「鑓の権三は伊達者でござる」〜「鑓の権三重帷子」論
昭和42年4月国立劇場:「鑓の権三重帷子」
二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(笹野権三)、二代目中村鴈治郎(市之進妻おさい)、五代目中村福助(高砂屋)(浅香市之進)、十三代目片岡仁左衛門(岩木忠太兵衛)、三代目河原崎権十郎(川側伴之丞)、二代目片岡秀太郎(伴之丞妹お雪)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(岩木甚平)他
1)鑓の権三に悲劇はあるか?
本稿で紹介するのは、二代目扇雀の権三・二代目鴈治郎のおさいによる、昭和42年(1967)4月国立劇場での「鑓の権三重帷子」(やりのごんざかさねかたびら)の舞台映像です。歌舞伎での「鑓の権三」の上演は少なく、データベースを見ると、戦後の上演はたったの5回にすぎません。最も近い上演は昭和55年(1980)2月歌舞伎座のことで、この時の権三は十二代目団十郎(当時は海老蔵)・おさいが菊五郎でした。吉之助はこの舞台は生(なま)で見て覚えています。しかし、それから四十数年・令和の現在まで、本作の上演がないわけです。それにしても近松門左衛門の文学的評価の割に、戦後の一時期と比べると、近頃は「俊寛」と「吃又」以外の上演がめっきり減っていますが、このことは憂うべきことと思いますね。近松の作品には、実際掘り起こしてみると現代の我々が改めて驚く真実味(リアリティ)溢れるドラマが(世話物に限らず・時代物にも)沢山あると思うのですが。
ところで「鑓の権三重帷子」は近松の三大姦通物のひとつとして有名ですが、正当な評価がされていないように思われますね。それでもおさいに関して云えば、それなりの研究がなされてはいます。本作の場合おさい・権三は姦通の罪を犯していないわけですが、言い訳ができない状況証拠(解けた帯)を押さえられてしまった以上・もはや言い逃れは出来ない、おさいがそう覚悟した時、夫市之進の一分を立てさせるため・自分は姦通の汚名を着て夫に見事打たれよう・それが夫に対する純愛・潔白を貫くことだと云う論理は、まあ極端かも知れないけれども、それなりに理解が出来るものだと思います。姦通物として確かに「おさいの悲劇」にはなっています。
問題は、姦通をしてもいないのに・このおさいの論理に付き合わされて・女敵(めがたき)として討たれる権三についてです。劇中の権三は色男・モテ男と云うことになっています。伴之丞の妹お雪と関係があるのに、おさいの娘お菊との婚約を申し入れられると・真(しん)の台子(だいす)の伝授を自分のものとしたい下心から安易にこれを受けてしまいます。おさいも人妻だから自制はあるにせよ、権三に内心好感を持っていることは明らかです。不義者とされる経緯を見ると、権三が軽率であったことは否めません。そんなこんなで前半の権三は軽薄でフラフラした日和見主義者に見えかねないところがあります。そんな権三がどうして一言の弁解もせず・孤独と絶望に耐えつつ、女敵の汚名を着たまま従容として死んでいくのか。近松の脚本はそこのところの権三の心理描写が十分足りていない、これでは「権三の悲劇」にならないという批判が昔から数多くあるようです。
これはホントにそう考えて宜しいのでしょうか。「鑓の権三」はホントに「権三の悲劇」になっていないのでしょうか。本稿では、まずそこのところを考えてみたいと思います。(この稿つづく)
(R5・8・21)
2)俗謡「鑓の権三」のこと
「鑓の権三重帷子」は、享保2年(1717)8月22日大坂竹本座での初演。実説は、「月堂見聞集」に拠れば、同年7月15日に大坂高麗橋(現・大阪市中央区)で起きた女敵討ち事件でした。双方雲州松江公家中。男の名は近習中小姓・池田文次(24歳)、女の名は正井とよ(36歳)。実夫は茶道役・正井宗味(48歳)。討たれた時の文次の衣類は越後ちぢみの帷子、とよの衣類は絹ちぢみの帷子。男の疵は大小12箇所、とどめあり。女の疵は一箇所けさ切りとあります。
帷子(かたびら)とは裏地をつけない衣装のことですが、経帷子(きょうかたびら)なら葬式の時に死者に着せる白装束のことです。このため帷子=死装束の意味に使われることがあり、上記の場合がまさにそれです。つまり帷子を着していたと云うことは、文次ととよの二人が潔く討たれる覚悟であったことを示しています。「女はけさ切り」とあるのは、とよが夫の前に進み出て自ら斬られに行ったことを示しています。男の疵は大小12箇所と多いですが、討たれるのは覚悟であるが・武士の名誉として最後まで抗(あらが)い見事に討たれたことを示しています。これらのことは近松に強烈な印象を与えたようで、題名に「重帷子」(かさねかたびら)として織り込まれているのはそれ故です。
際物(きわもの)とは云え、女敵討ちの当事者の実名は憚(はばか)りがあるので当然取り入れられていませんが、実説の池田文次を笹野権三(鑓の権三)に置き換えたところに、近松の考え方がはっきり表れていると思います。この近松が鑓の権三としたことの意図が理解出来れば、近松の脚本は権三の心理描写が足りないとか・「権三の悲劇」になっていないと云う批判がまったく見当違いであることが判るはずです。吉之助には、近松はまさに文次の弔いのために「鑓の権三重帷子」を書いたようにさえ思われます。
まず鑓の権三の名前は、元禄期に上方で流行った俗謡に拠ることがよく知られています。その俗謡「鑓の権三男踊」(やりのごんざおとこおどり)の歌詞を引きますが、
『そりゃそりゃそら、鑓の権三は蓮葉(はすは)に御座る、谷のやつとんとささやでや、ああ、そろへにかかる、しなへてかかる、どうでも権三は濡れ者だ、油壺から出すやうな男、しつとんとろりと見とれる男、磯の千鳥を追つかけて、石突(いしつき)つかんでづんづとのばしてやるやる、さあさ、えいさつさ、えいさつさ、さつさどうでも権三は、よつどつこい、良い男え。』(「鑓の権三男踊」〜「落葉集」)
と云うものです。「落葉集」(おちばしゅう)全7巻は元禄17年(1704)に出版された歌謡集です。多分近松も巷で人々が「鑓の権三男踊」を謡い踊る光景を目にしたことがあったのでしょう。「落葉集」出版から「鑓の権三」初演までに十余年の歳月がありますが、観客のなかにも「アア昔流行ったあの謡ね」と昔を思い出した人も多かったのではないでしょうか。
「鑓の権三男踊」に謡われる鑓の権三がどう云う人物か・実在の人物かどうかもよく分かりませんが、多分それらしき人物がいたのでしょうね。近松は何か創作意欲を掻き立てられるものを感じて、いつかこの俗謡を材料に芝居を書いてやろうと思ってネタとして保持していたに違いありません。そして高麗橋で起きた女敵討ち事件の報を聞いた時、近松にはピーンと来たのです。近松には似たような例が他にもあります。それは俗謡「丹波の与作」の歌詞に、「与作思えば照る日も曇る関の小万が涙雨か」、「与作丹波の馬追いなれど今はお江戸の刀差し」とあることなどから着想を得て、世話物浄瑠璃「丹波与作待夜小室節」(たんばのよさくまつよのこむろぶし、宝永4年・1707・秋ごろ・大坂竹本座での初演)を書いたことでした。
もうひとつ、「鑓の権三男踊」には「そりゃそりゃそら」とか「えいさつさ、えいさつさ」と景気良いお囃子が付いており、これは盆踊り(念仏踊り)で踊られたものでありましょうかねえ。多分そこに「鎮魂」の念があるのです。その昔は心中事件などあると、それを即席で口説き節などに仕立ててみんな盆踊りで踊るなんてことがしばしばあったようです。
例えば享保8年(1723)4月佐渡島・相川町で町人・伜伊右衛門と人妻はつが心中するという事件が起きました。村人たちは、この事件を「伊右衛門・おはつ心中紫鹿の子」という口説き節にさっそくにわか仕立てして、盆踊りの時に島中で踊ったそうです。次いで翌年には「与助・おさき」、元文4年(1739)には「馬之助・おさき」、寛保2年(1742)には「せんじろう・おさん」の心中が口説き節に仕立てられたと言います。この口説きの節が今の「相川音頭」として島に今も残っているそうです。口説き節というのは「段物」仕立てになっており、ふたりの出会い・なれそめから最後までを切々と語ると一時間以上は掛かるという長大なものでした。これに合わせて村人たちが踊る盆踊りはまさに「魂の儀式」であったのです。
*田中圭一:村からみた日本史 (ちくま新書)を参照のこと。
このように村で起きた心中事件を盆踊りの音頭に仕立てて村人が踊るのは、際物的な興味からではないのはもちろんですが、たんに鎮魂のためだけでもなさそうです。村人たちは本音に生きた人生がうらやましい・あんな風に生きたいものだと村人たちが思ったわけではないでしょう。無残に死なねばならない・あんな人生は送りたくないものだと思ったわけでもないでしょう。それは讃美でもなければ、否定でもありません。しかし、村人たちは一生懸命ひたむきに生きて死んだ・そんな人生もあったと云うことは思ったでしょう。それならばみんなで送って(弔って)やろうかと云うのが佐渡の口説き節の盆踊りであったと思います。こうして謡って踊りながら、村人たちもみんな癒されていくのです。
近松が新作浄瑠璃に昔流行った「鑓の権三男踊」を取り込んだのもそのようなことで、「鑓の権三」と云う俗謡が持つひとつのイメージ(これを「世界」と呼んでも間違いではないと思います)を取り込むことで、享保2年に大坂高麗橋で起きた女敵討ち事件は単なる際物でなくなり、同時代物でもなくなります。いわば浄瑠璃は「世界」の二重構造を持つことになるのです。(同様に「世界」の二重構造を持つ浄瑠璃としては、例えば「仮名手本忠臣蔵」を想起して欲しいと思います。)「どうでも権三は濡れ者だ、油壺から出すやうな男、しつとんとろりと見とれる男」というイメージを実説の池田文次に重ねることで、近松は俗謡が持つ「鎮魂」の念を文次に手向けているのです。これだけが近松が文次に対してしてやれる精一杯のことです。(この稿つづく)
(R5・8・24)
浄瑠璃「鑓の権三重帷子」を見ると、俗謡「鑓の権三男踊」を引用した詞章が二度出てきます。ひつは上の巻・浜の宮・鳥居通りの場で権三が登場する場面で、
『表小姓の数々の、中にも笹野権三とて、武芸の誉れ、世の人に、鑓の権三は伊達者(だてもの)のどうでも権三はよい男、歌ひ流行らす美男草(びなんぐさ)』(浜の宮)
とあります。もうひとつは、下の巻・権三おさい道行の冒頭部に、
『鑓の権三は伊達者(だてしゃ)でござる。油壷から出すやうな男。しんとんとろりと見とれる男。どうでも権三はよい男。花の枝からこぼれる男。しんとんとろりと見とれる男。いとしい男。』(権三おさい道行)
とあります。ここですぐに気が付くことは、どちらの箇所でも、俗謡「鑓の権三男踊」の歌詞で「そりゃそりゃそら、鑓の権三は蓮葉(はすは)に御座る」とあるところを、近松が「鑓の権三は伊達者(だてしゃ)でござる」に置き換えているということです。
この点は非常に大事なポイントですから記憶に留めてもらうことにして、まず次のことを考えたいのです。浜の宮の詞章に「権三はよい男じゃ・美男草じゃ」とにある通り、権三は噂の美男に違いありませんが、この俗謡は権三の存命中から世間に流布したものではないと云うことです。詞章では時制が曖昧ですが、これは明らかに権三の死後(女敵討ち以後)に世間に流行したものです。つまり劇中の権三からすると未来です。語り物である浄瑠璃では、文中で時制や視座が揺れ動くことがしばしばあります。ここでは時制が動いて権三の行く末(未来)が暗示されます。したがって浜の宮での権三の登場場面の詞章を意訳するならば、「後の世の人々に「鑓の権三は伊達者のどうでも権三はよい男」と歌ひ流行されることになる美男草」と云うのが正しい訳です。このことは、浄瑠璃の結末部の詞章を見ても分かります。
『鑓の権三が古身の鑓。傷も古傷。話も古し。歌も昔の古歌(ふるうた)なれど、谷の笹原一(ひと)よさはなし、その鑓の柄(え)も永き世の御評判とぞなりにける。』(「鑓の権三重帷子」・結句)
「こうして権三が傷を負って死んだことももはや昔の話、「鑓の権三は伊達者のどうでも権三はよい男」と世間に謡われたのももはや昔のことではあるが・・」と云うわけです。つまり、大坂竹本座での「鑓の権三」初演で観客が見たものは、ついひと月前に高麗橋で起きた女敵討ちのドラマではなく(つまり際物でも・同時代劇でもなく)、人々の記憶のなかにかすかに残る十余年前のあの旋律、「鑓の権三は伊達者でござる。油壷から出すやうな男。しんとんとろりと見とれる男。どうでも権三はよい男」というあの俗謡は実はこのような経緯で誕生したものなのですと云うドラマなのです。「鑓の権三」はこのような「世界」の二重構造を持っています。現在のドラマにして過去、過去のドラマにして現在です。「仮名手本忠臣蔵」もそのようなドラマであることはお分かりでしょう。
以上の認識を踏まえたうえで、元の俗謡の「鑓の権三は蓮葉に御座る」を、「鑓の権三は伊達者でござる」に置き換えたことの近松の意図を考えてみます。蓮葉とは、うっかり者・粗忽者ということでしょうかね。これは浄瑠璃前半の軽薄でフラフラした日和見主義者の権三の印象に重なるところがありますが、これを「伊達者」に変えるともう少し能動的にカブいたスタイルを前に押し出す風が強くなるようです。このことから次のようなことが言えると思います。
男にとって、女敵(めがたき)の汚名を着せられることは情けないことです。ましてや権三・おさいの場合は不義を犯していないのだから猶更です。そこにおさいが「夫・市之進の顔を立てさせるため女敵となって一緒に討たれてくれ」と泣きついてくる。こんな時普通ならば権三は、「俺は潔白なのに、何んでそんな理不尽なことをせねばならないのか、俺は嫌だ」と怒って叫びそうなものです。ところが権三はそうはしないのですねえ。すべてを呑み込んで、言い訳も抗弁も泣き言も何も言わない。ジタバタせず・ただ黙って、おさいの願い通りにしてやるのです。そこに権三の心中が察せられます。
実説の池田文次は最後に越後ちぢみの帷子を着し・ズタズタに切られて死んだわけですが、そこに近松は真の「男」の姿を見たのです。近松は「文次さん、あんた凄いよ、あんたこそホントの伊達者、ホントの色男だよ」と心底感嘆しているのです。だから浄瑠璃を書き下ろすに当たり文次に俗謡「鑓の権三男踊」を手向けたと云うことです。下の巻・権三おさい道行の冒頭での俗謡「鑓の権三男踊」の引用が、「曽根崎心中」の冒頭・観音巡りとまったく同様の効果を生んでいます。
ですから「鑓の権三」は女敵として討たれる権三の心情が描かれていないなんて批判は、まったく見当違いと云うものですね。すべての理不尽を呑み込んで・ひたすら黙る。このことに権三の「男伊達」があると理解せねばなりません。(この稿つづく)
(R5・8・25)
今回(昭和42年4月国立劇場)の「鑓の権三」映像では、扇雀の権三・特に後半部がまことに興味深いものです。言い訳できない状況証拠(解けた帯)を押さえられて、「不義者になり極めて市之進殿に討たれて、男の一分(いちぶん)立てて進ぜてくだされたら・・」とおさいに言われます。この場面で扇雀の権三が見せる表情は、何とも言われぬものです。それは女敵討ちという理不尽さへの憤(いきどお)りと云うような激しいものではなく、むしろ「何で儂(わし)がそないなアホなことせなならんねん」と云うような困惑に近い印象ですねえ。しかし、権三はおさいの願いを無下に出来ません。最終的に「無念だが、仕方がない」と云う感じで、受けさせられると云うでもなく、受け入れてしまいます。もちろん証拠を押さえられて抗弁しようもないと云うこともありますが、これが権三という人物の持つ本質的な優しさなのでしょうねえ。おさい個人に優しいと云うことではなく、俗謡に「どうでも権三は濡れ者(色男)だ」と謡われることになる・これが権三の女性への優しさなのです。
ここまでならば、確かに権三は状況に流されるままで優柔不断だと見ることも出来るでしょうね。生きることの無実さとか・女敵討ちと云う封建倫理の理不尽さを糾弾するとか、ここでの権三は、そのような次元で状況と対峙しているわけではないようです。だからここまでで判断すれば本作は「権三の悲劇」になっていないと云う批判が出ることもまあ理解出来ないことはない。
しかし、そのようなことを仰る方は浄瑠璃「鑓の権三」・下の巻の読みが浅いのではないですかねえ。実際、おさいとの逃避行(下の巻・道行)以降を見ると、権三の印象がかなり変わります。扇雀の権三は、彼の役者としての鋭い感性で以て、そのような権三の性格の変化を見事に演じて見せました。権三は、女敵として討たれることを覚悟はしたが・決して受け入れたわけではなかったのです。権三は最後まで抗(あらが)い・己(おのれ)の一分を貫き通して見せた、つまり伊達者として見事に死んで見せた、このことで最後の最後に「権三の悲劇」がしっかりと立つのです。
ここは「曽根崎心中」・道行の場についてドナルド・キーン先生が評した言葉がそのまま当てはまります。以下の文章の「徳兵衛」を「権三」に置き換えて読んでみてください。
『西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)
権三は世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うのです。権三は歩きながら背が高くなります。「鑓の権三」・下の巻・道行・冒頭部をもう一度引用しますが、
『鑓の権三は伊達者(だてしゃ)でござる。油壷から出すやうな男。しんとんとろりと見とれる男。どうでも権三はよい男。花の枝からこぼれる男。しんとんとろりと見とれる男。いとしい男。』(権三おさい道行)
と俗謡「鑓の権三男踊」がリフレインされることで、権三は真の意味での伊達男・色男、俗謡「鑓の権三男踊」のイメージに相応しい伝説の男へと成長して行きます。これが十余年前の俗謡を引用した近松の工夫です。伏見女敵討(近松は実説の大坂高麗橋を伏見京橋に置き換えています)で権三が鑓を構えたまま絶命する場面で、扇雀の権三は生きることの不条理を見事に体現して見せました。(この稿つづく)
(R5・8・30)
今回(昭和42年4月国立劇場)の「鑓の権三」映像ですが、全体的に芝居の感触が重ったるいですねえ。女敵討ちという重い主題なのに軽い調子で芝居出来るものかと云うかも知れませんが、だからこそ敢えてテキパキと芝居を運んで欲しいのです。無慈悲な運命の神は、余計な思い入れを入れず、淡々と事を運ぶものです。そう云う感じに芝居をお願いしたいですね。特に序幕・浜の宮鳥居通りはこれから始まる悲劇の導入部ですから、人の出入りが多い箇所では、なおさら芝居をテンポ良く運ぶようにして欲しい。どこかもたれる印象ですねえ。(同じような不満を宇野版「曽根崎心中」の序幕・生玉神社にも感じますね。)
残念ながら、現行歌舞伎のなかに近松の世話物の演技様式の引き出しが存在しません。あっても「河庄」か「封印切」くらいのものなので、あまり参考になりません。そう云うなかで、こんな感じでやっとればどうにか近松の世話物になってるかいな?みたいな戸惑いと手探りがどの役者にもあるようです。そこを整理するのが演出(山口廣一)の仕事ではないでしょうか。ここは新劇くらいに写実に、そう書くと歌舞伎役者はプライドが傷付けられるかも知れませんが、新劇くらいに写実を心掛けてちょうど良いのです。兎に角生きた人間を舞台に上げることを考えてもらいたいものです。
二幕目・浅香市之進宅に入って・舞台上の登場人物が二・三人と少なくなると、ようやく芝居が落ち着いてきます。まあ重ったるいのはそう変わらないのですが、場を持たせる力量の役者が差しで芝居をするから、芝居は相応のものになってきます。吉之助は二代目鴈治郎が女形を演じるのをそう多く見てはおらぬので、今回の鴈治郎のおさいをとても興味深く見ました。鴈治郎のおさいは、いわゆる「昔風の女」、薄暗い日本間の隅の方で身を小さくして控えている昔の妻女のイメージです。そこにこの女が纏っている昔の夫婦の倫理道徳の存在を感じます。こう云う女が、言い訳出来ない事態に直面して、「夫・市之進の顔を立てさせるため女敵となって一緒に討たれてくれ」と取り乱すのは分かる気がします。これしかこの女が「立つ」道がないからです。確かにおさいはこんな昔風の女であったのだなと、その真実味(リアリティ)にハッとさせられます。
「ハッとさせられる」と書いたのは、実は吉之助のイメージのなかに当初それがなかったからです。おさいは権三がお雪の贈った帯を締めているのを見て激高し、その帯を引きほどき、代わりにこれを締めよと自分の帯を解き投げ出します。現代人はこれをおさいの深層心理(実はおさいは権三に惚れていた)とか倒錯心理(自分の娘と同一化して権三に対する)で深読みするのが通例であって、そこに「鑓の権三」現代劇化の糸口を見出そうとします。現代人である吉之助もそう云う見方から決して逃れられないので、鴈治郎のおさいを見ると、この二つのおさいのイメージの乖離(ギャップ)に驚きます。そうするとおさいが帯を解き投げ出す場面が弱い感じに見えることになる。そこが鴈治郎のおさいの評価の分かれるところかも知れません。
しかし、この二つのおさいのイメージは、無理にひとつにしようとしない方が良いのかも知れませんね。映像を見ている最中は、吉之助も鴈治郎のおさいは奥に引っ込み過ぎでないかと思いながら見ました。「鑓の権三」をおさいの悲劇だと読む方には、多分この鴈治郎のおさいは物足りないでしょう。しかし、第三幕・伏見女敵討の場で、鴈治郎のおさいは自らの存在を見事に消しています。だからこの芝居がはっきり「権三の悲劇」であることが分かるのです。それは鴈治郎のおさいが昔風の女であったことに拠ります。権三に男を立てさせることでおさい自身が立つのです。だからおさいは奥に引っ込み権三を立てることで終始一貫すると云うことですね。
(追記)
女敵討ちを考える〜吉之助流「仇討ち論」・その4もご参照ください。
(R5・9・2)