八代目幸四郎の河内山・十四代目勘弥の直次郎
昭和43年10月国立劇場:通し狂言「天衣紛上野初花」
八代目松本幸四郎(河内山宗俊)、十四代目守田勘弥(片岡直次郎)、四代目中村雀右衛門(三千歳)、八代目市川中車(金子市之丞/高木小左衛門)、二代目中村又五郎(暗闇の丑松/松江出雲守)、二代目中村芝鶴(上州屋後家おまき)、三代目尾上鯉三郎(按摩丈賀)、五代目坂東玉三郎(腰元浪路)他
(宇野信夫・補綴・演出)
1)「天衣紛上野初花」の新しさを探して
本稿で紹介するのは、昭和43年(1968)10月国立劇場で「明治100年記念芸術祭参加」として上演された通し狂言「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」の舞台映像です。主役の河内山を八代目幸四郎、直次郎を十四代目勘弥が勤めます。補綴・演出は宇野信夫によります。
「天衣紛上野初花」が初演されたのは、明治14年(1881)3月新富座でのことでした。この時の河内山は九代目団十郎、直次郎を五代目菊五郎が演じました。(ちなみに本作は明治7年10月河原崎座で上演した「雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)」を全面改訂して、まったく面目を一新したものでした。)この芝居が企画されたのは、この年3月1日から上野で第2回内国勧業博覧会が開催されることになっていたので・このために上京する人々を当て込んだのです。はるばる遠方から東京にやってくる人たちにとって博覧会はもちろんのことですが、芝居見物も重要な目的でした。もう明治14年ですから風俗も大分変わったことでしょうが、ここでちょっと古き良きお江戸の昔をお愉しみ頂きましょうという趣向であったわけです。
もうひとつ大事なことは、この芝居が初演された明治14年(1881)と云う時期のことです。明治10年代は演劇改良運動が最も激しかった時期でした。歌舞伎の荒唐無稽な筋立てを排し、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な芝居を作ることが求められました。そのなかで昔ながらの歌舞伎の旧弊の象徴として糾弾されたのが黙阿弥でした。これに嫌気が差した黙阿弥は、明治14年11月に「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を書いて二代目新七を改めて・黙阿弥を名乗って引退宣言してしまいました。と云っても周囲が完全引退を許してくれないので・その後も黙阿弥の執筆は続きますが、遡ってみれば「天衣紛上野初花」執筆最中の煮えくり返った黙阿弥の心中が察せられると云うものです。
ここで吉之助が考えてみたいことは、そのような黙阿弥が煮えくり返った心のうちが「天衣紛上野初花」にどれだけ反映されているかと云うことです。一般に歌舞伎の解説本に書いてあることは、「明治維新以後・散切物やら活歴やら・そんな時代におもねた芝居を書かざるを得なかった黙阿弥が久しぶりに江戸の世話物らしい演し物を書いたと見物は拍手喝采した」と云うようなことです。まあ事実としてはそんなものかも知れないが、それならばそれは黙阿弥が「昔ながらの手法で芝居を書いた」と云うことでしょうか。それでは演劇改良運動の頑固な大先生方をギャフンと言わせることは出来ないはずです。彼らの鼻を明かす為の「新しい要素」が「天衣紛上野初花」のなかに含まれていなければならないと思います。吉之助としては、そこに時代の荒波に抗した老黙阿弥の気骨を見たいのです。それにしては現行歌舞伎でみる「河内山」や「直侍」は、幕末歌舞伎とあまり変わらぬ感触に収まり過ぎていないでしょうか。明治14年に書かれた「天衣紛上野初花」はもう少し新しい感触、つまり大正期に登場することになる二代目左団次の新歌舞伎の先駆ける・どこか新しい感触を備えていても宜しいのではないか。吉之助はそんなことを考えるのですがね。(この稿つづく)
(R6・3・15)
「天衣紛上野初花」は、二代目松林伯円(しょうりんはくえん・松林は「まつばやし」とも)の講談「天保六歌撰」を元に黙阿弥が作劇したものと云うことはよく知られています。吉之助は講談の分野にさっぱり疎いのですが、伯円のことを調べてみると、その軌跡が同時代の黙阿弥とオーバーラップして、まことに興味深く思われました。そこで本稿で伯円のことにちょっとだけ触れておきます。
まず伯円の講談「天保六歌撰」は、明治6年(1873)11月に初めて高座に掛けられたようです。講談はそのネタが初めて高座に上げられた時にどんな内容であったか、厳密なところは分かりません。口演されるたびに内容がどんどん変化・成長していくのが当たり前のものでした。だから狂言作者が講談師のいつの口演を元にしたか・どこが狂言作者の工夫かなど正確な比較検討は難しいようです。ともあれ講談「天保六歌撰」を元にしたとされる黙阿弥の「雲上野三衣策前」(四幕十一場)が初演されたのはその翌年・明治7年(1874)10月河原崎座のことでした。この時の河内山は九代目団十郎・直次郎が四代目関三十郎でした。これに黙阿弥が大幅に加筆した「天衣紛上野初花」(七幕十六場)が初演されたのは明治14年(1881)3月新富座でのことで、先に述べた通りこれは内国勧業博覧会のための上京客を当て込んだものでした。この時の河内山は九代目団十郎・直次郎が五代目菊五郎で、大成功を収めたものです。
さて二代目松林伯円は天保5年(1834)に武家の四男として生まれました。芸好きが高じて・養子先を勘当されたり、講談をやろうと入門しても見込みがないと突き放されたり、散々苦労しながら修行を続けましたが、酒と博打が過ぎて女房からも見放され、安政5年(1858)9月半ばの夜、大川に架かる永代橋で身投げしようと・欄干に手をかけてボーッとしていたそうです。その時フト足元を見ると何やら光るものがある。拾ってみるとこれが二分銀で(後年の伯円の話ではそれが二分金に脚色されているそうです)、途端に現実に引き戻されて空腹を感じ、その二分銀を持っておでん屋に駆け込んだ。満腹すると死ぬ気をすっかりなくしてしまった。そこで今後の身の振り方をじっくり考えた結果、伝手を頼って芝居の四代目小団次に泣きついたと云うのです。
伯円は小団次の世話になりながら、小団次の前で口演しながら批評をもらって芸を磨く。小団次の方は伯円の講談が自分の芸風にマッチすることから、講談の劇化を思い立つ。これが黙阿弥の筆によって、例えば「小猿七之助」が「網模様燈籠菊桐」(あみもようとうろうのきくきり)、「鼠小僧」が「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんあずまのしんがた)となって芝居に掛かることになります。もともと講談と歌舞伎との関係は深いものがあったのですが、小団次が間に入ったことで、講談のなかの細密な描写が、芝居のなかの細やかな写実に取り入れられていく、またその逆もあるということが起こったのです。互いが影響しあって、写実(リアリズム)の芸風を確立していったのです。
ここで吉之助は黙阿弥のことを考えるわけですが、嘉永6年(1853)秋の・多分月の明るい夜に、黙阿弥(当時は二代目新七)が両国橋から身投げしようとして・かろうじて思いとどまった話と、伯円の身投げの話とがダブってくるわけです。黙阿弥も伯円も、まったく似たような経緯で小団次に絡んでいくのです。この翌年・安政元年(1854)4月江戸河原崎座初演の「都鳥廓白浪」から、黙阿弥と小団次との約12年に渡る提携関係が始まります。(別稿「黙阿弥さんも苦しうござんしたろうねえ」を参照ください。)
こうして世の人は、役者の小団次を「どろぼう小団次」、狂言作者新七を「どろぼう新七」、講談の伯円を「どろぼう伯円」と呼んで、三人まとめて「どろぼう三幅対」と呼んで褒め囃しました。当然小団次を通じて黙阿弥と伯円も親しい付き合いをしたと思います。それにしても巷間の黙阿弥の評伝には伯円関連の記述が異様に少ないように思われますねえ。これを検証することは困難でしょうが、黙阿弥-伯円が作品上で相互に影響しあっていたと云うことは大いにあり得ると思います。
伯円が講談「鼠小僧」を構想した時は、伯円は席の掛け持ちの途中、浅草から山の手まで毎日同じ道を通らず、道筋・風景から、大名屋敷・旗本屋敷、神社仏閣、塀のたたずまい、どぶ板の状態までも、詳細にメモを取り、これを鼠小僧が逃げる道筋や場面描写に生かしたそうです。或る時、弟子の円玉が、盗賊二人が九段坂を上る場面を描写するのに、「神田鍛冶屋町を出て、九段かかり、阪を上り切って御堀について右へ切れて」と語ったのを、高座が終わった後に伯円が呼び止めて、「アンナことじゃあ世話物は読めないぜ、少しも凄みが利かない」と言ったそうです。こう演るんだ、
『牛ヶ窪を左に見て爪先上がりに九段坂を上り、田安の御物見を横ににらんで、御堀について左に切れ番町を出外れると、市ヶ谷月桂寺の九つの鐘が聞こえました。オイ兄い大分空が悪くなった、一降かかるぜ。』
「牛ヶ窪という宜い道具があるじゃアないか」とそう言ったそうです。「月桂寺の九つの鐘」の響きが三次元の空間を醸し出しますねえ。これが小団次の仕込みかは分かりませんが、眼前に情景が浮かんで来る・或る種「映画的」とも言えるような写実(リアリズム)とリズム感、このようなことは幕末の黙阿弥-小団次の提携作にも共通して見られるものだと思います。(この稿つづく)
付記:本稿での二代目松林伯円については、目時美穂著:「たたかう講談師〜二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を参考にしています。
(R6・3・30)
明治維新を目前にした慶応2年(1866)5月8日に四代目小団次が亡くなりました。(これについては別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」を参照ください。)黙阿弥はもちろん・伯円にとっても後ろ盾を失った衝撃は大きかったはずです。後年伯円は周囲に小団次の思い出話をよくしたそうです。しかし、小団次が亡くなった当時の伯円の心境を語った記録は残されていないそうです。逆にそんなところから伯円の気持ちが察せられるかも知れませんねえ。しかし、明治の世になっても「どろぼう伯円」の人気が衰えることはありませんでした。
明治元年(1868)伯円は下谷練塀町(現在の千代田区神田練塀町)に引っ越しました。練り塀とは、瓦と練り土を交互に積み・上に瓦を葺いた塀のことを云い、武家屋敷や寺院の塀によく使われたものです。この時伯円は知り合いから、「おめえの住んでいる家は、もと河内山というお城お坊主の住居だったそうじゃないか。こいつは茶道なんかに似合わない肝っ玉のふてえ男で、ふんづかまって牢屋で一服盛られて死んだそうだ。調べてみたら面白い読み物が出来るかも知れないよ」と言われたそうです。それで河内山に興味を覚えて、出来上がったのが講談「天保六歌撰」なのだそうです。当時は河内山の屋敷の面影がそのまま残っていました。伯円のことですから、当時の江戸の雰囲気なども取り入れながら、綿密な調査を重ねたうえで話を創ったのです。ただし史実の河内山宗春(芝居では「宗俊」とする)が牢屋で毒殺されたのは文政6年(1823)7月のことで・「天保六歌撰」とすると年代が合わないですが、その辺は適宜設定を変えているのです。
市井の小悪党を主人公にした話なので「どろぼう伯円」に如何にも相応しい題材に思われますが、伯円の生涯を調べてみるとちょっと面白い事実に突き当たります。明治5年(1873)の或る日のこと、伯円は東京府庁舎に出頭を命じられました。行ってみると髭をたくわえて洋服を着た高圧的な役人が出てきていきなり「どういうわけでお前のことを泥棒伯円というのか、お前は維新前に賊でもしていたのか」と言ったのだそうです。驚いた伯円が説明をすると、「たとえ講談にせよ賊のことを演ずるは風況上甚だ宜しからざる事である。以来は改心して泥棒をやめたが良かろう」と説教されました。実は明治5年4月、明治政府は教部省を通じて通達を出し、諸芸の関係者が呼び出しを受けていたのです。目的は、日本を近代国家とするために、まずは国民に自分が日本人であることを理解させる、このために芸能関係者に風紀上の指導を行うというものでした。伯円への呼び出しも、こうした政策の一環であったわけです。
この時伯円は「泥棒するところばかり聞けば為にならぬものでしょうが、終いには泥棒は捕縛され獄中で苦しんだ上に重い処罰を受けます。さすれば話をお終いまで聞けば風教上の利益にもなります」と抗弁したようですが、帰り道につらつら考えてみるに、「なるほど開明の世の中に泥棒の異名も面白くない」と思い、「これが改良講談の緒(いとぐち)とはなった」と後年伯円は回想しています。その後伯円は題材を新聞記事に求めてみたり、西洋小説の翻案物などに挑戦したりします。(この辺も、例え不承不承であろうが、散切物や翻案物の芝居を書かねばならなかった黙阿弥と重なってくるようです。)
と云うことは、「天保六歌撰」の最初の口演が明治6年(1873)11月なので、これは東京府庁舎からの呼び出しの後のことです。恐らくこの時点で取材調査は終わっており・講談の構想がかなり出来上がっていたはずです。もしかしたら「天保六歌撰」は前年(明治5年)の東京府庁舎からの呼び出しが多少なりとも影響してないこともなかろうと吉之助には思えるのです。単純に過ぎし日の江戸のノスタルジーを描いたわけではなかろうと思うのです。
例えば、今回(昭和43年10月国立劇場)の通し狂言「天衣紛上野初花」の脚本演出を担当した宇野信夫は、当月筋書の「演出者の言葉」で次のように書いています。
『(従来歌舞伎で演じられる)直次郎は、まことに江戸前のさっぱりとした人間で、いわば色男の英雄みたいな感じがするのであるが、講談での直次郎は、いうところの、イヤな奴になっている。黙阿弥の本は、演じた役者が五代目菊五郎であるし、小意気な男にはなっているけれども、(いつもの「直侍」で出る)蕎麦屋と寮の場以外に出てくる直次郎は、さすがに、ところどころ原本(伯円の講談)の匂いがする。つまり小悪党で、女郎を喰物にする色男である。二幕目の大口の回し部屋で、三千歳が借金で首が廻らないから心中しようというと、直次郎は金で死ぬのはイヤだと言う。そうして、金子市之丞がお前に首ったけなのだから、市之丞に無心をしろとそそのかす。(中略)そんなわけだから、今度の直侍を見て、裏切られたような、夢を破られたような気のする向きがあるかも知れないが、演出者としては、江戸末期に生きていた御家人、何の目当てもなくゴロついていた市井の人間を出してみたい。これは三千歳にもいわれることだ。今までの寮の場だけの三千歳は、美しくたおやかであるが、もともとこの三千歳は借金で首の廻らぬ女郎である。直次郎のようなやくざに惚れるぐうだらな女である。要するに、河内山の大悪党、小悪党の直次郎、くずれた三千歳、この三人を主にして、江戸末期の人間を出してみたいと思っている。』(宇野信夫:「演出者の言葉」・昭和43年10月国立劇場筋書)
このように宇野信夫の目を通して読み取れる伯円の講談「天保六歌撰」の感触は、確かに写実(リアリズム)に違いないが、ノスタルジーに味付けされていないものです。それは伯円の醒めた観察眼に裏付けされています。彼らは幕末江戸の市井のただのちっぽけな悪党に過ぎませんが、煩悩を抱えつつ・それでも懸命に生きている、そのような人間模様を伯円は突き放した筆致で描いたのですね。(この稿つづく)
(R6・4・1)
明治7年(1874)10月河原崎座で「雲上野三衣策前」が初演された時、伯円は「釈(しゃく)の河内山より劇の河内山へ」と記した引き幕を九代目団十郎に贈りました。また明治14年(1881)3月新富座で改作の「天衣紛上野初花」の初演では、今度は団十郎から返礼として「釈の河内山君へ 劇の河内山より」と記した美しいビラが贈られたそうです。伯円は、自分の講談を題材にした芝居だけでなく・関心がある芝居は必ず2回見たそうです。講談のどこの筋を芝居ではどういう風に変えたか・そんなところも含めて、次の新作のための参考にしたのだと思います。伯円は弟子にも芝居を見ることを盛んに勧めたそうです。
黙阿弥が原作である講談「天保六歌撰」のどこをどのように変えたか・どこが違うかを比較検討することは、それなりに意義のあることです。本稿ではそこまでする気はありませんけれど、例えば講談の入谷田圃での金子市之丞と恋人・三千歳とが交わす悲しい逢瀬の場面が、歌舞伎では「雪暮夜入谷畦道」として片岡直次郎と三千歳とが逢瀬を情緒たっぷりに見せる場面に変わる、市之丞は三千歳の腹違いの兄という設定に変わるのを見て、伯円は「なるほど芝居ではここをこのように変えて来たか」と頷きながら見たのでしょうかねえ。そうだとすれば、著作権意識が先行する現代ではこれは考えられないことですが、当時の講談と芝居はお互い切磋琢磨し合う良き関係であったのでしょうねえ。
演劇改良運動が最も激しかった明治10年代に在って、「芝居から荒唐無稽な筋立てを排さねばならぬ」とお上から強制された時、黙阿弥は「芝居は確かに人生の真実を描いている」という信念で以て対抗するしかなかったと思います。真実=史実・事実とは限りません。チョンマゲ帯刀の風俗はもう東京のどこにもありませんでした。明治10年代に生きる庶民にとって、芝居を見て「ああ昔の江戸の世の中の空気はこんな感じだったなあ」と懐かしく思い出せるものが「真実」なのです。そんななかで苦しみつつも懸命に生きる庶民の生き様を、黙阿弥は芝居のなかで描こうとした。写実(リアリズム)に基づいた伯円の講談は、そのための重要な根拠であったと思います。そのような黙阿弥の思いを頑迷な演劇改良論者の先生方さえ否定できなかったと思います。なぜならば芝居の河内山や直侍を見て連日拍手喝采だったからです。観客の支持こそ強い味方です。
明治14年の黙阿弥がそれをはっきり意識して書いたわけではないにせよ、黙阿弥が仔細を尽くして芝居を書く時、本人がそれを意識せずとも、明治14年当時の庶民の「真実」が自然とそこに立ち現れると云うことがきっとあるはずです。名作と呼ばれるものは、常にそう云うものです。これこそ幕末の四代目小団次から、黙阿弥へ・伯円へと引き継がれた「思い」なのです。(この稿つづく)
(R6・4・5)
「天衣紛上野初花」(明治14年・1881・3月新富座)のどこが新しいのかと云うのは漠然とした話になりますけれど、例えば「白浪五人男」(文久2年・1862・3月江戸中村座)と比べてみれば、これは何となく想像が付くと思います。同じく白浪物と云うべきですが、幕末に出来た「白浪五人男」は草双紙紛(まが)いの色彩美、趣向は面白くても・ここにはリアルな人生の感触がありません。一方、「天衣紛上野初花」の方は、登場人物がどこか薄汚れて見えるが、底辺をはいずり回って、したたか・かつ貪欲に生き抜こうとする人間の息吹きがあります。演劇改良運動の先生方が推奨したい「立派な人生」ではないけれども、そこに確かに幕末を生きた庶民の「真実」が見えます。これは伯円が生み出したものであり、また黙阿弥が生み出したものでもあります。
付け加えれば、現行歌舞伎で上演される「河内山」・「直侍」は筋が刈り込まれ、初演稿のドロドロした猥雑な要素が排除されてキレイ・キレイの感覚になって、結果として「白浪五人男」とあまり変わらぬような感触になってしまいました。このようになってしまったのは、明治14年の初演時には役者も観客もみんな昔の「江戸」を知る人たちであったわけですが、時代が下るにつれて「江戸」を知る人たちが少なくなって、遂にいなくなってしまったからです。こうして「江戸」が忘れられていきます。「江戸」の実像がリアルであったものが、時が経過するにつれて虚像に置き換わっていく、次第にそれは錦絵みたいなキレイな虚像になっていく、そしてそちらの方がその時代の人たちにとって「リアル」な江戸と感じられるものになっていくのです。だから現行歌舞伎での「河内山」や「直侍」が間違いだと云うことではないのです。初演から150年ほど経過した現在においては、そうなることは無理からぬことである。そうなって行くことにも、それなりの理由があると云うことです。
例えばこんな挿話があります。明治23年(1890)に「天衣紛上野初花」再演のための打ち合わせで、五代目菊五郎が「三千歳は大口の寮へ出養生に来ているのだから、初演の八代目半四郎が演った時のように・店に出るような胴抜きに巻帯で・それに裲(うちかけ)を着ている衣装はおかしい」と修正を言い出したそうです。ところが翌日になると菊五郎は考えを変えて、「いけねえいけねえ、書きおろしに半四郎(やまとや)がせっかく苦心した拵えだ。あれで御見物が何とも言わなかったのだから、そのままにしておこう」と言ったので、三千歳の拵えは結局そのままになったと云うのです。(別稿「古き良き江戸の夢」をご参照ください。)
これは吉之助の想像ですが、恐らく菊五郎はその晩自分の考えを誰かに相談に行ったのだと思います。そしてその人物に止められたのでしょう。その人物は黙阿弥だったと思います。もしそうならば、多分黙阿弥はこんなようなことを言ったのだろうと思います。「御見物は劇場に今の東京を見に来るのではない。古き良き江戸を舞台に見に来るのだ。ならば舞台を綺麗なままにして御見物にその夢を見させてやろうじゃないか」、黙阿弥が菊五郎にそう言ったとするならば(これはあくまでも吉之助の想像に過ぎませんが)、この時から歌舞伎の世話物は写実の同時代劇であることをやめたということかも知れません。明治23年の時点でもうそんなことが起きているわけです。だから何がリアル(写実)かと云うのはつくづく難しい問題であると思いますねえ。(この稿つづく)
(R6・5・5)
国立劇場が開場したのは、昭和41年・1966・11月のことで、演目は「菅原伝授手習鑑」・第1部でした。当時の筋書に「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針でおこなわれるか」という記事があって、そこに七つの方針が掲げられています。劇場創建に係った方々の意気込みが分かる興味深いものです。七つの方針のポイントだけを記しますが、1)原典を尊重した上演、2)通し狂言を心掛ける、3)意欲的な復活狂言を試みる、4)演出を努めて観客に分かりやすいものにする、5)配役は適材適所を旨とする、6)役者の仕勝手を排除し演出を統一化する、7)伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした新作上演にも努めるというようなものです。
国立劇場は現在閉場中(建て替えのため令和5年・2023・10月公演を以て一旦閉場)ですが、国立劇場・第一期の57年を通覧してみると、見取り狂言が多くなった時期もあったし、これを国立でやる意義があるのだろうか?と思うような上演もなくはなかったけれど、まあ紆余曲折ありながらも、大筋では七つの方針を守りながら運営がされてきたと思います。
本稿で紹介する昭和43年(1968)10月国立劇場公演・通し狂言「天衣紛上野初花」・5幕11場は、開場から2年後の上演になります。補綴・演出に「昭和の黙阿弥」とも云われた宇野信夫を起用して、長年の上演のなかで良かれ悪しかれ培われて来た伝統の色合いを剥ぎ取って、明治14年・1881・3月新富座での初演の感触を再現してみようと云う試みでした。今回の公演は、特に補綴が上手く行った例と言えそうです。宇野信夫の視点が脚本に一本筋が通ったものを与えています。初演稿だと登場人物がこんなに生き生きしているんだと云うことに軽い衝撃を受けてしまいました。
現行歌舞伎では「河内山」の筋と「直侍」の筋を別々に上演するのが通例です。このために河内山宗俊と片岡直次郎の関係がまったく見えなくなってしまいました。それに「河内山」は大名相手の強請り場を描いているせいか、感触が時代物っぽくなり勝ちです。「河内山」と「直侍」が同じ狂言からの二つの場面のようには見えないという問題があります。もうひとつ、「直侍」には本来金子市之丞が登場し・しかも重要な役割を演じます。現行の「直侍」は市之丞の件が一切省かれてしまったため、直次郎と三千歳の性格付けが初演稿とまるで違ってしまいました。
そこで今回の通し上演に際し、宇野信夫は、原作の脇筋にあたる「幸兵衛内」(原作四幕目)と「比企屋敷」(原作七幕目)を除いて、序幕に「湯島天神」・大詰に「河内山妾宅」を付けて、「河内山」と「直侍」との繋ぎに金子市之丞を絡ませた形で脚本を構成しました。「大口屋寮」では、鳥目の市之丞が登場し(ただし鳥目は仮病であったことが後で分かる)、相手が鳥目なのをいいことに・そのすぐ横で直次郎と三千歳が酒を酌み交わしていちゃつく場面があるなど、現行の情緒纏綿たる「寮」と感触がまるで異なります。これも実に興味深い。宇野信夫は、
『今度の直侍を見て、裏切られたような、夢を破られたような気のする向きがあるかも知れないが、演出者としては、江戸末期に生きていた御家人、何の目当てもなくゴロついていた市井の人間を出してみたい。』(宇野信夫:「演出者の言葉」・昭和43年10月国立劇場筋書)
と書いていますが、このザラザラと乾いた感触こそ、伯円の講談にも相通じるところの幕末の小団次-黙阿弥劇の写実(リアル)なのです。黙阿弥はこの芝居を九代目団十郎と五代目菊五郎のために書き下ろしたわけですが、どうやら黙阿弥は慶応2年・1866・5月に亡くなった小団次への未練を本作で完全に吹っ切ったなと云うことを思いますねえ。(この稿つづく)
(R6・5・6)
吉之助が歌舞伎を本格的に見始めたのは昭和50年代に入ってからなので・昭和40年代の歌舞伎を直截的には知らない(映像で学んだ)わけですが、昭和40年代の歌舞伎は、昭和50・60年代と比べると、芝居のテンポが若干早めであったと感じています。この時代の世話物はトントン芝居が運んで、写実の感触がサラッとしていました。時代物でものっぺり荘重に陥ることはなく、表情が引き締まっていたと感じています。このような現象は世界的レベルに於いてその時代の感性の深いところに関連するもののようで、クラシック音楽でもこれにシンクロしたかのような傾向が見られます。
このことを論じているとキリがないので・この辺で打ち切りとしますが、今回(昭和43年1968・10月国立劇場)の「天衣紛上野初花」映像を見てもやはりテンポの早さを感じますねえ。ここには確かに昭和40年代の歌舞伎の感触があるようです。国立劇場の復活上演でよく見られた困った現象は、久々に復活された箇所は伝統の手垢が付いていないので新作のような感触になり、歌舞伎座で普段やってる箇所はいつもの調子で手垢が付いた古色になる、これを並べて通しに仕立てると、両者の感触の違いが妙に際立って・分裂したような印象を呈してしまうことでした。幸い今回はそのような感じがしないようです。全体が同じ方向でしっかりまとまった印象です。これは上演が昭和43年であることも大いにあると思いますけれど、役者・スタッフ全員に「天衣紛上野初花」は世話物だと云う共通認識がしっかり取れているからだと思います。これは宇野信夫・補綴・演出のおかげですね。
今回でも例えば「河内山」の件、「松江邸広間〜書院〜玄関先」は歌舞伎座でも頻繁に出る場ですが、これを単独で出す場合、大名相手の強請り場であることもあって、どうしても時代物の感触に陥りやすいものです。玄関先の河内山の有名な長台詞も、堂々とした時代物のツラネ風になりやすい。今回河内山を勤めるのが、時代物を得意とし・押し出しの利く幸四郎であるから、これも時代物っぽい河内山になるかなと思いきや、さすがにそうなりませんでした。もちろん幸四郎のことだから貫禄は立派なものですが、どこかに世話物らしい軽さもあると云うか、剽軽な味が出ているのは嬉しいことでした。これはもちろん本人が意識してそうしていると思いますし、宇野信夫の指導の賜物でもありましょう。おかげで「松江邸」の芝居が心なしか・いつもよりテンポ良く運んだ気がします。
思えば初演の河内山は九代目団十郎ですが、「団十郎だから押し出しが利く」と云う思い込みから、河内山はだんだん時代っぽくなって行ったのであろうと思います。本来はもう少し軽い、もしかしたらショボい、最初から尻尾を出したところがあるような河内山であったかも知れないと思います。今回の映像を見たことで吉之助のなかに世話物としての「河内山」の目星が付いた気がしました。
なお今回の松江邸玄関先での河内山の花道引っ込みでは、北谷の僧道海のお供の侍に扮して門前に待機していた片岡直次郎が花道に登場して河内山と軽い会話を交わしてから揚幕へ引っ込むのも、「河内山」の後味を軽やかな感触にするのに大いに役立っています。初演でここに五代目菊五郎が登場するのがご馳走であったわけですが、ここで「河内山」と「直侍」の筋が交錯するのです
しかし、今回の「天衣紛上野初花」上演の眼目は、金子市之丞の件を復活して初演稿の感触の再現を目指した「直侍」であったことは明らかです。これは「蕎麦屋」以外はいつも歌舞伎座でみる「直侍・大口寮」とはまったく別の芝居だと云って良いほど感触が異なります。逆に云えば「直侍」を現行の脚本にするために、あちらを削り・こちらを削って・よくここまで洗練された芝居に仕上げたものだねえと感心したくなるくらいのものです。「直侍」を今日の形にしたのは十五代目羽左衛門でしょうが、今回の勘弥には、十五代目羽左衛門を下敷きにしながらも、どこに差異を見せ付けるかと云うところに苦労があったろうと思います。今回映像を見ればもっと崩れたやさぐれの小悪党に仕上げる手もあったでしょう(その方が伯円の講談の感触にも近かろう)が、そう思い切って五代目菊五郎や十五代目羽左衛門のイメージから離れるわけにも行かないし、やはり「粋」なところは守っていたいと云う思惑が働いたでしょう。
それにしても大口寮で市之丞が鳥目なのをいいことに(後で仮病であると分かる)・その横で直次郎が平然として三千歳といちゃつく場面などは、舞台面からしてもいつもの「直侍」の感触とはまるで異なっています。パサパサと乾いたた世話の印象ですね。黙阿弥は「御所五郎蔵」大詰・五郎蔵内で五郎蔵が尺八を吹き・皐月が胡弓を弾きながら落ち入るという皮肉な趣向を書きました。本作の大口寮の趣向についても、小団次学校の生徒であった黙阿弥の面目が見える気がしますねえ。今回(昭和43年10月国立劇場)の「天衣紛上野初花」通し映像を見て、吉之助は本作が生世話物であると云うことがようやく腑に落ちました。黙阿弥は情緒纏綿たる様式美のなかに逃げ込んだわけではなかったのですね。
雀右衛門の三千歳は、くすんだ色調で・女郎の疲れた生活を上手く表現しています。昭和40年代の雀右衛門は美しいのだけれど・どんな役でも大人しく控え目過ぎて印象が弱かったところがありましたが、そのせいでしおらしい印象があって、底辺で苦しむ女の図太さ・したたかさまでは表出出来ていないようです。
中車の市之丞は、直次郎と三千歳を張り合う立敵・色敵と見せかけて、実は幼い時に別れた妹を陰で気遣い・直次郎と添わせてやろうとする、このため鳥目を装って・直次郎に罵詈雑言をぶつけて・最後まで本心を明かさないと云う・なかなか厄介な役です。中車は無骨な武士の雰囲気はあるのだが、ちょっと色敵には見えないようでしたけど、その辺に市之丞という役の世話の要素が見い出せたのではないでしょうか。
大詰に「河内山妾宅」を付けて、松江公の強請りの顛末と河内山と直次郎の捕縛までを見せたのは、しっかり落ちが付いて良かったと思います。宇野信夫は良い仕事をしてくれました。ちなみに(年代は天保ではありませんが)史実でも河内山と直次郎は一緒に捕らわれています。河内山は牢内で毒殺されましたが、直次郎は牢名主を神妙に勤めたというので後に赦免になりました。しかし、直次郎はその後百両騙り取ったことで再び召し捕られて、天保3年(1832)11月に死罪になっています。
(R6・5・10)