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「山本勘助」を継ぐ者は誰か八代目幸四郎・十七代目勘三郎による「勘助住家」

昭和52年6月国立劇場:通し狂言「本朝廿四孝」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(山賤横蔵後に武田軍師山本勘助)、十七代目中村勘三郎(百姓慈悲蔵実は長尾家軍師直江山城守)、四代目中村雀右衛門(北の方手弱女御前・慈悲蔵女房お種)、四代目尾上菊次郎(慈悲蔵母越路)、三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(井上新左衛門実は斉藤道三)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(甲斐の大守武田晴信・武田家執権高坂弾正)、二代目中村吉右衛門(越後の城主長尾景勝)、九代目沢村宗十郎(将軍足利義晴・高坂弾正妻唐織)、二代目坂東亀蔵(初代坂東楽善)(長尾家執権越名弾正)、八代目大谷友右衛門(越名弾正妻入江)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(側室賤の方)他

*本稿では、無用の混乱を避けるため、近松半二の作品名は略さず「本朝廿四孝」と表記しています。「廿四孝」とのみ記する時は、中国の書物「廿四孝」のことを指すとお読みください。

*本稿は、別稿「廿四孝」の世界とは」の続編です。


1)天下一の軍師

別稿「「廿四孝」の世界とは」で述べた通り、近松半二の「本朝廿四孝」の世界は、外殻と内殻の二重構造で出来ているのです。「本朝廿四孝」の内殻的世界とは、騙し絵のように、積み重なった情報の細部にこだわらず・全体を俯瞰すれば浮き上がってくる模様(真実・マコト)のようなものです。これが「廿四孝」が教えるところの教訓です。すなわち「孝行をするならば何事でも決して見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こるだろう」と云うことです。

一方、「本朝廿四孝」の外殻的世界とは、「大名たちがみな疑心暗鬼で・互いに監視し合い・権謀術数を張りめぐらしている」と云う足利幕府内の政治的闘争の有様です。「甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は川中島で何度も戦った。合戦はダラダラ続いて、結局決着がつかなかった。それは一体何故なのか?」と云う歴史上の謎を解き明かす形で筋が展開します。その裏には足利将軍の治世の安泰を守り抜こうとする信玄と謙信の深謀遠慮がありました。信玄も謙信も合戦の決着をつける気が最初からなかったのです。二人は天下を狙う下心がないことを示すため、互いに見せかけの合戦をダラダラと続けていました。

そうすると、ひとつの疑問が生じると思います。と云うことは、川中島の戦いは実際にはなかったのか?見せかけの合戦とはどういうことだ?そう云う疑問が生じるのは、当然です。これについて吉之助は、次のように答えたいと思います。信玄も謙信も、足利将軍の治世を襲い天下を狙う気持ちなど微塵もありませんでした。二人が願うのは、足利の治世の安泰だけです。ただし時代設定は、「戦国の世」です。大名たちがみな疑心暗鬼で、お互いを監視し合い、腹の底を探り合うのが、「戦国の世」なのです。現に北条氏時が「信玄と謙信は何か密約を交わしたのではないか」と疑い、「両家は心を合わせ足利御所に弓を引こうと企んでいる」と御所で騒ぎ立てます。関東周辺を治める北条氏は、両国の背後に控える大きな脅威でした。こんな状況では、信玄も謙信も滅多に本心を明かせません。信玄・謙信は、互いの気持ちを信じています。しかし、戦国の世では裏切りや寝返りは日常茶飯事で、疑うわけではないが・決して油断は出来ません。「敵を欺くならば・まず味方から」というのは、兵法の鉄則です。だから信玄も謙信も、味方にも本心を明かしません。自分の子供にさえ本心を一切明かさないのです。だから息子たち(長尾景勝・武田勝頼)は自分の力で解決の道を探さねばなりません。一方、武田・長尾両家の家来たちは、「お家」の面子をかけて事あるごとにいがみ合い、本気で川中島の戦いを続けていました。しかし、勝負が付きそうな決定的な場面では、多分信玄か・あるいは謙信がちょっとしたさじ加減で兵を引いたりして、決着が付かないようにしていたのです。この真相は両軍のトップである信玄と謙信だけが知っています。

このような曖昧模糊・混沌とした状態となるのは、「本朝廿四孝」の外殻的世界が、足利幕府末期の戦国時代と・江戸期の徳川幕府体制と、ふたつの様相の混合体で出来ているからです。将軍が何者かに狙撃されるなんて穏やかでない筋です。普通ならばお上からお咎めがありそうなものですが・そうならないのは、天下を乱す不届き者(斎藤道三)が最後に誅されて「徳川幕府の治世は安泰、天下は太平」となる結末に、「本朝廿四孝」が落ち着くからです。これならばお上はその芝居を容認出来ます。この論理(ロジック)が理解できなければ、半二は「もし・・たら・・れば」のいい加減な・デタラメばかりを書いているとしか見えないでしょう。

そこで芝居のなかに、この混沌とした状況を一気に「在るべき姿」に返すことが出来る、決定的な英雄(ヒーロー)の出現が必要となります。それが天下一の軍師と謳われた山本勘助なのです。

それにしても、天下一の軍師・山本勘助とは、一体どう云う人物だったのでしょうかねえ。武田家には昔から有能な家臣が多かったようで、特に信玄の代には、「武田二十四将」としてその名を轟かせました。「戦国最強家臣団」と云われることもあるそうです。二十四将のなかでことさら異彩を放つ存在が、片目で眼帯をして・片足が不自由な山本勘助晴幸(はるゆき)です。江戸前期に成立した「甲陽軍鑑」及びこれに影響を受けた軍談などによって、武士たる者で山本勘助の名を知らぬ者はないほどの人気でした。信玄を語る時には、必ず勘助の名前が出て来たものだそうでです。だから初演当時の大阪町人の誰もが、「ナルホドここで山本勘助が出てくるならば、錯綜した芝居の状況も、これで一気に解決が付く」と納得したに違いありません。しかし、現在では人気が廃れて・歴史学者のなかにはその存在さえ疑う人もいます。どうやら義経に対する武蔵坊弁慶と同じように、信玄の名声に連れて軍談などにより作り上げられてきた英雄であったようです。

ただし「本朝廿四孝・三段目・勘助住家」では、本物の山本勘助は既に死んでしまっており、舞台には登場しません。「山本勘助」の名跡は、勘助の妻越路(つまり横蔵・慈悲蔵兄弟の母)が一時預かりとしています。血筋からすれば、二人の息子のどちらかが「山本勘助」の名跡を継ぐはずです。しかし、天下一の軍師と謳われた「勘助」の名だけに、相応しい資質を持つと認められた者でなければ継がせることは出来ません。母越路は二人の息子の資質をじっくり見定めようとしています。「三段目・勘助住家」は、「横蔵・慈悲蔵のどちらが勘助の名を継ぐか」と云うドラマなのです。表面的には、兄弟のどちらが母親のお眼鏡に叶うか?どちらがより親孝行か?という形で進行します。(注:歌舞伎では母の名を越路としますが、丸本では名前がなく・ただ「母」とのみ。)

しかし、勘助一家の内情とは関係なく、「本朝廿四孝」の外殻的世界が、決定的な英雄(ヒーロー)の出現を早急に求めています。まずひとつは、将軍義晴が何者かに狙撃され・足利幕府の主が不在の状態であるからです。お世継ぎを懐妊した賤の方は何者かに連れ去られて行方不明になっています。とりあえず幕府の運営は義晴の正室・手弱女御前(たおやめごぜん)が預かっていますが、将軍狙撃の嫌疑が信玄と謙信の二人に掛かってしまいました。さらに犯人を見つけ出せない時は、両家は責任を取って嫡男の首を打って渡すという話になりました。許された猶予は義晴公三回忌追善供養が終わるまでしかありません。この難題を解決出来る知恵者が一刻も早く欲しい。それが出来る人物は「山本勘助」(正確には二代目と云うことになります)しかいないと、衆目はそのように見ているのです。

もうひとつは、これも信玄と謙信の真意とまったく無関係に、武田家・長尾家両家の家臣たちは、膠着状態の川中島の戦いに早く決着を付けたいと考えていると云うことです。どちらも相手を打ち負かしたいと思っているのです。このため彼らとしては自分の陣営に是非とも有能な軍師が欲しい。彼らはその切り札こそ「山本勘助」(二代目)だと考えているのです。そこで武田家・長尾家双方の採用合戦になります。「三段目・勘助住家」では、横蔵には長尾家から士官の口が掛かり、また慈悲蔵には武田家からの口が掛かります。これらはどちらが「勘助」の名を継ぐかまだ分からない状況下での話ですが、どちらかが「勘助」の名を継ぐはずだから・いわば先物買いみたいなものです。しかし、どちらに「勘助」を与えるかは、依然として母越路の胸の内です。

以上のような流れが、二つ・三つと絡み合い・こんがらがって押し寄せるので、「本朝廿四孝」の読み解きは大変難儀なものになります。(この稿つづく)

(R4・12・13)


2)慈悲蔵のこと

「三段目・勘助住家」の最後の方で弟・慈悲蔵が実は長尾家に奉公する直江山城之助であったと分かるわけですが、すでに奉公先のある直江がどうしてここ(勘助住家)に居て・「山本勘助」の名を欲しがるのか、その事情は俄かに理解しがたいところがあります。これは、実は大序に伏線があるのです。直江は2年ほど前、室町御所で将軍義晴狙撃事件の時に、腰元八つ橋との不義が見つかったことに加え、将軍の種を宿した賤の方を何者かに連れ去られた失態を犯し、主家である長尾家を窮地に追い込むことになってしまいました。(忠臣蔵の早野勘平みたいなものです。)本来お手討ちとなるところ主人景勝の情に命を救われ・勘当の身となって、信州筑摩郡にある実家(勘助住家)に戻っているのです。直江は慈悲蔵、八つ橋はお種と名を変えて三段目に夫婦で登場します。なお勘当中に二人の間に峰松という赤子が生まれました。

文楽で見ると、大序(室町御所)に直江も八つ橋も登場します。だから人形の頭(かしら)が同じであるのを見れば・直江が慈悲蔵であることは明らかなのですが、多分そこまで気付く観客は少ないかも知れません。(これを役者がやるのであれば、すぐ気が付くと思います。)つまり、見方によっては、半二はここで平然として直江=慈悲蔵のヒントを提出しているわけですね。イヤ却って混乱の元かも知れませんが。今回(昭和52年6月国立劇場)通し上演「本朝廿四孝」の山口廣一監修台本では、序幕(室町御所)での直江と八つ橋の箇所が全部カットされています。将軍狙撃と・武田長尾両家に事件の詮議が命じられる経緯に筋を整理したのは、まあこれは妥当な処理であろうと思います。ただしこの台本であると三段目最後の慈悲蔵の直江の見顕わしのサプライズが大きく効果的にはなりますが、「半二さん、ズルい、今それを明かすか」と云う感じにはなりますね。

まず慈悲蔵(直江)が実家(勘助住家)に戻った経緯から、慈悲蔵が気持ちを推測せねばなりません。長尾家を窮地に追い込んでしまった慈悲蔵は、何とかして犯人探索のためのお役に立ちたいと願っています。もちろん勘当を許してもらって主家に復帰する為です。そのため慈悲蔵は、父・山本勘助が秘蔵していた軍法書「六韜三略」を何としても手にしたい。これが難題を解くための秘法の書だからです。しかし、「六韜三略」を手にするには、「山本勘助」(二代目)を継ぐことを母越路に認めてもらう必要があります。

しかし、ここでひとつの難儀は、「山本勘助」を継ぐ有資格者に兄・横蔵がいることです。江戸時代は長子相続の時代ですから、(横蔵に特段の問題がなければの話ですが)普通は長兄の横蔵が継ぐのが順当なのです。だから次男の慈悲蔵は他家(長尾家)へ奉公することを決めたのです。長尾家は母越路の実家(直江)の主家でした。ところが、思わぬ事態から慈悲蔵は勘当を受けて長尾家を追われ、信州の実家(勘助住家)に戻って、時節を待つこととなってしまいました。一方、横蔵の方はひどい乱暴者で酒と博打で暮らす日々です。傍目からは「山本勘助」を継ぐのに相応しい男とは到底思えません。

そこで慈悲蔵は、どうやら母越路に密かに相談をしたようです。このことは、三段目・終盤で慈悲蔵が実は直江であることを明かして、

「某(それがし)長尾の家臣たる事、母人には密かに語り、かねて申し受けたる兄者人の命。現在の子を捨てたも否応言はさぬ命の無心。」

と語るところで分かります。ここで推察されることは、慈悲蔵は母親に自分が長尾家に奉公する直江山城であることを明かし、「あの無法者の兄(横蔵)は「勘助」を継ぐ見込みがある人物とは到底思えない、それならば自分が「勘助」を継いで「六韜三略」をもらい受けたい」と頼んだと云うことです。その背景としては、将軍3回忌までに犯人を見つけ出せない場合は長尾家嫡子・景勝の首を差し出さねばならないが、その景勝の面差しに横蔵がよく似ている、つまり景勝の偽首として・横蔵が役に立つということです。既に二段目で竹田家嫡子・勝頼が切腹して果てました。(ただしこれは偽の勝頼でしたが。)続いて景勝も切腹せなばならない事態が刻々と迫っています。そこで慈悲蔵としては、「兄(横蔵)は主人(景勝)の身替わりとして死んでもらいたい」と考えたのです。しかし、それでは兄弟としてあんまり無慈悲と云うものです。そこで慈悲蔵の兄に対しての言い訳は、「自分(慈悲蔵)が「勘助」の名を継ぐが、お種との間に生まれた実子の峰松を捨て・兄の子供の次郎吉を自分の跡継ぎにして育てる、いずれ次郎吉が「勘助」を継ぐ、つまり兄の血筋を守るから、これで許してくれ」ということです。慈悲蔵が云う「命の無心」とはこのことです。

そこで母越路が慈悲蔵にどう答えたかと云うと、これも推察になりますが、「そなた(慈悲蔵)の気持ちは分かったが、自分(越路)としては兄(横蔵)の心底を最後にもう一度確かめたい、いま暫く待て」と云うことであったと思います。このことは後でもう一度取り上げますので、この場ではここまでとします。

ところで別稿「「廿四孝」の世界とは」で論じた、三段目・勘助住家の幕切れの詞章、

「黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾と兄が不孝の孝行は・・」

について、慈悲蔵の心の揺れを検証したいと思います。慈悲蔵は、実子・峰松を捨てて・横蔵の子・次郎吉を育てる決心をして、峰松を桔梗ヶ原に捨ててきました。(三段目端場・桔梗ヶ原) ところが捨て子を見つけた長尾・武田の家来たちが色めき立った。それは、その子の小袖に「甲州の住人山本勘助」と書いてあったからです。膠着状態の川中島合戦に決着をつけるために、「山本勘助」は是非ともわが軍の軍師に向かい入れたい人物です。この子はその取引材料に出来ると考えたのです。結局、捨て子は武田家執権高坂弾正の手に渡り、細君唐織(からおり)が峰松を抱いて勘助住家にやってきました。思いもかけず捨てた峰松が戻ってきて、「この子が返して欲しければ信玄公に仕えろ」と迫られたのです。当然、慈悲蔵夫婦は動揺を隠せません。ここで母越路の声が鋭く響きます。

「コリヤ/\慈悲蔵、子を餌(えば)にして味方に付けんと後汚ない信玄に奉公しては武士が立つまいぞよ。それとも又、軍法奥義も伝はらず、家の名跡を継ぐ気がなくばナコリヤ、勝手次第」

これを聞いて慈悲蔵はハッと我に返って・武田家への士官を断るのですが、雪降る軒下に置いておかれた我が子を見て、お種の心は張り裂けんばかりです。我慢できなくなったお種が表へ飛び出し・我が子を抱き上げた時、どこからか手裏剣が飛んで来て我が子の胸を刺し貫きました。その時点では犯人は誰だか分かりません(お種は横蔵が殺したものと思い込みます)が、後にこの手裏剣を投げたのが慈悲蔵であったと分かります。

以上の経緯で分かる通り、「黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾」とは、このことを指しているのです。慈悲蔵は動揺して、我が子を救うため自分は武田家に士官すべきか否かと迷っていました。そこで母越路が言ったのは、「長尾家に奉公するお前(直江=慈悲蔵)が主家を裏切って敵方である武田家に仕えて良いのか、うろたえるでない、それならば「勘助」を継がせるわけには行かぬ」と云うことです。だから、母の言葉で慈悲蔵は我が子をキッパリ思い切ったのです。何としても自分が「勘助」の名を継ぐ(=それは「六韜三略」を手にするためです)、そのために自分の断固たる決意を母に見せて・母に自分を認めてもらう、そこでわが子に向けて手裏剣を投げたのです。「これも母への孝行だ」と慈悲蔵は思ったのかも知れませんねえ。

これが半二の云うところの、「弟が慈悲の胴慾」です。慈悲蔵は母に孝行を尽くしました。しかし、心の底のどこかで孝行の見返りを求めてしまったのです。慈悲蔵は、どうしても「勘助」の名が・「六韜三略」が欲しかった。結局、そのために我が子を殺してしまった。だから慈悲蔵は奇跡の実現にあと一歩というところに迫りながら、奇跡を起こすことが出来なかったのです。中国の「廿四孝」の郭巨の奇跡の再現は、成りませんでした。結果としては、慈悲蔵は「六韜三略」を手にすることは出来ました(最後に横蔵が慈悲蔵に与えたのです)が、我が子を救うことは出来ませんでした。(この稿つづく)

(R4・12・18)


3)長尾景勝のこと

長尾景勝は、三段目では端場・景勝下駄の段にちょこっと登場するだけです。四段目でも端場・景勝上使の段に登場しますが・ここは歌舞伎の十種香ではいつも省かれる箇所で、これではどうしても景勝が脇役に見えてしまいます。しかし、それは大間違いです。「本朝廿四孝」丸本全体を眺めると、五段すべてに何かの形で登場するのは勘助と景勝だけです。長尾家の代表として、(真意がなかなか伺えない)父・謙信よりも、「本朝廿四孝」の展開に積極的に関与する人物が景勝なのです。

ちなみに史実の上杉謙信は生涯独身を貫いたので、子供はいませんでした。上杉景勝は(謙信の嫡男ではなく)謙信の甥に当たり、その後謙信の養子となり、相続争いの後上杉家の当主となりました。上杉家家臣・直江山城守兼続は出身について諸説あるようですが、幼い時から近侍として景勝に仕えたとも云われています。

まず三段目端場・景勝下駄の段での、景勝の登場が印象的です。慈悲蔵は母越路に「裏の竹藪から筍掘って来い」と言われますが、雪の降る寒中に筍があるはずがない。慈悲蔵が困っていると、越路は「このくらいの難題に困るようでは智者と呼ばれぬ」と・持っていた杖で慈悲蔵を打とうとします。ところがその時足元がぐらついて、履いていた下駄が飛びました。ここで景勝がサッと歩み寄り・下駄を拾って越路の前に置き、一歩下がって頭を下げました。これを見て越路はこの男をただならぬ者と察し、慈悲蔵を去らせて要件を聞きます。

半二はここで中国の故事を引いています。秦時代末期、兵法の祖と云われた黄石公(こうせきこう)が漢の功臣張良(ちょうりょう)に「太公望兵書(六韜)」を与えたという話です。或る時、張良はひとりの不思議な老人に出会いました。老人は履いていた履を橋の下に落とし、張良に「拾え」と命じました。張良は怒らずこれに従うと、老人はにっこり笑って5日後の再会を約束しました。こうして何度か試された後、老人は張良の謙虚さを認めて兵書を与え、「これを読めばお前は10年後には王者の軍師となるだろう」と予言しました。

景勝は越路に自分が謙信の嫡子・景勝であると明かし、「兄横蔵を家来として召し抱えたい」と直々に頼みに来たのです。越路は死んだ夫の「山本勘助」の名を預かっています。つまり現在は越路が「勘助」=軍師ですから、景勝は中国の故事を鑑み・老女に対しこれに相応しい礼を取っているのです。それにしても、景勝が言うことが妙です。景勝は勘当中の直江(慈悲蔵)の主人であるはずなのに、景勝は「横蔵を家来として召し抱えたい」と言うのです。越路がなぜ孝行な慈悲蔵でなく・親不孝な横蔵を望むのかと聞くと、景勝は

イヤ、そりや其方に覚えある事。諏訪明神の社内にて、面体恰好とつくりと見届けおいた横蔵。是非に身共が所望致す。(中略)いかに老女。主従となるからは一命を捨てゝも忠義を励む武士の慣ひ、言ふに及ばず。この方とても一身を任すといふ固めの一品受け取られよ。もし違変あらば身の上たるべし」

と答えます。これは謎かけみたいなものです。すでに慈悲蔵(直江)が「勘助」を所望する相談をしており・越路が状況をすべて承知しているはずだと分かれば、景勝の返答はすんなり納得が行きます。景勝は、

「老女、あなたは事情をよくご存じでしょう?横蔵の面相が自分とよく似ているから、それで横蔵を召し抱えたいと言うのですよ。主従となったら命を捨てて忠義に励んでもらわねばならぬ。そのための主従の固めの品をお受け取りください。約束を違えれば大変なことになりますよ」

と言っているのです。これは「横蔵を自分が切腹せねばならなくなった時の身替りとしたい」との景勝の頼みを母越路が了解したと云うことですが、実はこれは越路と景勝の「表向き」の会話です。もう一捻(ひとひね)りがあるのです。両者の腹の内に語られていない「裏」の会話があります。

母越路は、親不孝な横蔵に手を焼いていますが、まだ希望がないわけではないと信じています。心底を見極めないで「横蔵はダメだ」と決めつけるわけに行きません。横蔵に更生の見込みがないと諦めて・だから死んでもいいと云うことで、横蔵の身替わりの話を受けたのではないのです。横蔵を「お前は死なねばならない」という窮地に追い込んで、それで横蔵の心底を見極めようとしているのです。もしかしたら、ここから「勘助」を継がせる目が出るかも知れません。それで見込みがないと分かれば、その時は仕方がない・身替りで死んでもらいましょと云うことです。

一方、景勝の方にも腹の内があります。もし景勝がホントに横蔵を自分の身替りにする考えならば、あの時(二段目・諏訪明神お百度石の場)で横蔵の首を取ってしまえば良かったのです。しかし、景勝はそれをしませんでした。諏訪明神で横蔵を見た時、「コイツはただ者ではない」と直感したからです。あの時、酔っぱらった横蔵はお賽銭をくすね、さらに奉納の太刀を盗もうとして・これを見咎めた景勝の家来を逆に斬ってしまいました。景勝は横蔵を成敗しようとしましたが、横蔵の度胸に感心して・命を助けたのです。ですから景勝が本気で横蔵を自分の身替りにするつもりであれば、あの時・諏訪明神で横蔵を殺せば良かったのです。それをしなかったと云うことは、越路との「表向き」の会話では横蔵を自分の身替り首にするということですが、「裏」の会話ではそうでないと言うことです。

「コイツはただ者ではない」と直感した景勝は、横蔵の正体を何としても知りたい。考えてみれば諏訪明神での横蔵の行動は、景勝が傍で見ているのを承知で、景勝の人物を試したとも取れる。とすると、足利将軍義晴狙撃事件の犯人探索を懸命に続ける景勝にとって、この横蔵は味方なのか・敵なのか?どうやら横蔵は事件の核心を握っているように思われる。いずれにせよ図太い横蔵は、容易に本性を現わさないだろう。だから母越路に「お前は死なねばならない」という窮地に横蔵を追い込んでもらって、そこで横蔵の正体を見極めようと云うのです。もし味方であるならば、横蔵はどエライ味方となるに違いない。敵と分かれば、殺せば良い。

景勝はそこまでの事情を全部明らかにしませんが、「「お前は死なねばならない」という窮地に横蔵を追い込み・そこで横蔵の心底を見極める」と云うところで、景勝と越路両者の考えが一致したと云うことです。これがふたりの「裏」の会話です。ただし、これは観客には後で分かることです。

景勝は「主従の固めの一品」を越路に渡します。箱の中身はその場では観客に明らかにされません。しかし、後に越路と横蔵との会話に

「母者人、こりや何ぢや、イヤサコレこの白装束は何の為」
「オヽそれこそは冥途の晴着。今其方が首打つて身代りに立つるのぢやわやい」

とありますから、箱の中身は横蔵が首を打たれるための白装束でした。さらに越路が、

「オヽ今日そちが主人と頼みし長尾三郎景勝公の御身代り。聞き及ぶ武田信玄越後の謙信、室町の御所に於て互ひにわが子の首打つて心底を顕はさんと契約ある由。最前そちを召し抱へんとて来られし景勝の面体そちが顔にさも似たり。扨はと母が推量違はず箱の中に残されしこの一通、委細の様子詳らかに記されたり。コリヤ、恩を知らねば人ではないぞよ。主従となるからは命は君に捧げし物、武士の因果と諦めて潔う死んでくれ」

と言っていますから、箱の中には景勝から母宛ての書状が入っていました。書状には、景勝が諏訪明神で横蔵と出会った経緯を記し、「家来として横蔵を召し抱え・自分(景勝)が切腹せねばならなくなった時の身替り首としたい」旨のことが書いてあったと思います。

ところで吉之助は、さらに箱のなかにもう一品入っていたと推測します。それは、越路が横蔵に「潔う死んでくれ」と迫られてウロウロするところで、部屋の陰から慈悲蔵が投げて・横蔵の片足に突き刺さった手裏剣(小柄)のことです。この手裏剣は、景勝が勘当中の慈悲蔵(直江)に命じて投げさせたと思います。おそらく「横蔵がそこから逃げないように・この小柄で足を狙え」と手紙のなかで指示されたのでしょう。(ただし慈悲蔵は景勝から「裏」の真意を聞かされていません。慈悲蔵は、景勝がただ「横蔵を自分の偽首にしたい」ものと考えており、「表」の論理だけで行動しています。)

足利将軍義晴狙撃事件の時、御所の騒動に紛れて何者かが身重の賤の方を連れ去りました。景勝がこれを見咎め・「曲者待て」と声を掛けましたが、曲者は景勝に手裏剣を投げて・どこかに消えてしまいました。その時の手裏剣が、これです。つまり手裏剣に込めた横蔵に対する景勝のメッセージは、

「あの時、賤の方を連れ去ったのは、お前(横蔵)だろ。もういい加減に観念して正体を明かせよ。」

と云うことです。手裏剣が横蔵の足に突き刺さりましたから、もう逃げようとしても・逃げられません。家の周囲は景勝の家来で固められています。このように絶体絶命の状況に追い込まれたところで、遂に横蔵が心底を明らかにします。(この稿つづく)

(R4・12・20)


4)横蔵のこと

母越路に「主人景勝の身替りとして潔う死んでくれ」と迫られ、逃げようとしても・手裏剣が足に刺さって動けない。家の周囲は景勝の家来で固められている。絶体絶命の状況に追い込まれたところで、横蔵はいきなり腹切刀を取って右の眼に突っ込みます。これは表向きには、景勝の身替り首にされるのを逃げる為、自ら右目を潰したと云うことです。しかし、ここに観客は中国の「廿四孝」に勝るとも劣らぬ奇跡がまざまざと立ち現れるのを見ることになるのです。(初代)山本勘助晴義・つまり横蔵の父は、片目で眼帯をしており・片足が不自由という特異な風貌で世間に知られていました。

「コレ/\母人。景勝に似たるこの面にかう疵つけて相好変ゆれば、身代りの役にやもう立つまい。日只今父が苗氏を受け継ぎ山本勘助晴義。

横蔵がこう言ってニヤリと笑った時、横蔵の姿を見て、越路だけでなく・観客も、「オオそこに居るのは、まさしく天下一の軍師山本勘助だ」と認めることになるのです。今回(昭和52年6月国立劇場)上演の「勘助住家」のこの場面では、幸四郎の横蔵(勘助)が押し出しの立派さと云い・重厚さと云い、これがまさに時代物の見顕わしだと云うところを見せてくれました。横蔵は一方的に「(二代目)勘助襲名」を宣言します。しかし、越路にもはや異論あろうはずがありません。横蔵は直江(慈悲蔵)を呼び出し、これまでの経緯がみな自分の計略であったことを明かします。

「ヤイ山城、只今汝が打つたるこの手裏剣は、先年室町の館にて賤の方を奪ひ取り立ち退く折から、景勝目当に打つたる小柄(こづか)、只今わが手へ確かに落手。われ山本の苗氏を引き興さんと軍学に心を凝らす処に、武田信玄大僧正、姿をやつし唯一人密かに庵ヘ来たらせ給ひ、『足利の行末覚束なし。汝わが力となつて事を謀れ』と名将の一言心魂(しんこん)に徹し、『ハヽア、畏り奉る』と即座の領承(りょうじょう)弓矢の誓ひ」

景勝の推察通り、足利将軍義晴狙撃事件の際、将軍家の源氏の白旗を奪い、またお世継ぎ懐妊の賤の方を敵の危難から守るため連れ去った不審者が、横蔵であったのです。横蔵は勘助の名を引き継ぐため軍学の研鑽に励んでいたところ密かに武田信玄公が訪れ、主従の約束を交わした経緯が明かされました。信玄の依頼により京都の室町御所に潜んでいたところで将軍狙撃事件が起きたのです。横蔵は更科の片田舎に賤の方を匿っていましたが、お世継ぎ松寿君を産んで間もなく・賤の方は亡くなりました。

「跡に残りしあの公達、勿体なくも我が子と偽り、『コリヤ次郎吉よ/\』と呼ぶ度々の勿体なさ。弟嫁が乳を幸ひ二人が中の子を捨てさせ養育さする我儘無法、一物ありとはや悟られし母人の、雪の中の筍を掘つて見よとは天晴れ明察、げに勘助が母人ぞや。穢れを厭ひ今日まで埋み置いたる雪中の笋(たかんな)これにあり」と、箱押取つて差し上ぐる源家正統武将の白旗、「神明を頭に戴く義兵の旗上げ、謙信親子只今よりこの勘助が幕下に付けとナコリヤ、立ち帰つて言ひ聞かせよ」

横蔵のこの語りから分かることが、いくつかあります。まず一つ目は、横蔵が次郎吉(実は松寿君)を無理やり慈悲蔵夫婦に押しつけ・実の子(峰松)を捨てざるを得ないように仕向けたのも、実は横蔵の計略であったということです。二つ目は、さすが勘助の妻と言うべきか、越路は仔細は知らずとも・そのような横蔵の計略を何となく感じ取って、「雪の中の筍を掘つて見よ」と慈悲蔵に謎かけをしたことです。竹藪に埋まっていたのは、横蔵が埋めた源氏の正統を示す白旗を納めた箱でした。

室町御所に潜入していた横蔵は、慈悲蔵が直江であることを承知していました。慈悲蔵が「勘助」の名を継ぎ・六韜三略を手に入れたいと思っていることも感づいていました。長男である横蔵は「勘助」を譲るわけに行きませんが、六韜三略を弟に譲ることは考慮の余地があります。ただしそれは慈悲蔵(直江)の本心を確かめた後でのことです。そこで横蔵が仕掛けたことは、慈悲蔵が赤子を桔梗ヶ原に捨てに行く時、衣服に「甲州の住人・山本勘助」なる札を付けておくよう・それとなく指示したことです。こうしておけば、いずれ赤子を抱いて武田家か・長尾家かどちらかの家来がこの家を訪ねて来るだろう。横蔵の読みが正しければ、その時の反応で慈悲蔵の本心が読める。同時にその背後にいる長尾景勝の本心も読めると踏んだのです。景勝が信用できると云う確証が得られれば、この場で改めて自分(横蔵)が「勘助」を名乗り、お世継ぎ・松寿君の存在を明らかにし、足利将軍家の復権に向けて立ち上がると宣言することになるだろう。これは足利家の治世の安泰を願う武田・長尾両家の「義」の心を公にすることでもあります。

これを見ても、横蔵の方が慈悲蔵よりも、一枚も二枚も上手(うわて)であったことが分かります。ただしそれは慈悲蔵がボンクラだと云うことではなく、慈悲蔵は人一倍孝心が厚く・努力もする人物でした。事実、慈悲蔵は「雪中の筍」の奇跡にあと一歩というところまで迫ったのです。このことを横蔵は認めて、六韜三略を弟に譲ることにしました。その後、慈悲蔵が六韜三略で兵法を学んで、長尾家になくてはならぬ名軍師・直江山城守となったことは、歴史が教えるところです。(この稿つづく)

(R4・12・23)


5)「山本勘助」の名を継ぐのは誰か

このように「三段目・勘助住家」は、「山本勘助」の名を継ぐのは誰か、横蔵か慈悲蔵かと云うドラマなのです。(二代目)勘助の出現で、混沌とした「本朝廿四孝行」の政治状況(外殻たる「世界」)が一気に解決の方向へと向かうことになります。

「日只今父が苗氏を受け継ぎ山本勘助晴義。

横蔵がこう高らかに宣言する時、厚い雲の隙間から明るいお日様の日差しが差し込んだような気がしますね。明和3年(1766)初演当時の大坂の観客なら、誰もが「ああこれで万事解決だ」と思ったはずです。なぜならば勘助は天下一の軍師であるからです。いよいよ勘助が登場となれば、どんな難問も解決なのです。

一方、「勘助住家」の内殻たる「世界」で、母越路・横蔵・慈悲蔵の、親子・兄弟間の相互の疑心暗鬼と腹の探り合いが描かれます。一見すると、「家を継ぐ資格がないのならば死んでも構わない」と言わんばかりの試練の連続です。しかし、裏を返せば、これは「家の繋がりを以て最後の最後まで家族を見捨てない」と云うことだと思います。「信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こる」、そこに家族の最後の絆(きずな)を見ているのです。これは彼が生まれ変わるために、必ず受けねばならない通過儀礼なのです。繰り返しますが、近松半二が儒学者穂積以貫の次男として生まれたと云うことを忘れてはなりません。儒教の倫理観念が半二作品の根底にあると考えるべきです。こう云う読み方は、「古臭い」読み方でしょうか。イヤむしろ家庭が崩壊の危機に瀕している現代だからこそ、これが示唆ある読み方になってくるかもしれません。

今回(昭和52年・1977・6月国立劇場)の通し狂言「本朝廿四孝」での山口廣一監修による台本は、三段目切「勘助住家」結末に向けて流れを整理した良心的な台本だと思います。「勘助住家」に至るまでの筋(序幕〜3幕目まで)をスッキリ整理したことで、「「本朝廿四孝」全体から見た「勘助住家」の立ち位置(外殻たる「世界」)がスッキリ見えてきました。まあそれは半二が凝らした「騙し絵」の仕掛けを壊すことでもあるわけで・一長一短あるかも知れませんが、そこから見えて来た大事なことは、武田・長尾両家のなかで・人によって立場や考えは様々だけれど・皆が共通して抱いている思いは、にっちもさっちも行かぬ・この錯綜した状況を一気に解決へと向かわせる決定的人物(ゲーム・チェンジャー)が必要だと云うことです。その人物こそが天下一の軍師・山本勘助なのです。そこのところさえ踏まえていれば、「勘助住家」理解はそれほど的を外すことはなかろうと思います。「山本勘助」の名を継ぐのは横蔵か慈悲蔵かと云う「一家庭の事情」に過ぎないはずのものが、「本朝廿四孝」では天下国家の行方を左右する大問題と重なってしまうところが、面白いと思います。「勘助住家」が、浄瑠璃三段目として格別に重いものと感じるのは、多分そのせいでしょう。

それと最晩年の「岡崎」(伊賀越道中双六)では政右衛門の赤子殺しに冷酷とも思える描写に徹した半二ですが、この「本朝廿四孝」では慈悲蔵が我が子(峰松)を殺したことについて・幕切れの詞章でかなりはっきりと怨嗟の声を上げていることも、興味深いと思いますね。これは中国の「廿四孝」と重ねたこととも関連しているのかも知れませんが、すなわち

「眠れる花の死顔に、抱いてゆぶつてすかしても、返らぬ昔唐土の廿四孝を目の当たり。孟宗竹の筍は雪と消えゆく胸の中、氷の上の魚を取るそれは王祥これは他生の縁と縁。黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾と兄が不孝の孝行は・・・」

の箇所です。(詳しくは別稿「「廿四孝」の「世界」とは」をご参照ください。)時代浄瑠璃の三段目の位置付けは「恋慕」である・世話場であるということを考えれば、慈悲蔵・お種夫婦と我が子との非情の別れが「勘助住家」の悲劇の、三段目としての芯であることは疑いのないことです。幕切れの夫婦の悲しみは、横蔵の勘助襲名の興奮で消し飛んでしまいますけれども、そこのところにもチラッと思いを寄せて欲しいと思いますね。

(R4・12・27)

*続編「「廿四孝」と八重垣姫」において、さらに「本朝廿四孝・四段目・十種香」論を続けます。


 

 


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