十七代目勘三郎の老女岩手〜「奥州安達原・一つ家」
昭和53年4月国立劇場:「奥州安達原」〜安達原一つ家・谷底
十七代目中村勘三郎(老女岩手)、十代目市川海老蔵(十二代目市川団十郎)(八幡太郎源義家)、十七代目市村羽左衛門(鎌倉権五郎景政)、七代目尾上菊五郎(志賀崎生駒之助英)、二代目澤村藤十郎(傾城恋絹)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(匣の内侍実は新羅三郎義光)
1)趣向の芝居
本稿で紹介するのは、昭和53年(1978)4月国立劇場での通し狂言「奥州安達原」の四段目に当たる「一つ家・谷底」の舞台映像です。三段目「環宮明御殿」(通称「袖萩祭文」)は人気狂言ですが、それ以外の場はあまり上演されず、大歌舞伎での四段目上演は、戦後の上演記録を見ると、現在までこの昭和53年国立劇場が唯一のことです。なお小芝居では戦後でも隅田劇場で「かたばみ座」が一つ家を出したことがあったようです。吉之助は昭和58年(1983)だったと思いますが、郡司正勝先生が一つ家を題材に書き下ろした新作「魂祭黙秘壺」(たままつりいわでがつぼ・これはアングラ芝居で、歌舞伎と呼ばないかも知れないが)を狭いビルの一室で見た記憶がありますが、これはあまりに昔のことゆえ記憶が曖昧です。
ところで「安達原」に限りませんが、近松半二の浄瑠璃作品は、やたら筋が錯綜して分かりにくいものが多い。観客の意表を突くドンデン返しと筋の急展開、アレヨアレヨと云う間にクライマックスに持って行かれます。しかし、後で冷静になって考えてみると・筋の持って行き方がいささか強引で、そう云えばあの場面は後のこの場面と矛盾しないか、あの時の主人公の心理に筋が通らない、そのタイミングでどうして都合よくそれが起きる、筋立てが技巧的に過ぎなくないかとか、いろいろ疑問が湧いて来るかも知れません。半二の生前にも、「お前の芝居は訳が分からぬ、故事来歴の扱い方も間違いが多い」と突っかかって来た偏屈者がいたようです。半二は次のように答えたそうです。大ざっぱに現代語訳にしますが、
「役所のことを知っていれば法律家になるし、弓矢のことを知っていれば軍学者になる、仏教を知っていれば立派な僧になり、聖人の経典を覚えれば博識の儒者となる、そう云うものかな。私は菅丞相のことも楠正成のこともそれらしく分かったようなことを意味ありげにひけらかして、和歌芸能のことは何ひとつ正しく覚えたことはなく、耳学問だけで根気を詰めた勉強もしない、私はそう云う自堕落者だから、浄瑠璃作者になったのだろなあ。」
「・・そう言ったら男は口をつぐんで退散したよ」と後に半二はその時のことを笑って語ったそうです。この話しは半二の随想「独判断(ひとりさばき)」の後書きに出て来るものです。つまり半二が「そう云うお前さんは一体ナンボの者だい」と言い返したというお話です。半二の返答は彼が尊敬する近松門左衛門の辞世に「もの知りに似て何もしらず、世のまがひ者・・・」云々とあるのを踏まえたものだそうです。開き直りみたいに聞こえるかも知れませんが、吉之助にはむしろ戯作者としての職人気質から来る自負だと受け取りたいですね。職人気質については、別稿「鶴屋南北と現代」のなかで触れました。
『文化文政期は、職人芸というものが上昇した時代だったと思います。錦絵にしたって絵描きよりも彫師や摺師の方が腕が上がって来た。だからあれほど発行されたし、見事な版画技術が頂点に達した。絵描きだけであんなに錦絵は発達しない。役者絵がブロマイド化して、錦絵の影響を役者ばかりでなく、作者(南北)も強く受けたと思いますが、舞台も作風も絵画的になった時代です。それは技術が、職人芸として上昇した時代だったということが大きい。浮世絵師だって、国芳みたいなのは西洋の版画でも何でも取り込んで行くと云う広い精神があの職人芸で、ただ古い伝統技術を守って行くのが職人ではない。職人なら何でも出来なければならんと云う根性が、職人芸なのだと云う意味で。』(郡司正勝:広末保との対談:「近松と南北の意味するもの」・昭和46年7月)
近松半二が亡くなったのは天明3年(1783)のことですから、南北が活躍した文化文政期(1804〜1830)からすると、半二の時代は数十年の隔たりがあります。しかし、戯作において「趣向」が前面に出て来たというところでは、まさに人形浄瑠璃の半二は、歌舞伎の南北の先駆けであったと思います。そこに見えるのは、戯作者ならばどんな題材でも兎に角見れる芝居に仕立ててやる、そのためならばどんな趣向でも取り入れてやると云う、徹底した職人意識なのです。
もちろん半二の作品においては、いろんな意味において構造の縛りが強い。そこが歳月が下った歌舞伎の南北とは全然違います。それはひとつには、音曲としての浄瑠璃の本質から来るものです。もうひとつは、だんだんと下り坂に向いつつあったとは云え、元禄〜享保期に完成した大坂町民社会の厳しい社会道徳の縛りが、半二の時代にはまだまだ根強く、そう云うものが構造に反映して来ると云うことです。半二は儒学者の家に生まれましたから、人一倍倫理感覚が強い作家でもありました。
「南北はコントラストの効果のためなら何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結び付けて、恐ろしい笑いを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれ壊れている。手足もバラバラの木偶人形のように壊れている。というのは、一定の論理的な統一的な人格などというものを、彼が信じていないことから起きる。(中略)こんなに悪と自由とが野放しにされている世界にわれわれに生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。」(三島由紀夫:「南北的世界」・昭和42年3月)
上記の三島の文章は南北について書いたものですが、ある程度のところまでならば、これは人形浄瑠璃の半二についても云えることだと思います。半二の時代から少しづつ芝居は趣向的になって行って、数十年かけて南北の時代へ至るのです。
例えば別稿「十七代目勘三郎の袖萩祭文」の「安達三」考察のなかで、浄瑠璃三段目の風格は「哀傷」にあること、この風を守らなければ正しい「安達三」の形にならぬことを論じましたが、見方を変えれば、時代と世話の乖離が余りに大きい「安達三」は、浄瑠璃三段目の骨格を内側から壊そうとしているようにも感じられるのです。「安達三」幕切れは、貞任・宗任兄弟が義家に迫り・引っ張りで締まるまことに時代物らしい舞台面です。哀傷の風を背負うはずの袖萩は自害してしまって、もう舞台にいません。奥州攻めの世界が袖萩の自害の哀しみを呑み込んでしまって、袖萩祭文の件が何も余韻を残さないように見えかねない舞台面です。これでホントに「安達三」が袖萩の悲劇だと言えるのか、これでホントに「安達三」の風が哀傷であると言えるのかと疑問を感じる寸前のところで、かろうじて踏みとどまっているのが、「安達三」なのです。まさに浄瑠璃の形式が崩壊する寸前です。この半二の感覚の、ずっと先の延長線上に、江戸歌舞伎の南北がいるということですね。
まあ「安達三」を見ながらそんなことを考えたわけですが、「安達原」の四段目である「一つ家・谷底」は、構成面から見ると、これはさらに凄まじい。まあ浄瑠璃の四段目は、能の四番目物(雑能)に当たるので、形式からすると自由度はずっと高いのですが、それにしても、岩手に腹を裂かれて胎児を奪われる傾城恋衣の哀れも、恋衣が実の娘であったことを殺した後で知る岩手の愁嘆も、まるでドラマ(悲劇)を成していません。それらは、もう四段目を素通りしてしまう趣向に過ぎないようです。今回(昭和53年4月国立劇場)の舞台映像を見て、ここまで趣向をギューギュー詰め込むのかと吉之助も驚いてしまいました。見た目だけが奥州攻めの世界の大時代の幕切れの成りをしている感じです。(この原稿つづく)
(R3・8・2)
四段目である「一つ家・谷底」の主筋は、謡曲「黒塚」でも良く知られている、安達原の鬼女の件です。しかし、岩手に腹を裂かれて胎児を奪われる傾城恋衣の哀れさも、恋衣が実の娘であったことを殺した後で知る岩手の因果も、局面においてはまあそれなりだけれども、幕切れで環宮奪取も義家によって予見されあらかじめ手が打たれており・岩手が預かる環宮は実は替え玉(義家の一子八若丸)で・安倍一族の環宮奪取計画は徒労であったということが明らかになってしまうと、安達原の鬼女のドラマが消し飛んでしまいます。なるほどこれだと「奥州安達原・四段目」が見取りで全然上演されないのも道理だなとは思います。しかし、恐らく半二はそんなことは百も承知の上で、もっと大きいものを四段目で見せようとしているのかも知れません。
それは何かということですが、「奥州攻めの世界」の背景にある前九年の役・後三年の役(平安時代・11世紀の半ばから後半にかけての戦役)については、詳しいことを知らない人がほとんだと思います。吉之助もそうです。しかし、奥州攻めの世界を大して知らなくても、これだけは誰でも知っているという有名な逸話があります。馬に乗って逃げる貞任に対して・追う義家が「衣のたてはほころびにけり」と呼び掛けると、貞任が「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句を返した、これを聞いて義家はつがえていた矢をはずし貞任を追うのをやめた、これは天喜4年(1056)の衣川の戦いでの出来事でした。
『貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はりたりければ、貞任見返りありけるに、「衣のたてはほころびにけり」と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振りむけて、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と付けたり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦いのなかに、やさしかりけることかな。』(「古今著聞集」〜衣のたて)
どうしてこの逸話が後世の武士に愛されたかには、理由(わけ)があります。義家ほどの弓矢の名手が、至近距離に相手を定めれば、これを外すはずはありません。ところが義家は射るのをやめてしまいました。「古今著聞集」に「やさしかりけることかな」とあるのは、「窮鳥懐にいれば猟師も殺さず」と云うことで「心が優しい」と云うことももちろんあると思います。しかし、ここで大事であるのは、ここでの「やさしかりけること」というのが、優雅なこと・風雅なことを意味すると云うことです。
平安中期のこの時代には正確に云えばまだ武士という身分はありませんでしたが、江戸期の人形浄瑠璃ではこの時代から武士というものがあったかになっていますが、まあそんなことはどうでも良いのです。大ざっぱに云えば、戦争や人殺しを職業としている者が武士(もののふ)であったと云うことです。当時の貴族(公家)はそういう人たちを穢れとして嫌い、武士を人として一等低い存在だと見なしました。貴族は日々宮中で醜い政治抗争をしているくせに・自分の手で血を流すことを嫌って、血なまぐさい仕事はみんな武士に押し付けて、自分だけはキレイなつもりで武士を軽蔑したのです。そのような差別・偏見を跳ね返して、後には平清盛のように政権を握る人物が出て来ますが、そこへ至るまでには実に長い長い歳月があったのです。当時の貴族の教養・嗜みとは、歌を詠むこと・風雅の道に親しむことでした。だから武士は人として対等であることを認めてもらうために、風雅の道を懸命に学びました。
戦いのなかで武士は、人生の最も醜く悲惨で悲しい場面を実際に目のあたりにしますから、「もののあはれ」を肌で実感するわけです。そう云うなかから、これこそが「あはれ」だと云える逸話の数々が生まれます。(「あはれ」については別稿「憤(いきどお)る心」で考察しています。)例えば「平家物語」での、須磨浦の戦いで潔く首を討たれた平敦盛と熊谷直実の物語り、篠原の戦いで髪を墨に染めて若やいで出陣して見事討たれた斎藤実盛の物語りなどが、それです。
衣川の戦いの義家と貞任の物語りは、その奔(はし)りと云えるものです。戦場の・まさに殺すか殺されるかと云う寸前においても、風雅に和歌のやり取りをしてみせる、義家と貞任はそのようなことが出来る、余裕があって、「あはれ」を知る、人として抜きんでて優れた武士であったのだよと、「古今著聞集」の逸話は、そう主張しているのです。このイメージは、後世の武士たちが是非とも身に着けておきたいものでした。
「安達原・四段目」を見ると、末尾に次のようにあります。
『冥途の供はなき母(岩手のこと)の死骸を抱き貞任が胸は麻がせとかき乱す、糸の乱れの苦しさをこたへる涙はら/\に、衣のたてはほころびて、裾や袂と別るゝ道、勇むは新羅、権五郎、生駒が背におひの殿、老ぞ籠りしこの原を鬼こもれりと読みなせし、安達が原の黒塚のその古事を末の代に語り伝へて残しける。』
「古今著聞集」の「衣のたて」の逸話を直接に劇化した場面は「安達原」にはありませんが、それにしても「糸の乱れの苦しさをこたへる涙はら/\に、衣のたてはほころびて、裾や袂と別るゝ道」、この一行を書きたいがために、半二は人形浄瑠璃「安達原」の長い芝居を書いたのではないかという気さえしますねえ。実際、歴史半可通の吉之助は、この一行に出会って初めて「ああこれは前九年の役の物語だったんだなあ」と思います。そこに至るまでは、鶴殺し(二段目)・袖萩祭文(三段目)・一つ家(四段目)・・・分かるけれども、それがひとつの思考線(筋)上になかなか乗ってこない。「袖萩祭文」なんて題名が「奥州・・」なのに何で舞台が京都でなきゃならないの?それが四段目・末尾に至って、「年を経し糸の乱れの苦しさに衣のたてはほころびにけり」を聞くと、それまで複雑に絡み合っていた筋が、スッと一本の線に乗って見える気がして来るのです。これは、まさに半二マジックですね。(この稿つづく)
(付記)貞任の弟・宗任にも、和歌にまつわる逸話があります。前九年の役で貞任が戦死し、宗任は降伏します。宗任はその後、義家によって都に連行されましたが、この時、奥州の蝦夷は花の名前など知らぬだろうと馬鹿にした貴族が、梅の花を見せてこれは何だと聞いたそうです。宗任は即座に、「わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかが言ふわむ」(私の故郷にもあるこの花は、故郷では梅と呼ぶのだが、さて都人は何と呼ぶのであろうなあ)と答えて、ギャフンと言わせたというお話です。これは通常の「平家物語」ではなく・異本の「平家物語」・剣巻に出て来るものです。「奥州安達原」ではこの和歌が、「三段目」の矢の根の場面で南兵衛(実は宗任)が謎掛けして詠む歌として引用されています。
(R3・8・5)
「古今著聞集」の「衣のたて」の逸話で「やさしかりけることかな」と讃えられたのは、戦場で風雅に和歌のやり取りをしてみせた源義家と安倍貞任の二人です。紀貫之が「古今和歌集・仮名序」で書いた通り、
「力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)のなかをもやはらげ、猛けき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり」
なのです。義家と貞任は、どちらも「あはれ」を知り・歌心ある武士です。この二人に分け隔てはないと思いますけど、強いて云えば、つがえた矢をはずして・貞任を逃がした義家の方に若干精神的優位があると言えないこともないかも知れませんねえ。「安達原」では半二は、どうやらそう云う見方をしているようです。
「安達三」を見ると、捕らわれた南兵衛(実は宗任)が縄を切って館を逃げようとするところを義家に止められると、南兵衛は「見付けられたは運の極め」と言って潔く捕われようとします。ところが義家は、彼が宗任であることを見抜きながら、金札を南兵衛の首に掛け、「網に洩れたる鱗(うろくづ)を助くるは天の道『康平五年、源義家これを放つ』と書き記せば、この上もなき関所の切手、日本国中放し飼ひ」と言って、解き放ってしまいます。宗任は義家の仁ある詞にハッとしますが、見掛けは頭を下げて去っても、この時点ではまだ義家に心を許してはいません。「安達三」幕切れで宗任は武装して戻って来て、兄貞任に義家に対する復讐をけし掛けます。それは兎も角、敵に情けを掛けて、相手に自分の懐の深さを感服させて、戦わずして敵を自分の内に取り込んでしまうのが、どうやら義家の流儀のようですねえ。そう書くと、義家が何だか敵を戦略的・心理的に揺さぶりを掛けているようで、ズル賢そうに聞こえるかも知れませんが・そうではなくて、