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十三代目団十郎襲名興行の「二人道成寺」

令和4年12月・歌舞伎座:「京鹿子娘二人道成寺」(歌舞伎十八番「押し戻し」付き)

五代目尾上菊之助(白拍子花子)、六代目中村勘九郎(白拍子花子)、十三代目市川団十郎(十一代目市川海老蔵改め)(大館左馬五郎)

(十三代目市川団十郎白猿襲名披露)


今回(令和4年12月・歌舞伎座)・十三代目団十郎襲名披露・2月目・昼の部の話題は何と云っても八代目新之助初舞台の「毛抜」でしょうが、襲名披露興行としてはやはり新・十三代目団十郎が主演する演目がメインであるべきです。「押し戻し」は歌舞伎十八番には違いないですが・独立した演目ではないので、最後の数分の出演で「これで襲名披露演目です」は、如何なものでありましょうか。まあそう云うことは百も承知であろうから、或いは昼の部は「新之助に任せた」ということでありましょうか。しかし、息子に要らぬ重圧をかけたかも知れませんね。いずれにせよ襲名披露・2月目・昼の部は、分量的に物足りない演目建てでした。団十郎は何だか自分の領域を歌舞伎十八番とその周辺に限定しているかに見えますね。襲名披露興行のなかでもっと思い切り自分の可能性に挑戦しても良いのではないかな。

まあそう云うことはありますが、「京鹿子娘二人道成寺」は演目としては、華やかで結構であると思います。菊之助は今が盛りであるし、勘九郎も手堅いところを見せました。新・団十郎もこう云う役では「押し」が効いて・発声もまあまあであったし、舞台に三人揃ったところはなかなか壮観でした。エンタテイメントとしては宜しかったのではないでしょうか。「二人道成寺」自体がイベント性の高いものであるし・エンタテイメントで何が悪いかと言われそうですが、この「二人道成寺」を企画した責任者の方に申し上げたいですが、舞踊の「道成寺」物として、いくつか物申したい点があります。

まず「押し戻し」付きの結末を付けているのに冒頭の道行が省かれて、鐘供養から始まることです。これは言ってみれば、料亭でお祝いの鯛の焼き物が出てきたら・尾頭付きではなくて、尾っぽがあるけど・頭がなかったと云うようなものです。時間が押してるからと云う言い訳は通用しません。今回の二部制の上演時間のなかで、道行から始めて・どれだけ上演時間が伸びるんだと言いたいですねえ。大事なことは、舞踊「道成寺」のなかで道行が、とても重い位置を占めると云うことです。七代目三津五郎は「娘道成寺」の道行について、「ここが唯一芝居が出来るところだ」と言いました。つまり道行とは、歌舞伎の「娘道成寺」であるための核心だと云っても良いのです。ここを省けば「娘道成寺」はただの踊り尽くしになってしまいます。そう云うことがお分かりの上での、この処置でしょうかね。

今回は仕方ないと思いますけど、「二人道成寺」での道行は、可能であれば、両花道が望ましいと思います。昭和63年(1988)11月歌舞伎座での、六代目歌右衛門と七代目芝翫の「二人道成寺」が両花道での道行でした。(ちなみにこれが歌右衛門の最後の「道成寺」でした。)いつもの「道成寺」ならば鐘は上手に吊り下げられますが、この時の鐘は中央に吊り下げられました。鐘供養では、鐘を中心に歌右衛門と芝翫が左右に等距離に立ったのです。これで視覚的に二人の踊り手は等価となります。その後は二人の踊り分けになって、眼目の「恋の手習い」は歌右衛門が取りましたけど、これはまあ仕方ないところでした。今回(令和4年12月・歌舞伎座)の「二人道成寺」には押し戻しが付くから・鐘が中央だと具合が悪いだろうけれども(だから今回の鐘は上手になっていますが)、吉之助が言いたいことは、「二人道成寺」ならば二人の踊り手は等価であるべしと云うことです。可能な限り、そこを配慮すべきです。これは結構大事なことで、両人花形の競演ならば、なおさらのことです。今回の、菊之助と勘九郎の場合はどうであったでしょうか。

今回の「二人道成寺」では、鐘供養は最初勘九郎が一人舞台に立って舞い、勘九郎が花道へ行くと、続いて菊之助が花道スッポンからセリ上がるという形でしたね。これだと「二人の踊り手は等価である」とはまったく見えません。一体、菊之助と勘九郎の立ち位置はどういう関係なのでしょうか?主と従、正と副、裏と表、陰と陽、影と光・・・いろいろ考えられますが、いずれにせよ二人の間に対立構図しか浮かばなくなります。何となくこの対立構図は、勘九郎の方に不利に作用したと思います。「恋の手習い」のクドキは最初菊之助が一人で踊り・途中から勘九郎が加わって・二人別々の振りによる踊りになりますが、二人の踊り手が等価に見えて来ません。これでは勘九郎が損に見えてしまいます。ここにはかつて玉三郎と菊之助が二人で踊った「二人道成寺」(初演は平成16年・2004・1月歌舞伎座)のコンセプトが取り入れられていると思いますが、この舞台がまさしく二人の踊り手を等価に見立てないコンセプトでした。(この時はもちろん玉三郎が主でした。)この舞台が新鮮な印象であったことを吉之助も認めます。しかし、あれはあの時だけのことにして、今回の・花形の競演での「二人道成寺」ではやって欲しくなかったと思いますね。花形二人の「道成寺」であるならば、二人の踊り手は等価に置かれるべきです。

もうひとつ、菊之助が花道スッポンからセリ上がるという形を取ったことで、花子=怨霊という印象が歌舞伎の「道成寺」物のなかで当たり前の感覚になりつつあることを危惧しますねえ。これは前述の玉菊の「二人道成寺」が残した弊害であろうと思います。菊之助はインタビューで「陰か陽かと云われれば、自分にとっての「道成寺」は陰の感じがする」とも語っていますが、これもその悪影響であるように思いますね。歌舞伎では怨霊やら化け物が当たり前であるような印象があるかも知れませんが、そのような印象が江戸民衆の理知的・合理的な感性で照らし出されなければなりません。江戸の感性は、明るいものです。これは鶴屋南北を演る時でも・黙阿弥を演る時でも大事な感覚です。「娘道成寺」では花子が怨霊であることは、最後まで伏せられなければなりません。鐘入り直前の、最後の最後に清姫の情念がメラメラと燃え上がる、その瞬間まで伏せられねばならないのです。これは「娘」の道成寺なのです。怨霊の道成寺ではありません。菊之助も自分にとっての「道成寺」は陽であると成って欲しいものです。

(R4・12・23)



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