十七代目勘三郎の袖萩祭文～「奥州安達原・三段目」
昭和５３年４月国立劇場：「奥州安達原」～環宮明御殿
十七代目中村勘三郎（袖萩、桂中納言教氏実は安倍貞任二役）、十代目市川海老蔵（十二代目市川団十郎）（八幡太郎義家）、六代目澤村田之助（義家妻敷妙）、初代坂東好太郎（平傔仗直方）、四代目尾上菊次郎（直方妻浜夕）、初代片岡孝太郎（お君）、十七代目市村羽左衛門（外ヶ浜南兵衛実は安倍宗任）
１）「安達三」の歪（いびつ）な構造
本稿で紹介するのは、昭和５３年（１９７８）４月国立劇場での通し狂言「奥州安達原」の三段目「環宮明御殿」（通称：安達三）の舞台映像です。この映像が貴重なのは、十七代目勘三郎が袖萩・貞任を二役で勤めていることですが、もうひとつは、普段の歌舞伎の上演でカットされる端場「敷妙上使」と「矢の根」が上演されていることです。これで「安達三」全体の構造が見えてます。
「敷妙上使」と「矢の根」があると、「安達三」の時代背景が何となく分かって来ます。傔仗直方に二人の娘があります。姉袖萩は貞任と夫婦となり、妹敷妙は義家と夫婦となっています。貞任と義家は敵同士です。征服される側とする側の関係です。姉は零落し、妹の方はますます威勢盛んな源氏の大将の妻です。貞任は桂中納言教氏と名を騙り、京都に潜入して復讐の機会を狙っていますが、義家はこれを見抜きます。すべてがシンメトリカル（対称的）に設定されています。（これらは「廿四孝・十種香」や「妹背山・吉野川」などで近松半二が好んで用いたドラマ設定です。）しかも、これらの材料は順を追って段階的に描かれるわけではなく、後になってみると・アアあの場面はそう云うことであったのかと分かると云うようなもので、いささか冗漫なところがあるかと思います。これらの端場を含めて「安達三」を上演すると２時間を優に超える大尺になってしまうので、ドラマの密度を高める意図で端場をカットするのだろうと思います。まあそれは無理からぬところがあると思います。
実際、今回の映像を見ると、「安達三」の核心は、盲目となって身をやつした袖萩が親元を訪ねて祭文を語る場面にあると云うことが改めてよく分かります。袖萩をそのような境遇に突き落とした非情な政治的背景がもちろんあります。しかし、それを理解してないと袖萩の哀しみが分からないということではない。政治的事情は、ドラマの本質に実はあんまり関係がないわけなのです。前九年の役・後三年の役（平安時代・１１世紀の半ばから後半にかけての戦役）に絡む「奥州攻めの世界」については、江戸期の観客にとっても「義経記」や「太平記」の世界ほどに身近なものではなかったでしょう。現代人にとっては、ますます疎遠です。しかし、詳しい事情は分からなくとも、よんどころない理由で袖萩・お君親子は身分が落ちて・辛く苦しい目に逢っている・可哀そうなんだと云うところさえ分かっていれば、それで「安達三」を味わうのに十分なのです。三宅周太郎は次のように書いています。
『まず袖萩は「泣きつぶしたる目なし鳥」といって泣く。娘お君さえ「申し旦那様奥様、外に願いはござりませんぬ、お慈悲に一言物おっしゃって」などといってベソを書く。母浜夕は「生まれ落ちると乞食さす子をあの様におとなしく、産みつけざまは何事ぞ」といって泣く。威丈高に「畜生め」と罵る父親傔杖でさえ、口ではともかく腹では泣きぬいているのだ。しかも、袖萩は後に父と共に自害して死んでしまいさえする。こういう風に、これ位泣く作、これ位悲劇的に救われない作は珍しい。』（三宅周太郎：「文楽の研究」）
これはまったくその通りで、「安達三」で涙を見せないのは宗任くらいのものです。敵方の八幡太郎義家でさえ、腹のなかでは泣いています。本作での義家は もののあはれを解する男です。だから最後に義家はお君を引き取るのです。丸本では義家は「てて親の縁切れしお君、義家が子に養わん」と言います。ここはとても大事なところで、その風貌を見ても、「大物浦」で平知盛から安徳帝を受け取る義経とまったく同じ役割が擬せられることが分かると思います。ですから「安達三」のドラマは、袖萩・お君親子の過酷な境遇で観客をたっぷり泣かせるところに核心があるわけです。この場の通称を「袖萩祭文」とするのは、まことにもっともなことだと思います。
ここで吉之助は「安達三」完全上演の意義はあまりないと言いたいのではありません。むしろその逆で、「敷妙上使」と「矢の根」が冗長かつ説明的な場であることから、今回（昭和５３年４月国立劇場）の完全上演によって、「安達三」が持つ歪（いびつ）なドラマ構造がより明確にされたと言いたいのです。
時代浄瑠璃五段では、三段目は大体世話場に位置付けられます。このことは例えば「菅原」三段目が「佐太村」、「千本桜」三段目が「鮓屋」であることからも分かるでしょう。浄瑠璃三段目の格は、能の三番目「鬘（かつら）物」（哀傷）の格に比較されるべきものです。「安達三」から哀傷に相当するものを探ってみれば、それが袖萩祭文であることは、これは疑いないことです。しかし、「安達三」の最終場面の締め方などを見ると、派手派手で勇壮極まりない。まさしくコテコテの大時代の様相を呈しています。つまり「安達三」の歪な構造というのは、袖萩・お君親子の愁嘆場（これこそまさに世話物的な要素）を、貞任・義家を軸にした奥州攻めの世界構図（これこそまさしく時代物的な要素）で包み込んだような形になっているわけです。しかも、そのラッピングの厚みが半端じゃない。もちろん「佐太村」や「鮓屋」にも政治的背景はあるわけですが、程度としてはそれはまあ味付け程度ということでしょうか。これを無視しても悲劇の大筋を外すわけではないと思います。ところが「安達三」の場合には、最終場面において大時代の政治的様相がすべてを覆い、世話の哀傷を消し去りかねないほどに前面に出ますね。これではまるで四段目の風ではないか？これでホントに三段目でいいのか？と疑いたくなるほどです。しかし、「安達三」とは「袖萩祭文」であることを忘れてはなりません。つまり間違いなく三段目なのです。このような歪な構造を、作者・近松半二は意図的に書いたに違いありません。そのような半二の意図を「安達三」に正しく現出させる為には、如何にしたら良いかということを、今回（昭和５３年４月国立劇場）の、十七代目勘三郎の貞任・袖萩の舞台映像を材料にちょっと考えて見ます。（この稿つづく）
（Ｒ３・６・２９）
つまり「安達三」では、袖萩とお君の泣きの要素（世話）が強くなればなるほど、涙を振り払おうとするかのように、貞任・宗任兄弟の勇壮な時代の要素がますます強くなると云うことです。この時代と世話の、ふたつの要素のバランスが拮抗しなければ「安達三」は決して良い出来にならないわけなのです。もちろん時代と世話の相克は、時代浄瑠璃に常につきまとうものです。例えば「妹背山・御殿」はお三輪の一途な恋心（世話の要素）が主筋ですから、本来これは三段目に持って行っても良さそうな素材です。しかし、「御殿」は（鱶七が担う）入鹿征伐という時代の筋がお三輪の件に対立する強烈な構図を持っており、最後には時代がお三輪の死さえも呑み込んでしまいます。だから御殿は四段目なのです。吉之助が思うには、「安達三」ほどに時代と世話の乖離性が強い三段目は珍しい気がしますねえ。
ですから「御殿」でもこの場の主人公はお三輪なのか・それとも鱶七なのかと迷ってしまう混乱が起きやすいですが（これは四段目の場合どちらでもあり得るという答えが正しいでしょうが）、「安達三」ならば、答えは明確です。浄瑠璃三段目の格は能の三番目「鬘（かつら）物」（哀傷）に相応するものであるから、「安達三」の主人公が袖萩であることは明らかです。だからこの場の通称を「袖萩祭文」と呼ぶのです。ところが大歌舞伎では「安達三」の主人公はどうやら貞任だと見なされているようで、幕切れは如何にも大時代に勇壮・華やかに締めます。袖萩はもう死んじゃって舞台にいないし構うこっちゃないよと云う感じですかねえ。しかし、幕切れの詞章をよく読んでみてください。詞章は、
「振り返り、見やる目元に一時雨（ひとしぐれ）、ぱっと枯葉のちりぢり嵐心弱れど、兄弟がまた、取り直す勇み声、よるべ、涙に立ち兼ねて、幾重の思ひ、浜夕が身に振る雪の白妙になびく、源氏の御大将、安倍貞任宗任が武勇は今に隠れなし。」
と、勇ましい舞台面とはまったく裏腹です。つまり胸に湧き上がる哀しみ・流れる涙を振り切って、或いはそのような弱味を見せることを恥じるかのように、必要以上に居丈高に強がっている、それが
「安達三」の幕切れなのです。このような
「安達三」の時代と世話の強烈な乖離は、通常の（つまり「敷妙上使」と「矢の根」がカットされた）上演であったとしても、そのような観点から舞台を見るならば、もちろん感知は出来ます。しかし、そのためには袖萩役者に適任を得る必要があります。また子役のお君もとても大事になります。そう考えると歌舞伎の
「安達三」で袖萩と貞任を兼ねるやり方は、これは小芝居から来た型であるようですが、一理があると思うのです。もちろん役者の芸域の広さを見せるという意図もありますが、実はこれは貞任役者が主役の位置を取り戻すために仕組んだ型なのかも知れません。これにより芝居のなかに潜む時代と世話の強烈な乖離は、ひとりの役者のなかで袖萩（世話）と貞任（時代）を仕分けることで表現されることになります。なかなか巧い型を考えたものだと思いますねえ。それにしても主役級役者が追い込まれて窮さなければ、このような袖萩と貞任を兼ねると云う発想はなかなか出て来ないのではないでしょうか。この型を編み出した役者は、相当深く考えたと思いますね。袖萩と貞任を兼ねるやり方で唯一残念な点は、袖萩が死に際に貞任に声を掛ける哀切極まる台詞、
「なう懐かしの貞任どの、最前からよく似た声とは聴きながら、六年ぶりでめぐり逢い、顔見ることも得叶はぬか、死ぬる今際にどうぞしてこの目が開きたい・・」
が実現不可能なので省かれてしまうことです。しかし、これを除けば袖萩と貞任を兼ねるやり方は理にかなったものです。実際大歌舞伎の「安達三」で袖萩と貞任を二人の役者で分担して演じた場合、本来はそうやるべきなのですが、時代と世話が乖離するどころか・分解してしまって収拾が付かない、だから幕切れが空疎に感じられることが多い。「安達三」のみは、袖萩と貞任を二役兼ねるやり方を定型とすべきかも知れません。今回紹介の映像（昭和５３年４月国立劇場）では、十七代目勘三郎が