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土蜘蛛の謎

令和4年5月歌舞伎座:「土蜘」

五代目尾上菊之助(比叡山の僧智籌実は土蜘の精)、七代目尾上菊五郎(源頼光)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(侍女胡蝶)、三代目中村又五郎(平井保昌)、七代目尾上丑之助(太刀持音若)他


1)土蜘蛛の謎

日本の歴史にはまだまだ謎に満ちた領域があるようで、「鬼」もそのひとつです。民俗学者柳田国男がその研究の初期から、民間伝承のなかで山人(さんじん・やまびと)あるいは鬼とか云われた人々はもともと日本の原住民で、弥生時代に大陸から稲作を行う人々が渡来した後、追われるように山地に逃れた者たち (原日本人)であるという仮説を立てて、これを実証することに意欲を燃やしたことはよく知られています。ただし結果として柳田は山人説を実証出来ず、自説を放棄せざるを得なくなりました。史料も少ないので、検証がなかなか難しい領域であるようです。(別稿「山の人生」をご参照ください。)

上古の日本においては、ヤマト政権・大王に恭順しなかった土豪たちが多数おり、彼らは政権側から異端視されて「土蜘蛛」と呼ばれたそうです。土蜘蛛と云うのは、「手足が長い」と云うイメージから来るのでしょうが、よく分かりません。政権側は彼らにそのような異形のイメージを押し付けたわけです。だからこれも鬼の一種なのです。土蜘蛛は全国各地に存在しました。「風土記」でも広範囲に記述が見られるもので、単一勢力の呼び名ではありません。彼らは政権側から次第に追い詰められて、平地から山地へと逃れていったようです。(別稿「野田版・桜の森の満開の下」論考での飛騨高山の考察も参考になると思います。)歴史を下るとだんだん具体性が失われて、近世以後は、蜘蛛の姿をした妖怪と考えられるようになってしまいました。

土蜘蛛のなかでも最も古いものとされるのが、大和葛城辺りに住む土蜘蛛です。これは「古事記」・「日本書紀」の神武天皇東征の記述に出てきます。「書記」には「高尾張邑(むら)」(現在の奈良県葛城市あたり)に土蜘蛛がおり、皇軍が葛(かずら)で編んだ網を使って殺した。それで葛城の地名が付いたとされています。しかし葛城の土蜘蛛の反抗はこの時だけのことではなく、その後もたびたび反乱を起こして朝廷を悩ませたようです。「鬼の大事典」のなかで、沢史生は次のように書いています。

『能楽における葛城の「土蜘蛛」は、天皇の御代の栄えに、一矢酬いようとしたが、源頼光のために抹殺されてしまう。それを詰(なじ)って土蜘蛛は「頼光よ、おまえはなぜオレの志を妨害するのか」と最後の言葉を遺すのである。観阿弥らに発する猿楽者の出目は、限りなく土蜘蛛の世界に近い。一方、王権が云うところの土蜘蛛とは、未王化の人々すべてを総称していただけに、彼ら猿楽の者が、土蜘蛛をして言わしめた王権への抗議は、含蓄のある言葉と受け取るべきである。その意味からも葛城は、未王化の土蜘蛛が最後まで拠れる牙城のひとつであったと見ることができる。ちなみに南朝の忠臣と謳われた河内悪党・楠木正成も葛城山地の豪族であった。』(沢史生:葛城の項〜「鬼の大事典」・上巻・彩流社)

一般に葛城と云うと奈良県の西部・金剛山地の東斜面一帯を指すようですが、土蜘蛛のことを考えるためには、もう少し範囲を広げて、大阪府と奈良県の境になる金剛山脈と、これに連なる和歌山県と大阪府の境になる和泉山脈とをひとつにまとめて、葛城山地として考えた方が宜しいようです。吉野南朝方であった楠木正成が要塞とした千早城は、この葛城山地の金剛山麓に位置しました。つまり(上記沢史生が書いている通り)地元豪族・楠木氏は土蜘蛛の流れではないかとも考えられるわけです。定説にはなっていないようですが、「楠木正成には妹がおり、伊賀の服部家に嫁いで能の始祖・観阿弥を産んだ」との民間伝承が残っています。(梅原猛:「うつほ船・U・世阿弥と正成」を参照のこと。)そのような葛城の土蜘蛛の流れを汲む(かも知れない)猿楽者の視点から謡曲「土蜘蛛」を読み直してみると、隠された日本の歴史がそこに垣間見えて来るかも知れませんね。(この稿つづく)

(R4・5・11)


2)我が背子が来べき宵なりささがにの

以下は、謡曲「土蜘蛛」において土蜘蛛が「頼光よ、おまえはなぜオレの志を妨害するのか」と最後の言葉を遺したとする沢史生の文章に端を発する吉之助の考察です。謡曲「土蜘蛛」の現代語訳文献を数種確認しましたが、どれも土蜘蛛を妖怪変化と見ており、それが天皇の御代を転覆させようと企んで、まず都を守護する立場にある源頼光を殺害しようと近づいたと云う解釈のもと、現代語訳で言葉を補っている感じがしますね。これはこうなることは理解は出来ます。江戸期の能楽は、武家の式楽となっていました。いわば権力に取り込まれたわけです。体制転覆を図る土蜘蛛は誅せねばならない害悪でした。近世においては、もはや土蜘蛛は具体的な反体制のイメージを持つことはなく、ただの妖怪変化に落とされて、本来のパワーを失ってしまいました。現代の謡曲解釈は、そのような江戸期からの流れを引き継いでいるのです。

しかし、改めて「土蜘蛛」謡本を見直すと、原文はシンプルなものであり、はっきり云えば「どのようにも」解釈出来そうなものです。「土蜘蛛」の作者・年代は不詳ですが、もし作者が土蜘蛛の流れであったとして、作品のなかに土蜘蛛に対する同情と云うか・秘められた怒りがあるとすれば、それはどのようなものか。そんなことを想像してみたいと思います。まず土蜘蛛の最後の言葉を引きます。

『汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。なほ君が代に障(さわ)りをなさんと。頼光に近づき奉れば。却つて命を断たんとや。』
(シンプルな現代語訳)
お前は知らないのか。私は葛城山に長年住む、土蜘蛛の精である。今また大君の世に祟りをなさんとして、頼光に近づいたのだが、逆に私の命を断とうと云うのか。

この原文であれば、「頼光よ、おまえはなぜオレの志を妨害するのか」という沢史生の解釈は十分あり得ると思います。全然トンデモ解釈ではないと思います。土蜘蛛は頼光を殺そうとして近づいたのではないことも察せられます。「頼光に近づき奉れば」と尊敬語を使っています。「汝知らずや」には土蜘蛛が、頼光ならば当然自分のことを知っており、会えばきっと分かってくれるはずだと思っていた風が感じられます。それなのに「お前は私の命を断つのか」と抗議していると読めると思います。

遡って「土蜘蛛」謡本の、シテ(僧)が登場する場面を引きます。なお僧の名を智籌(ちちゅう)とするのは歌舞伎の設定で、原作ではただ「僧」とあるのみです。

シテ:月清き。夜半(よわ)とも見えず雲霧の。かかれば曇る。心かな。
    いかに頼光。御心地(ここち)は何とござ候ぞ。
頼光:不思議やな誰ともしらぬ僧形の。深更に及んでわれを訪ふ。
   その名はいかにおぼつかな。
シテ:愚かのおおせ候(ぞうろう)や。
   悩み給うも我が背子(せこ)が。来べき宵(よい)なりささがにの。
頼光:蜘蛛の振る舞ひかねてより。知らぬといふに猶近づく。姿は蜘蛛の如くなるが。
(シンプルな現代語訳)
シテ:月が清い夜半であるのに、雲と霧がかかってしまったようだ。蜘蛛の霊気がかかって頼光の心も雲ってしまったようだな。もしもし頼光、ご気分は如何でございますか。
頼光:不思議なことだ。誰とも知らぬ僧形の者が、深夜に私を訪ねて来るとは。その名は如何にも覚束ない。
シテ:それは愚かなことを仰りますね。お悩みでいらっしゃるようですが、「我が背子が来べき宵なりささがにの」と歌に詠まれた通り、私が来ることは、前もってお知らせしておいたはずですよ。
頼光:蜘蛛のふるまいなど、前もっては知らぬわ。と言うのに、なお近づいてくる。その姿は蜘蛛のようであるが。

「夜半(よわ)とも見えず雲霧の・・」の雲霧は、蜘蛛に掛けています。「我が背子が来べき宵なりささがにの」という古歌の引用は、重要です。これは「古今集」の衣通姫(そとおりひめ)の歌です。「ささがに(細小蟹)」は蜘蛛の別名。小さい蟹が蜘蛛のように見えたからです。蜘蛛が人の衣につくと客が訪れるという俗信が中国にあったそうで、これを踏まえた歌なのです。「今宵は私が愛している人が通って来る夜だわ。だって蜘蛛が巣を張る振る舞いで前もって明らかだもの」という意味になります。つまり良いことが起きる前触れ(吉兆)を歌ったものです。

しかし、以後の歌舞伎や人形浄瑠璃では、「我が背子が来べき宵なりささがにの」の歌が、蜘蛛の妖怪の出現を告げる時の常套句となってしまいました。それは謡曲「土蜘蛛」の一般的解釈から来るわけですが、ここでは「ささがに」を土蜘蛛と重ねて(頼光を襲いに来た)凶兆の歌だとしています。これは衣通姫のオリジナルとまったく異なる解釈です。ホントにその解釈でよろしいのでしょうか。確かに頼光の方は、未知の来訪者に強い不審感を抱いています。しかし、衣通姫のオリジナルを素直に踏まえれば、土蜘蛛の方には敵意は全然なくて、「私が来たのは、あなたにとって良いことなのですよ」と告げに来たのかも知れません。原文からだと、そういう風にも考えられるわけです。そうなると、そもそも何のために土蜘蛛は頼光に近づいたのかと云う大元の疑問に辿り着くことになります。(この稿つづく)

(R4・5・12)


3)虐げられた者たちへの共感

それでは何のために土蜘蛛は頼光に近づいたのでしょうか。「ささがにの・・」の古歌を何かの吉兆とするならば、それは土蜘蛛が頼光と「仲良く」なりたかったからではないでしょうか。源氏は、嵯峨天皇以降に臣籍へ降下し「源(みなもと)」姓を受けた皇子や皇孫の氏族ですが、代を重ねると都で貴族として生き延びることは出来ず、多くは受領階級として地方へ赴任し・そこで武家化する道を辿らざるを得ませんでした。平安時代にはまだ「武士」という階級は存在しませんでしたが、貴族から見ると、武士というのは殺生を仕事とするわけですから、穢れた・軽蔑される存在でした。だから戦さの時には武士は重宝されましたが、平時においては、貴族から見下されていました。貴族は日々宮中で醜い政治抗争をしているくせに・自分の手で血を流すことを嫌って、血なまぐさい仕事はみんな武士に押し付けて、自分だけはキレイなつもりで武士を軽蔑したのです。都の警固として頼りにされていながら、日頃そのような身分差別への憤懣が、頼光のなかに全然なかったわけでなかろうと思うのです。(やがて武士たちの憤りが貴族社会から武士社会へと動かして行くことになるわけですが、それは約百年ほど後のことです。)

しかし、頼光自身がそのようなことをどのくらい意識したか分かりません。自分では気が付いていなかったかも知れません。しかし、日々の云われのない身分差別への憤懣が頼光にもあったかも知れぬと、ここでは考えることにします。そうすると、朝廷(ヤマト政権)に恭順することを拒否し、平地から山地へと追われ、朝廷から「鬼」とか「土蜘蛛」とか蔑称を押し付けられた立場からすると、「俺の・この気持ちはお前(頼光)にも分かるだろ」という親近感、と云うと変かも知れませんが、「お前も俺と同じく差別された存在だ」という共感(シンパシー)が、土蜘蛛の方にあった気がするのです。

土蜘蛛が頼光の元を訪れる前、頼光は原因不明の病で気分がすぐれず、「心も弱り身も苦しみて、今は最後を待つばかり」と云う状態でした。これは土蜘蛛と会う予兆のなかで、頼光のなかの、彼自身も意識していない、心のなかの憤懣が形を成そうと渦巻いていた、そのことが頼光を苦しめていたとも考えられます。しかし、結果として頼光は朝廷側に付くことを選択しました。頼光の忠誠心は強かったのです。頼光は土蜘蛛に対して刃を向けました。土蜘蛛からすると、頼光は権力にへつらう方向を選択し、土蜘蛛の期待を裏切ったのです。せっかく頼光と「仲良く」しようと思って近づいたのに、却って「私の命を断とうというのか」と土蜘蛛は恨みの言葉を遺したと、そのような解釈は十分あり得ると思います。

以上は吉之助の想像に過ぎず、現行の謡曲「土蜘蛛」の舞台を見る時には、もしかしたら余計なことかも知れませんねえ。しかし、その後の江戸期の、歌舞伎や人形浄瑠璃での、酒呑童子や土蜘蛛退治に係わる数多い「頼光(らいこう)」物の系譜を考えると、そこに表向き頼光並びに四天王の活躍が描かれているとは云え、体制転覆を図る者どもの妖しい魅力と云うのも間違いなくあるわけで、これがなければ芝居は面白くなりません。江戸期の芸能者も、しばしば差別的な扱いを受けました。そのようななかで差別され虐げられた者たちへの共感(シンパシー)は、芸能のなかで決して消えることはなかったのです。(この稿つづく)

(R4・5・14)


4)歌舞伎の「土蜘」

そこで黙阿弥が脚本を書いた「土蜘」(歌舞伎においては土蜘蛛ではなく・土蜘と記す)のことです。これは明治14年(1881)6月新富座の初演で、この年が三代目菊五郎の33回忌に当たったので、尾上家が代々得意としてきた土蜘の所作事を、五代目菊五郎が黙阿弥に頼んで書いてもらったということです。裏には九代目団十郎への対抗意識が潜んでおり、「勧進帳」に比すべき尾上家の家の芸を作りたいと云う五代目菊頃郎の意図があったと思われます。このことは明治20年(1887)4月に行われた天覧歌舞伎に「土蜘」が演じられたことでも察せられます。

歌舞伎の「土蜘」は本行(能)の筋を忠実になぞっているようですけれど、本行よりも強く感じることは、土蜘をただの妖怪変化(化け物)に過ぎないことにしてしまおうと云う作意です。化け物は天皇の治世に災いをもたらす企てを持って、まずは都の警固の責任者である源頼光を殺害せんと近づいた。この設定が揺るがないように、悪い化け物をやっつけるのは当然だと観客が感じるように、詞章の付加がなされています。土蜘の最後の台詞を歌舞伎の「土蜘」から引きます。

〽我を知らずやその昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
土蜘:この日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、
〽我が眷属(けんぞく)の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて疾(と)くに魔界になさんもの
〽思いし望み叶わねば、まず頼光を悩まさんと、障礙(しょうげ)をなせし甲斐もなく、我が命魂を断たんとや

黙阿弥は随分執拗に詞章の付加をしたものだなと感じるほどです。本行の詞章は含まれてはいますが、政治的な意味合いを帯びた土蜘の憤りは、すっかり埋もれてしまいました。しかし、まあ化け物退治の構図と云うことなら、分かりやすくなってはいますね。吉之助は、そこに明治10年代の空気を感じてしまうのです。江戸期においても、芝居のなかの反体制的な要素は、幕府から嫌われました。「天下を狙う大悪人は誅せられて・天下太平の世が戻って目出度し・目出度し」、そのような世界構図が好まれたものでした。

しかし、別の場面において、明治と云う時代は、もっともっとそうでなければならなかったのです。明治期というのは、「富国強兵」(天皇を頂点にして国民をひとつにせねばならない)が叫ばれた時代でした。そこにこの時代(明治10年代)に歌舞伎が自ら任じた役割があったわけです。こうして土蜘はやっつけるのが当然の存在にまで落とされてしまいました。土蜘の無念は、察して余りあります。歌舞伎の「土蜘」を見ると、吉之助はいつもそこのところが引っかります。虐げられた者たちへの寄り添いがちょっと足りないようです。そこのところは、もう少しどうとでも受け取れる曖昧なところを残しても良かったのにと思うのです。この点はもしかしたら五代目菊五郎の強い要望が入っているのかも知れませんね。

「土蜘」では黙阿弥の筆の巧みさばかり目に付きますが、このような土蜘に対する扱いの理不尽さを黙阿弥が感じていただろうかとちょっと考えてみたくなります。それは「土蜘」からは読み取れないようです。しかし、「魚屋宗五郎」(明治16年・1883)5月市村座)では、これは酒癖の悪い男の醜態でェすというふりをして・あれほど激烈な台詞を宗五郎に言わせた黙阿弥のことです。黙阿弥ならば土蜘に何か言い分を与えてやっても良さそうに思うのです。「土蜘」からそれが読み取れないと云うところに、却って黙阿弥の気持ちを感じてしまうと云ったら、ウラ読みのし過ぎですかねえ。ちなみに2代目河竹新七が黙阿弥と号を改めて引退を表明したのは明治14年11月新富座での「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」でのことでした。これはつまり「土蜘」初演の半年後のことです。もちろん黙阿弥の劇作はまだまだ続きますが。

まあそう云うわけなので、正直に申し上げると、吉之助は歌舞伎の「土蜘」があまり好きではないのですが、舞台の方は愉しませてもらいました。菊之助初役の前シテ(僧智籌)は、妖気を漂わせてなかなか良かったのではないでしょうか。菊之助はいろんな役に挑戦して、着実に芸域を拡げて立派なものです。菊五郎の頼光は、動きは少ないけれども、身体から醸し出される品位は大したものです。

(R4・5・17)



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