谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界・その4:狐忠信
*「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界・その3: 二人静」の続きです。
*団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論の関連記事です。
「私」と津村は、菜摘の里にある大谷家という旧家に所蔵されている初音の鼓を見に立ち寄ります。(この大谷家は実在のお家です。)見せてもらった初音の鼓は胴だけで、皮が張っていないものでした。漆が比較的新しいように思われます。鼓に添えられた「菜摘邨来由(なつみむららいゆ)」と題する巻物に、静御前は菜摘の里まで逃げて 来て、この近くの井戸に身を投げて没したらしいことなどが記されているそうです。「吉野葛」のその場面を読むと「私」も、つまり取材した谷崎も同じだったと思いますが、何かまやかしものではなかろうかと思いながらも、ひょっとすると・・という期待をどこかでしていたようで、鼓と巻物を見てがっかりした風が伺えます。そこが小説のなかでクスッと笑ってしまいそうな味わいを醸し出しているわけです 。嘘で良いから、狐と鼓の関連が巻物にちょっとでも記述があれば、谷崎も飛び上がって喜んだかも知れませんねえ。そうしたら「吉野葛」のその後の展開も大いに変わったかも知れません。それは兎も角、「吉野葛」のなかでは、歌舞伎の「千本桜」と「葛の葉」に関連して、狐が重要な通奏低音になっているのです。
谷崎は晩年の「幼少時代」(昭和30年)のなかで、明治24年3月歌舞伎座での九代目団十郎による「葛の葉」の舞台、さらに明治29年1月明治座で五代目菊五郎が「義経千本桜」で、いがみの権太・狐忠信・覚範の三役を演じた舞台の思い出などを記しています。谷崎はこのなかで、旧作「吉野葛」は、母と見た九代目団十郎の「葛の葉」から糸を引いているだけでなく、もし五代目菊五郎のあの舞台を見ていなかったら、恐らくああいう幻想は育まれなかったとして、小説のなかで私は津村の口を借りて次のように述べたと云って、次の一節を引用しています。
『自分はいつも、もしあの芝居のように、自分の母が狐であってくれればと思って、どんなに安倍の童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行になると、母ー狐ー美女ー恋人ーという連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た目は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を狐忠信になぞらえ、親狐の皮で張られた狐の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)
谷崎の亡き母への想いが強く感じられます。と同時に、谷崎のそれは明治の昔の歌舞伎の思い出、特に狐のイメージと強く結びついているということです。 そこに小説「吉野葛」を読むヒントが隠されています。というわけで、今回は小説「吉野葛」に直接の記述はありませんが、「義経千本桜」と狐忠信(源九郎狐)に関連して、吉之助が取材して来た場所を紹介します。
源九郎稲荷神社は、奈良県大和郡山市洞泉寺町にあり、地元では「源九郎さん」の呼び名で親しまれて いる神社で、伏見稲荷・豊川稲荷と並ぶ、日本三大稲荷のひとつだそうです。源義経が兄頼朝の討手を逃れて吉野山に落ちのびた時に、白狐が佐藤忠信に化けて現れて、静御前を守って吉野まで送り届けたので、義経は狐に源九郎と名乗ることを許し、それが社名の由来になったと、江戸中期の通俗軍記「大友真鳥実記(おおともまとりじっき)」」に書いてあるそうです。 これは多分、元々この地に古くからあった白狐の伝承を取り入れて竹田出雲らが人形浄瑠璃「義経千本桜」を作ったのを、その人気にあやかって、 稲荷の伝承のなかに取り込んだということのようですが、まあ堅いことは云わないことにしましょう。それほど「千本桜」の人気が高かったということです。このため歌舞伎役者もこの神社をよく訪れるようで、最近では当代猿之助 さん・勘九郎さんも参詣に訪れたとのことです。(源九郎稲荷神社のブログはこちら。)源九郎稲荷神社は、五穀豊穣・商売繁盛のご利益があるそうです。写真に見えるのは、白狐の目に目玉を書き入れて裏に願い事を書く「白狐絵馬」です。毎年4月には子供たちが白狐のお面をつけて行列をする「源九郎稲荷春季大祭」が行なわれるそうです。
文治元年(1185)11月中旬頃、義経は吉野に落ち延びて、吉水院(現在の吉水神社)で静御前と数日ほどを過ごしました。これは旧暦なので、新暦に直すと1月上旬頃のこと かと思います。歌舞伎の「義経千本桜」の吉野を見ると 舞台は桜の花が満開ですが、「義経記」に描かれる吉野は、雪が積もった冬の吉野です。(だから人形浄瑠璃初演の時の「義経千本桜」には 満開の桜花はなかったのです。別稿「花のない千本桜」をご覧ください。)江戸後期の吉野山風景・「吉野山勝景絵図」
吉水院は、大峰山への入山許可書を発行する場所でした。当時の大峰山は女人禁制であった為、静はそれ以上に山の奥へ入ることが出来ず、泣く泣く義経と別れてウロウロしていたところを鎌倉方に捕らわれて、静は鎌倉へ送られることになりました。 (吉水神社のサイトはこちら。)
写真は、義経と静御前が過ごしたとされる吉水院(吉水神社)の潜居の間で、その右が弁慶思案の間になるそうです。つまり、ここが歌舞伎の「四の切(川連法眼館)」の場所ということにな るわけです。ところで川連法眼は「 四の切」では義経の忠実な味方ということになってますが、史実では義経を追う荒法師の頭なのでこれではまるっきり逆ですが、これも堅いことは云わないことにしましょう。(吉水神社は、吉野南朝の重要な史跡でもありますが、これについては別の回で触れます。)
鎌倉で、敵である頼朝を前にして、静御前が義経との別れの悲しみを歌った和歌が残されています。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」下の写真は吉水神社からちょっと戻りますが、吉野の金峯山寺の蔵王堂になります。立派なお堂ですねえ。歌舞伎の「義経千本桜」では、佐藤忠信(この時の忠信は源九郎狐にあらず)が追っ手の荒法師たちと派手な立廻りを繰り広げる場所が、この蔵王堂です。ここに祀られている 金剛蔵王権現像はその鮮やかな色彩が素晴らしいのですが、期間限定公開だそうで、今回は見られなかったのは、残念でした。
下の写真は、吉水神社から中千本を経て、上千本にある吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)へ向かう長いクネクネの上り坂の途中にある横川覚範のお墓です。「義経千本桜」では 、壇の浦で死んだはずの平教経が生き延びて、横川覚範と名を変えて吉野に潜伏していたという架空の設定になっていることは、ご存じの通りです。史実の横川覚範は比叡山横川で修業した客僧で、武芸に優れており、吉野一の荒法師と呼ばれた勇士で した。弁慶みたいな豪の者だったのです。(金峯山寺のサイトはこちら。)
史実では、逃げる義経一行を追って坂を駆け上がってきた覚範は、高台に待ち構えていた佐藤忠信に一騎打ちを挑まれて、この場所で討たれました。忠信が覚範を待ち構えていたのが、覚範の墓のある場所からすぐ見上げたところにあって、そこが「義経千本桜」の角書で吉野花矢倉と呼ばれているところです。なるほど見晴しが良くて、敵を待ち構えるには絶好の場所です。 長い坂を駆け上がって来て息があがっている覚範に、忠信はこの高台から矢を浴びせて、覚範がひるんだところで、この崖を駆け下りて一気に勝負をつけたのでしょう。
吉之助が今回訪れたのは冬の吉野でしたが、ちょうどこの辺から下界を見下ろすと、桜真っ盛りの季節ならばさぞや見事だろうなあということは、この景色から容易に想像できます ねえ。写真中央ちょっと上に金峯山寺の蔵王堂がはるかに見えます。ここまでずいぶん山を登ってきたんだなあ。
吉野水分神社を過ぎてさらに山道を登っていくと、奥千本に金峯神社があります。金峯神社は金峯山寺蔵王堂の奥宮に当たるところです。蔵王堂の周辺には雪はありませんでしたが、 ここ奥千本まで来ると、さすがに標高が高いので、周囲には雪が2・3センチ積もっていました。
金峯神社の社殿に向かって左の坂をしばらく下ると、義経の隠れ塔と呼ばれるものがあります。 ただし、元のものは明治29年に焼失し、現在のものは大正時代に再建されたものであるそうです。
兄頼朝の手が吉野まで伸びてきたことを知った義経は居を吉水院から奥宮へ移し、しばらくこの塔のなかに潜んでいました。敵の追撃を受けた時、義経は屋根を蹴破って逃亡したので、蹴抜の塔とも呼ばれてい ます。義経は、ここから恐らく下谷、宮滝の方角へ落ちて、最終的に遠く奥州を目指すことになります。屋根に雪が積もった隠れ塔は、その時の義経の寂しい気持ちをちょっと想像させます。(この稿つづく)
*写真は吉之助が、平成29年2月5日・8日に撮ったものです。
*続編:谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界・その5:葛の葉もご覧ください。