
2)「父」の呪縛からの脱却
吉之助は最初の内は、初演時(昭和63年)の親父さん(十八代目勘三郎・当時は五代目勘九郎)の重三郎はどんなだったろう?当時の横内氏は勘三郎にどんな重三郎像を求めたのだろう?とか考えながら勘九郎の舞台を見ていたのですが、実はあまり親父さんの姿が浮かんで来なかったのです。そのうち親父さんのことは考えなくなって、勘九郎が演じる重三郎だけ見ていました。と云うか・親父さんのことを考える必要が全然なかったようでした。勘九郎は勘九郎でしっかりと自分なりの重三郎を作れていたと思います。
同じことを同月(2月)・夜の部の勘九郎・初役の左官長兵衛(「文七元結」)にも感じましたねえ。ちょっと前までの勘九郎ならば、「アアそこんとこ親父さんの写しだね」と云う感じがしたものです。勘三郎の長兵衛は見ましたし、今回だってもちろん声でも雰囲気でも似たところはいくらも見付かるのだけど、親父さんのことは思い出さず、ちゃんと勘九郎の長兵衛として見ることが出来たと思います。もう13回忌も過ぎたわけ(それは昨年のこと)で、勘九郎もようやく親父さんの呪縛から脱して、自分なりの役作りが出来る段階に入って来ましたね。そのことは昨年(令和6年)の佐野次郎左門や佐々木高綱にも現われていましたが、今月(2月歌舞伎座)のニ役ではその確信がはっきり持てた舞台であったと思います。
ところで「きらら浮世伝」の最初のクライマックスは、第2幕で吉原大門の屋根の上で重三郎が叫ぶ場面だと思います。お上の弾圧によって財産を没収された重三郎が、「欲しけりゃ全部くれてやるぜ、それでも俺はまた新しいものを見つけ出してやるからな」などと叫びます。初演の・この場面の勘三郎は憑かれたように熱かったと想像をします。この場面で描かれるものは、表現の限りない自由を主張する者(重三郎)と強硬にそれを規制しようとする為政者(幕府)との対立と反発・抵抗と云うことです。作者の横内氏もそれ以外のものを意図していないと思います。しかし、これとはまったく異なるフェーズになりますけれど、「何かを強制して・指し示し・或いはこれに従わせようとする圧倒的な存在」と云うイメージに於いて、勘三郎にとって、これは「父」とどこか重なるものに見えたのではないかと感じるのです。そのことが勘三郎の心情を熱くするのです。「父」とは、人が成長の過程でいつかは乗り越えなければならない(精神的に殺さなければならない)象徴的存在として在るものです。
勘三郎にとって「父」(云うまでもないことだが名優十七代目勘三郎)の呪縛がどれほど強いものであったかは、吉之助の勘三郎の思い出話(十八代目勘三郎・没後十年)などお読みいただければお分かりいただけます。彼の内面に沸々と煮えたぎる表現意欲と、守らなければならない伝統の規範・制約との激しい葛藤のなかで当時の勘三郎は苦しんでいたし、フェーズは全然異なるけれども、重三郎の叫びは勘三郎の心に別の意味を以て熱く響いたであろう。勘三郎33歳当時の状況を重ね合わせれば、同世代の吉之助にはこの場面はそのように見えて来るのです。ここで「きらら浮世伝」初演の「昭和63年3月」というタイミングが重要になって来ます。勘三郎の父(十七代目)が亡くなったのは、この翌月・昭和63年4月16日のことでした。いろんな巡り合わせのなかで、全然意図しないところで、或る作品との偶然の出会いがまるで「必然」の出会いであるかの如く感じられることがあるものです。もしかしたら勘三郎にとっての「きらら浮世伝」はそのような芝居であったかも知れないなと思います。
今回(令和7年2月歌舞伎座)「きらら浮世伝」再演は・別にそう云う意図はなかったでしょうが、吉原大門の屋根のシーンで勘九郎が「父」(十八代目)と喧嘩しているかの如く熱く見えたのは、確かにこの舞台が成功したと云うことだと思います。やはり必然の「巡り合わせ」と云うことはあるものです。
(R7・3・3)