放生会の物語〜四代目梅玉の与兵衛
令和6年4月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記〜引窓」
四代目中村梅玉(南与兵衛後に南方十次兵衛)、六代目中村東蔵(母お幸)、三代目中村扇雀(女房お早)、四代目尾上松緑(濡髪長五郎)他
1)放生会の物語
本稿は令和6年4月歌舞伎座での梅玉の与兵衛による「引窓」の観劇随想ですが、例によってまず作品周辺を逍遥したいと思います。「引窓」のドラマには考えるべき要素がまだまだ多いと感じるからです。
歌舞伎の悲劇は義理と人情の相克によって起きる、そのようなドラマが歌舞伎に多いことはご承知の通りです。例えば「寺子屋」の松王は、主筋の菅秀才を助けるために我が子・小太郎を身代わりに立てる、そこに主人に対する忠義と我が子を殺さねばならない親としての悲しみの対立があり、幕切れに於いては犠牲が「他者」に然りと受け取られる。しかし、どこかに苦い懐疑が依然として残る。「然り。しかし、これで良かったのか」という形でドラマは厳粛に締められる、これが歌舞伎のような近世悲劇に多い形式です。
「引窓」に於いても、この構図は確かにあります。与兵衛は郷代官に取り立てられたが、初仕事は逃亡する濡髪を捕縛することでした。しかし、濡髪は義理の母お幸の実子であった。濡髪を捕まえれば、お幸の嘆きは如何ばかりか。一方、濡髪を逃せば、与兵衛は自らの職務を裏切ることになる。結局、お幸の気持ちを慮った与兵衛は見て見ぬふりをして濡髪を逃してしまうのですが、ここにも義理と人情の相克が確かに見えます。しかし、多くの歌舞伎の悲劇と同様に、「引窓」の幕切れを「然り。しかし、これで良かったのか」という感じに強く読み過ぎると、「引窓」のドラマがあらぬ方向へ向かってしまうのです。「引窓」の感動は義理と人情の相克によって起こされるものではなく、別種の感情のなかでドラマは動いているのです。
それが証拠には、「引窓」の幕切れの感動はどこか暖かい・解放された感覚がしないでしょうか。「引窓」の感動は、「良いんだ、これで良かったのだ」と自らに言い聞かせるような味わいがします。確かに与兵衛は自らの職務を裏切りました。これは場合によっては重大な罪になることかも知れませんが、「良いんだ、これで良かったのだ」と自分を納得させたところで、「引窓」に於いては、とりあえずそのことは忘れ去られます。そこに葛藤はないのです。
どうして「引窓」ではそうなるのか?というところが大事なところです。それは「引窓」が放生会(ほうじょうえ)の物語であるからです。放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放ち・殺生を戒める宗教儀式です。元々はインドに発し、中国を経由して日本に伝わったものだそうです。放生会は全国各地のお寺で行われる行事ですが、上方では京都府八幡市の石清水八幡宮で旧暦8月15日に行われる放生会が特に有名です。与兵衛の家は、八幡の里にあります。「引窓」のドラマは、明日が地元の石清水八幡宮の放生会だという前夜・14日の晩の出来事です。つまりほとんど満月に近い明るい夜です。
このように放生会とは捕獲した魚や鳥獣を野に放ち・殺生を戒めるものですから、これは慈悲の実践として行われるものです。人間はみな生き物を殺し・これを食することで生きているのです。人間とは日々殺生をし、心ならずも罪なことをしながら生きている存在です。だから頂いた生命(いのち)に感謝の心を忘れず、無益な殺生をしないように自らを戒めようと云うのが、放生会です。
つまり与兵衛が濡髪を逃がすことが放生会の行為に見立てられるわけですが、そう単純なものではありません。これだけではまだ終わりません。ここで放生会の慈悲の心を、もっと範囲を広くして考えてみたいのです。人は誰しも一人だけで生きているのではありません。戦乱の世が落ち着いて社会制度が整ってきた江戸中期に於いては、組織のなかでの個人、社会のなかでの個人という問題が次第にクローズアップされて来ます。人は生きているなかで、他人との利害関係に悩み苦しむ場面もあり(もちろん楽しい場面だってあるわけですが)、そのために傷付き、或いは意図せずとも他人を傷付けてしまうことも起こり得るわけです。こうした軋轢(あつれき)を避けるためのひとつの集団の知恵として道徳・法律が生まれるわけです。しかし、場合によっては、社会のなかで余計な波紋を立てないように、道徳・法律が個人の気持ちを無理やり押さえ付けるという形で逆方向に作用することも起きて来ます。このような例が「引窓」にも見えます。
与兵衛はお幸の気持ちを慮って濡髪を逃がそうとしますが、濡髪はなかなか納得しません。濡髪はお幸(実母)に次のように言い聞かせます。
「一人ならず二人ならず四人まで殺した科人。助かる筋はござりませぬ。なまなかな者の手に掛からうより形見と思ひ母者人。泣かずとも縄をかけ、与兵衛殿へ手渡して、ようお礼を仰しゃれや。ヤコレさうなうてはこなた、未来の十次兵衛殿へ、立ちますまいがの」
どうせ捕まる身ならば、与兵衛殿に縄目を受けたい。与兵衛殿に功を立てさせるのが、義理の母としてのこなたの務めであろう。でないとあの世にいらっしゃる十次兵衛殿(お幸の亡き夫・与兵衛の父)に対して申し訳が立たないではないか。与兵衛殿にその職務を裏切らせることは出来ないと云うのです。確かにこれは義理と本分を弁(わきま)えた男の理屈です。これに対してお幸はこう言います。
「ヲヽ謝った長五郎。よう云ふてくれたな。アいかさま思へば私は大きな義理知らず、まことを云はばわが子を捨てても、継子に手柄さするが人間。畜生の皮被り、猫が子を銜へ歩くやうに、隠し逃げうとしたはなにごと。とても遁れぬ天の網一世の縁の縛り縄。お早その細引でも取って下され」
これは、本能に従って猫が子供を咥えて可愛がる、これは畜生のすることだ、ただ母親の本能に従って我が子濡髪を匿(かくま)おうとするとは私は何と義理知らずか、我が子を捨てて継子に手柄させるのが正しい人の道だと言っています。しかし、ホントにお幸が心底そのように思ってこの台詞を言っていると思いますか?自分ではそう思っていないのに、お幸は必死で自分を押さえつけようとしているのです。これが人間としての正しい道だ、これが今は亡き十次兵衛殿・継子の与兵衛に対する私の責務だと、必死で自分に言い聞かせようとしているのです。実子の濡髪を匿うことは畜生のすることだと自己否定しようとしているのです。これに対する与兵衛の答えは、こうです。与兵衛は濡髪を縛った綱を切り放って次のように言います。
「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手においきやれ」
ここで言葉にしない与兵衛の気持ちはどんなものでしょうか。吉之助が読むのならばこうなりますね。
『お母さんは自分の子を思う気持ちを否定することはないよ。それは人間が持つ最も美しい感情なのだ。だからお母さんが濡髪に、逃げられるだけは逃げてくれ、生きられるだけ生きてくれ、そう願うのは当然のことだ。お母さんはその気持ちを恥じることはない。僕にはお母さんの気持ちが分かるよ、だって僕はお母さんの子なんだもの。・・そう云えば明日は放生会であったよなあ。』
これが「引窓」の主題です。これは慈悲の心であって、ここでは与兵衛は義理と人情の相克から完全に解き放たれています。なぜならば「引窓」は放生会の物語であるからです。(この稿つづく)
(R6・4・23)
『恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも、旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)
罪は罪として憎むべきことですが、法の名においてすべてが十全に裁き切れるものではありません。「それで良いのか・・」と感じる未解決なものが必ず残ります。そこを埋めてくれるものは、結局、人情しかないのです。つまり慈悲の心です。江戸の民衆に「大岡政談」が人気があったのは、まさにそこが理由でした。
例えば「ソロモンの判決」として知られる旧約聖書列王記にある有名な挿話は、次のようなものです。ふたりの女が、どちらの女もその子供は自分が産んだ子だと主張して争っています。賢者ソロモン王は、その間に立ち、「その子を二つに割き、半分づつ我が子とせよ」という判決を出しました。しかし、ひとりが涙ながらに子供を諦め・譲ろうとしたのを見て、「その女こそ実母である、子供はその女に与えよ」と言います。この挿話は、中国宋の時代の裁判物語である「棠陰比事(とういんひじ)」を通じて日本に渡り、「大岡政談」の一話としてもよく知られているものです。古今東西を問わず法律・道徳が完全にすべてを仕切ることは出来ない、そのことを誰もが知っているのです。「政談」物の根強い人気はそこにあります。
吉之助は「引窓」の与兵衛の行為が「ソロモンの判決」だと言うつもりはありませんが、母親が罪を犯した子供をふん縛って警察に突き出すことが出来ない・逃げてくれと言って泣いているのを見て、それは「本能に従って猫が子供を咥えて可愛がる行為だ・これは畜生のすることだ」と断ずることは決して出来ませんねえ。与兵衛は、このような非人間的な理屈に対して静かに抗議しているのです。人間が真の意味で人間的であることの意味を与兵衛は問うています。「引窓」とはそのようなドラマなのです。
与兵衛が刀を抜いて濡髪を縛った縄を切ると同時に引窓がガラガラと開いて、室内がパッと明るくなります。
「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手においきやれ」
このように与兵衛が言う時、これは「与兵衛が嘘を言っている・こじつけている」と云うことではないのです。与兵衛は確かに「真実」を語っています。旧暦8月14日の晩のほぼ満月の光はホントに明るいのです。江戸期の観客はこのことを知っていますから、舞台ではこのことの視覚上の再現は叶いませんが、観客の心のなかで舞台はホントにパッと明るくなるのです。与兵衛一家は月の光に祝福されていると云うことです。「引窓」の幕切れをそのように「心」で見たいものですね。(この稿つづく)
(R6・4・24)
ここまで「引窓」幕切れを考察しました。今度は筋を遡って、お幸が濡髪の人相書を売ってくれと与兵衛に頼む場面を見てみます。歌舞伎の台本では、原作にかなり加筆がされています。(詳しくは別稿「与兵衛と長五郎・運の良いのと悪いのと」を参照ください。)
『「・・母者人、あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ、二十年以前ご実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞きましたが、そのご子息は今に堅固にござりまするか」、「ササそれじゃによって、その絵姿、どうぞ売ってくだされいノウ」、「鳥の粟を拾ふやうにして溜め置かれしその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」、「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひに替へられぬわいの」、「そりゃそれほどまでに・・」、〽大小投げ出し、「両腰差せば南方十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの南与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい。」』(歌舞伎での「引窓」台本)
歌舞伎の台本では、与兵衛に「あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ」と言わせて、自分(与兵衛)は継子・あちら(長五郎)は実子という差異を観客に強く意識させます。しかし、これを与兵衛が「僕はあなたの子ではないのか、継子の僕を愛してないのか、やっぱり腹を痛めた実子の方が大事なのか」と言って継母を責めていると読んでしまうと、もう「引窓」のドラマはまったく違う方向へ行ってしまうのです。
与兵衛は「生みの母の愛とはこのようなものなのか」と心底感動しているのです。「義母さん(お幸)はここまで継子の自分(与兵衛)を大事に育ててくれた。そんな優しいお母さんだもの、実子の濡髪のことを思って、こんなに取り乱すのも当然のことだ。我が子を思う母の愛とはこんなにも深いものなのだ。義母さんは継子の自分にも変わらぬ愛を注いでくれた。有難いことだ」と心の底から思っているのです。
とすれば「あなた何故ものをお隠しなされまする、私はあなたの子でござりまするぞ」という台詞は、優しく慈愛を込めて老母に語りかけるように言わねばなりませんね。もうひとつ、「鳥の粟を拾ふやうにして溜め置かれしその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」の台詞も、むしろサラサラと明るく言った方が良いことになる。ここでの与兵衛は、母親の真の愛に触れて感動してワクワクしているに違いありません。
こうして濡髪の人相書をお幸に渡してしまうと、ここから幕切れまで与兵衛の決心は揺らぐことはありません。そこに「僕はあなたの子ではないのか、継子の僕を愛してないのか」なんて葛藤など与兵衛には微塵も見えません。(この稿つづく)
(R6・5・2)
4)放生会の行為の意味・「浮無瀬」との関連
今回(令和6年4月歌舞伎座)の「引窓」での梅玉の与兵衛の工夫は、前半(二階に潜む濡髪を発見し、お幸に人相書を渡すまで)を、軽やかなタッチで・剽軽なところも交えて描いてみせたことだと思います。郷代官に取り立てられて・得意気な与兵衛の気持ち、女房や母に喜んでもらいたい与兵衛の気持ちがよく表われていますが、実はそれだけではないかも知れません。梅玉は平成27年・2015・9月歌舞伎座で「浮無瀬」(うかむせ・「引窓」に先立つ・大坂で笛売りなどして放埓していた頃の与兵衛を描いた場)の与兵衛を演じました。この時の経験を活かして、「引窓」の与兵衛の性格に、「浮無瀬」からの連続性を持たせようとしていると感じます。
実際「引窓」だけで考えると与兵衛には生真面目なキャラクターしか浮かんで来ませんし、それで十分なように思われます。しかし、「双蝶々曲輪日記」全体の流れから「引窓」の人間関係を眺めると、与兵衛の性格付けはそれほど単純なものではなさそうです。それは濡髪がボソッと漏らす「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと・・」という述懐に深く関連するものです。つまりそれは与兵衛が大坂時代に犯した或る殺人のことに帰せられるのです。(これについては別稿「引窓の様式」と「与兵衛と長五郎」をご参照ください。)
大事なことは、この与兵衛の誰にも言いたくない「殺し得」の過去は、「引窓」のドラマに表面上何の影響も及ぼさないことです。与兵衛が縄目を受ける結末になりません。伏線がまったく生かされていないように見えるのです。それでは「殺し得」の過去が与兵衛の放生会の行為にどんな影響を与えているのでしょうか、浄瑠璃作者はどのような意図で与兵衛にこのような暗い過去を与えたのでしょうか。一旦「浮無瀬」の場を知ってしまうと、「引窓」を見ながら吉之助はこのような疑問から逃れることは出来ないのです。恐らく梅玉もそうなのだろうとお察しをします。しかしまあ「引窓」だけ見取りで見る分には関係ないかも知れませんけれど、役者の良心として・或いは批評家の良心として、そんなこだわりの気持ちをずっと持ち続けていたいですね。
ですから梅玉の与兵衛は前半を軽やかなタッチで通しており、与兵衛が「丸腰なれば今までのとほりの南与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」と言ってお幸に人相書を渡す場面では演技が淡泊でアッサリし過ぎに見えるかも知れません。しかし、恐らくそこのところが梅玉の工夫だと思います。自分が今しようとしていることが、現在の職分を裏切る行為だと云うことを、与兵衛はもちろん分かっています。分かっているからこそ、軽やかに割り切らないと自分を許せなくなるのです。だからこの決断の「軽やかさ」自体が、与兵衛のなかに在る強烈なパラドックスなのです。
捉えた魚や鳥獣を野に解き放つ放生会の行為は確かに慈悲の心で行うものです。しかし、それは上から目線で慈悲を「施してやる」ものではありません。日頃は殺生を行っている我が身の罪深さを思いやり、放生会の慈悲の心によって自らも浄化されたいと願う心なのです。「引窓」の与兵衛の行為も同じ様に考えてみたいと思うのです。濡髪と与兵衛の境遇に大した違いがあるわけではないのです。それは「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと・・」と云う・それだけの違いです。今は追う身・追われる身である二人ですが、運が悪ければ、与兵衛が追われる身であったかも知れません。このことを一番良く分かっているのは与兵衛自身です。ですから与兵衛は上から目線で濡髪を「逃してやる」のではなく、放生会の行為によって自分自身の罪も浄化されたいと願っているのです。「引窓」の感動は「良いんだ、これで良かったのだ」と自らに言い聞かせるような味わいがすると云うのは、そこのところだと思いますね。
(R6・5・3)