二代目右近の「娘道成寺」再演
令和6年1月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」
二代目尾上右近(白拍子花子)
本稿は令和6年1月歌舞伎座・初春歌舞伎の、右近による「娘道成寺」の観劇随想です。今回の「娘道成寺」は、白拍子花子を月前半が壱太郎、後半を右近とダブルキャストで分ける形になっています。右近の白拍子花子は、昨年(令和5年)8月浅草公会堂での自主公演(初役、この時の上演は道行から鐘入りまで)以来のことです。それから半年で歌舞伎座での再演と云うことですから、右近に対する周囲の期待の高さが伺われます。
別稿「壱太郎の娘道成寺」随想において、道行をカットして・乱拍子から始める場合の「娘道成寺」のバランスの変化について触れました。この場合、「娘道成寺」のなかの芝居の要素(鐘への執心)は奥へ引き、代わりに次から次へと繰り出される踊りの変化の妙が前面に出ることになるのです。今回(令和6年1月歌舞伎座)の・この場割りは、右近の踊りには良い方に作用しました。華やかで愉しい踊りに仕上がったと思います。
今回の白拍子花子は、前半(乱拍子から恋の手習い)の出来がとても良いです。前回は猛暑のなかの強行軍(2日間で4公演)でクタクタであったせいもあったか・振りに若干粗いところが見えましたが、今回は振りが丁寧で、気合いが入っていることが良く分かります。右近の花子の良いところは、ちょっとした表情・呼吸のなかに生き生きした江戸の町娘の感覚が見えることです。これが謡曲オリジナルの暗い情念の物語を、世話の「かぶき」の世界の方へと引き寄せます。鞠唄の踊りが「鐘なんか・怨念なんか何のことよオ」というアッケらかんとした明るい感覚になる。これこそかぶきの「娘道成寺」の感覚だと思います。
右近らしさと云うことならば、後半(鞨鼓から鈴太鼓)の踊りの方にそれが良く出ていると思います。しかし、こちらの方は、踊りが元気過ぎる・振りが大き過ぎる印象です。良く云えば身体が大きく使えていると云うことですが。多分動きがダイナミックで・リズム感覚があって興奮させられたと云う感想が多かろうと思います。ここには十八代目勘三郎の花子にも似た狂熱が見えます。そのことは認めますけれども、吉之助の好みからすると、ここはもう少し動きをコンパクトに・振りを抑えめにして欲しいと思います。振りが粗っぽいとまで申しませんが、ここは動きを抑えて狂熱をもっと内に秘めてもらいたいのです。狂熱は「娘道成寺」のなかの芝居の要素(鐘への執心)に通じるものです。この感覚は最後の最後まで、花子が鐘に踊り掛かって行くまで内に秘めねばなりません。そこまでは世話の「かぶき」の感覚を維持してもらいたいのです。むしろここでは踊りの端正さこそ望ましい。「娘道成寺」ではそのような踊りの設計がなされていると感じますがね。
しかし若い内は後半のようにリズミカルな踊りで思わず身体が動いてしまうことは理解できますし、今の段階では目一杯若さを謳歌することも大事なことなのです。まあ踊り重ねる内に動きも次第に変わって行くだろうと思います。右近の「娘道成寺」は、これから20年くらい目が離せない・歌舞伎の呼び物になると思います。
(追記)
今回の「娘道成寺」は、壱太郎(2日〜14日)と右近(15日〜27日)のダブルキャストでした。
(R6・1・24)