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木ノ下歌舞伎の現代劇版「三人吉三」

令和6年9月・池袋・東京芸術劇場プレイハウス:「三人吉三廓初買」

田中俊介(和尚吉三・小林の朝比奈)、須賀健太(お嬢吉三・閻魔大王)、坂口涼太郎(お嬢吉三)、川平慈英(土左衛門伝吉)、真島秀和(木屋文里)、緒川たまき(木屋女房おしず)、藤野涼子(丁子屋花魁一重)、藤松祥子(伝吉娘おとせ)、佐藤俊彦(木屋手代十三郎)他、

監修・補綴:木ノ下裕一、演出:杉原邦夫


1)木ノ下歌舞伎の現代劇版「三人吉三」

本稿は令和6年9月・池袋・東京芸術劇場プレイハウスで行われた、木ノ下歌舞伎による現代劇版・「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつがい)の観劇随想です。木ノ下歌舞伎は歌舞伎を素材にして・これを現代劇のスタイルにアレンジしつつ・現代に古典を蘇らせる可能性を模索している劇団です。本サイト「歌舞伎素人講釈」でも・そのいくつかを観劇随想で取り上げました。(「東海道四谷怪談」、「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」、「桜姫東文章」など。)

木ノ下歌舞伎の「三人吉三」は平成26年(2014)10月に初演されて当時大いに話題になったものですが、吉之助は見ていません。その後いくつか再演の機会があったようですが、巡り合わせが悪くて、吉之助がこれを見るのは今回が初めてです。木ノ下歌舞伎版・「三人吉三」の特長は、黙阿弥の原作を歌舞伎がそのままやれば10時間を超えそうな分量なのを、補綴で出来るだけ筋や台詞を切り詰めて、それでも現代劇のスピード感を以てしても上演時間は5時間10分(2回の休憩時間を含む)掛かる長さですが、兎も角も原作の全体像が把握できるものに仕立て直したことです。

黙阿弥の原作は、ふたつの筋立てが並行して絡み合う形で書かれています。ひとつは「侠客伝吉因果譚(きょうかくでんきちいんがものがたり)」と云われるもので、これはほぼ現行歌舞伎でお馴染みの・三人の吉三郎の物語です。もうひとつは現行歌舞伎でもはや全く上演されない「通客文里恩愛噺(つうかくぶんりおんあいばなし)」です。文里の筋が上演されなくなったのには、それなりの理由がないわけではありません。しかし、黙阿弥の本来の意図はこのふたつの筋立てを対称させることにあったわけですから、これを三人の吉三郎の物語だけで読んでしまうと、風景が違って見えてしまいます。

例えば或る劇評で大川端の三人の吉三郎の出会いを「自分たちが悪党であることを世間に誇る気持ちが感じられる・自分たちの所業を世間に知らせたいと思っているのである」と書いてあるのがあって、まあこの場面だけならば・そう感じるのも分からなくはないですが、この場面をよくよく見れば、夜鷹から奪った金を不良の三人が「俺のものだ」と言い張って・互いに意気がっているだけの・虚しい場面なのです。三人の吉三郎のなかの「虚しさ」を感じ取るところから「三人吉三」の理解が始まると思います。ちゃんと正しく読めば、現行の「三人吉三」の舞台からでもそれを感じ取ることは出来ますが、こうして「通客文里恩愛噺」を並行して見ると、黙阿弥の本来の意図がスッキリ形になって現れることに感じ入ってしまいますね。晩年の黙阿弥は自身の会心の作として「三人吉三」を挙げたそうですが、その気持ちがよく分かります。

こういう仕事は、ホントは本家である歌舞伎がやらねばならないことなのでしょうねえ。「現代劇スタイルで歌舞伎を早いテンポでやれば良い」と言っているのではありません。歌舞伎は歌舞伎でしかやれない方法で、それをやらねばなりません。それをやり抜く度胸が据わっていないのだね。このところの歌舞伎座の演目建てを見ていると、歌舞伎がこれから何をやったら良いか・自信の無さが透けて見えるようです。木ノ下歌舞伎の「三人吉三」でこれだけのことをやられて、歌舞伎役者は「悔しい」と思って欲しいのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・10・5)


2)木ノ下歌舞伎のシステム

木ノ下歌舞伎のシステムを詳しく承知していませんが・大筋としては、まず主宰である木ノ下裕一が原作(歌舞伎)を読み込んで、脚本を削ぎ落していくことから始まるようです。歌舞伎で補綴と云うと、大抵の場合、いつもやる有名な場面はそのままにして、そうでない部分を削る、そうすると筋の伏線が分からなくなるのは当然のことで、これを埋め合わせるために筋を適当に取り繕う、と云うと聞こえはいいが・筋を捻じ曲げる。早変りするために・或いは宙乗りするために筋を捻じ曲げる。これでは原作の意図が正しく伝わりません。歌舞伎では、こう云うのを補綴と呼んでいます。ところが木ノ下歌舞伎はそのようなことをしないのですねえ。確かに脚本を削ぎ落しているけれど、筋の大まかなところではちゃんと元の形を保っているのです。もちろんアレンジするなかで・補綴者の視点がそこに入るのは当たり前です。しかし、原作に目を通して舞台を見ても、まあそっくりそのままではないにしても、一応その場面はちゃんとあるのです。だから原作の全体像が見渡せます。このような補綴台本作成の作業は、結構手間が掛かるでしょう。何度も何度も原作を読み直して、少しづつ筋をスライスしていく作業です。こうして原作を煮詰めていきます。

補綴台本が出来上がったら、木ノ下歌舞伎は現代劇団ですから、次に補綴台本を元に現代劇用の台本を作成する作業に移ります。この作業は現代語を混ぜたり・ト書きで現代風俗を交えたり、作業の自由度は高いわけですが、ここでも補綴台本の骨格がしっかり守られています。だから木ノ下「歌舞伎」なのです。「東海道四谷怪談」でも「桜姫東文章」・今回の「三人吉三」でもそうですが、「上演時間に制約がある」と云う理由で歌舞伎が平気でバッサバッサ切り落としてしまった場面でも、木ノ下歌舞伎では(切り詰めた形であっても)これがちゃんとあるわけです。「ああ歌舞伎の舞台では分からなかったけど、なるほどこういう伏線があったわけね」ということが、木ノ下歌舞伎であると兎も角も分かる。これはホントは歌舞伎がやらねばならない仕事であるはずで、考えてみればこれは本末転倒というか、面妖な話ではありますね。

もうひとつ木ノ下歌舞伎の特徴は、舞台稽古の前半で「完コピ稽古」と云うのをやることです。本家本元の歌舞伎の舞台映像を見ながら、木ノ下歌舞伎の俳優さんがこれをそっくり真似て・やってみるのだそうです。「完全コピー」であるので、元の映像の役者の癖までもそっくり写すそうです。こうやって本家本元の世界観・或いは演技のロジックみたいなものを、知識として学ぶのではなくて・身体で覚えて落とし込む、これがこの後の本番に役に立つのでしょうねえ。吉之助が観た日(26日)は上演後にトーク・イベントがありましたが、そこで聞いた話では「完コピ稽古」を2週間掛けてやるそうだから、舞台稽古のなかのかなりの時間を割くわけです。「ちょっと真似てやってみる」ではなくて、もう木ノ下歌舞伎のシステムのなかにこれが完全に組み込まれているのです。この後に現代劇用の脚本での稽古に入り、完コピ稽古で学んだものを解体して・現代劇のスタイルへと順次置き換えて行くということです。普通こう云うことをやってしまうと俳優さんの演技のなかに「こうやったら歌舞伎らしくなる」みたいな残渣が残ってしまいそうに思うのですが、実際に出来上がった舞台を見ると・意外とそのような「クサさ」は残らないものだなあと感心します。そこはさすがプロの現代劇の俳優さんと云うことでしょうか。(この稿つづく)

(R6・10・7)


3)同時進行劇としての「三人吉三」

黙阿弥の「三人吉三廓初買」は安政7年(=万延元年・1860)1月14日初日で江戸・市村座での初演。場所は鎌倉に仮託されていますが・これは江戸期の作劇の常套手段で、誰でも当時の現代劇だと承知して見ていたのです。

ところで本作は1月初日であるから初春狂言であるわけです。それじゃあどこに初春狂言の趣向が出てくるのかと云うと、これは現行歌舞伎上演ではさっぱり分りません。しかし、原作を見ると、第1番目大詰に「地獄正月斎日の場」というのが出てきます。これは和尚吉三の夢の場で、ここに「曽我対面」でおなじみの小林朝比奈(四代目小団次)が出てきて地獄の閻魔大王とご対面となります。斎日(さいにち)というのは旧暦の1月16日と7月16日に閻魔堂に参拝する祭日のことで、斎日には地獄の窯の蓋が開き、亡者が責め苦から解放される日とされていました。「三人吉三」が初春狂言であることの証(あかし)はこれくらいのもので、歌舞伎の本を読むと「初春狂言には必ず曽我物・「対面」の趣向が取り入れる約束があった」などと書かれていますが、幕末も安政頃になるとお約束も大分形骸化してきたことが察せられます。

ともあれこれで「三人吉三」は初春狂言ということになり、和尚吉三が夢を見たのは1月16日ということだから、三人の吉三郎が出会う稲瀬川庚申塚の場(第1番目・第2幕第2場、いわゆる「大川端」)はそれより数日前ということになるわけですが、ここで思い出すのは、大川端でお嬢吉三がおとせから百両を奪い、気持ちよく「月もおぼろに白魚の・・」と歌っている時に脇から声あって

厄払:「御厄払いませう。厄落とし厄落とし」
お嬢:「ほんに今夜は節分か。・・・」

となることです。だから三人の吉三郎が出会うのは節分の夜ということなのだが、「三人吉三」は初春狂言でなかったのか。この疑問は誰でも持つものだと思いますが、歌舞伎の本には大抵「江戸の旧暦(太陰太陽暦)では正月と節分がほぼ同時期に来る。節分は立春の前日で、旧暦では正月元旦から7日までの間に節分が来ることが多い」みたいな解説がされています。(「新潮日本古典集成」での今尾哲也先生の解説もそうですね。)それで何となく毎年そんなものかと思ってしまいますが、吉之助はいつも机の前に旧暦カレンダーを置いて生活してますが、節分が師走(12月)に来ることだってあるのです。そこで「三人吉三」初演の安政7年(1860)までの10年の節分(2月3日)が旧暦では何月何日になるか調べますと、

西暦の節分(2月3日)        旧暦
1860年(安政7年)        1月12日
1859年               1月1日
1858年              12月20日
1857年               1月9日
1856年              12月27日
1855年              12月17日
1854年               1月6日
1853年              12月25日
1852年               1月14日
1851年               1月3日

となるのです。(12月は前の年の師走ということです。)つまり節分はいつも正月と重なるわけではなく、半分くらいは師走になります。ちなみに本年(2024)の節分(2月3日)は旧暦・師走24日です。

これで話は終わりません。お嬢吉三は大川端で「月もおぼろに白魚の・・」と言っていますね。朧月というのはどのような月でしょうか。これには諸説あるようですが、朧にかすんでいても或る程度はっきり見えている月ですから、満月ではないけれど・ある程度太っている三日月だと思われます。そうすると安政6年(1859)は節分が元旦に当たりますが・新月(月が出ない)の日なので、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と歌えるはずがない。安政4年(1957)は9日目の月だが・月はまだ痩せており、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と気持ちよく歌うにはちょっと頼りない。結局、初春(正月)にして節分、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と気持ちよく歌えそうな明るい月という2条件に合致するのは、10年間では安政7年(1860)と嘉永5年(1855)の節分しかないことになります。とすれば黙阿弥が「三人吉三」に何年を想定しているか明らかです。江戸市村座初演の観客にはピンと来たはずです。三人の吉三郎が出会ったのは、旧暦の安政7年1月12日の節分の夜です。

ですから黙阿弥が「三人吉三」を書いたのは、当時の同時代劇として書いている、もちろんその認識で結構ですけど、詳細をみれば明らかなことは、黙阿弥は「三人吉三」を初演した安政7年(1860)の「同時進行劇」としてこれを書いていると云うことです。黙阿弥ははっきり「今」の気分をを描こうとしているのです。別段これを隠そうとしたつもりもなさそうです。これって随分大胆な実験じゃないでしょうかねえ。旧暦カレンダーから色んな想像ができますね。(この稿つづく)

(R6・10・9)


4)同時進行劇としての「三人吉三」・続き

同時代演劇と同時進行劇とは同じ事を言っているようですが、意味がちょっと違います。「三人吉三」を同時進行劇として見ると、旧暦・安政7年1月14日初日・江戸市村座の観客にとって、旧暦1月12日(節分)の大川端での三人の吉三郎の出会いはつい2日前に起こった出来事です。他方、旧暦1月16日(斎日)の和尚吉三の夢(地獄正月斎日の場)はこれから起こる出来事だと感じることになる。このことの意味は、決して小さくないのではないでしょうか。つまり原作の「三人吉三廓初買」は大きく分ければ、第1番目・第2幕まで(現行の「三人吉三巴白浪」であれば「大川端」まで)が直近の過去、これより以降の第1番目・第3幕から(現行の「三人吉三巴白浪」であると「伝吉内」から以降)が現在・或いはこれから起こる出来事(つまり近未来)であると考えられます。

もちろん興行が進めば日が経過して同時進行劇としての形が失われてしまいます(つまり同時代劇と変わりなくなってしまうのです)が、作劇中の黙阿弥の脳裏に上記のような「同時進行劇」のイメージがはっきりあったに違いない。このことを実感させる証左が、「大川端」です。「大川端」は静止的なイメージがしますねえ。三人の吉三郎の出会いを描いていますが、全体から見渡すと「これからドラマがどう展開していく?」とその後の展開を予測できる材料がここには何もない。だから単幕で取り上げても中途半端な感じがしなくて、「切り取られた名場面」という扱いにも耐えるのです。

つまり「大川端」はその後の本編に対する「プロローグ」だと云うことですね。プロローグについては別稿で論じました。プロローグの役割は劇的な予兆を提示すると云うことですが、本編への伏線を書き過ぎれば、それはプロローグではなくなります。「大川端」を第1番目・第2幕第2場に置くことで、黙阿弥は「三人吉三廓初買」を、直近に起こった事(直近の過去)とこれから起こる出来事(近未来)とに感覚的に仕分けています。「伝吉内」からそこまで止まっていた土座衛門伝吉の因果の車が再びカラカラと音を立てて回り始めます。(この稿つづく)

(R6・10・13)


5)安政7年頃の世の中のこと

明治維新(大政奉還)が慶応3年(1867)10月14日のことですから、「三人吉三」が初演された安政7年(=万延元年・1860)1月は、その7年前になります。つまり江戸時代が終わる寸前です。安政7年頃の世の中はさぞや落ち着かない雰囲気であったろうと想像出来ますが、実はその前の10年くらいも何とも凄まじい時代でした。

安政2年(1855)10月2日に「安政の大地震」が起きました。被害の規模は大き過ぎて定かでありません。民家の倒壊は1万4千戸以上、町方の死者4千7百人以上、これに武家方・寺社方の被害を加えると死者は1万人を超えると推定されるそうです。安政5年(1858)には疫病が流行しました。6月頃長崎からコレラが流行り出し、7月には江戸にまで拡大、発病すると3日以内に死ぬので「コロリ」と呼ばれて恐れられました。江戸での死者は三万人を超えたと云われ、火葬が間に合わないほどでした。政治の方も落ち着きませんでした。米海軍司令長官ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀沖に姿を現したのは、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。その後の幕府内の混乱は云うまでもありませんが、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行なった「安政の大獄」は安政5年(1858)のことです。このような人心の落ち着かない時代に書かれたのが、黙阿弥の「三人吉三」でした。

大川端での三人の吉三郎の出会いを、明日生きているかどうかも分からない・こんな行く末の見えない世の中であっても・力の限り生きてやる・おのれの生を刻み付けてやると懸命にあがく三人の若者の出会いを描いていると読むことは、もちろん出来ます。その見方はとても大事なことですが、それだけであると見方が一面的になってしまいます。裏を返せば三人の吉三郎たちは、俺たちの人生なんて吹けば飛ぶようなちっぽけなものさ・どうせ生きるなら目一杯楽しまないとな・来る時が来ればそれで人生おさらばよと、自暴自棄になったところで泥棒稼業をしているわけです。その二つの見方が同時に必要になって来ます。

(お嬢)「浮き世の人の口の端に」
(和尚)「かくいふ者があつたかと」
(お坊)「死んだ後まで悪名は」
(お嬢)「庚申の夜の語り種」
(和尚)「思へばはかねへ」
(三人)「身の上じゃなあ」

大川端の三人の割り台詞には、「どうせ生きるなら目一杯楽しまないとな」と口では言いながら、その実ちっとも楽しんでいない気持ちが反映しています。三人の吉三郎は、「もしかしたら俺には別の人生があったのではないか」とどこかで感じているのです。それは「あらかじめ失われた人生」です。もしあの時こうしなければこんなことにならなかったのでは?もしあの時こうしていれば別の人生があったのかも?そう思うことは誰にだってあるものです。

「もし親父(伝吉)が泥棒だったという因果の理(ことわり)に巻かれなければ、俺はお寺の僧侶として真っ当な人生を歩んだのだろうか」(和尚)、「もし実家(安森家)が没落しなければ、俺は今もいい所のお坊ちゃんで暮らしていたのだろうか」(お坊)、「もしかどわかされたりしなければ、俺は実家の八百屋で真面目に商売していたのだろうか」(お嬢)という思いがどこかに常にあるのです。彼らはどこかで人生をやり直したいと思っています。「失われた人生」を取り戻したいのです。大詰「火の見櫓の場」では彼らはその思いだけで動いています。

現行歌舞伎での「三人吉三巴白浪」(「侠客伝吉因果譚」を主筋とする)でもそのことは見ようとすれば見えるのですが、大抵は三人の吉三郎のカッコ良さの方にツイツイ目が行ってしまうものです。しかし、今回(令和6年9月・木ノ下歌舞伎)のように「通客文里恩愛噺」を並行させて「三人吉三」を読めば、三人の吉三郎が普通にやっていても、彼らが背負っている哀しみや悔恨が無理なく浮かび上がって来ることになる。黙阿弥はそのような作品構成をしているのですね。(この稿つづく)

(R6・10・15)


6)恩愛噺が並列する意味

前述の通り「三人吉三」では、「侠客伝吉因果譚」と「通客文里恩愛噺」という二つの筋が絡みます。二つの筋はお坊吉三の妹が遊女一重であり、この兄妹が伝吉の悪事によって没落せられた安森家の末裔であることが接点となります。お坊吉三も一重もそれぞれお家の宝刀庚申丸(これに百両の対価が付いている)を取り返して家の再興を果たしたいと願っています。しかし、芝居を見ると、「因果譚」のなかでは、庚申丸と百両の金包が、文里の筋にも関連があるのに・一見関連がなさそうに、いろんな人の間を行ったり来たりしています。それは価値に対する意味合いが人それぞれに異なるからです。同じ百両の金包でも、他の人から見ればそれは別の金包です。

文里の件と関連ないかの如く三人の吉三郎のドラマは展開していきますが、最後の最後(火の見櫓の場)に三人が差し出した百両と家宝の刀(庚申丸)が、確かに生まれたばかりの一重の遺児・梅吉の未来の役に立つであろうことが暗示されます。ただしそれ以降のことは芝居のなかでは描かれませんから、どうなるかは分かりません。果たして安森家は再興されるのでしょうかねえ。明治維新が迫っていることも気にはなりますが、この時点での黙阿弥にはあずかり知らぬことです。ともあれ梅吉の将来は、因果の理に巻かれることがない・平穏な未来であろうと思います。

別稿「因果の律を恩愛で断ち切る」(これは「歌舞伎素人講釈」の初期論考)で触れましたが、因果譚での登場人物(伝吉はじめ三人の吉三郎)は因果の律に絡めとられ、何か悪事をやれば・その結果のために・また新たな悪事をせねばならない泥沼のなかであがいていました。一方、恩愛噺の登場人物はみんな決して幸せな境遇ではないが、互いに寄り添い・助け合いながら生きています。文里は遊女一重に入れ込んで、家業を傾けてしまいます。女房おしずが悋気すれば家庭は崩壊して、やはり因果の律に巻かれることになるでしょう。普通はそう云う展開をするはずですが・そうならないのは、おしずが一重のことを気遣い・一重もおしずのことを思いやるからです。一重は瀕死の病ですが、生まれたばかりの梅吉をおしずが引き取ることを申し出て、一重はこのことを深く感謝しながら死んでいきます。だからそこに因果の律が関与する余地がないのです。いい意味に於いて何も起きない。文里の件は淡々と筋が運んで、劇的な展開を見せるところがありません。要するに芝居の展開としてあまり面白いとは云えないわけで、その後の「三人吉三」再演が繰り返されるなかで文里の筋が上演されなくなったのも仕方がないなあと思います。

そうすると今回(令和6年9月・木ノ下歌舞伎)の恩愛噺を上演する意味がないのかと云うと、それはまったく逆です。「三人吉三」通しのなかで因果譚と恩愛噺が並列することで、二つの筋が互いに生きて来るのです。因果譚のギラギラした要素(芝居としては刺激的ではある)を恩愛噺が鎮静することで互いが生きてきます。三人の吉三郎たちが背負っている哀しみや悔恨も自然に無理なく浮かび上がって来ることになるのです。

今回の「三人吉三」の木ノ下歌舞伎上演に意義があったと思えるのは、大詰の火の見櫓の場面で三人の吉三郎が命を捨てて差し出したもの(庚申丸と百両の金包)がしっかり役に立つ(であろう)ことが手応えとして実感出来たことだろうと思いますね。八百屋久兵衛にこの二品を託すことです。もちろん現行歌舞伎の「三人吉三巴白浪」でも確かにその場面はあるわけですが、お宝があっちに行ったり・こっちに来たりする芝居にピリオドを打つための方便であるかのように見えてしまう、要するにあまり「実(じつ)」のある行為に見えて来ないわけです。しかし、木ノ下歌舞伎での同じ結末は、ちっぽけなことかも知れないが、彼らも自分たちが生きた痕跡を確かに残したのだと思えるところがある。「死んでしまえば・それでお終いだよ」ではなく、何か未来に繋がるものを彼らは残した、そう思えるような結末になったことが「三人吉三」のなかで因果譚と恩愛噺の二つの筋を並列させたことの効用であると思います。梅吉という「未来」が見えるからでしょうね。(この稿つづく)

(R6・10・18)


7)本家本元も頑張れ

もし歌舞伎役者が木ノ下歌舞伎を見ると、「羨ましいなあ」と感じることが少なくないのではないでしょうかね。演技のテンポは速いし、背景音楽はロックの激しいビートが使えるし、照明だって自由だし、何より良いことは喧しい「伝統」や約束事の縛りがないことです。現代劇なのに古臭い題材を扱うわけだからアナクロニズムだと笑われそうだけれど、そこのギャップを逆手に取れば「行ける」と云うこともありそうだ。そこが木ノ下歌舞伎の有利な点ですね。

まあそう云うことなんだけど、「三人吉三」と現在が共通しているのは多分、幕末江戸(現在からすると164年前ということになる)の若者も・令和6年(2024)の若者も、一生懸命生きていて・だけど生きることにちょっぴり余裕がなくて・見えるべきものが見えてなくて・そんなところから思慮のない行動に走ったりするところなど、いつの時代も全然変わっていないところです。そんななかで、もしあの時こうしなければこんなことにならなかったのでは?もしあの時こうしていれば別の人生があったのかも?と自問自答を続ける、三人の吉三郎はそんな若者たちなのです。そこに現代のわれわれが三人の吉三郎に感情移入できる要素があると思う、そこが理解の取っ掛かりになります。

手法はまったく異なるけれども、木ノ下歌舞伎で出来ることが本家本元である歌舞伎ではもはや出来ないのでありましょうか。そんなことはないと思います。出来ないと決め付けているだけではないでしょうかね。確かに「三人吉三」だって・歌舞伎のテンポでそのままやれば10時間以上掛かってしまうかも知れませんが、適切なテキストレジと演出があれば、現代での上演に耐えるものを作るのは歌舞伎でも十分可能ではないかと思います。木ノ下歌舞伎を見ていると、「こういう仕事はホントは歌舞伎がやらねばならないのだがなあ」と歯痒く思います。歌舞伎は潤沢な財産を持っているのだから、もっと自信を持って欲しいのですがねえ。

(R6・10・26)


 

 

 


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