花のない「千本桜」
〜「義経千本桜・川連法眼館」
1)花のない吉野
『「義経千本桜」には桜の花が一輪も咲いていない』と指摘したのは演劇評論家渡辺保氏でした。あれあれ、文楽でも歌舞伎でも「吉野山道行」も「川連法眼館」も舞台は桜で一杯じゃないかと不思議に思ってしまいますが、本文を読みますとなるほど確かに桜の花は咲いていないのでした。吉野は桜の名所ですから、そこが舞台になっていれば当然ながら身渡す限りの桜の花の光景を思い浮かべてしまいますが、実は「義経千本桜」に出てくる吉野では桜の花が咲く時期にはまだちょっと早い時期が設定されているのです。したがって、「義経千本桜」には桜の花がないのです。
まず四段目冒頭に置かれている「道行初音旅」では、静御前が佐藤忠信(じつは源九郎狐)を同道して吉野への道中です。ここには「四方の梢もほころびて、梅が枝うたう歌姫の里の男が声々に」とあって、もちろん春のイメージなのですが、咲いているのは梅であって桜ではないことが分かります。段切れに「土田六田も遠からぬ、野路の春風吹き払い雲と見まがう三芳野の麓の里にぞ着きにける」とあり、二人はここで吉野山の麓にたどり着くことになります。
次の蔵王堂(歌舞伎では上演されませんが)では「桜はまたし枝々の梢淋しき初春の空」とあり、ここは麓の里より標高が高いので桜はもちろんまだ咲いていません。また、冒頭に百姓たちの会話があり、「花見にはまだ早いなあ」「何の花見であろうぞい」となりますから、ここでも桜の花はありません。さらに、研究書によれば、この場で川連法眼が吉野山の衆徒に見せる鎌倉からの書状の日付けが「正月13日」とあるので、鎌倉からの飛脚の日数を考えると、この場は「1月末頃」と考えるのが妥当だそうです。
四段目の切場、川連法眼館(前半が歌舞伎で言う「四の切」です)は、百姓が「子守神社の手前の一筋道左に見える大きな門のある所」と言っているので蔵王堂よりさらに上の場所になります。冒頭に「鶯の声なかりせば、雪消えぬ。山里いかで春を知らまし、春は来ながら春ならぬ」となり、桜の花がないどころか ・まだ雪が残っていることになっています。
さらに五段目の大詰め「吉野山・花矢倉」は吉野山の頂上に近く、冒頭に「山々はみな白妙(しろたえ)に白雪の、梢するどき景色かな」とありますから、これはもう全面に雪景色になっています。
義経が都落ちしてからどのようなルートで奥州へ逃げていったのかは正確なことは分かっていません。しかし後に吉野で捕らわれた静御前の証言で、雪の吉野で義経は静と数日間過ごしたことは確かのようです。だから「義経記」での吉野の場面はすべて雪景色なのです。このことは江戸時代の民衆の常識にあったことなので、さすがの「千本桜」の作者も変えようがなかったのでしょう。どうせ吉野を舞台にするなら一面を桜の花にする方が効果的に決まっています。恐らく作者もそうしたいと考えたでしょうが、どうしようもなかったので「春は来たれど」・「春風に誘われ来る」と、春のイメージを強調するに留めたのだろうと思います。
そういうことなので延享4年大坂・竹本座での「義経千本桜」初演の舞台にはもちろん桜は登場しませんでした。文楽でも歌舞伎でも最初は舞台に桜の花はなかったのです。
2)「千本桜」の意味
しかし渡辺保氏は、さらにこの浄瑠璃が題名に「義経千本桜」とあるのに作者が桜を登場させていないのは史実に縛られたというよりは、そこにもうひとつの別の意味があるのではないか、と推測しています。 吉之助は残念ながらまだ吉野へ行ったことがありませんが、渡辺氏は吉野へ向う列車の窓から奇妙な光景を見たと言っています。
「山際のわずかな畑のなかに一本の桜の老樹が満開の花をつけている。その桜の花の下に無数の木の柱が立っている。私には最初それが何だかわからなかった。墓のようでもあり、なにかの呪いのあとのようにも見える。それが卒塔婆であることに気がついたのは、もう車窓からその光景が消えかかる時であった。満開の花の下の卒塔婆。まるで白日夢のようであった。」(「千本桜:花のない神話」)
こういう光景が吉野にはよく見られるそうです。もともと大和地方というのは両墓制の風習が伝わっています。死者と葬る埋葬墓を比較的早く打ち捨てて、別の地に死者の霊を弔う石塔を立てます。こうした先祖を祀る墓を石塔墓(せきとばか)と呼びます。卒塔婆が桜の根元にあったのは打ち捨てられた古い埋葬墓で、そこに植えられた桜が大きくなったものだったのです。
さらに渡辺氏は京都にある千本通りの名前の起こりを取りあげています。それによれば、平安期には船岡山付近は蓮台野と呼ばれる葬送の地であったがそれに至る道に供養のために千本の卒塔婆が建てられ、それが千本通りの名前の由来であるといいます。
このことから渡辺氏は「義経千本桜」という題名の「千本桜」の由来は「千本卒塔婆」である、だからこの芝居には花がなかったのだ、と言っています。これは非常にユニークで面白い説だと思います。いろいろなことを考えさせます。はたして「桜=卒塔婆」かどうかはともかくとして、桜が「平家物語」を彩る無数の人々の鎮魂・供養の意味で使われているのであろうというのは納得できるところではないでしょうか。
3)満開の桜のイメージ
「義経千本桜」初演の舞台にはなかった桜の花が、現在の舞台では文楽でも歌舞伎でも、満開になって咲き乱れています。吉野の桜で埋め尽くされた華やかなイメージの裏に「平家物語」の世界に係った人たちへの鎮魂・供養の気持ちが隠されているということなのです。
「義経千本桜」上演の歴史を見ると、初演からしばらくは原作通りの桜の花のない舞台が続いたようです。しかしそれがやがて原作から離れて桜の花の満開の吉野の舞台に変わっていきます。吉野と言えば桜です。吉野が舞台ならばやはり桜は欠かせない、ということになったのかも知れません。これは通し狂言が少なくなって見取り狂言が多くなり、原作離れが進んだことも原因だと思います。
あるいはこのようなことも考えられます。原作における「花の咲いていない冬の桜」のイメージ、これは鎮魂の意味を込めていると同時に、更に加えて、無常のこの世の厳しさを観客に問うているようにも感じられます。「源平の戦いの後に我々は何を得たのであろうか・この虚しさは何だったのだろう」と、その戦いの不毛を問うているようにも思われます。
しかしその一方で作者は「土田六田も遠からぬ、野路の春風吹き払い雲と見まがう三芳野の麓の里にぞ着きにける」(「道行初音旅」)のように、その詩章のなかに吉野の暖かい春の日差し・春風のイメージを随所に散りばめています。そこには間近い「満開の桜」を観客にイメージさせるものが間違いなくあります。「満開の桜」は同じ鎮魂の意味をこめていると同時に、来るべき時代の再生を予告しているようにも思われます。だとすれば、舞台に満開の桜が登場してくるのもごく自然な発想のように思われます。
だから現在の「義経千本桜」の舞台が満開の桜で埋め尽くされていたとしても、その舞台イメージは「原作とは違う」と言って否定されるべきものではなく、それは「義経千本桜」の別の側面を描き出しているものだと言わねばなりません。演劇とは祭事でもあります。舞台の上で死者たちの鎮魂・供養が行なわれたとしても、それは華やかに行なわれなければ死者の魂の慰みにはならず祭事にはなりません。満開の桜の「義経千本桜」は江戸の観客の美意識が求めたものなのかも知れません。
(H13・10・14)