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「廿四孝」の「世界」とは八代目幸四郎・十七代目勘三郎による「勘助住家」

昭和52年6月国立劇場:通し狂言「本朝廿四孝」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(山賤横蔵後に武田軍師山本勘助)、十七代目中村勘三郎(百姓慈悲蔵実は長尾家軍師直江山城守)、四代目中村雀右衛門(北の方手弱女御前・慈悲蔵女房お種)、四代目尾上菊次郎(慈悲蔵母越路)、三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(井上新左衛門実は斉藤道三)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(甲斐の大守武田晴信・武田家執権高坂弾正)、二代目中村吉右衛門(越後の城主長尾景勝)、九代目沢村宗十郎(将軍足利義晴・高坂弾正妻唐織)、二代目坂東亀蔵(初代坂東楽善)(長尾家執権越名弾正)、八代目大谷友右衛門(越名弾正妻入江)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(側室賤の方)他

*本稿では、無用の混乱を避けるため、近松半二の作品名は略さず「本朝廿四孝」と表記しています。「廿四孝」とのみ記する時は、中国の書物「廿四孝」のことを指すとお読みください。


1)「廿四孝」の「世界」とは

本稿で紹介するのは、昭和52年(1977)6月国立劇場での通し狂言「本朝廿四孝」(三段目・勘助住家を中心とする)舞台映像です。この観劇随想と、追って別稿にて紹介する予定の、同じく国立劇場での・昭和46年(1971)10月・通し狂言「本朝廿四孝」(四段目・謙信館十種香を中心とする)映像と併せて、二つの観劇随想で以て、数ある時代浄瑠璃のなかでも飛び抜けて・筋が錯綜して難解とされている「本朝廿四孝」の全体像を考えてみようという趣向であります。まずは「勘助住家」の方からです。

「本朝廿四孝」は、明和3年(1766)1月大坂竹本座初演の人形浄瑠璃です。ご存知の通り、近松半二の浄瑠璃作品は、やたら筋が錯綜して分かりにくいものが多い。実は・・実は・・の連続、観客の意表を突くドンデン返しと筋の急展開、アレヨアレヨと云う間にクライマックスに持って行かれます。しかし、後で冷静になって考えてみれば、筋の持って行き方がいささか強引に過ぎる、そう云えばあの場面は後のこの場面と矛盾しないか、あの時の主人公の心理に筋が通らない、そのタイミングでどうして都合良くそれが起きる、筋立てが技巧的に過ぎなくないかとか、いろいろ疑問が湧いて来ます。半二の生前にも、「お前の芝居は訳が分からぬ、故事来歴の扱い方も間違いが多い」と突っかかって来た偏屈者がいたようです。半二は次のように答えたそうです。大ざっぱに現代語訳にしてみますが、

「役所のことを知っていれば法律家になるし、弓矢のことを知っていれば軍学者になる、仏教を知っていれば立派な僧になり、聖人の経典を覚えれば博識の儒者となる、そう云うものかな。私は菅丞相のことも楠正成のこともそれらしく分かったようなことを意味ありげにひけらかして、和歌芸能のことは何ひとつ正しく覚えたことはなく、耳学問だけで根気を詰めた勉強もしない、私はそう云う自堕落者だから、浄瑠璃作者になったのだろなあ。」

「・・そう言ったら男は口をつぐんで退散したよ」と後に半二はその時のことを笑って語ったそうです。この話しは半二の随想「独判断(ひとりさばき)」の後書きに出て来るものです。つまり半二が「そう云うお前さんは一体ナンボの者だい」と言い返したというお話です。半二の返答は開き直りみたいに聞こえるかも知れませんが、吉之助にはむしろ戯作者としての職人気質から来る自負だと受け取りたいですね。

それにしてもこれが「義経千本桜」とか「仮名手本忠臣蔵」であれば、傍に史実(実説)が厳然としてあり・それらは作品背景となる「世界」を構成するものであるので、これを覆す虚構(もし・・たら・・れば・・)が設定されて・紆余曲折とドンデン返しの展開があったとしても、最終的には筋は落ち着くべきところに落ち着いていくものです。時代物のドラマは必ず「然り、そは正し」と云うところへ向かって行きます。これが「歴史の理(ことわり)」と云うものです。

それでは半二の浄瑠璃作品ではどうでしょうか。半二の作品は、まるで虚構ばかりで覆い尽くされているかのようです。史実(実説)はあるが、それはせいぜいライト・モティーフ(指導動機)であって、新たな虚構を形成するための材料に過ぎないみたいです。それらはどれもバラバラの欠片(かけら)で、決してそれらが「世界」を構成するように思えません。それでは半二の作品には「世界」がないのでしょうか?そう云えば、作家橋本治がこんなことを書いてますねえ。

『「本朝廿四孝」は、相変らず「分りにくくややこしい作品」ではあるのだけれど、そこのところは考えなくていいのである。なにしろこれは、うっかりすると自虐的な考え方をしてしまう日本人に対して、「そんなめんどうくさい考え方をしなくてもいい」ということを明らかにするために作られた「無意味かも知れないドンデン返しが連続するドラマ」だからである。そうしておいて、しかし、この「ドンデン返し」は、あるものの存在をあぶり出す、つまり「親孝行って、そんなに大したものなのか?」という疑問である。(中略)「本朝廿四孝」のタイトルの元になる中国の「廿四孝」が子供に自虐をすすめる無茶なものだということも、日本人は理解している。そこを踏まえて、「本朝廿四孝」は黙って「親孝行ですよ」と笑っているのである。』(橋本治:「「本朝廿四孝」の「だったらなにも考えない」〜「浄瑠璃を読もう」・2012年・新潮社)

・・・まあねえ、何をお書きになろうと橋本氏のご自由ですがね、上記「独判断」の半二の言葉を差し上げたいと思いますね。半二が何を考えて・この「本朝廿四孝」を構想したか、もっとじっくり橋本氏は考えてみた方が宜しい。

近松半二は、儒学者穂積以貫の次男として生まれたのです。「孝行」が儒教の根本理念であることは、ご存知の通りです。だから半二が儒教の「孝行」が大事なことを知らないはずがありません。しかし、半二の芝居に於いては、家族の絆(きずな)・家族への思いは決して暖かい(そこへ還るべく・懐かしいもののような)イメージで描かれていません。もちろん肉親への情は何よりも大切にしなければならないものですが、むしろそれ故に、個人を一層縛り付け・強制し、個人が自らの自由意志で振る舞うことを決して許さぬものと云う厳しいイメージで描かれています。例えば「伊賀越道中双六・沼津」の呉服屋十兵衛が然りです。仇の側に立ってしまった息子十兵衛に対して、生みの親(平作)が命を捨てて「仇の行方を親に教えろ」と迫ります。十兵衛は苦渋の末にこれを明かしますが、それは十兵衛が「命に懸けて沢井股五郎を守る」と誓った男と男の契約を破ることでした。代償は大きかったのです。伏見の場で、十兵衛は自裁同然で死ぬことになります。(別稿「世話物のなかの時代」を参照ください。)半二の芝居は、どれを見てもそのようなドラマなのです。したがって、ここは「本朝廿四孝」のドラマを単独で考えるだけではいけません。その読み方で半二の他の作品も読めるかと云うところも考え併せなければなりません。

半二のドラマがこのような極端な形となるのは、半二の時代においては、共同体(社会・奉公先・家)の個人への規制・縛りがあまりに強く、「個人」とは彼が所属する共同体に在っての個人、「個人」のアイデンティティーが共同体のアイデンティティーと別ち難く同化しているからです。それでは現代に於いて、「個人」はそのような柵(しがらみ)から完全に解き放たれているのでしょうか。現代に於いても、社会生活を営むなかで、多かれ少なかれ、「個人」は柵に縛られながら・時に押し流されながらも、生きているのではないでしょうか。そこから現代の視線で半二のドラマを読むことが可能となるでしょう。

そもそも「親孝行って、そんなに大したものじゃない」とどうして言えるのでしょうか。決してそんなことはないと思います。親孝行のことだけを考えていてはダメです。親孝行は、「孝行」のひとつの事例に過ぎないのです。お年寄りを大事にすることだって「孝行」だし、障害を持った方に配慮することだって、幼い子供を気遣うことだって「孝行」なのです。それって結局、自分を大切にすることに繋がるのではないでしょうか。半二はそう云うことを考えながら、いささか極端な形ではあるけれども、寓意的にドラマを書いていると思いますがね。(この稿つづく)

(R4・11・24)

*別稿時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える」にて橋本治氏の歌舞伎の見方を考えましたので、よろしければそちらもご参考にしてください。


2)歴史の循環・歴史の連関

親に孝行せよという教えは、物語や歌謡や芝居を通じて、長い歳月をかけて我々の感情のなかにしみ込んでいったものです。折口信夫がこんなことを書いています。

『例えば日本の中世以後によく見られるのは、親に孝行せよと云う事である。これは、儒者も説いたが、仏教の方は、もっと感情の底にしみ込んだものであった。昔の人は、家の年寄りも他家の年寄りも同じように見て粗末に扱ったのだろう。親に対して不都合な事をする者は今でもあるが、田舎には一層多い。そんな状態を見る毎に、昔の宗教家たちが孝道を説いた気持ちがよく分かる。我々は昔の物語や歌謡に出て来る教えを何の気なしに見て来たが、やはりそうした教化の為に用いられたのである。(中略)昔にも親を嫌ったものが幾らもあったのだ。だからこそ、孝行をせよと教えたので、それを長い間かかってやって来たのである。我々は、そうした祖先の苦心に対して感謝しなければならぬ訳だ。』(折口信夫:「道徳の民俗学的考察」・昭和11年9月)

「本朝廿四孝」とは、中国の書物「廿四孝」の日本版という意味です。「廿四孝 」は元の時代に編纂された二十四人の親孝行者の話です。いつの時代に日本に伝わったかは、定かではありません。「廿四孝」の忠孝譚は、江戸期の寺子屋教育により庶民に広く浸透しました。「廿四孝」の説話は、継母のために体温で池の氷を溶かして魚を取った王祥の話であるとか、教訓のためとは言え、あり得ない極端な話ばかりです。現代の感覚からすると、横暴な親に子供が献身的に尽くすことを強要する自虐の美学に見えかねません。しかし、江戸期の庶民に「廿四孝」がこれほど普及した背景をちょっと考えてみた方が宜しいようです。

「廿四孝」の流行は、「君君たらずといえども、臣は以て臣たらざるべからず。父父たらずと言えども、子は以て子たらざるべからず」(古文孝経序)という儒学の倫理観に支えられていました。「たとえ親に親としての徳がなかったとしても、子は子としての本分を尽くせ」ということです。つまり子としての(あるいは家の一員としての)アイデンティティーをそこに強く見ており、これに対して全身全霊を尽くすことを義務であると当時の人は見ていたのです。当時の人々もそれがあり得ない珍談奇談だと思っていたはずです。しかし、そこに何かしら高いものを見ていたことも、また事実なのです。

もうひとつ、日本人の歴史に対する特徴的な態度は、古今東西の故事来歴から似たような事例を引用して、それによって現在の事象を注釈しようとすることでした。今の歴史を語るために過去の歴史に立ち返って、その典拠を引くのです。この態度の背景にあるものは、歴史は循環するという思想です。単に繰り返すという意味ではありません。もっと深い意味において歴史の律のようなものを意識しながら事象を読むのです。すると歴史というものは、循環し・積み重なり・連関するというイメージになります。現在は過去の結果としてあるものですが、過去は現在から批評される・と同時に現在も過去から批評されることになります。

人形浄瑠璃から例を挙げます。「傾城反魂香・吃又」で、浮世又平が手水鉢に描いた絵が抜ける奇蹟が起こります。これを見た師・土佐将監が

『異国の王羲之(おうぎし)趙子昴(ちょうすごう)が石に入り木に入るも和画において例なし。師に優ったる画工ぞや。』

と言います。王羲之は東晋の書家。「書聖」とも称され、その筆勢は威勢がよく、「竜が天門を跳ねるが如く、虎虎が鳳闕(ほうけつ)に臥すが如し」と形容されました。趙子昴は元代の画家・書家。書は王羲之に、絵は唐・北宋画に範を求め、書画ともに元朝第一と云われました。将監は、又平の画功の素晴らしさを中国の書家・画家と引き比べて評価しています。

また「仮名手本忠臣蔵・九段目」では、死ぬ寸前の加古川本蔵が

『呉王を諌めて誅せられ。辱かしめを笑ひし呉子胥(ごししょ)が忠義はとるに足らず。忠臣の鑑とは唐土(もろこし)の予譲(よじょう)、日本の大星。昔よりいまに至るまで唐と日本にたつた二人。』

と言います。中国春秋戦国時代のこと、呉子胥は「このままでは呉は越に滅ぼされる」と夫差(呉王)に忠告したが・受け入れられず・自害を命じられました。その後呉は滅び、夫差は「呉子胥の言を取り入れなかったためにこんなことになってしまった、私は彼に合わせる顔がない」と悔いて自害しました主人若狭助の不興を買った本蔵は自らを呉子胥になぞらえ、自らの忠心に恥じるところはまったくないと云う心境を語ります。

一方、予譲は同じく中国春秋戦国時代の人物。敗死した主人の仇を単身で討とうと試みましたが、失敗。仇とされた趙襄子(ちょうじょうし)は予譲の忠心に感銘を受けて一度はこれを許しましたが、二度までも狙われて・さすがに許すことが出来ず、捕えた予譲に自決を命じました。予譲は最後の願いとして趙襄子からその衣服を貰い受け、これを三回斬りつけて・「これでやっと主人に顔向けができる」と言い残した後に、自決しました。これを見た趙襄子は涙を流し、「予譲こそ真の壮士である」とその死を惜しんだそうです。本蔵は予譲のことを「最後まで仇討ちの意志を捨てなかった真の忠臣」だと位置付けて、大星由良助の討ち入りへの決意の固さを予譲のそれとなぞらえて讃えています。

このように、歴史は連関する、過去は現在から批評される・と同時に現在も過去から批評される。これが昔の人々の歴史に対する基本的な態度(スタンス)でした。人形浄瑠璃には、こうした詞章が頻繁に出てきます。

ですから「本朝廿四孝・三段目・勘助住家」で、雪の降るなか、慈悲蔵が母の言いつけに従い・裏の竹藪に筍を掘りに出かける場面を見て、当時の大坂の観客の誰もが、これは幼い頃に寺子屋で教わった「廿四孝」の、あの孟宗の話だとピーンと来たのです。ここまで芝居の筋がこんがらかって・話がどこへ向かうのやらサッパリ見えなかったけれども、それならば「勘助住家」のキーワードが「孝行」だということが、観客の誰の目からもここではっきり分かるのです。ここから先が皆目見えなかった「勘助住家」のドラマの行方が次第に定まって行きます。山本勘助の名前を継ぐことになるのは誰か、横蔵か慈悲蔵か、本当の孝行者は誰か・またはどちらがより孝行者であるのか、これが最終的にドラマを解く鍵になると云うことです。筍掘りの時点では慈悲蔵が優勢のように見えますが、半二のことだから大ドンデン返しが待っているかも知れないから油断は出来ません。(この稿つづく)

(R4・11・27)


3)ウソかホントか

「本朝廿四孝」大序冒頭は、次のような詞章から始まります。

『春は曙ようやく白くなり行くままに。雪間の若菜青やかに摘出つつ。霞たちたる花のころはさらなり。さればあやしの賤(しず)までもおのれおのれが品につき。寿き祝う年の兄。ましてやいともやんごとなく。大樹の下(もと)の梅が香や。先ず咲き初(そ)むる室町の。御所こそ花の盛成れ。』

読めばお分かりの通り、どうやら「枕草子」冒頭をもじったものであるようです。大体、時代物浄瑠璃の大序冒頭はとても重要です。「〇〇天皇の御代」とか年代設定を示唆し、これから始まる長い物語の主題に絡めて詞章を散りばめて「世界定め」を行ないます。ここで作品のバックグラウンドが決まるのです。しかし、この詞章を読むと、時代は平安時代なのか?清少納言でも出て来るのか?これは京都宮中の政治駆け引きのドラマなのか?・・などと色々考えてしまいます。ところが全然そうではないのです。「本朝廿四孝」は戦国時代の川中島合戦を背景としています。京都の足利将軍の館は「花の御所」と呼ばれていました。「春は曙」以下の詞章は「花の御所」の文句を引き出すための枕詞みたいに使われているだけなのです。

斎藤道三は「本朝廿四孝」のなかの最重要人物の一人ですが、史実の斎藤道三のことを詳しく知っていても全然役に立ちません、と云うか「本朝廿四孝」読解のためには却って邪魔になると云うべきです。「本朝廿四孝」の斎藤道三は、太田道灌の子孫ということになっています。(もちろんデタラメ) その根拠は、どちらも名前のなかに「道」の字が使われていることで分かる、それに太田道灌の有名な和歌「七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞ悲しき」の歌がある。なぜならば「蓑がない=美濃がない=美濃の領地を失った斎藤道三」と云うことになるからです。美濃を失った道三は天下を乱すことを企み、まだ日本に伝来していないはずの鉄砲を入手し、これで将軍足利義晴を狙撃してしまいます。さらに相模国の北条氏をたきつけて、甲斐国の武田と越後国の長尾(上杉)を滅ぼそうと画策します。歴史学者から見れば「半二は一体何を考えているのか」と驚くデタラメぶりです。

このように「本朝廿四孝」に散りばめられた情報のかなりの部分が、ガセネタに近いようです。このなかから本筋に絡む数少ない情報を選り分けなければドラマの核心に迫れないのかと思うと、頭が痛くなってきます。それにしても近松半二は、最後のドンデン返しでアッと驚かせるために、観客を混乱させて・騙そうと、確信犯的にこう云うことをしているのでしょうか。「それならば真面目に考えても仕方がない」のかも知れませんねえ。しかし、そうではなくて、散りばめられた情報群は或る種の装飾みたいなもので、装飾の集積から浮かび上がる「騙し絵」みたいなものが半二のドラマではないかと、吉之助は積極的な評価をしたいのですがね。

西洋美術に「マニエリスム」という様式があるのをご存知ですか。特にイタリアにおいて、1520年頃から1600年前後に盛んであった美術様式です。マニエリスムは盛期ルネッサンスの古典主義の調和への反逆、あるいは宗教改革やローマ劫掠(ごうりゃく・1527年5月)による当時の民衆の精神的不安の反映であるとも解釈されています。20世紀の初め頃までは、マニエリスムはルネッサンスの古典的美術を模倣し・これを技巧的に誇張しただけの、停滞期の様式に過ぎないとみられていました。しかし、現在では、シュールレアリズムの先駆として積極的な評価を受けるに至っています。その様式の特長は、洗練された技巧に裏付けられた、錯綜した空間構成、歪んだ遠近法、コントラストが強い明暗法、幻想的な寓意的表現、意識的に歪められたプロポーション、幻惑するような非現実的な色彩法などです。

吉之助には半二のドラマも、まるでマニエリスム様式の「騙し絵」のように思えるのです。情報にウソかホントかの区別はなく、情報と情報が絡み合って・また大きな虚構を生むと云う、錯綜した状況を呈しています。しかし、積み重なった情報の細部にこだわらず・俯瞰するように全体を眺めていくと、何だか大きな「模様」(真実・マコト)が浮かび上がって来るのです。半二のドラマは、多分そのようなドラマなのです。(この稿つづく)

(R4・11・29)


4)「廿四孝」の戦国のイメージ

今回(昭和52年・1977・6月国立劇場)の通し狂言「本朝廿四孝」は、三段目切「勘助住家」を結末に置いた形での上演でした。山口廣一監修による台本は、二段目・諏訪明神お百度の場や勝頼切腹の場など濡衣に絡む件(これは四段目への伏線であるので)などを思い切ってカット・アレンジし、原作の錯綜したところを削ぎ落して、「勘助住家」への流れを整理した良心的な台本だと思います。これで大分「勘助住家」が分かりやすくなりました。それでも見終わった後には、半二の壮大な歴史マジックのめくるめく展開に腹応えがズッシリ来ますね。「勘助住家」は滅多に上演されない場ですが、時代物らしい重量感があって、もっと上演されて良い芝居だと思います。八代目幸四郎の横蔵と十七代目勘三郎の慈悲蔵という兄弟の組み合わせもバランスが良い。

ところで戦国時代というと、「天下は麻の如く乱れ、各地に戦国大名が群雄割拠し、誰もが一日も早く上洛を果たし天下に号令することを夢見ていた、しかし、大名同士互いに疑心暗鬼で牽制しあって容易に身動きが取れない、そこで虚々実々の腹の探り合いが始まる」というイメージが世間にあると思います。PCゲームでも戦国時代は人気です。確かに戦国時代は足軽出身の豊臣秀吉が関白にまで登りつめるという下剋上の結末で終わりました。しかし、歴史を勉強してみると、実態はだいぶ異なるようです。実際は各地の大名は家臣をまとめ・領地を守ることに汲々しており、天下を狙って周囲を敵に回して戦おうなんて野望を抱く大名は、少なくとも織田信長が登場するまでは・なかなか出て来なかったのです。中国地方を平定した・あの毛利元就でさえ子孫に「天下のことに関心を持ってはならぬ」と言い残したそうです。「戦国大名がみな虎視眈々と天下を狙い権謀術数を張りめぐらしていた」という戦国時代のイメージは、恐らく中国の史書「三国志」あたりのイメージが重ねられたものでしょうねえ。既にそのような戦国のイメージが江戸中期にあったことは、半二の「本朝廿四孝」からも伺われます。

もうひとつ大事なことは、例えば「仮名手本忠臣蔵」(寛延元年・1748・大坂竹本座初演)でもそうですが、現代劇を書けない浄瑠璃作者は、同時代を室町時代の足利幕府に仮託したと云うことです。「徳川幕府の治世は安泰、天下は太平」の前提が、戦国時代の足利幕府の世にも適用されます。この前提を守らないとお上が怒って上演差し止めとか・大変なことになってしまいます。したがって「本朝廿四孝」でも、足利幕府の治世は(少なくとも表面上は)平和です。ドロドロとした政治的駆け引きは愚かしい下々の大名どもがやることであって、将軍は清廉潔白です。大名たちは互いの動向を監視しあい、小賢しい権謀術数を弄する者さえいます。そのような中で斎藤道三のような悪人が暗躍するわけですが、これが誅されれば足利の世は晴れて天下泰平で目出度し・目出度し、時代物浄瑠璃はみなそのような構図になっているのです。

以上のことを踏まえて「本朝廿四孝」を見るならば、観客が事前知識として持っていても良い歴史知識はただひとつです。それは、「甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は川中島で何度も戦ったが、結局決着がつかなかった」と云う史実、これだけです。他の歴史知識は却って邪魔になるかも知れません。

それにしても川中島の戦いは、どうして決着がつかなかったのでしょうかねえ?それは「討ちては討たれ、討たれてはまた討つ」と云う永久運動のようなイメージを呈しています。なぜ決着がつかなかったか?信玄・謙信ともに名将で、両軍の実力が伯仲していたから決着がつかなかった。もちろんそう云う見方もありますし、それがノーマルな見方かと思います。が、もしかしたら・そもそも信玄も謙信も双方に決着をつける気が最初からなかった、二人は天下を狙う下心がないことを示すために・互いに見せかけの合戦をダラダラと続けていたと云うことも、穿(うが)った目で見れば・あり得るかも知れません。半二は、そう云うことを想像したのです。そこからイマジネーションが膨らんで行きます。だから半二の「本朝廿四孝」は、「甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、なぜ川中島の戦いで決着をつけようとしなかったか?」という謎を解き明かす時代物なのです。その裏には足利将軍の治世の安泰を守り抜こうとする信玄と謙信の深謀遠慮があったと云う結末になります。史実からするとまったくデタラメに違いありませんが、これは天下泰平・五穀豊穣を寿(ことほ)ぐ時代物浄瑠璃の約束事には合っているのです。(こうして見ると、中国の書物「廿四孝」の逸話は、半二の「本朝廿四孝」のドラマを動かすためのツール(方便)にすぎないように思えるでしょうが、そうではありません。しかし、そのことを論じるのはもう少し周辺を検討した後のことになります。続きをお読みください。)

ちなみに史実では、天文11年(1542)に甲斐の武田信玄が信濃国に侵攻し・さらに北信濃を狙ったところから、越後の上杉謙信との間に緊張が起こり、武田軍と上杉軍が川中島(長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯)周辺を戦場として12年余りで5回衝突し、これらを総称して「川中島の戦い」と云います。ただし実際に川中島の地で戦ったのは、第2次と第4次の川中島合戦でした。有名な信玄と謙信の一騎打ちは、永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の時の逸話です。

なお現代劇を書くことが許されない浄瑠璃作者には、登場人物に実在の名前を付けないという約束事がありました。武田家は天正10年(1582)に織田信長に攻め込まれて滅亡し、江戸期には存在しません。だから「本朝廿四孝」では「武田」姓が使用されています。上杉家は出羽国米沢藩に転封されましたが・江戸期以降も存続していますので、現行の「上杉」姓をそのまま使用することは支障がありました。このため「本朝廿四孝」では上杉謙信の前名・長尾景虎の「長尾」姓が使用されています。今回(昭和52年・1977・6月国立劇場)の通し狂言「本朝廿四孝」では、まさか台本のせいではないと思いますが、いつもの調子で平然と「上杉」と言っている役者が数名ほどおり、おかげで同じ舞台上で「長尾」と「上杉」が入り乱れています。どうして誰も注意をしないのですかねえ。(この稿つづく)

(R4・12・3)


5)「本朝廿四孝」の内殻たる「世界」

「大名たちがみな疑心暗鬼で・互いに監視し合い・権謀術数を張りめぐらしている」と云うのが、「本朝廿四孝」の外殻である・足利幕府内の政治的闘争の世界の様相です。戦国の世では・いざとなれば敵味方に分かれるわけですから、互いに心を許さぬのは・これは当然のことでしょう。しかし、「本朝廿四孝」で驚くべきところは、本来味方同士であるはずの家庭内においても、まるで転写されたが如く、上記と同様の様相が現れることです。

親は子に対し自分の真意を明らかにしようとしません。「自分の力で考えよ」ということですかね。親は子供の覚悟を試すため難題を何度も吹っ掛けます。子供を全然信用していないのか、家を継ぐ資質がないのならば死んでも構わないと思っているのかと疑いたくなるほど、それは厳しいものです。片や、子供の方も悩んでいます。子供は親の真意をあれかこれかと考えています。自分の取るべき道・あるべき姿を何度も自問自答し、こうすれば親の意に沿うか・それともああすれば良いかと悩み苦しんでいます。時には「自分はこうすべきだと思う」と主張をぶつけて親の出方を探る、そうする場合もあるようです。これは兄弟の関係とても同じことです。最終的には親の情愛・子の孝心・兄弟愛が確認される結末になるのでしょうが、それまでドラマのなかに見えるものは、家庭内の疑心暗鬼と腹の探り合いです。

こういうことは半二作品だけのことではなく・他の作品にもある、例えば「義経千本桜・鮓屋」のいがみの権太と父・弥左衛門の関係だってそうではないかと仰る方がいらっしゃるかと思います。確かに時代浄瑠璃のドラマには、そうしたものが多いようです。しかし「鮓屋」の場合、論理が比較的シンプルです。一方、半二の「本朝廿四孝」には、論理はさらに極端かつ複雑です。三段目・勘助住家では、吹っ掛けられた難題が二重にも三重にもがんじがらめに絡み合って、登場人物の身動きが出来ないほどです。

半二のドラマがこのような極端な形になるのは、。共同体(社会・奉公先・家)の個人への規制・縛りがあまりに強く、「個人」とは彼が所属する共同体に在っての個人、「個人」のアイデンティティーが共同体のアイデンティティーと別ち難く同化していたからです。半二の時代(宝暦〜天明期頃)は、元禄年間と比べると、社会経済は明らかに停滞期に入っていました。元禄期に肥大化した共同体の維持・存続が大きな課題となってきます。そこで個人のアイデンティティーとしての「家」の問題(「私は〇〇家の誰某である」と云う)がクローズアップされてくるのです。親も子供も「家」の問題に強く縛られていました。だから「家」の観点から、「本朝廿四孝」の親と子供の厳しい関係が読み解かれなければなりません。

それゆえ「子供に対する親の情愛・親に対する子供の孝心」と言ってしまうと、確かにその通りに違いありませんが、これだけだと完全にピッタリとは来ないようです。これだけであると・どうしても親子関係が柔く見えてしまいます。半二の描く親子関係は、もっと厳しいものです。そこで「本朝廿四孝」のなかの親子関係をピリッと緊張したものにするために、中国の書物「廿四孝」の逸話が必要になるのです。「廿四孝」は中国において後世の範として孝行に優れた人物24人の逸話を取り上げた書物です。「本朝廿四孝」初演当時(明和3年・1766)の大坂町人にとって、子供の時から聞かされて慣れ親しんだ話でした。この「廿四孝」「本朝廿四孝」の内殻たる「世界」として、親子・兄弟相互の行動を規制することになります。(この稿つづく)

(R4・12・7)


6)勘助住家と「廿四孝」

時代浄瑠璃を見て・もし「この芝居は何を訴えたいのだろう」と疑問を感じたならば、段切れの詞章に目を通してみることです。「そは然り」という感覚でドラマを締めるのが、時代浄瑠璃の幕切れです。太夫が「そうか、そう云うことなんだ」と云う結末を付けてくれます。そこを読み取ることです。そこで「本朝廿四孝・三段目切・勘助住家」の結末が太夫によりどう語られるかを見ます。

「眠れる花の死顔に、抱いてゆぶつてすかしても、返らぬ昔唐土の廿四孝を目の当たり。孟宗竹の筍は雪と消えゆく胸の中、氷の上の魚を取るそれは王祥これは他生の縁と縁。黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾と兄が不孝の孝行は、わが日の本に一人の勇士、今に名高き山本氏、武田の家の礎(いしずえ)と、事跡を世々に残しける。」(「本朝廿四孝・三段目切・勘助住家」の結末の詞章)

ここに「廿四孝」に登場する孝子(こうし)の逸話が三つ引かれています。大坂の町人にとって、どれも子供の頃から聞いて慣れ親しんできた話でした。まず

1・孟宗(もうそう)は孝行な人で、病気になった母があれやこれやと食べ物を欲しがるのを、苦労して探し回っては与えていました。或る冬、母が筍が食べたいと言い出しました。冬に筍があるはずがありません。しかし、孟宗は雪降る竹林に行って、天に祈りながら雪を掘り続けました。すると雪が溶けて、土のなかから筍が現れました。孟宗は喜んで熱い汁物を作って母に与えました。すると母の病は癒えて、天寿を全うすることが出来ました。

これは「本朝廿四孝・勘助住家」では、慈悲蔵が母の言いつけに従い・裏手の竹藪に足を踏み入れて、雪を掘り筍を探す場面に照応します。勘助住家を通称「筍掘り」とするのは、ここから来ます。但し書き付けますが、慈悲蔵はここで箱を掘り出しますが、箱のなかに入っていたのは、源氏の白旗でした。(足利家は清和源氏の流れ) 歌舞伎の解説に「箱のなかにあるのは軍法書の六韜三略」だとしているのをしばしば見掛けますが、これは間違いです。六韜三略は、山本勘助の名を継ぐ者のために母親(越路)が別途保管していました。六韜三略は最終的に慈悲蔵の手に渡りますが、慈悲蔵は山本勘助の名を継ぐことはありません。次に

2・王祥(おうしょう)は幼い時に母を亡くし、継母に育てられました。継母にひどい扱いを受けましたが、王祥は決して孝心を忘れませんでした。或る厳寒の冬、継母が魚が食べたいと言い出しました。王祥は河へ行きましたが、河は氷に覆われており・魚を獲ることが出来ません。王祥は悲しみのあまり衣服を脱いで・氷の上に伏していると、やがて氷が溶けて魚が二匹出てきました。喜んだ王祥はこれを獲って継母に与えました。この孝行のためか、王祥が伏した場所には、毎冬、人が伏した形の氷が現れると云われているそうです。

これは「本朝廿四孝・勘助住家」で慈悲蔵が釣り竿を持って登場して、「谷川へ行って魚を獲ってきましたからご賞味を」と越路に云う場面に照応します。(慈悲蔵が裸で氷の上に伏せたかどうかは分かりませんが、もしかしたらそうしたのかな。)ただし越路が「物の命をとって何の養生、それよりも裏の竹藪から筍掘ってこい」と言下に撥ねつけてしまいます。

三つめは郭巨の逸話ですが、勘助住家の詞章には「郭巨」の言及がありません。しかし、実はこの郭巨の逸話が勘助住家のドラマの核心に触れるものであるので、この内容を知っておく必要があります。初演当時の大坂の町人は、「黄金の釜」と聞いただけで「これは郭巨の話だ」とピンと来たのです。

3・郭巨(かくきょ)夫婦の家には年老いた母がいました。子供が生まれると生活はますます苦しくなりました。子供が三歳の時、郭巨は深く悩んだ末、「我が家は貧しく母の食事さえ足りないのに、食い物を孫にも分けているのではとても無理だ。夫婦であればまた子供が授かることもあろう。しかし、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養うことにしよう」と考えて、子供を連れて埋めに行くことにしました。郭巨が涙を流しながら土を掘っていると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨にこれを与える」と書いてありました。郭巨は喜んで黄金の釜を頂いて・子供を連れて帰り、さらに母に孝行を尽くしたと云うことです。

以上のことを以て、「勘助住家」の結末の詞章を読めば、大体こんな風に解釈することが出来ると思いますね。

吉之助超訳:「慈悲蔵が殺した子供は、抱いてもゆすぶっても、もう元通り生き返ることはない。我々は今ここに古(いにしえ)の中国の「廿四孝」の教訓を目の当たりにすることになる。子供を殺してしまったがために、せっかく獲った孟宗の筍も雪と一緒に融けてしまった。我が子の面影は胸のうちにあるばかりである。継母のために氷の上で魚を獲るのは王祥の逸話であるが、慈悲蔵が我が子を殺してしまったことも、これも前世の因縁であろうか。孝行な郭巨は黄金の釜を得て、さらに子供の命までも救うことが出来た。慈悲蔵は念願の六韜三略を得たが、子供を失った。黄金の釜よりも大事な子宝を自ら殺したことは、慈悲蔵は六韜三略が欲しいがために親孝行を続け、それゆえ却って深い罪を犯してしまったと云うことだ。ここに慈悲蔵の孝心ゆえの胴慾があった。これに対し、兄の横蔵は親孝行と云えることを何もしなかった。しかし、自分が信ずる正義を断固として行ない、ついに天下に名高い軍師・山本勘助の名を継ぐに相応しい功績を挙げることが出来た。これがまことの孝行でなくて何であろうか。これこそ不孝ゆえの親孝行と云うべきである。勘助は武田家の繁栄の礎として・その名を後世に残すことになる。」

このように「勘助住家」の結末の詞章を読むならば、中国の「廿四孝」の逸話を半二が作劇のための趣向として拝借しているのでないことは、一目瞭然なのです。筍掘りの場面が出てくるから・それで「本朝日本の廿四孝」だなんて思っていたのでは、ホントのところはちっとも見えて来ません。繰り返しますが、近松半二は儒学者穂積以貫の次男として生まれたのです。儒教の倫理観念が半二作品の根底にあると考えるべきです。「勘助住家」の半二の真意は、結末の詞章を読んでこそ分かります。上記のように読解すれば、勘助住家のドラマに中国の「廿四孝」がどれほど強く絡みついているかを知って驚くことと思います。(この稿つづく)

(R4・12・9)


7)再び「廿四孝」の世界について

「黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾と兄が不孝の孝行は・・」

「勘助住家」で半二が訴えたかったことは、この詞章に集約されます。孝行な郭巨は思いがけず黄金の釜を得て、さらに子供の命までも救うことが出来ました。慈悲蔵は孝行を尽くし念願の六韜三略を得たが、自らの子供を殺してしまいました。この違いがどこから来るのかと云うことです。

郭巨はひたすら孝行に徹し・そこに見返りを求めることをしませんでした。だから黄金の釜も子供の命も両方を得ることが出来たのです。慈悲蔵は孝行を尽くしました。しかし、母に気に入られて・亡き父山本勘助の名を継ぐ許しをもらい・軍法書六韜三略を手にしたい気持ちがどこかにあったのです。つまり慈悲蔵は孝行の見返りを求めた、孝行の動機がどこか不純であったと云うことです。だから慈悲蔵は自ら子供を殺さねばならない破目となったのです。半二が「弟が慈悲の胴慾」と云うのは、そこのところです。

一方、兄の横蔵は親孝行と云えることを何もしませんでした。しかし、横蔵は自分が信ずる正義を断固として行ないました。横蔵は足利幕府の未曾有の危難(斎藤道三が将軍足利義晴を射殺)に際し、身重の賤の方を匿(かくま)い、お世継ぎ・松寿君を守り抜きました。傍からは親不孝者と見えたが、自分が信ずるところを断固として行ない、天下のために正義を貫いたのです。横蔵は小さいところにこだわらなかった。結局、横蔵はもっとデッカイ孝行を成し遂げたことになります。これを半二は「兄が不孝の孝行」だと言っています。

ここで半二が何を訴えたかったかが分かります。中国の「廿四孝」の逸話が教える通り、親孝行は大事なことなのです。しかし、「廿四孝」が教えるもっと大事なことは、「ただ表面的に・形だけの孝行をするのでなく、やるならば見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、そう信じる心があるならば、奇跡は必ず起こるだろう」と云うことです。慈悲蔵は厳寒の竹林で筍を求めて雪を掘って・奇跡のその寸前にまで迫りましたが、心の隅にちょっぴり残った下心の為に、我が子を殺さねばならないことになってしまいました。

余談ですけどね、もし外国人の方にこのように「勘助住家」を解説したならば、彼は即座に「それは旧約聖書に出てくるアブラハムのイサク殺しの逸話と同じだ」と言うでしょうね。神は信心深いアブラハムに息子イサクを生贄として捧げるようにと命じました。アブラハムは大いに苦しみますが、神の言うところを信じ、息子を祭壇に横たえます。しかし、アブラハムが刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れてその行為を止めました。この類似が示すものは半二が聖書の話を知っていたと云うことではなくて、「何かを信じて行なう」ということの尊さについては、洋の東西を問わず真理は同じだと云うことですね。

そこで先の問いに戻らねばならぬわけですが、「本朝廿四孝」のなかに散りばめられた情報にはガセネタが多い、情報が集まってまたさらに大きな虚構を生む、それでは「本朝廿四孝」には「世界」はないのか?と云う疑問です。これに対し吉之助は次のように答えたいと思います。「本朝廿四孝」のドラマは、マニエリスム様式の「騙し絵」のようなものです。積み重なった情報の細部にこだわらず・俯瞰するように全体を眺めて行けば、何だか大きな「模様」(真実・マコト)が浮かび上がって来るのです。そこに浮かび上がるのが、中国の「廿四孝」が教えるところの教訓です。それはつまり、「孝行をするならば何事でも決して見返りを求めず・無私の気持ちでトコトンやれ、信じる気持ちがあるならば、奇跡は必ず起こるだろう」と云うことです。これが「廿四孝」の「世界」なのです。

(R4・12・11)

「本朝廿四孝」論としての流れが一段落しましたので、ここでひとまず本稿を終えることとして、改めて「三段目・勘助住家」論を続けることとします。続編「「山本勘助」を継ぐ者は誰か」をご参照ください。

*「本朝廿四孝」と同様に外殻と内殻の「世界」の二重構造を示す半二作品は、「妹背山婦女庭訓」(明和8年・1771・1月大坂竹本座初演)です。この場合、中国の書物「廿四孝」に相当するのが、江戸時代の女性のための教訓書「女庭訓」です。



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