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二代目吉右衛門追善の「七段目」

令和4年9月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵〜七段目」

十五代目片岡仁左衛門(大星由良助)、五代目中村雀右衛門(遊女お軽)、十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(寺岡平右衛門)

(秀山祭・二代目吉右衛門一周忌追善)


1)二代目吉右衛門の由良助の思い出

今月(9月)歌舞伎座・秀山祭は、昨年(令和3年)11月28日に亡くなった二代目吉右衛門・「一周忌追善」と銘打たれており、故人所縁の演目が並びます。第三部では、仁左衛門が由良助を勤めて、「七段目(一力茶屋の場)」が上演されました。吉右衛門の当たり役は数多かったけれども、七段目の由良助をその代表作に挙げることに、吉之助も異存あろうはずがありません。七段目を一幕で見るならば、それは「仇討ちの意志なしかと思われた由良助は、実はそうではなかったのです」というドラマであり、「密書を盗み見てしまって殺されそうになったお軽はあわやというところで救われ、平右衛門は最後に義士の仲間に加えてもらって、良かった・良かった」というドラマなのです。ドラマは落ち着くべきところに収まった、「そは然り」と云う感覚に於いて、吉右衛門の由良助ほどピッタリ来る由良助はいなかったのです。吉之助は臍曲がりだから「古典的な感覚に収まり過ぎ」とか厳しいことを書いたこともありましたけど、あれは吉右衛門の芸の伸びしろを期待したからです。果たして晩年(昨年・令和3年1月)の、吉右衛門最後の七段目(コロナのため釣灯籠からの変則的な上演ではありましたが)では、吉右衛門は虚と実の境目にあまり落差を付けぬ・まことに味わい深い由良助を見せてくれました。

幕切れ近く「獅子身中の蟲とはおのれよな・・」と九太夫を打ち据えた後・由良助が立ち上がると、その時の由良助は、まだ興奮冷めやらぬ厳しい表情に、どうしてもなるものです。そうすると、物音を聞いた仲居たちが「由良さん、ご用かえ」と来かかると、そこから由良助が表情を笑顔へと変える境目が、デジタル的にパッと切り替えた感じになりやすい。ところが吉右衛門の最後の由良助は、そこのところが実に印象的でした。仲居たちの方へ振り返った時の柔和な表情への変化が実にさりげない。そこには作為的に表情を切り替えたような印象がまったくなかったのです。振り返れば、それは九太夫を打ち据える時の長台詞を過度に熱いものにしなかったと云うことかと思います。その結果、表情の変化の落差がやや平坦な感じになった。だから九太夫を打ち据える時も・仲居たちに笑いかける時も、どちらもあまり変わらぬ由良助という印象になったと云うことかと思います。(同じような感触がした吉右衛門の舞台を、もうひとつ思い出します。それは吉右衛門の大蔵卿の最後の舞台(平成28年・2016・9月歌舞伎座)でした。)

これはつまり、七段目では、由良助はついに本心を明らかにしなかったことになると感じたのです。確かに幕切れで由良助は「俺は主君の仇を討つ」という大望を明かしました。しかし、これが由良助の本心だと云うことではないのです。由良助の本心は、後段・九段目で吐露されることになります。九段目で由良助は「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」と言っています。これが由良助の本音(実・じつ)です。それは「仇討ちすることの虚しさ」でした。

吉右衛門は、吉之助が予期しなかったところで、「然り、しかしこれで良いのだろうか」という七段目の由良助を最後に見せてくれたことになりました。まあそう云うわけで、吉右衛門の最後の由良助は、吉之助にとって忘れられない舞台のひとつなのです。(この稿続く)

(R4・9・24)


2)仁左衛門の由良助

名作と云うのは、いろんな解釈の余地を持つものです。七段目の由良助だって、こうやるのが正解だなんて、絶対的な解釈があろうはずはありません。それはそうですけれど、歌舞伎のなかで、「七段目の由良助は、四段目の由良助よりもはるかに難しい」と長年云われてきたことは、重い事実です。それはつまり、四段目の由良助は忠義一点張りでもなんとか為る、しかし七段目の由良助のなかの虚と実をどのように描き分けるか、そこがなかなか難しいということなのです。

そこで今回(令和4年9月歌舞伎座)の仁左衛門の由良助、東京では13年振りと云うことになる由良助のことです。仁左衛門の由良助については、吉之助も長く見て来て、虚と実のバランス配合がなかなか上手い由良助だと云う印象を持っていましたが、近年ちょっと変わって来た気がしますねえ。前回(3年前・令和元年・2019・12月京都南座)の由良助を見ましたが、虚と実をはっきり切り分けたやり方になっていました。このため理に付いた由良助、「俺は思う所あって酔った振りをしているのだよ」と云う印象の由良助になっていたと思います。今回の由良助を見ると、前回よりも、さらに虚と実のコントラストを明確に付けたものに仕上がっています。

今回の舞台で云えば、例えば三人侍の件(ここはいつも通りの出来)が終わって・力弥が手紙を持って茶屋にやって来る、そこで立ち上がった由良助が花道七三へ向かう、この時の由良助の表情は酔いが冷めて、完全に素に戻っています。目付きも鋭い。力弥に向けての台詞も、ビシッとして甘いところを全然見せない口調です。「祇園町を過ぎてから急げよ」は、命令口調の冷たい感じに聞こえました。前回の顔見世の時はここまで醒めた感じではなかったけどなあと、吉之助はちょっと驚きましたよ。おかげで、見ている吉之助はホンワカ気分がすっ飛んでしまいました。この後に、九太夫との蛸肴の件が来ますが、もうホンワカ気分は戻りません。九太夫の前で、由良助が心にもないおふざけをしていることが明らかです。蛸肴を喰わされたのは、さぞや辛かったでしょうねえ。お軽とのジャラジャラも、彼女を殺すつもりで身請けの話しをする由良助の苦しさがよく分かる、そう云うメリットはあるかも知れませんね。これを底を割っていると見るか、由良助の苦渋に焦点を当てたと見るかです。今回の仁左衛門さんの、虚実を鮮やかに切り分けた由良助の意図は、そこにあるのですかねえ。

幕切れ近くで九太夫を打ち据えて言う「獅子身中の蟲とは・・」の長台詞は、なかなか見事です。そこはさすが仁左衛門です。まあ七段目も何度も見慣れてくれば、「由良助は口ではああ言ってるけど・本心は仇討ちで決まってるんだよ」という芝居に違いありませんから、仁左衛門の由良助は、その意味で「割り切れている」ということですね。「由良助の内心の苦しさがよく分かる」と仰るお客も多いことでしょう。しかし、それでは現代演劇の視点と何ら変わりないと思いますがね。歌舞伎の、和事の由良助にはならないと思います。人形浄瑠璃の「七段目」の由良助は、当時の人気役者であった初代沢村宗十郎が延享四年(1747・つまり竹本座での「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の大岸宮内の茶屋場遊びをモデルにして作られたと言われています。そこで歌舞伎の口伝で「七段目の由良助は、四段目の由良助よりもはるかに難しい」と長年云われてきた事実をどう考えるかだと思います。(別稿「誠から出た・みんな嘘」をご参照ください。)「割り切ってしまえば」、楽になりますけどね。せっかく歌舞伎でやってるのだから、それじゃあ詰まらないのではありませんか。(この稿続く)

(R4・9・27)


3)雀右衛門のお軽・海老蔵の平右衛門

役の印象(イメージ)は、それを演じる役者によって、微妙に色合いを変えるものです。お軽は、山崎の田舎から祇園町に来て、多分まだ二ヶ月か三ヶ月くらいしか経っていません。玉三郎がお軽を演れば、普通の奥さんだったのが短い期間でもう色街の水にすっかり慣れてしまった女の哀しさみたいなものを思いますねえ。雀右衛門が演れば、色街にまだ馴染んでいない初心(うぶ)な雰囲気になる、そこにお軽の寂しさが見える、そんな感じでしょうか。どちらかと云えば、パッと華やかな遊女の虚よりも、しっとりとした人妻の実(じつ)の方に傾いた印象がしますが、これは雀右衛門の持ち味(ニン)であるからそれで良いですが、そこからどんなお軽像を作り上げるかです。

雀右衛門の場合、ここはやはり夫勘平を失ったことの深い悲しみから逆算して構築していかねばならないでしょう。雀右衛門のお軽は、やっていることは正しいです。しかし、もう少し夫を失った悲しみがツーンと胸に来て欲しいですねえ。そこにお軽の実があるのですから、実を際立たせるために、もう少し虚の要素が欲しい。つまりその前の・お軽が夫の死を知るまでの段取りにもう少し工夫が必要だと云うことなのです。そこが雀右衛門の課題(お軽だけに限りません)です。しかし、それはもちろんお軽独りだけでは出来ません。それには平右衛門の協力が不可欠です。平右衛門の方から状況をガチャガチャ掻き回しに掛からねばなりません。そこで海老蔵の平右衛門が問題になって来るわけです。

海老蔵の平右衛門は、4年前・平成30年・2018・12月歌舞伎座での上演(この時のお軽は菊之助)以来になりますが、その時とあまり変わらぬ(はっきり言えば進歩していない)印象の平右衛門ですねえ。確かに茫洋とした大きさはあります。しかし、その大きさが華やかさに直結して来ない。だから何となく重ったるい・もっさりとした平右衛門です。これだと色合いが暗めの雀右衛門のお軽にいまいちフィットしないのだな。直球一辺倒の単純人間でも良いから、平右衛門にもっと熱く急くところがあれば良いのですがね。そうすると割り切れた感じの仁左衛門の由良助にもフィットすると思うのですが、この辺は仁左衛門さんから何か良いアドバイスがもらえなかったのでしょうか。

今回(令和4年9月歌舞伎座)の平右衛門に関しては、巷間聞くところでは、「声が小さくて台詞が聞き取れない」という感想がとりわけ多いようです。海老蔵の発声の課題については、吉之助は本サイトでもう十年来繰り返し書いて来ましたから、今更驚くほどのことはありません。吉之助の見た日には、最初の出の三人侍の時には意外と声が通っていました。しかし、まあここは自分のペースでしゃべっていてもいい場面で、二度目の出のお軽との掛け合いになると、相手に合わせないといけないから、もう声が通っていない。突如声が出たり・出なかったりするのは、これは喉の置き方が分かっていないからです。「海老蔵での最後の舞台」がこんな感じで終わることになるのは、ちょっと残念ですね。

と云うわけで、今回の「七段目」は、由良助・お軽・平右衛門それぞれ三様に課題があって・芸が微妙に噛み合わぬ、何だかもどかしいところのある舞台でありましたね。

(R4・9・29)



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