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かぶき的心情」の研究(1)

憤(いきどお)る心


1)道徳の発生

座談会「神道とキリスト教」において、折口信夫が憤(いきどお)りを発することが日本の神の本質であると言っています。神はしばしば憤りを理不尽に発します。しかし、神の憤りは人間がいけないから罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発するその理由が分からない。神が祟る理由がまったく分からない。道徳の発生を云うことを考える時に、このことがとても大事なことになると折口は言います。
 
『今日になりますと、我々の考えておった神が、日本人の持っている神の本質ではなしに、怒(いか)らない・憤(おこ)らない神という風に考え過ぎている。ちっとも憤りを発しない。だから何時も我々どんなことでもしている。天照大神はたびたび祟りをして居られる。天照大神は何のために祟られるか。それは人間がいけないからと我々は説明するでしょうけれども、上代の考えではあれだけの神様が祟られる理由が判らないという風に落ち着いていたと思います。神を人間界から移して考えた時に天子様の性格が出て来るのですが、非常に怒りの強い天子様が昔は時々ありました。時には非常に暴虐だと思われるほどの、昔の方は節度がありませんから、武列天皇というような、或いはもう少し人情のある雄略天皇というような御性格の天子様が考えられる。(中略)怒りの激しい天子様を考えているように神にも怒りのひどいスサノオというような神があります。』(折口信夫・座談会「神道とキリスト教」・昭和23年6月)

神が憤るのは人間がいけないからである・人間が何か悪いことをしたから神が憤ったと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人間の感じ方です。既成の道徳基準があれば、人々はそれと照らし合わせて、これほど神が憤ったのはこんな理由であろうと、後付けで納得できる説明を想像します。しかし、道徳がまだ確立していない古代には、人々に神が憤る理由など想像することがまったく出来ませんでした。古代人にとって、神の憤りは唐突で・理不尽で、ただ無慈悲なだけでした。

折口信夫は理不尽に憤る神についてたびたび言及しています。例えば「道徳の研究」(昭和29年)に次のような著述が見えます。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)

「神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした」という記述は、折口独特の言い回しです。(ここで折口が云う「怒り」は「憤り」とほぼ同義であるとお考え下さい。)この箇所は誤解されやすいところですが、これは神の理由のない憤りに古代人が恐れ慄いて、有無を言わさず神の足元にねじ伏せられたと云うことではないのです。自分に罪があるならば、神に罰せられるのは当然の報いかも知れません。それならば神が与える罰を甘んじて受けねばなりません。しかし、古代人は罪の判断基準をまだ持っていませんでした。だから古代人が自分に罪があるか自分自身に問うこともないのです。

神の憤りは、古代人にとってただただ理不尽なものでした。しかもそのような理不尽な憤りを、神はしばしば、しかも唐突に発しました。地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそう云うものです。このような時、古代人は神の憤りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただ上を向いてひたすら耐えたのです。「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。

それは神に対する無言の抗議ではないかと考える方がいるかと思います。そうではありません。神に対して抗議するなど、古代人には思いもよらぬことです。超越者である神と古代人との関係を対立的に見てはなりません。

「神よ、この清い私を見てくれ」と云うことは、神の理不尽な憤りにみずからを共振させ、神の憤りを自分の憤りにして奮い立つということです。みずからを奮い立たせることで、古代人の気持ちは強い核を持ったものに結晶化して行きます。このような過程を経て絶対的な良き事という倫理的・道徳的な概念が古代人のなかに次第に生まれて行くのです。折口が「神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした」というのを、そのような意味に捉えてください。

このような考えから、折口は神スサノオに注目しました。ご存知の通り、スサノオといえば古事記に登場する代表的な荒ぶる神・残虐な神です。スサノオは田を荒らす粗暴な行為をして高天原に大騒ぎを引き起こしました。しかし、折口によれば、それは田の神であるスサノオが取る自然な行動(田遊び)に過ぎませんでした。田遊びとは田の神と精霊との「そしり」と「もどき」の応酬(掛け合い)であり、それ自体はまったく悪意がないものです。このような掛け合いのなかからその後の田楽など芸能神事が生まれたことはご存知の通りです。(別稿「悪態の演劇性」をご参照ください。)

つまりスサノオの遊びは、まったく悪意のないものでした。しかし、多分、スサノオは遊びの力加減が分かっていないのです。心のまま自由に振る舞うことが、他人を傷付ける場合もあることが分かっていないのです。ところがスサノオの行動が高天原で問題となった為に、「天つ罪」が不本意な形でスサノオに与えられ、スサノオは高天原から追放されることになってしまいました。スサノオは、自分がどうして怒られているか、どうして自分が高天原を追われなければならないか、理由が理解できませんでした。つまりスサノオには自分が悪かったと云う「罪の意識」が全然ないのです。うしてスサノオの「無辜の贖罪者」のイメージが生まれることになります。スサノオにとって「天つ罪」とは理不尽な罰でした。

「天つ罪」は「雨つつみ」を語源とするもので、古代の農民が田植えに際し禁欲生活を強いられたこと(慎む)から発したものだと云われています。田植えの時期の謹慎生活は田の神スサノオの罪を購(あがな)うための行為であった、そのように古代の農民は先祖の時代から代々務めてきたと折口は言います。古代の農民は、田を作らせるために神が自分たちの祖先 をこの地へよこしたと考えていました。日本人は何事でもまず田に寄せてものを考えたものです。「天つ罪」という理不尽な罰を受けなければならなかったスサノオの苦しみを、古代の農民はみずからの苦しみと重ね合わせて倫理化しました。そこから道徳が生まれることになります。

『もし逆に何の犯しもない者が誤った判断のために刑罰を受けたとすればーそれの多かったのも事実だろうーその人々の深い内省と、自我滅却の心構えとは、実際殉教者以上の経験をしたことになる。(中略)天つ罪の起源を説くと共に、天つ罪に対する贖罪が、時としては無辜の贖罪者を出し、その告ぐることなき苦しみが、宗教の土台としての道徳を、古代の偉人に持たせたことのあったことは察せられる。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)(この稿つづく)

(R3・7・7)


2)「憤(いきどお)り」について

前項で提示した筋道に従って、補足を加える形で話を進めて行きます。まずは「憤(いきどお)り」とは、どう云う感情なのかを考えてみます。

ちなみに「憤り」という言葉は、多分に折口信夫的な用語であるようです。民俗学でも折口以外の学者は「憤り」をあまり使わないようです。芸能方面での折口学の継承を自任する吉之助は割と「憤り」を使いますが、それは「かぶき的心情」を考える時に、折口が考えるところの「憤り」の感情がとても重要であると考えるからです。「憤り」については、自作の短歌を解説した「自歌自註」に、次のような表記が見えます。

『いきどおるといふのは、中世以後、怒ることの同義語のやうに思っているが、胸がどきどきする程感動することで、それが多くの場合、怒りによって心が強くをどる(踊る)ことの表現に使われている為である。私はたびたび古語の用例を活して来て、胸に動悸を打つやうな生理状態を表す語に使っている。』(折口信夫:「自歌自註」)

また折口の「万葉集辞典」にも、次のような表記が見えます。なおここでは折口は「いきどおる」の漢字に「憤る」ではなく・「悸る」を当てています。(なお大正8年「万葉集辞典」初版本には「いきどおる」の項は見当たらず、この項は再版時に追加されたものです。このことからも「いきどおる」に対する折口の考え方が後年変化したことが察せられます。)

『いきどほる(悸る):動悸がたかぶる。胸がかくわくする。心がこみあげる様になる。むしゃくしゃする。動悸が起こるほど、腹が立つ。この語を単に憤ると説いてはよくない。後の「いきだはし」などと同じ語であろう。「いき」は息で、「とほ)は擬聲、「る」は語尾。ら行四段活用。』(「万葉集辞典」・大正8年1月)

つまり折口用語としての「憤り」とは、怒りだけを云うものではなく、喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、その他の感情もすべて包括したところで、胸がどきどきする程感動することを指すらしいのです。しかし、だんだん時代が下って来ると、「怒る」と云うところに絞った使い方がされるようになって来たとするのです。この考え方は、本居宣長が「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」で展開した「もののあはれ」論にも、とても似通ったものです。

『情あれば物にふれて、必思ふ事あり。(中略)さまざまにおもふ事のある、是非物のあはれをしる故にうごく也。しる故にうごくは、たとへばうれしかるべき事にあひてうれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへし故に、うれしき也。またかなしかるべき事にあひてかなしく思ふは、其悲しかるべき事の心を弁へしる故に、かなしき也。されば事にふれて、其うれしくかなしき事の心をわきまえしると、物のあはれを知るといふなり、その事の心をしらぬ時は、うれしく事もなく、かなしき事もなければ、心に思ふ事なし。(中略)物に感ずるが則物のあはれを知る也。感ずるは俗にはよき事にのみいへどもさにあらず、感字は字書にも動也と註し、感傷感慨などともいひて、すべて何事にても事にふれて心のうごく事也。(中略)心のうごきて、うれともかなしとも深く思ふはみな感ずるなれば是が即物のあはれをしる也。(本居宣長:「石上私淑言」)

宣長は、もののあはれとは情から出るもので、情がなければ物のあはれを知ることはできないとしました。それは心が動くことであるから、感傷感慨など、嬉しいことも悲しいことも、深く感じて心が動かされるものは、みな「もののあはれ」なのです。例えば感心したり・驚いたりした時に「あっぱれ」と言いますが、「あっぱれ」はもともと「あはれ」が音変化したものです。こう云うものも昔は「あはれ」と言ったのです。それが現在では「悲哀」のみを「あはれ」と呼び習わすことが多いのは、この世においては苦しく悲しきことがあまりにも多く、人々が心動かされてこれを「あはれ」であるとしたために、時代を下ると共にだんだんそのような使い方になってきたと云うことです。

この宣長の「もののあはれ」と折口が云うところの「憤り」は、よく似通った趣がします。つまりどちらも、喜び・笑い・悲しみ・妬み・恨みなどすべての感情を包含して、心臓がドキドキするほど心が動く状態のことを指しています。ただし、宣長の「もののあはれ」では、物事の有り様を受け取って・これを「あはれ」として深く味わうところに比重が掛かっているようです。一方、折口の「憤り」では、同じく物事の有り様を受け取って感じるところまでは同じなのですが、ドキドキした心の振動を周囲にまき散らすところに比重が掛かっていると云えそうです。つまり受容と云うよりも、振動・共振の方へと視点が変化しています。

ところで折口は「古語に用例がある」と書いていますが、実際には古典に「憤り」の使用例がそう多いわけでもないようです。そういう点も「憤り」が折口用語という匂いがするところですが、やはり二十世紀初頭の折口の感性が反映した概念であると思われます。そこで折口が上掲の文章で自註した歌を参照することにしますが、それは折口が歌人釈迢空として最初に発表した歌集「海やまのあひだ」(大正15年・1925)に収められた連作短歌で、

いきどおる心すべなし。手にすえて、蟹のはさみを もぎはなちたり

沢の道に、ここだ逃げ散る蟹のむれ 踏みつぶしつつ、心むなしもよ

です。これらの歌について折口は自註にて

『蟹のす速い動き方を見ていると、自然に心が激しく動いて、それを手の平に乗せて、蟹の鋏を自分の手でひきちぎってしまったというやうな、残虐味を含んだ事も、或る日の子供らしい、或いは又、やるせない心から起って来ることであれば、咎めるわけにはゆかない。むしろ、心の動き方が実感通り出ていれば、それで十分だとしなければなるまい。』(折口信夫:「自歌自註」)

と付しています。この「いきどおる」を折口の「怒り」であるとして、イライラした気持ちの持って行き場がなく、蟹を踏み潰してむしゃくしゃした気分を発散するという風に読むことは、もちろん出来ます。これがまあ普通の解釈かと思いますが、自分の足音を察して一斉に逃げ散る蟹の群れの動きを見て、嬉々としてこれを踏み潰す自分の行動に子供らしい無垢な歓び、そこに無心さの残虐性を読み取ることも出来ると、折口は自註で言いたいのかも知れません。しかし、折口はここに何かを隠しているかも知れませんねえ。折口が子供時代の思い出を歌っただけならば別にそれでいいですが、折口37歳の時の短歌なのですから、もはやこれを単純な「歓び」と呼ぶことは出来ないだろうと思います。しかし、これがもし歓びであるとするならば、それは自分が蟹の生死を握ったと錯覚したかのような「歪んだ歓び」或いは「鬱屈した歓び」であって、それが残虐味を含んだ衝動を呼び起こす、そこに折口のこの歌がまさに大正期の近代短歌たる所以があるのだろうと思います。(この稿つづく)

(R3・7・7)


3)「憤(いきどお)り」について・続き

折口信夫がイメージするところの、「憤(いきどお)り」について、もう少し考えます。古典のなかで、「憤り」という言葉はさほど使われたわけではないようです。例えば万葉集を見ると、巻19・4154番、大伴家持による長歌(天平勝宝2年3月8日)しかないそうです。長い歌なので、そこから「いきどおり」の言葉が出て来る最後の方だけを抜きますが、

『・・・をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据えてぞ我が飼ふ 真白斑の鷹』
(万葉集・巻19・4154番・末尾)

(現代語訳)あちこちで鳥を追い立て、白銀の小鈴を響かせて鷹を放つ。大空を飛んで行く鷹を目で追いつつ憤懣やるかたのない心を解放し、晴れやかになる。共寝用の妻屋に鷹座をこさえて飼う、斑模様の真っ白なわが鷹。(現代語訳はサイト「万葉集ナビ」から拝借しました。)

描写されているのは、越中国(えっちゅうのくに、現在の富山県高岡市辺り)での鷹狩りの風景です。当時、家持は越中守の任にあり、この翌年・天平勝宝3年7月に少納言になって帰京するまでの、約5年間を越中国に在任しました。長歌前半で家持は都への思いを吐露しています。家持は都が恋しくて仕方がなかったようです。上掲現代語訳では、「憤懣やるかたのない心を解放し、晴れやかになる」とあります。「いきどほる 心のうち」は、都が恋しく悶々としているけど・職務のために帰れないと云う家持の心情を詠んだものと理解出来ます。この場合の「いきどほる」は、怒りにやや近い憤懣の感情でありましょうか。ところで家持の越中国については左遷であったとする説もあるそうです。もしそうであるならば家持の心中が察せられます。それにしてもこの解釈であると、鷹狩りの最中でも、家持は鬱々としてこれをなかなか楽しめなかったのでしょうかね。だいぶ精神状態が深刻なようである。

ところで折口は、「いきどおる」は、胸がどきどきする程感動することだとしています。特に後代において、それが怒りによって心が強く踊ることの意味に使われることが多くなったとするのです。そこで太古の万葉の時代には、喜びのような・ポジティヴな感情も含めて「いきどおる」が使われたと想像ながら、先ほどの「いきどほる 心のうちを 思ひ延べ」の箇所を読んでみたら、どのような解釈になるでしょうかね。折口の「口訳万葉集」を参照すると、当該箇所は、

(折口信夫訳)鳥を追い出し、遥かに空を仰いで見乍ら、国のことを思ふと、どきどきとして、苦しい胸を心の裡(うち)をば、悠(のんび)りとさせ・・・。

とあります。「ドキドキとして」と云う表現も出てきますが、「口訳万葉集」は大正5・6年の出版で・つまり折口の著作としては初期のものでもあり、この「いきどおる」の訳については、思い切って意訳し過ぎると批判が出そうなところを慮って、訳を抑え気味にした気配がしますね。これであると「いきどおる」をポジティヴな感情には、ちょっと読みにくい。そこで折口の意を汲んだつもりで、もっとポジティヴな感じに訳してみると、

(吉之助随意訳)「大空を飛んで行く鷹を目で追っていると、我が心もどこまでも空を自由に羽ばたいて行くドキドキした気分になって、心が次第に晴れやかになってきた。』

吉之助には、この解釈の方が家持の気持ちがずっと自然で素直なように思いますが、如何でしょうかね。但し書きをつけますが、別に吉之助は「いきどおる」を怒りの感情で読むのが間違いだと言っているのではありません。しかし、4154番の長歌を眺めた時、「いきどおる」を怒りの感情で読むと、全体の淡々と素朴な調子のなかで、この箇所の現代語訳がしっくり来ないように感じます。「憤懣やるかたのない心」では如何にも強過ぎる。恐らくここは喜びと怒りが入り混じった・中間辺りで読むのが正しいのではないでしょうか。もちろん色合いは、詠み手によって微妙に異なると思います。家持は、鷹の飛行の自由さに素直に感動しているのです。あの鷹のように飛んでみたいのです。そのことを思うにつけ、都に一直線に飛んでいけない自分の不自由さが嘆かわしく思えて来る・・・と、そのような微妙な感情に「いきどおる」を受け取りたいと思います。

つまり鷹の飛行の自由な有り様(あはれ)に素直に心を動かされて、心が共振して、家持の心がやがて新たな固有の振動を生み出していく、これが折口が云うところの「いきどおる」の意味であろうと、吉之助は思うわけです。このことは、紀貫之による「古今集・仮名序」によって更に裏付けられるかも知れません。

『和歌(やまとうた)は人の心を種にして、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に泣く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)のなかをもやはらげ、猛けき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。』

(紀貫之がそう言っているわけではないですが)家持が上掲の長歌(4154番)を書いたのが天平勝宝2年3月8日のことでした。この翌年・天平勝宝3年7月に家持は少納言になって帰京することになります。別に歌を詠んだから帰京の辞令が出たわけではありません。しかし、歌のなかに家持の都への強い思いが込められており、その後、家持の帰京の願いが叶った。とすれば、家持の願いが叶ったからには、あの歌を詠んだ事実が、どこかで深く関連したに違いないと感じるのが、これが歌よみのロジックであると云うことです。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ・・というのは、そう云うことなのです。

前章において、宣長の「もののあはれ」論では、物事の有り様を受け取って・これを「あはれ」として深く味わうところに比重が掛かっており、一方、折口の「憤り」論では、同じく物事の有り様受け取って・そのドキドキした心の振動を周囲にまき散らすところに比重が掛かっていると書きました。本居宣長は江戸中期の知識人としては珍しくとても多くの歌を詠んだ人で、歌人でもありました。しかし、学問的なスタンスはストイックなまでに考証的で「古典的」な立場を貫いた学者でした。「紫文要領」や「石上私淑言」での「もののあはれ」論は、研究者として中立であろうとした宣長の厳格な態度を反映したものであろうと考えます。一方、折口信夫は歌よみとしては釈迢空(しゃくちょうくう)として有名ですが、いわゆる「折口学」のなかで、創作者としての立場と・研究者としての立場の間に厳密な区別を付けない(付けようがない)という考えの人であったと思います。そこに態度の違いが出ていますが、「もののあはれ」に対して二人が言うことの根本にほとんど変わりはありません。

折口の最初の歌集「海やまのあひだ」(大正14年・1925)から、一首引用しておきます。

ひとりのみ憤りけり。ほがらかに、あへばすなわち もの言ふ人

「憤る」が怒りに寄せた感情であるとすれば、場もわきまえず・無神経にほがらかさを振り撒く人に何となくイライラ怒りを感じてしまうと云う風に読めると思います。まあそう云う読み方もあると思います。そう云う読み方が当節普通かも知れませんが、しかし、「憤る」のなかに、喜びや悲しみや怒りなど、いろいろな感情が含まれていると考えるならば、全然別の読み方が可能になるはずです。折口は、あんなにも明るく爽やかに振る舞えることに感動して、それが羨ましくて仕方がないのです。いいなあ、私もあんな風に周囲を明るく出来れば良いのになあ・・・でも生憎私はそれが出来ない性格なもんで・・・どうしても周囲を暗くしてしまう・・・そこがつらいところなんだよねえ・・・・というのが、折口の「ひとりのみ憤りけり」であると解釈することだって出来ると思うのです。むしろこちらの方が折口的ではないかと思いますがね。

もっともこのような折口の「憤り」は、万葉集での家持の「いきどほる」のように素朴なものではないようです。正直申して屈折していて、素直ではない。少し捻(ひね)ているようでもある。実は、それが近世的な(つまり江戸的な)感性なのです。それが20世紀初頭の折口の時代にまで繋がって来ることになる。「かぶき的心情」を考える時に、このような「憤り」の感じ方が大事であるということを申し上げておきます。

(R3・7・21)


4)「Ah(アー)」を作り出すもの

宣長の「もののあはれ」論では、物事の有り様を「あはれ」として受け取り、これを深く味わうところに比重が掛かっており、折口の「憤り」論では、同じく「あはれ」を受け取り、そのドキドキした感情に共振し、そのドキドキした心の振動を周囲にまき散らすところに比重がかかっています。二人の論に共通した核となるものは、「もののあはれ」と云うことです。そこで「あはれ」の意味を、もうちょっと確認しておきます。

前述した通り、「あはれ」と云うものは、本来は喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、すべての人間感情を包括したところで、胸がドキドキするほど心が動かされることを指すのです。後世に「あはれ」が悲しいことを指すようになったのは、この世に於いては苦しく悲しいことがあまりにも多く、そういうことに人々が心動かされることがとても多かったからでした。だからアーを考える時には、古代(いにしえ)の原点に立ち返らなければなりません。胸がドキドキするほど心が動かされる思いは、どんなものであっても、それは「あはれ」である。そこまで立ち返る必要があると思います。(注:折口の短歌での「いきどおり」の使い方には屈折したものが感じられますが、これは20世紀初頭の歌人としての釈迢空の時代の感性から来るものです。折口の場合は創作者と研究者の立場の境目がはっきりしないので、「憤り」論のなかにどうしても「神の怒り」というような言葉が入り込んでしまいます。これは多少混乱の元で、むしろ折口の「憤り」論の原点を考える時は、怒りや憤懣の要素は、あらかじめこれを排除して考えた方が理解の通りが良くなると考えます。)

「あはれ」については、吉之助が知る限り、フランスの文学者であり外交官でもあったポール・クローデルが、文楽について記した文章のなかにある一節が恐らく最も適格にその本質を掴んだものです。クローデルは、文楽の三味線弾きを「もうひとりの・言葉を持たない合唱団員」であると観察し、三味線弾きが掛ける「アーッ」とか「ヤーッ」とか云う言葉にならない掛け声について語り、そこに以下のような注を付しています。(別稿「クローデルの文楽」を参照ください。)

 『日本文学には、事物のアワレを知る(もののあはれを知る)という表現がある。アワレというのは、あらゆる事物のなかにあってアーを作り出すもののことなのである。』(ポール・クローデル:「文楽」のための注)

アー(Ah)」の音から日本語の「あはれ」の言葉が来ることは、別に音韻学に頼らなくても、これは明らかなことだと思います。「アー」とはどのような音でありましょうか。シュタイナーは、子供に「A(アー)」の発音を教える時には次のように教えなさいと言っています。

『太陽のことを考えてごらん。太陽が東の空から昇ってくるのを知っているね。太陽が東の空から昇ってくるのを見た時、君たちがどうするかわかるかい。そう、A(アー)と言うのだよ。君たちがそういう時にAh!と言ったとすると、君たちの心の状態はまるで太陽の光が君たちの口から出て行くような感じになっているのだよ。でもそれは流れっ放しでなく、あるところでちゃんと立ち止まらなければだめだね。そこででてくるのがこの形だよ。』 (ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

そう言って大文字のAの文字を生徒に見せなさいとシュタイナーは言います。「A」の文字は、人が大きく口を開けた形だと云うのです。充実したもの、白いもの、明るいもの、明るさや白さに関係あるすべてのもの、さらに賛美や尊敬、これらの感動のニュアンスがA(アー)によって表現されるとシュタイナーは言っています。シュタイナーは、「A(アー)」の響きに、どちらかと云えば人間のポジティヴな感情を見ているようです。そこに西洋的な感性が感じられます。しかし、シュタイナーが悲しみとか苦しみと云う感情(これをネガティヴな感情と云ってしまって良いものか悩みますが、喜びとか・満足・明るさとは異なる方向の感情)を決して拒否しているわけではないと思います。

一方、日本人の「あはれ」は悲しみとか苦しみと云う方向に感応しやすい(そこに日本的なものがあるとも云える)わけですが、むしろ日本人にとっての「A(アー)」の響きは、悲しみとか苦しみと云う感情を涙で癒して、これをポジティヴな・創造的な方向へ振り向けようとするものだと考えるならば、これをシュタイナーの思想に含めて説明することが出来ると考えます。「あはれ」に心動かされるとは、そう云うことなのです。の考え方で「あはれ」をグローバルな視点から論じることが可能になるでしょう。クローデルの、日本の「あはれ」への優れた理解も、そのような過程(プロセス)を経て生まれたものだろうと思います。クローデルは、文楽の三味線の掛け声について、次のような考察をしています。文楽の三味線の掛け声には、間(ま)合いを取るとか・気合いを入れるとかの役割がもちろんあると思います。しかし、クローデルは別の側面に着目します。クローデルの理解力の深さは、ホントに驚嘆すべきものです。

『彼(文楽の三味線弾き)の役割は、観客をおびき寄せることなのだ。彼はひとりだけですでに、オーやアーをなす観客なのである。彼に足りないのは、ただ、言葉のみなのだ。』(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

三味線の「アー」の掛け声は、舞台上で起こる人生の有り様を見て、素直にあなたの心を動かされなさい・その心の動きをじっくり味わいなさいと、ドラマを「あはれ」の感情において捉えることへ観客を導くためにあるのです。

本稿の目的は「かぶき的心情」を考えることにありますが、日本的な感性とされる「あはれ」とは、あらゆる事物のなかにあってアーの響きを作り出すものであり、それは喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、すべての人間感情を包括し、胸がドキドキするほど心が大きく動かされる(感動する)ことを指すと吉之助は定義します。これが「かぶき的心情」の核となるものです。

(R3・7・25)

(追記)なお本稿は、木村純二著「折口信夫ーいきどおる心」(講談社)から大きな示唆をいただいております。




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