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二代目松緑の「四の切」の狐忠信

昭和51年11月国立劇場:「義経千本桜」・第2部

                                    *北嵯峨庵室-椎の木・小金吾討死・鮓屋-川連法眼館・奥庭

二代目尾上松緑(いがみの権太・佐藤忠信・源九郎狐)、七代目尾上梅幸(弥助実は平維盛・静御前)、三代目河原崎権十郎(弥左衛門)、三代目尾上多賀之丞(弥左衛門女房お米)、四代目中村雀右衛門(お里)、七代目市川門之助(権太女房小せん)、七代目尾上菊五郎(小金吾)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(梶原景時・横河覚範実は能登守教経)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(源義経)、二代目助高屋小伝次(川連法眼)他


1)肉親の絆への憧れ

本稿で紹介するのは、昭和51年(1976)10月〜11月国立劇場で行われた通し狂言「義経千本桜」の映像です。本公演の話題は、2か月掛けて二代目松緑(当時63歳)が千本桜の三役(知盛・権太・狐忠信)を完演すると云うことでした。本観劇随想では第2部の、「川連法眼館(四の切)」の狐忠信の件を中心に取り上げます。第1部で上演された「鳥居前」と「吉野山」については別稿にて取り上げました。

ところで源九郎狐(狐忠信)がどうして佐藤忠信の姿を借りて現れたのか、どうして弁慶や亀井六郎らの姿を借りなかったかと云うのは、大事な疑問だと思いますね。「千本桜」では本物の忠信は病気の母の見舞いのために故郷の奥州に戻っており・しばらくの間義経の傍にいなかったことになっています。狐忠信は本物が不在の間に現れます。しかし、これは浄瑠璃作者の創作で、史実を見ると文治元年(1185)11月3日義経が都落ちした時に忠信は同行しており、大物・さらに吉野でも義経と一緒にいました。その後、忠信は義経と別れて京都に潜伏しましたが、敵に取り囲まれて壮絶な自害を遂げました。多分、浄瑠璃作者のなかに源九郎狐が人間の姿を借りる時に・どうしても佐藤忠信にしたかった「劇的必然」が何かあったと思います。

その理由は「平家物語」或いは「義経記」を参照すれば、すぐに察せられることです。佐藤忠信と・その一族には、親子の愛・兄弟の愛・家族の愛など、肉親の絆が強いことを示すエピソードが多いからです。奥州に落ち延びた義経は、継信・忠信兄弟の母の元を真っ先に訪ね、兄弟が自分に尽くしてくれたことの礼を言って頭を下げています。この逸話は「摂待(せったい)」として能にもなっています。

肉親の絆・・・「千本桜」を見るならば、恐らくこれが義経に一番足りなかったもの、義経が一番欲したものだったのです。「川連法眼館」のなかで、源九郎狐の告白を聞いた義経はこう言っています。

『オヽ、われとても生類(しょうるい)の、恩愛の節義(せつぎ)身にせまる。一日の孝もなき父義朝を長田(おさだ)に討たれ、日蔭鞍馬に成長(ひととなり)、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業(ごう)、われも業。そもいつの世の宿酬(しゅくしゅう)にて、かゝる業因(ごういん)なりけるぞ』

幼い時に父親を亡くし・親の愛情を知らずに育ち、「せめては兄の頼朝のために」と一生懸命頑張った。しかし、心ならずもその兄に疎まれて・・・これも己の業(ごう)であろうかと、義経は嘆くのです。一方、戦乱が続く殺伐とした世の中で人間が忘れてしまった肉親の絆を、源九郎狐はしっかりと持っていました。そこが「川連法眼館」を見る現代の観客が感じ入るところですが、この義経の言に先立つ源九郎狐の告白を聞けば、そう単純な事情でもなさそうです。その告白は意外に陰惨な色合いを帯びています。源九郎狐の方も、肉親への絆の実現に苦しんでいたのです。(この件については別稿をご参照ください。)例えば、

『鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述ぶ、烏は親の養ひを育み返すも皆孝行。鳥でさへその通り、まして人の詞に通じ人の情も知る狐、なんぼ愚痴無智の畜生でも、孝行といふ事を知らいでなんと致しませふ。とは言ふものの親はなし・・(中略)・・(約四百年内裏にある初音の鼓に近づくことが出来ず)頼みの綱も切れ果てしは、前世に誰を罪せしぞ。人のために怨(あだ)する者、狐と生れ来るといふ因果の経文恨めしく、日に三度夜に三度、五臓を絞る血の涙、火焔と見ゆる狐火は胸を焦する炎ぞや。

とあって、源九郎狐は鼓の親を慕いつつ接近を試みたが、内裏にある初音の鼓に近づくことが出来ませんでした。約四百年、源九郎狐は、こんな親不孝をせねばならないのも・・これも前世の業(ごう)であろうかと自分を責めつづけて来ました。まさに義経が語る通り、「源九郎は前世の業、われも業」なのです。このように考えると、親は子を大切にし・子もまた親を思う・兄弟も大切にして互いを思い合う、佐藤一族の肉親の絆の強さが燦然と輝いて見えて来るのです。ここに源九郎狐が人間の姿に化けるならば・佐藤忠信の姿を借りたいと願った「劇的必然」があったのです。きっと源九郎狐はそんな佐藤忠信のことが羨ましかったのですね。

そこから「千本桜」全体を改めて見渡したいのですが、源九郎狐は二段目序(鳥居前)、四段目道行(道行初音旅)、そして四段目(川連法眼館)と飛び飛びに現れるわけですが、そうやって見ると、もしかしたら「肉親の絆の実現」と云うことが「千本桜」の重要な副主題として浮かび上がってくるようにも思われるのです。二段目(知盛)・三段目(いがみの権太)からそれに関連する箇所を挙げるならば、例えば二段目の知盛ならば、

知盛:『果報はいみじく一天の主と産れ給へども、西海の波に漂ひ海に臨めども、潮(うしお)にて水に渇(かっ)せしは、これ餓鬼道(がきどう)。ある時は風波に逢ひ、お召しの船をあら磯に吹き上げられ、今も命を失はんかと多くの官女が泣き叫ぶは、阿鼻叫喚(あびきょうかん)。陸(くが)に源平戦ふは、取りも直さず修羅道(しゅらどう)の苦しみ。又は源氏の陣所々々に、数多(あまた)駒のいなゝくは、畜生道(ちくしょうどう)。今賎しき御身となり、人間の憂艱難目前に、六道の苦しみを受け給ふ。これといふも父清盛、外戚の望みあるによつて、姫宮を御男宮と言ひふらし、権威を以て御位につけ、天道を欺き天照太神に偽り申せしその悪逆、積りつもりて一門わが子の身に報ふたか、是非もなや。

の箇所です。ここで知盛は、父・清盛の横暴非道が積もり積もって一門わが子(もちろん知盛自身も含む)に報いたことを悟ります。本来ならば父の愛が、子にさらなる恵みをもたらすものであって欲しい。けれどもそうならなかったのです。知盛が義経からの出家の勧めを拒否して・再び海中に没することを選んだことに、自身が囚われた業(ごう)の連鎖を自ら断ち切らんとする知盛の強い意志を感じます。三段目のいがみの権太であるならば、

いがみの権太:『維盛様の首はあつても、内侍若君の代りに立つ人もなく、途方にくれし折からに。女房小仙が伜を連れ、「親御の勘当、古主(こしゅう)へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と、手を廻すれば伜めも、「母様と一緒に」と、共に廻して縛り縄、掛けても掛けても手が外れ、結んだ縄もしやら解け、いがんだおれが直(すぐ)な子を、持つたは何の因果ぢやと、思ふては泣き、締めては泣き、後ろ手にしたその時の、心は鬼でも蛇心でも、堪へ兼ねたる血の涙、可愛や不憫や女房も、わつと一声(ひとこえ)その時に、コレ血を吐きました』

の箇所でしょうね。ここには親と子が・家族が互いを思い合う気持ちが溢れています。しかし、それは業(ごう)と因果に巻かれてしまって、悲しい結末しかもたらしません。これも自らの放埓の報いです。権太の述懐にはこのことを悔やむ気持ちがはっきりと見えます。

知盛の件も・いがみの権太の件も、源九郎狐の件とはまったく何の関連もないのです。しかし、親が子を呼び・子が親を呼び・家族が互いを呼び合う、その声は「千本桜」のあちこちから響いて・反響し・共鳴する、それは成就されなかった肉親の絆への憧れを悲しく歌う、「千本桜」全体がそんな風に構成されているのですねえ。「千本桜」のあちこちにトリックスターの如く登場する源九郎狐の存在がこのことを暗示しています。(この稿つづく)

(R6・7・14)


2)三つ目の謎の解決

源九郎狐は鼓の親への接近を試みましたが、内裏に秘匿された初音の鼓に近づくことは叶いませんでした。こうして約四百年の歳月が過ぎたのです。しかし、ひょんなことから初音の鼓が義経の御手に渡ることになり、これで源九郎狐が鼓に近づくことが可能になりました。義経に接近した経緯を源九郎狐は次のように語っています。

『天道様の御恵みで、不思議にも初音の鼓、義経公の御手に入り、内裏(だいり)を出づれば恐れもなし。ハア、嬉しや悦ばしやと、その日より付き添ふは義経公の皆お蔭。稲荷の森にて忠信があり会はさばとの御悔み、せめて御恩を送らんと、その忠信になり変り、静様の御難儀を救ひました褒美とあつて、勿体なや畜生に、清和天皇の後胤源九郎義経といふ御姓名を給はりしは、そら恐ろしき身の冥加。これといふもわが親に孝行が尽くしたい、親大事、親大事と思ひ込んだ心が届き、大将の御名を下されしは人間の果(か)を請けたも同然、いよ/\親が大切、片時(へんし)も離れず付き添ふ鼓。

「わが親に孝行が尽くしたい、親大事、親大事」と思い続けていた心が通じ・ようやく初音の鼓に近づくことが出来たと、源九郎狐は感謝の気持ちを素直に述べています。それもこれも義経が肉親の絆への憧れを常に持っており、源九郎狐の「あはれ」に感応する資質があったからこそです。仮にの話ですが、もし初音の鼓を手に入れたのが義経でなく・別の人物であったのならば、源九郎狐はそれに合わせてアプローチの手法を変えたに違いありません。

「千本桜」のなかで源九郎狐が最初に登場するのは、「鳥居前」です。別稿に於いて、「鳥居前」は丸本では本来二段目端場で・狐忠信は狐の正体を明かしませんが、歌舞伎の「鳥居前」では最初から狐の正体をあからさまに・火焔隈の荒事のいで立ちで登場して・まるで序段切場の如き印象であることを考察しました。吉之助は歌舞伎の荒事の「鳥居前」が間違いだと云っているのではありません。江戸歌舞伎がこの場面を荒事で処理したいと考えた演劇的必然をとても興味深いことだなと思うのです。ご存知の通り、荒事の根本に渦巻くものは、憤(いきどお)りの感情です。自分が本来あるべき状態に置かれていないことの不当性・理不尽さを訴えるものです。関東民衆に於ける義経信仰は、曽我信仰と並んで根強いものがありました。江戸歌舞伎での荒事の「鳥居前」は、義経が兄頼朝のために尽くさんと・これほど無私に勤めているにも関わらず・すべてが悪い方に受け止められて・兄の不興を買ってしまう、理由はどうあれ・義経が理不尽な扱いを受けていることへの憤りを表明したものと考えられます。そのような江戸民衆の義憤を体現するものが、火焔隈の源九郎狐なのですねえ。

但し書きを付けますが、本稿は「川連法眼館」の観劇随想であるのに「鳥居前」のことを長々書いていますけれど、「千本桜」のなかの副主題と云うべき「肉親の絆」というテーマは、「鳥居前」のなかで初めて提示され・そこではそれと明確な形は見せないけれども、「吉野山道行」では佐藤忠信と兄継信の兄弟の絆ということで・さりげなくリフレインされて、それは最後の「川連法眼館」に於いて明確な形を成すと云うことです。「千本桜」を通して読むことで、そのような副主題の流れがおぼろげながら浮かび上がって来ます。

義経は後白河院から初音の鼓を拝領しながら、鼓の表と裏は「頼朝と義経」・「鼓を打て」とは「頼朝を討て」とのご託宣と察し、「打ちさえせねば・災いは起こるまい」と、自ら鼓を打つことは決してしませんでした。しかし、義経を取り巻く状況はますます悪化し、鎌倉との関係はのっぴきならぬものとなってしまいました。それもこれも義経が、後白河院に気を使って・初音の鼓を拒否もせず手放さず・鎌倉に対する態度を曖昧にしてきたことのツケであったと云えそうです。

「川連法眼館」で義経が源九郎狐の親思いに感じ入って・初音の鼓を与えたという認識はそれはそれで正しいですが、それだけではないのです。それだけであれば、ただ義経が源九郎狐に「あはれ」を感じたというだけに過ぎません。大抵の歌舞伎の「川連館」はそこで終わっていますね。まあそれでも一応の「川連館」にはなりますけれど、ただし、それだけだと義経が初音の鼓を「棄てた」ことの意味が見えて来ません。義経が初音の鼓を「棄てた」と云うことは、後白河院との関係と・鎌倉との関係、この二つの政治的関係を巡る一切の柵(しがらみ)を断ち切る覚悟をしたということです。つまり義経は自らの業(ごう)と・それに伴う運命(奥州平泉に寂しく死す)を受け入れたということになるでしょうかね。このことは「千本桜」全体に関わる・とても重い意味を持つことです。

一方、「千本桜」の表向きの流れとしては、平家公達の三人の偽首の謎を解き、二段目大物浦で知盛の、三段目鮓屋で維盛の謎が解かれ、ここまでで残りのもうひとつの謎(教経の件)だけが残されています。「千本桜」のなかで教経は吉野山の荒法師・横川覚範と名乗って身を隠していたと云う設定です。一方、史実では文治元年(1185)11月半ば頃、吉野に潜伏していた義経一行を鎌倉方が急襲した時、吉水神社から中千本を経て・上千本へと向かう長いクネクネの上り坂の途中(吉野花矢倉)で、追いかけてきた討手の覚範を佐藤忠信が迎え撃ち、これを倒しました。この虚実を混ぜ合わせると、吉野花矢倉でホンモノの忠信が覚範(=教経)を討ち取ったことで、八島の戦いで教経が兄・継信を射殺した仇を討ったことになるわけです。これで「千本桜」の・三つ目の謎が解決したことになるのです。(別稿「その問いは封じられた」をご参照ください。)

*吉野山にある横川覚範の墓。長い坂を駆けて・息があがっている覚範に、高台に待ち構えていた佐藤忠信が矢を浴びせて、覚範がひるんだところで、崖を駆け下りて一気に決着を付けたのです。詳しくはこちらご覧ください。

もっとも歌舞伎の「千本桜」通し上演で三つ目の謎の解決が原作(丸本)通りに行われた例は多分ないのではないですかねえ。今回(昭和51年・1976・11月国立劇場)の奥庭でも、義経は教経を討つことはせず・「さらば、さらば」で幕になりますし(つまり教経はどこかで安穏に余生を送るわけでしょうかね)、三代目猿之助(二代目猿翁)の「千本桜」通し上演(昭和55年・1980・7月歌舞伎座)に至っては、義経は安徳帝を教経に預けて・「さらば、さらば」で幕となるやり方で・口アングリでありました(これじゃあ教経は帝を押し立てて再起しかねないですね)が、上述の考察をお読みになれば、覚範(実は教経)に対して佐藤忠信が決着をつける形にならなければ・三つ目の謎の解決(歴史のIFが再び歴史の元に戻っていく構図)にならないことは、スンナリご理解いただけることと思いますね。(この稿つづく)

(R6・7・21)


3)安徳帝もまた業」

今回(昭和51年・1976・11月国立劇場)の「千本桜」通しでも残念ながら上演されませんでしたが、せっかく「川連館」奥庭まで上演して全体の筋を通そうと云う目論見ならば、是非ここを出して欲しかったなあと思う場面があります。「川連館」で源九郎狐が飛び去った後(通常の歌舞伎ではここで幕となります)、横川覚範(実は教経)が、川連館にいる義経を急襲します。覚範が一間に踏み込むと、そこに安徳帝が座っているではありませんか。義経は安徳帝を大物浦から吉野へ連れて来て、ここ川連館に匿(かくま)っていたのです。この時安徳帝が次のように言うのです。

『日の本の主とは生るれども、天照神に背きしか、我治めしる、我国の我国人に悩まされ、我国狭き身の上にも、ただ母君が恋しいぞ。都にありしその時は富士の白雪吉野の春、見まくほしさと慕えども小原の里におわします母上恋しと慕う身は、花も吉野も何かせん。あぢきなの身の上を思ひやれと計(ばかり)にて伏し転びてぞ。泣き給う御いたはしき勿体なさ。』

ここでの安徳帝はホント素直に、ハッとするほど子供らしく、「母上恋し」の心情を吐露しています。同時に感じるのは、どうやら安徳帝は役目を終え始めているらしいと云うことです。安徳帝は「神の座」から下りて普通の子供となり、肉声を発し始めたのです。安徳帝の「母上恋し」の台詞が、幼き日に父(義朝)を失い・母(常盤御前)からも引き離され・親の愛情を知らずに育った義経の心情に感応したものであることは云うまでもありません。またそれは鼓の親を慕い、「わが親に孝行が尽くしたい、親大事、親大事」とひたすら念じてきた源九郎狐の心情に感応したものでもあります。

義経は源九郎狐の告白を聞いて「源九郎は前世の業(ごう)、われも業」と涙しましたけれど、義経に云わせるならば、「安徳帝もまた業」であったのです。このことは大物浦での知盛の述懐を読み直せばよく分かると思います。

『果報はいみじく一天の主と産れ給へども、西海の波に漂ひ海に臨めども、潮(うしお)にて水に渇(かっ)せしは、これ餓鬼道(がきどう)。ある時は風波に逢ひ、お召しの船をあら磯に吹き上げられ、今も命を失はんかと多くの官女が泣き叫ぶは、阿鼻叫喚(あびきょうかん)。陸(くが)に源平戦ふは、取りも直さず修羅道(しゅらどう)の苦しみ。又は源氏の陣所々々に、数多(あまた)駒のいなゝくは、畜生道(ちくしょうどう)。今賎しき御身となり、人間の憂艱難目前に、六道の苦しみを受け給ふ。これといふも父清盛、外戚の望みあるによつて、姫宮を御男宮と言ひふらし、権威を以て御位につけ、天道を欺き天照太神に偽り申せしその悪逆、積りつもりて一門わが子の身に報ふたか、是非もなや。

とある通り、「父清盛、外戚の望みあるによつて、姫宮を御男宮と言ひふらし、権威を以て御位につけ、天道を欺き天照太神に偽り申せしその悪逆」と云うことこそ、安徳帝が生まれながらに背負わされてきた「業(ごう)」であったのです。平家一門は「安徳帝」という存在をその権勢の拠り所(理論的根拠)として来ました。しかし、平家の悪逆非道が積り積もって一門に報う結果となってしまいました。このような平家一門の「業」の真っただ中に安徳帝がいたのです。

前章において・「肉親の絆」というテーマは「千本桜」の副主題であると書きましたけれど、祖父清盛によって押し着せられた「業」の衣装を脱ぎ捨てて、安徳帝が一人の子供となって「母上恋し」の心情を素直に吐露し始めた時、平家公達の三人の偽首の謎を解くと云う「千本桜」の表向きの主題(「千本桜」を時代物たらしめる根幹)が溶解して行くのを感じますねえ。安徳帝に「母上恋し」と叫ばせるために浄瑠璃作者は「千本桜」の物語を書いたのかと思うほどです。(この稿つづく)

(R6・7・23)


4)松緑の狐忠信・梅幸の静御前

「川連館」を義経が源九郎狐の親思いに感じ入って・初音の鼓を与えたと、メルヒェンタッチで解釈することはもちろん出来ると思います。鼓を返してもらった源九郎狐は、幸せに暮らすことになるでしょうね。しかし、「千本桜」全体を通して浮かび上がってくる「肉親の絆」という副主題は、人間世界に於いては、これとはちょっと異なる色合いを示しています。それは(源九郎狐の場合は確かにそうなのだけど)必ずしも暖かく懐かしい結果になって来ません。むしろ「業(ごう)」という形で暗く悲しく響き合うのです。

「鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述ぶ、烏は親の養ひを育み返すも皆孝行。鳥でさへその通り。まして人の詞に通じ人の情も知る狐、なんぼ愚痴無智の畜生でも、孝行といふ事を知らいでなんと致しませふ。・・」

と源九郎狐は言いました。動物が人間に劣るなんてことは決して思わないけれど、鳥でさえも狐でさえも、親は子を思い、子は親のことを思う。本来ならば、人間界に於いても美しくありたいものです。しかし、人の世に在っては、前世の業のせいだか・因果のせいだか分かりませんが、必ずしもそうならないことが多いようである。そのことで義経も安徳帝も大いに苦しんだし、知盛も権太もまた大いに苦しんだのです。これが「千本桜」のなかに見える人間界の有り様です。人間とは何と愚かしい存在なのだろうと嘆息してしまいます。

このような過去から現在、現在から未来への業(ごう)の負の連鎖を止めることは、果たして可能なことでしょうか。例えば義経が初音の鼓を「棄てた」(=源九郎狐に返した)ということは、そのひとつの解答であったのかも知れませんねえ。そして安徳帝を小原の里に住まう母・建礼門院の元に送り届けることも、またひとつの解答になるのであろうと思います。こうして「千本桜」は大団円を迎えるのです。

ですから「川連館」をいつものように源九郎狐が飛び去るところで幕にするならば・メルヒェンタッチで終わらせてそれで結構ですけれど、「川連館」に奥庭を付けて・「千本桜」全体の筋を収めようとするならば、幕切れは結構重い意味を持つことになろうかと思います。残念ながら、今回の「千本桜」の幕切れはそのようになっていないように思いますが、丸本をもっとしっかり検討しなくてはならないと思いますね。

そこで今回(昭和51年・1976・11月国立劇場)の「千本桜」通しでの二代目松緑の源九郎狐(狐忠信)のことですが、松緑であると可愛い子狐という感じがあまりしません。むしろ無骨なオッサン狐であるようです。これは今回の松緑の三役に共通したイメージですが、どっしりと太い感触の源九郎狐なのです。当時の松緑は膝の状態が良くなかったせいもあって、動きも軽やかな印象はなくて、少々重ったるいところがあります。けれども・そのおかげでいつもの「川連館」のメルヒェンタッチがいくらか後退して、「川連館」の別の一面・陰惨な業(ごう)のドラマとしての側面が浮かび上がって来たように思われたのです。考えてみれば源九郎狐の年齢は四百歳くらいで・妻子もあるわけですから、このようなオッサンの源九郎狐もありだなと思いますね。これはとても興味深いことです。

それと梅幸がこの「川連館」の静御前でも良いですねえ。松緑のどっしり重い源九郎狐を「もののあはれ」の心でしっかりと受け止める静御前だと思います。

(R6・7・27)


 

 


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