(TOP)     (戻る)

二代目七之助の「お染の七役」

令和6年11月明治座:「於染久松色読販・お染の七役」

二代目中村七之助(油屋娘お染・丁稚久松・許婚お光・後家貞昌・奥女中竹川・芸者小糸・土手のお六以上七役)、二代目喜多村緑郎(鬼門の喜兵衛)、二代目坂東巳之助(油屋多三郎)、四代目中村橋之助(船頭長吉)、九代目坂東彦三郎(山家屋清兵衛)、六代目市川男女蔵(庵崎久作)他


1)南北劇の「チープ」感覚

本稿は令和6年11月明治座での、七之助七役早替りによる「於染久松色読販(お染の七役)」の観劇随想です。

「お染の七役」(三幕七場)については先日(本年4月)歌舞伎座でも、これは土手のお六の一役だけの端折り上演(二幕三場)でしたが、玉三郎のお六・仁左衛門の鬼兵衛による上演があったことは、記憶に新しいところです。人気の仁左玉であるからお客の入りは良かったですけれど、成果はあまり芳しいものとは云えませんでした。吉之助は令和3年2月歌舞伎座での・同じ顔合わせによる舞台で観劇随想を書きましたからご参照ください。この時に「お饅頭の皮を取って餡子だけにしたらお菓子になりません」と書きました。

久しぶりの仁左玉共演による南北ということで「それなりの芸」・つまりそれなりの上質の餡子であったにも係わらず、前後の早替り芝居の部分・つまりお饅頭の皮が欠けていたために、お菓子としての体を成さないのです。もちろん事情はお察しはします。こういう形であっても仁左玉共演の機会があることは嬉しいことですし、意義あることです。しかし、土手のお六だけの端折り上演では、「お染の七役」の作品としての魅力を十分に教えてくれる形態になりません。お六と鬼兵衛がどんな凄い強請をするのかと思ったら、失敗して・尻尾を巻いてスゴスゴ逃げ帰るだけで、何だ他愛のない芝居だなア、こういうのが南北か・・・と云う感想になってしまいかねません。

しかし、前後の早替りの部分も出して・「お染の七役」を完全な形で上演するならば、つまり餡子を皮でくるんでお饅頭に仕立てるならば、餡子と皮の取り合わせが絶妙なハーモニーを醸し出して、これで完全な「お菓子」(お芝居)として成立する、今回(令和6年11月明治座)での七之助七役早替りによる「お染の七役」の舞台を見て、このことをつくづく再確認しました。久しぶりに南北劇らしい感触の舞台を見たなあと思いますね。

ポイントはいくつかあるのだが、まずその一つとして、南北劇の生世話の「チープ」感覚ということを挙げて置きたいと思います。チープと云うと、「安っぽい」とか「みすぼらしい」とか悪いイメージが浮かぶかも知れませんが、必ずしもそうばかりではありません。例えば大量生産で安い製品が供給される、それは一つ一つ手作りで作られたものとは異なるが、それが機能的に消費者が求めるものを十分満たすのであれば、「チープ」だって良いことなのです。南北が活躍した文化文政期の歌舞伎は、それまでは時代物・お家物のなかで脇役として登場した庶民を主役に仕立て、庶民の・庶民による・庶民のための芝居(つまり生世話)を続々作り出しました。それ以前の重ったるい歌舞伎の感覚からすればこれは「チープ」に見えるかも知れないが、逆に南北の生世話ではチープであることが武器になるのです。それは当時の庶民の生活感覚を活写しているのですから、これほど強いことはありません。

「お染の七役」では、冒頭の敷島妙見・大詰の向島道行などが早替りの場になります。観客はいつ役者が早替りするか・その鮮やかさにどうしても気を取られてしまうし、当然見世物本位ですから芝居としては薄味なものになります。しかし、この薄味の早替り芝居の皮で土手のお六の件(餡子)を包みこむと、さっき吉之助はこの場を「他愛のない芝居だなア」と書きましたけど、皮と餡子のハーモニーのおかげで、そのチープさが適度な芝居らしさ(お菓子の甘さ)に感じられることになるのです。「お染の七役」とは、まさにそう云う感じに作られているお饅頭であるわけです。(この稿つづく)

(R6・11・23)


2)字余り字足らずの台詞

ポイントの二つ目として、これは「歌舞伎素人講釈」では何度も触れて来たことですが、現行歌舞伎のテクニックは幕末期の、遡ってもせいぜい天保頃までの歌舞伎のテクニックであり、それより昔の文化文政期の南北物の伝統はほとんど途切れていると云うことです。切れ目なく上演されてきた数少ない南北物・「四谷怪談」は幕末歌舞伎の古色にすっかり染まっています。

別稿「南北の感触は何処に」で触れましたが、現行歌舞伎の七五調のセンスで南北物の台詞を読むと、字余り・字足らずになって具合が悪いことが多いのです。或いは台詞がたっぷりした感覚になり過ぎて、空っ世話な感じにならない。「空っ世話」なんてもう死語かも知れませんが、要するに生世話らしい・写実の感覚、カラッとして裏表がない江戸っ子の気性を反映した口調です。(このことは、先ほど述べた「チープ」感覚と密接に関連することを頭に入れておいてください。)

空っ世話の台詞はもうほとんど現行歌舞伎で聞かれることはありません。しかし、第2次南北ブームと云われた1970年代(昭和45年〜55年頃)に南北物の復活上演が流行った時代には、「歌舞伎らしさ」にまだ染まり切っていなかった若手が、「空っ世話」を想わせる感覚で台詞をしゃべったものでした。感じとしては早めの二拍子で、サラッとした調子でしゃべるものです。悪い言い方をすれば、ちょっと新劇に近いしゃべり口です。それが若き日の玉三郎であり仁左衛門(当時は孝夫)らであったのですがね。しかし、年季を経て・役者としての芸が練れてきたことで、彼らも現時点で南北物をやれば、やはり「歌舞伎臭く」なってしまいました。そうすると芝居として確かに落ち着いた感触にはなるのですが、南北物としてはちょっと如何なものか・・・と云うことになるわけです。生世話の感触に納まって来ないのです。芸と云うものは難しいものですねえ。そこで吉之助が一つの仮説を立ててみることにしました。

「南北物は、ベテランよりも若い役者で見る方が面白い。」

若い役者は黙阿弥物のセンスに染まっていないから、素直に南北物の・字余り字足らずの台詞を追おうとする。だから若い役者が演じる南北物はきっと良いに違いない。役者が練れてきちゃうと黙阿弥臭くなってしまうので、南北物の空っ世話の良さが出て来ない。そのような仮説です。

しかし、実際に舞台を見てみると、そのような仮説(期待)通りに行かないことが多いようです。平成・令和の若手役者は思いのほか保守的であるようです。それとも芸が練れていると云うことでしょうかね。イヤこれは皮肉ですが、しかし、今の若手は妙なところで芸が大人びたところがあるようです。変に「らしく」やろうとしないで、もっとストレートに若さを押し出した方がいい場合があると思います。特に新歌舞伎や南北物の場合はそうです。歴史的に見れば南北物は黙阿弥物よりも古いわけですが、南北物は感覚的に黙阿弥物より「新しい」のです。

そこで今回(令和6年11月明治座)の、七之助七役早替りによる「お染の七役」を見ると、これは正に吉之助の仮説を裏付ける面白さです。吉之助は久しぶりに、あの第2次南北ブームの時の興奮を思い出した気がいたしましたよ。(この稿つづく)

(R6・11・26)


3)七之助の七役早替り

このように書くと今回(令和6年11月明治座)の「お染の七役」に出演の七之助以下の役者面々が「まだ芸が練れていない」かの如く聞こえたかも知れませんが、吉之助が言いたいのはもちろんそんなことではありません。「お染の七役」は早替りを愉しめば良いだけの芝居・趣向本位の「チープ」な芝居です。チープなものはチープなりに・その良さがあるのです。だから「お染の七役」が持つ「チープ」さをありのまま表現せねばなりません。芸の素直さが何より大事なのです。今回の出演メンバーはそこのところをよく表現出来ていたと思います。

例えば「〇役早替り」なんてのは文化文政期に大いに流行った趣向ですが、早替りの技法とは、複数の異なる人格を細かく描き分けることが大事なのではなく、同じ人格が(今回ならば七之助の人格が)様々な姿を変えながら立ち現れるところが大事なのです。このことはつまり「舞台上に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。

したがって「お染の七役」でも、七之助が七つの役を適格に演じ分けるところが主眼なのではなく、「アッまた七之助が出てきたゾ、サア今度は七之助はどこから誰の役で登場するのかな?」と云う愉しみ方の方が正しいのです。これが「チープ」な愉しみ方というものです。七之助の早替りは適度にテンポがあって良かったと思いますね。早替りは手慣れ過ぎてルーティンになっちゃうといけないのです。ちょっと尻尾を出して、「替るヨ・替るヨ・ハーイ替りました」くらいのチープさでちょうど良いものです。七之助に対する今回の明治座のお客の拍手喝采は、吉之助が見た・かつての(昭和50年代)の三代目猿之助の早替りの雰囲気を思い出させてちょっと懐かしかったですね。

「お染の七役」はお饅頭のようなものと書きましたが、七つのなかで唯一芝居をじっくり見せる役が土手のお六です。つまりこれが餡子の部分です。悪婆の役どころについては本サイトで何度も触れましたが、悪婆の大事なところは、本質的に女形本来の善の性格に根差しているということです。お六の場合も旧主竹川のためにやっていることなので、「こんなはしたないことはホントはやりたくないんですよ、でもお世話になった竹川さまのためだから仕方ないのよ」という申し訳があってこその強請なのです。そんなところが悪婆の愛嬌・或いは悪婆のチープに繋がるわけですが、七之助のお六は愛嬌あって良かったのではないでしょうか。玉三郎の感覚を写しながらも、もう少し印象がスッキリ立ったお六と云うところでしょうか。喜多村の鬼門の喜兵衛も適度なチープさを持つ小悪党というところで、これも作品の在るべきサイズに納まった良い出来でありました。

(R6・11・29)


 

 

 


  (TOP)     (戻る)